あふん
取り戻した意識に最初に塗られた色は、桃色だった。
鼻腔をくすぐる香水の香りがそのまま脳まで進入して、暗かった意識を覚ましたんだろう。まだ身体は温もりに浸かっていたかったようだけれど、空美の存在を意識してしまった脳は激しく彼女を求めた。急速に分泌されるアドレナリンによって霧散した眠気を中空へと追うように、眼を開けて身体を起す。
「うぅ……ん」
急に身体を起こしたから、俺に寄りかかるように寝ていた空美の腕が流れる。起こしてしまっては楽しめないと冷や汗をかいたが、どうやら眠りは深いようだ。あどけなさが残り、笑顔がまるで釈迦像が浮かべてるアルカイックスマイルみたいな空美。そんな彼女がたまに見せる感情に任せた顔は俺の心を隅から隅まで潤してくれる。
(……ふふ)
昨日の夜の行為を思い起こして顔がほころんだ。昨日の空美は心地良さそうに歌を紡いでいた。俺の手の動きに合わせて。
「可愛いやつめ」
小さく呟き、まずは彼女の頬に唇をうずめる。一瞬「ん……」と吐息が洩れるが、特に起きようとはしない。この反応は経験的にしばらくは何をしても空美が起きないことを示している。では、朝から存分に堪能させてもらおう。
手を伸ばし、いつもの柔らかさを確認する。
「――ん」
空美の息に、微かに混じる悦。俺はそのまま一点を中心に肌をなぞり始める。
時に強く。時に弱く強弱をつけながら、俺の指は彼女の肌という鍵盤を叩く。
昨日はいつもよりも激しく堪能したから、今日はゆっくりにしてあげよう。激しさに怒る空美もいいけれど、静寂な水面に一滴の雫が垂れてそこから波立つような、そんな快楽の世界を見せてあげよう。
「……あ……ん……」
今まで無表情だった顔が、少しずつ崩れていく。今までは表面に触れていただけだった指を少しずつ柔らかな肌へ埋めた。指ではさみこみ、上下にこねるように動かし、一瞬離してからまた徐々に指を走らせる。
思えば数年前から空美とこうして戯れるようになって、指使いも成長した物だ。今やどれだけの強さを加えればどれだけの効果を発せられるのかを身体が覚えている。そして空美は俺の動きに見合う反応を返してくれる。
その顔を見ることで、俺は生きながら天国へと昇れるんだ。
「……ふ……ん……あ――ふ」
空美の意識野を徐々に快楽が進行しているようだ。顔や息だけではなく、身体も声に合わせて微かに動き始める。少し多めの脂肪を指で集めると更に声を高めた。
「――あ、ふ……ん」
頬が赤らみ、俺が触れているところから伝わる快楽の波を感じてか、身体も震える。
俺はもう一方のふくらみへと空いている左手を伸ばして、同じようにゆっくりと形を変え始める。
俺の指が動くたび、合わせて形を変える双丘――まさに双丘だ。
指を懐に抱え込む脂肪を伸ばすように親指を回してやると、引き伸ばされ、また元に戻る。親指と人差し指を使って優しく摘むと、面白いように伸びてゆく。餅をこねる。あるいは赤ん坊を抱きかかえるような、静かな心のままに、彼女を変えていく。
俺の興奮も最大に達しようとした、その時――!
「あ……ふ……んんっ!?」
限界まで伸ばした時、空美の目が開かれた。俺の目に映るのは『ほっぺた』を上に伸ばされて、その状況に驚いている空美の顔。目を見開き、俺の顔を確認し、そして自分の頬を摘んでいる俺の両手を認識する。
次に来るのは――罵声。
「なにやってるのよ! お兄ちゃんっ!」
頭からぷんすか煙を吐き出すように、空美は怒鳴りつけてきた。立ち上がり、腰に手を当てて、あのいとしい顔と頬を膨らませている。必死に怒りを表そうとしているようだが、普段から怒り慣れてない空美。どうしても迫力が出ない。だからこそ、こんなにも可愛いと思えるのだが。
「何って……いつものようにほっぺたをほぐしていただけだが」
「もう! 止めてってもう二年も言い続けてるじゃない! しかもいつの間に私の部屋に入って来てるのよ! 昨日の夜も追い出して部屋に鍵かけたのに!」
「俺は魔法使いなのさ」
わめく空美へ手製の合鍵を見せて笑いかける。何が不満なのか「むきー!」と分かりやすい怒りを振り撒いて、俺から鍵を取り上げた。
「ははは。怒って膨らんだほっぺたも、やはりかわいいのう」
座っていた体勢から瞬時に立ち上がり、膨らんだほっぺたを指で突く。予想以上に指は沈み込み、そこから伝わる媚薬は俺の世界を桃色とピンク色と黄金に変える。
「ああ、ここが俺の求めたエルドラド……」
「もうっ! 人のほっぺたをつついて悦に入ってないでよ!」
指がほっぺたから離れて、極楽浄土は妹の部屋へと戻った。刹那の世界は十分俺を満たしてくれたし、ここも十分エルドラドだからいいけれど。
「それにしても空美。お前のほっぺたもだいぶ柔らかくなったな。二年七百三十日、欠かさずほぐし続けたかいがあったよ」
「何がいいのよ! 柔らかいほっぺたはなんか太ってそうで嫌なの!」
空美は百六十五センチに四十六キロの体重でそんなことを言う。運動部には入ってないけど、趣味で毎日欠かさないストレッチのために開脚は百八十度だし、腹の余分な肉など確認出来ない。流石に妹の裸を見るのは犯罪チックだから確認していないが。
でも確実に言えるのは、ほっぺたには明らかに気にするほど肉はついていないということだ。ただ、俺がほぐし続けたから柔らかくなっただけで肉がついているわけじゃない。
柔らかいほっぺたはキスが沈んで何とも心地よいことに、まだ気づかないのだろうか。
「女の子はぽっちゃりがいいんだぞ、抱きごこちとか。お前も干場君に抱きしめられた時に『空美、まるで身体全体がフカヒレだよ。柔らかすぎて、口の中でとろけちゃいそうだ』とか言われたら嬉しいだろ?」
「そんな言葉言われたくないわよ! ってなんで干場君なのっ!」
聞き分けのない空美。机の上に飾ってある同学年の干場君の写真を見れば犬でも猫でも『こやつが下手人か』と分かるだろうに。でも、思えば空見も中学三年生だ。年頃の娘だけに反抗期だったりするのだろう。なら……言うことを聞くようにするまでだ。
二年越しの思いを、今、伝える時だ。
「空美」
両手で肩をはさみこむようにして、俺は空美を視界に収めた。急に真剣な目つきになったからか、空美は困惑しつつも口答えもせずに俺を見つめている。まだ少し収まっていない怒りとこれから何を言われるのかという不安が混じった顔。
このギャップがある顔は俺にとって極上の料理だ。フカヒレなんて目じゃない。
「空美。女の子はいかに柔らかいかだ。空美は身体も柔らかい。あとはほっぺただけなんだよ。俺に任せれば、お前は素敵なむにむにボディになれる。そして、干――意中の異性にも好かれるんだ……分かるかい?」
俺の言葉に込められた本心を感じたのか、空美はおずおずと顔を下に向け、力を抜いた。
そう。俺は空美の幸せを心から願ってる。
空美がもっと可愛くなって欲しいから、ほっぺたをほぐしている。その努力がプラスになるかは分からないが、少なくともマイナスではないはずだ。
ただ、素敵な人生を送るために。
可愛い女性であってほしいために、俺はほっぺたを揉む。
揉み続ける。
「男の人って……柔らかい人が好きなの?」
硬く閉ざされた心の扉が開く音が聞こえた――ような気がした。開いた先にある氷山が溶けだして、中心に埋まっていた宝箱が開き、箱の中にある箱を更に開け、更に開け、更に開け更に開け更に開ける。
もう一押しで、心は開かれるだろう。最後の一手を、俺は放った。
「ああ、好きさ。お前が砂糖五倍ワッフルを好きなようにな」
「あ――あんなに好きなの!?」
具体例を出すと空美は頬を染め、目を潤ませながら想像に広げていた。おそらく頭の中では人間大の激甘いワッフルに飛びつく干場君を想像しているのだろう。
「はあ……ん……やわらかいの……好きなの……? 食べて……?」
完全に心を溶かし、空美は向こう側の世界に足を踏み入れたようだ。だが、まだ空美には早い。これ以上浸かると戻って来れなくなるかもしれない。可愛いけれど、じっくり見るのは次の機会にしよう。
「そこまでで戻ってきな、空美」
顔の前で手を振ると、空美の視界が元に戻る。そして顔を真っ赤に染めて俯いた。自分の想像に照れ、その様子を兄に見られたことに羞恥を感じているのだろう。この、思うように自分の快楽へと身を委ねられない様子の、なんと甘く切なく愛しいことか。
「というわけで兄のことを理解してくれたかな?」
「……うん」
認めたくはないが、認めざるを得ないといった感情を隠そうともせずに肯定の返事。今の段階では上出来だろう。これからゆっくりと、教えていけばいい。そう、ゆっくりと。
「というわけで、空美。これからもそのほっぺたをほぐさせてくれ」
「……まだ、足りないの?」
まだ柔らかくされることへの不安と、期待。更に魅力的な女性へと成長できるのかという漠然とした思いと、現実に兄にほぐされ続けるという奇妙さが空美の中で闘っているのだ。もし葛藤に負けたとしても、このまま引き下がるわけはないが……。
「いつまで、するの?」
どうやら現実を押し留めようとしているらしい。あと一歩押し出せば坂道を駆け下りるだろう。
「何。今の調子から言って――」
柔らかさを確かめるために両頬を摘んでみると、予想以上に弾力を持っていた。手から足までを一気に貫いた快楽に、自然と言葉が洩れ、身体が砕けた。
「――あふん」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!?」
空美の布団に倒れこみ、残り香に包まれる。一瞬で俺の意識を破壊するとは、恐るべし空美のほっぺた。
正に人を殺せるほっぺただ。キングオブほっぺた。キラーほっぺた!
「ジークほっぺたっ!」
「……それだけ言えれば大丈夫よね」
呆れたように顔をしかめてため息をつく空美。そんな空美に、俺は言葉を送った。
「叶うといいな、お前の恋愛」
「お兄ちゃん……もう、ばかっ」
小さく、付け加えるように紡がれる「ばか」
言葉の中に含まれる意味は、十分伝わった。
結局、兄妹なんだと強く感じるのはこういう時なんだ。
安らかな気持ちの中で手を伸ばす。その先にあるものを分かってるだろうに、空美は動かずに俺の手を目で追っていた。
「しょうがないわね――」
言葉と嘆息とほんの少しの喜びと。
ほっぺたを通して伝わるのは空美の暖かさと、変えようのない絆の存在だった。
お読みいただきありがとうございます。
糖分多めのお話をどうぞ。