羊、吠える 改稿
亀吉と二人で、赤く染まった土手を歩いていた。
亀吉は封筒が詰まった重いダンボールを背負っている。
おれの両手には大量の肉と野菜が詰まったビニール袋がぶら下がっていた。
亀吉は最初全部自分が持つと言ったが、タダでそこまでやらせるわけにもいかないので、野菜と肉はおれが持った。
「悪いな、亀吉。荷物持ちさせちまって」
「いいすヨ、おれは弟分ですから。それに唯姐さんには自分も色々と世話になってますから」
「加藤の世話になってるねぇ――。まあ加藤はああ見えても結構姉御肌なとこあるからな。それより亀吉、おれはヤクザじゃねーだから、兄貴はよせよ」
いつも言いたいと思っていた。
「ヤクザじゃなくても、直人兄貴はおれの兄貴ですよ」
おれを見上げる亀吉の両目には、おれに対する尊敬の念で溢れていた。
「――そっか。なら勝手にしろ」
照れくさくなったおれは亀吉から目を逸らした。
変わりに空を見上げた。
〝今日は夕日がデカイな〟
気のせいかもしれないが、街並みのなかに消えて行こうとする夕日はいつもより大きく見えた。
「――直人兄貴、一つ聞いてもいいですか?」
「荷物持ってもらってんだ。なんでも聞いてくれよ」
おれは夕日を見つめたまま答えた。
「――おれがヤクザになっても、直人兄貴はおれの兄貴でいてくれますよね?」
おれは夕日から目を離し、亀吉に顔を向けた。
亀吉もおれの顔を見上げていた。亀吉は縋るような目でおれを見つめていた。
おれは亀吉の背に目をやる。亀吉の背中には、重たそうなダンボールと、他人にはわからないクソ重たそうな荷物を持っていた。
〝チビの癖に、重そうな荷物を背負ってやがる〟
亀吉の背中はあんなに小さいのにな。
「――亀吉。お前がヤクザになって、おれが堅気だったら、お前はおれの弟分やめんのかよ?」
「やめないスよ、おれは」亀吉は声を荒げた。
「そうか――。なら、お前は一生おれの弟分だよ」
「ありがとうございます、直人兄貴!」
亀吉の目は輝いていた。
おれは亀吉の目を見て、ほんの少しだけ悲しくなり、ほんの少しだけ亀吉を哀れに思った。
おれの弟分になりたいという言葉は、裏を返せばおれに甘えたいということだ。
おれみたいな馬鹿に甘えたくなるほど、亀吉の人生は辛く、回りには甘えさせてくれる人間がいなかったのだ。
亀吉に対してそんなことを思う自分が厭になった。
おれは再び夕日に目をやる。
夕日は目に染みるぐらい赤く燃えていた。
「――亀吉、お前も変なヤツだな。タメの人間の弟分になりたがるなんて」
「直人兄貴は、おれのヒーロースから」
「――素で恥ずかしいこと言うなよ」
一羽のカラスが、夕日に向かって飛んでいくのが見えた。
〝そんなに夕日に近づいたら、燃えちまうぞ〟
夕日はたとえ美しく巨大に見えたとしても、それは灼熱の炎に包まれていた。その美しさ、その強さに魅入られて近づいてしまった者は、激しく燃えさかる炎によって情け容赦なく焼かれてしまう。
「――なあ、亀吉。本当にヤクザやんのかよ?」
「――やりますよ、おれ。おれ、直人兄貴や忍兄貴とは違いますから」
亀吉の声には怯えを隠す気負いがあった。
「何が違うんだよ? 同じクソ餓鬼だろう。おれ等」
亀吉は歩くのをやめて、おれの顔を見上げた。ニキビだらけの亀吉の顔が震えていた。
「――違いますよ!」亀吉は怒鳴り声を上げた。
〝亀吉の怒鳴り声なんてはじめて聞いた。おれは思わず立ち止まって、亀吉の顔をマジマジと見つめた、
亀吉の目には涙が堪っていた。
「直人兄貴とおれじゃ全然違いますよ。顔も、腕っ節も、根性も、金だって、直人兄貴のほうが持ってるじゃないスか!」
――そうだな。おれは逆らわずに返事をした。
実際にそうだ。亀吉の家は母子家庭で生活保護で喰ってる。おまけにサラ金にも借金があった。
おれとは違う。
「――おれは直人兄貴や忍兄貴にはなれないスよ。五分の関係には絶対なれないスよ。だって兄貴達はどこの世界に行っても上に立つ人間スよ」
〝片桐はともかく、おれは買いかぶりすぎだ〟
――と思ったが口には出さなかった。
亀吉の邪魔をしたくなかったからだ。
「おれはどこの世界に行ったって、下の人間なんですよ。どん尻やるしかない人間なんですよ」
――違う。と言ってやりたかった。
だが、おれの口は閉じたまんまだった。
「だったら強い人間の下につきたいじゃないですか・・・・・・」
それで片桐か。
「おれは・・・・・・おれは・・・・・・」
亀吉は声を震わし、懸命に思いを言葉にしようとした。
しかし無駄な努力に終わった。
思いは言葉にならずに激情となり、亀吉の小さな体を震わせた。
亀吉の目に堪った涙は、どんどん膨らんでいく。
亀吉は涙を零すまいと、唇を噛み懸命に堪えていた。
でも、涙は今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。
「亀吉!」おれは大声を張り上げた。
「なんすか、直人兄貴!」
亀吉はおれの声にびっくりして顔をあげた。
「ちっと立ちションしてくる。お前はここで待っていろ」
おれは、ぽかーんとしてる亀吉に肉と野菜を押しつけると、土手を降りていった。
河原に降りると、青々と茂ってる雑草の山の前に立ち、おれはズボンのジッパーを下げ、息子を出した。
スーパーで済ましてきたから、小便なんざでない。
〝亀吉のやつ。おれとの約束を守ろうとしてやがる〟
息子を握りながら、おれは亀吉との最初の出逢いを思い出していた。
亀吉と初めて出会ったのはタマカスの汚い便所であった。
おれが小便をしようと便所に入ると、素っ裸の亀吉が卑屈な笑みを浮かべて便所の隅に突っ立ていた。亀吉から少し離れた場所には、片手にホースを持ったパンチパーマの男が立っていた。
パンチパーマの男は、一中で頭を張っていた三森玲二とかいう男だ。
中学時代、強姦した女にケジラミを移したことから、影ではダニ森と呼ばれていた。
ダニ森と呼ばれるのに相応しいゲスな男だが、兄貴が生首とかいうしょぼい族の頭をやってるので、本人の前でダニ森と呼ぶヤツはいなかった。
「三森君。水を出しますよ」
掃除用の水道のところには、ネズミみたいな小男が水道のハンドルを握りながら卑しい笑みを浮かべてた。
ダニ森の子分の矢野賢治だ。
シンナーをギってくることが得意なことから、パン中連中から重宝がられてるゴミ男だ。
ダニ森もシンナーが大好きなので、ギリ野を可愛がっていた。
「おう、思い切り水を出してやれ」
ギリ野は水道のハンドルを回した。ダニ森が握りしめているホースから勢いよく水が噴き出た。
ダニ森は、剥き出しになった亀のチンポに水を浴びせた。
「亀。包茎だからって皮の中に頭引っ込めるなよな。皮被っているから大丈夫だろう、水ぐれえよう」
ダニ森が嘲笑う。
「三森君、それ最高!」ギリ野のおべんちゃらが続く。
「勘弁してください、三森さん」
亀吉は媚びと恐怖が混じった声で許しを請うた。
「なにが勘弁してくれだ、亀? もとはといえば、テメーがちゃんとシンナーギッてこないから、水攻めの刑喰らってるだろうが? 水攻めの刑が厭なら、おれはボコりでもいいだぞ」
ダニ森が凄むと、亀吉は黙りこくった。
〝うぜえ〟
おれはズボンから息子を取り出すと、ダニ森にむかって小便を垂れた。
ダニ森の学ランがみるみると黄色く濡れていく。
「――舞島テメェーなにやってんだよ!」
小便塗れのダニ森が叫んだ。
「便器のくせに喚くなよ、ダニ森」
おれは最後の雫を振り落としながら答えた。
ダニ森はホースを捨てると、おれに向かって殴りかかってきた。おれはダニ森の拳をかわすと、その汚い面に拳をたたき込んだ。
ダニ森の鼻の骨が折れた。
「――おれの兄貴は生首の・・・・・・」
ダニ森は吹き出す鼻血を抑えながら、虚勢を張った。
族の頭をやってる兄貴の名前だしゃあ、なんとかなると思っているらしい。
大間違いだ。
おれはダニ森の左頬に拳を放り込んだ。ダニ森は口から折れた歯をまき散らしながら、小便で汚れた便所の床に倒れた。
起き上がる気配はなかった。
ダニ森は、歯も気も失ってしまったようだ。
「――知らねえよ。お前の兄貴なんて」
おれは気絶しているダニ森にそう言い捨てると、相方のギリ野の方をチラリと見た。
ギリ野は、倒れている三森を呆然とした顔で見つめていた。
ギリ野は、おれの視線に気づいた。
「ヒィイイイイ。勘弁してくれよ、舞島」
ギリ野は、おれに殴られると思ったのか、両手で頭を庇った。
「テメーなんかやれねえよ、万引き野郎。いいから、気絶している毛ジラミ連れて消えろ」
ギリ野は言われた通りにした。
便所のなかには、おれと亀吉だけが残った。
亀吉のちんぽはまだ縮みあがったままだった。
「――ありがとうごじゃいます」
亀吉は泣きじゃくりながら、おれに頭を下げた。
愛想のつもりか、泣きながら卑屈な笑みを浮かべていた。
〝嫌な顔だ〟
亀吉のこれまでの生き方を見るようで胸くそが悪かった。
おれは無性に腹が立ったので、亀吉の面を思い切りビンタした。
亀吉は素っ裸のまんま、便所の床に倒れた。
おれは便所を出て行った。
翌日。
亀吉は、おれのまわりをウロウロしだした。
一時間目の休みも
二時間目の休みも
三時間目の休みも
四時間目の休みも
そして昼休も――。
「舞島さん、これ昨日のお礼ス」
弁当を食っているおれに向かって、亀吉はコーヒー牛乳を差し出してきた。
顔を伏せているせいでどんな面しているのかわからないが、亀吉の声には怯えと媚びがあった。
〝気にくわねえ〟
おれは正義の味方じゃないが、パシリを使う趣味もなかった。
コーヒー牛乳飲みたかったら、テメーで買ってくる。
〝それにおれが好きなのは苺牛乳だ〟
おれはウンザリして手を振った。
「いらねえよ、うんなもん」
おれがそう言うと、亀吉はいきなり土下座した。
「舞島さん! なんでもしますから、おれを子分にしてください」
亀吉は額を床に擦りつけた。
おれは呆れ返った。タメ相手にいきなり土下座する馬鹿がどこにいる。
「子分なんざいらねえよ」
土下座している亀吉の顔が真っ青になった。
「――ダチならなってやるよ。だからさん付けやめろ。気持ち悪い」
「本当スカ!」
亀吉はニキビ面を上げた。亀吉はホッとして涙腺が緩んだのか、目から涙を零していた。
「――ただし泣きを入れるなよ、亀吉」
おれは涙が嫌いだった。
亀吉はデカイ声でハイと返事をした。
翌日の放課後。
ダニ森の兄貴が族の連中を引き連れて、学校に乗り込んできた。
使えない弟のケツを拭きに来たそうだ。
ダニ森の兄貴は、おれに向かって詫び料十万よこせと言ってきた。
おれは一円たりとも払う気はなかった。
返事の代わりにダニ森の兄貴の顔面にパンチをぶち込んでやった。
当然乱闘になる。
亀吉も参加したが、ぼこすかにやられるだけで全然役に立たなかった。
――でも、泣きは入れなかった。
二年と喧嘩になったときも、三年と喧嘩になったときも、族と喧嘩になったときも、ヤー公と揉めたときも、亀吉は泣きだけは入れなかった。
〝あの片桐と喧嘩したときでさえ、あの馬鹿は泣かなかった〟
おれなんざ約束したことさえ、今の今まで忘れていたと言うのに――。
あの馬鹿だけが律儀に約束を守っていた。
〝なら最後まで守らしてやりたかった〟
亀吉のヤツもそろそろ落ちついたかな。おれは息子をパンツの中に仕舞った。
よく考えてみれば、芝居なんだから息子まで出す必要はなかったな。 おれは苦笑した後、土手を昇った。
「長かったすね、直人兄貴」
亀吉の声は落ち着いていた。
でも、目は真っ赤に染まっていた。おれがいない間に泣いていたのだろう。
おれは気づかぬふりをした。
「切れが悪いだよ、おれの息子は」
おれは笑いながら嘘をついた。
「――それより亀吉。加藤の家まで競走すんぞ!」
「競走スか?」
亀吉は唖然とした顔で聞き返す。
「おう競走だよ。肉と野菜おれに寄こせ」
亀吉から肉と野菜を奪うと、おれは夕日にむかって走り出した。
〝道があるなら、突っ走れ〟
それがどんな道であってもだ。
三分ほど猛ダッシュすると、鶏小屋のような汚いあばら家が見えてきた。
あの鶏小屋みたないあばら家が、加藤の家である。
鶏小屋と呼ぶと加藤はすごく嫌がるが、鶏小屋を無理矢理家に改造して作った家なので、鶏小屋そっくりに見えるのは仕方なかった
おれは元鶏小屋の前に立って、亀吉が来るのを待った。
それからしばらくして、亀吉もゴールした。
亀吉はよほど疲れたのか、今にも死にそうな顔をしていた。
「亀吉、遅すぎだぞ」
「――無理っすよ。おれ、直人兄貴より足遅いし、ダンボール背負ってるんすよ」
おれは泣きを入れる亀吉の太ももを蹴った。
「バーカ。ダンボールが重けりゃ、途中で捨てちまえばよかったんだよ。ダンボールさえなければ、おれより身軽になれたんだ。十分勝てたろうが」
「でも、これ唯姐さんの大切な――」
「全然大切じゃねーよ、こんなもん」
片桐だったら絶対捨てている。
てか片桐なら、走り出した瞬間、おれにダンボール投げつけてくるぞ。
「亀吉。おれや片桐のケツを拝むのは仕方ないにしろ、オメーはヤクザやるんだろう。簡単に人のケツ追っかけるなよな。安く見られんぞ」
堅気なら、ダンボールを背負って一生懸命走るべきだ。
でもヤクザならダンボール捨ててでも、勝負に勝たなきゃいけない。
弱いヤクザなんざ、鼻くそ以下なんだから。
「おれのために・・・・・・」
亀吉は絶句した後「――ありがとうございます、直人兄貴」
深々と頭を下げた。それだけならまだしも、亀吉の馬鹿。また涙ぐんでやがる。
おれは亀吉の頭を叩いた。
「いちいち頭さげるな」
「すんま―」で、亀吉の唇は止まった。
「――簡単に謝らないすよね」
「そうだよ」
〝人に謝らない生き方は辛いぞ、亀吉〟
「――亀吉。加藤の家ですき焼き食ってくか?」
「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます」
「遠慮すんな。肉と野菜なら腐るほどあるんだからよう」
「――いや、そのう。なんかわかんないスけど、おれが唯姐さんの家の敷居またいじゃいけないような気がするんですよ」
つまらないこと拘りやがる。でも――
「・・・・・・そっか。なら、片桐の家で落ち合うか」
――正論のような気がした
亀吉はダンボール箱を下に置くと、丁寧に一礼して去っていった。