花の匂い
「花子お婆ちゃん・・・・・・」
そよ風がふいた先には、車椅子に座った花子お婆ちゃんがいた。
気づいたときには、僕は駆けだしていた。
後ろから、誰かが僕を呼ぶ声が聞こえたが、僕の耳には入らない。
僕の目も、鼻も、耳も、すべて花子お婆ちゃんに向けられている。
「花子お婆ちゃん!」
僕は喜びのあまり、車椅子に座ってる花子お婆ちゃんに抱きつこうとした。
──誰かが僕を抱きとめた。
「おっと。どこのワンちゃんかと思えばポン君じゃない」
僕を抱きとめたのは福ちゃんだった。僕は福ちゃんの抱きしめられながら、必死にもがく。
「花子お婆ちゃん、僕です。ポンです!」
花子お婆ちゃんにむかって叫ぶも、花子お婆ちゃんは僕を見ようとはしなかった。
ただ灯台を。その先の向こうにある海だけを見つめていた。
「ポン、お前・・・・・・」
車椅子の横にはさつきさんが息子を抱っこして立っていた。
「──さつきさん、ポン君のことを知っているんですか?」
「祖母の飼い犬です。でも祖母を引き取るとき、犬の世話まで出来ないと思って、犬を欲しがっていた親戚に譲ったのですけど・・・・・・」
「――そのお家から逃げ出しちゃったみたいですね。ポン君にそんな事情があるなんてしらなかったわ」
福ちゃんは優しく微笑む。
僕は福ちゃんの微笑みに答える余裕などなかった。ただただ花子お婆ちゃんの名前を叫び続けた。
「ポン君。花子お婆ちゃんに会えて興奮するのはわかるけど、でも花子お婆ちゃんの体はずいぶんと弱ってるから、乱暴に触ったらダメよ」
弱っている。その一言が僕に冷静さを取り戻させた。
あらためて花子お婆ちゃんを見ると、最後に会ったときよりも元気が無いし、反応もなかった。認知症になって一緒に暮らしていたときも、僕が吠えれば何かしら反応してくれたのに。
花子お婆ちゃんは僕がいない間に、病が進んでしまったのだ。
──なぜ僕はこんなになるまで、花子お婆ちゃんをほったらかしにしてたんだろう。
仕方のなかったこととはいえ、悲しみと罪悪感がで胸が苦しくなる。
福ちゃんは僕を地面におろした。
僕は花子お婆ちゃんを驚かさないように、そっと近づくと、その手を舐めた。
皺深くて、とても暖かい手。
でも暖かな手が動くことはなかった。
いつもなら僕がペロペロしたら、僕の頭を優しく撫でてくれるのに。
「手じゃなくて、花子お婆ちゃんは顔をペロペロされたいのかも」
福ちゃんは優しい声で言うと、僕を抱きかかえて花子お婆ちゃんの顔に近づけてくれた。
僕は花子お婆ちゃんの頬を舐めるのも、花子お婆ちゃんはなんの反応も示さなかった。
灯台とその先にある海をただ見つめていた。
「花子お婆ちゃんは、完全に僕のことを忘れてしまったんじゃ・・・・・・」
絶望。これ以上にないぐらいの絶望が、僕に襲いかかる。
「花子お婆ちゃん、ちょっと元気がないみたいね。おかしいな灯台に来たがっていたはずなんだけど。もう少し灯台に近づけば、元気になるかも」
福ちゃんはそう言うと、僕を下ろし、車椅子を押した。
僕は打ちひしがれ、その横を歩いてく。
〝やっぱり厳左右衛門様の助けがないと、華子お婆ちゃんの記憶を蘇らせるのは無理なのかもしれない〟
灯台に近づいてくるのが福ちゃんだということに気づくと、直人さん達は手を振った。
「福ちゃん、今日もボランティア?」直人さんが声をかけた。
「舞島君はデート?」
「デートじゃないって。秋子さんにも同じ事言われたぜ」
「秋子先輩達がいたらデートにはならないわね。秋子先輩、舞島君の邪魔をしたらダメですよ」
「私は舞島君のデートの邪魔をしにきたんではなく、国近さんの小説の取材できてるのよ」
「小説の取材? 野崎先輩、小説家デビュー再チェレンジするんですか?」
「まあな。夢ってやつをまた追いかけてみたくなった。それはそうと、そちらの方は」
「ああ、紹介を忘れてました。こちらの方は早乙女さつきさんと息子の翔君で、車椅子に座っていらしゃっるのは翔君のお婆ちゃんの野々宮花子さんです」
「野々宮花子?」
野崎夫妻は驚きの表情を浮かべながら顔を見合わせる。
「どうしたんですか、先輩達?」福ちゃんは不思議そうな顔を浮かべる。
「いや、そのう。この方は野々宮花子さんで本当に間違いないのか、フク?」国近さんは後輩に念を押した。
「ええ、間違いありません。この方は野々宮花子さんです」
「国近さん、これって貴方の小説の元になっている・・・・・・」
「そうだ。間違いない。この人はおれの小説に出てくる野々宮花子さんだ」
「話が見えないですけど――」福ちゃんが口を挟んだ。
「詳しい話はあとでする」国近さんは鞄からボロボロの本を取り出した。
「野々宮花子さん。これは私の死んだ祖父が、貴方の恋人である里中光太郎さんからお預かりしていたものです。持ち主が現れた以上、これは貴女が持つべきものです」
国近さんの持っている本から、可憐な花の匂いがにおってくる。
それはとても良い匂いなんだけど、その匂いは僕をどうしようもないぐらい不安にさせる。
不安に耐えきれなくなった僕は、花子お婆ちゃんにむかって懸命に吠えた。
僕はここです。僕はここにいます。
どうか僕のことを思い出してください。どうかその手で僕を撫でてください。
届かない。
僕の声は届かない。
花子お婆ちゃんの視線は、革で装丁されたボロボロの本に注がれていた。
「念のため、なかを確認してください」
国近さんは本の留め具に指を伸ばした。
「その本を開かないで!」
その本に何が書かれているのか、僕は知らない。
でもその花の匂いは、僕をとても不安にさせた。
国近さんは僕の叫びを無視して本の留め具を外し、ページを開いた。
その瞬間、花の匂いがあたりに広がる。
花子お婆ちゃんは手を震わせながら、本を受け取ると抱きしめた。
「光太郎さん・・・・・・」花子お婆ちゃんは呟く。
僕は必死で吠えた。自分の存在に気づいて欲しくて。
自分のことを思い出して貰いたくて、ただ吠えた。
でも無駄だった。
花子お婆ちゃんの瞳には僕がいなくって。
僕の知らない。
どこか遠くの場所へ、僕を置いて行ってしまったんだ。
気付くと僕は花子お婆ちゃんの元から逃げ出していた。
「ポン!」
ミミちゃんが後を追ってくる。
僕は灯台のなかに逃げ込み、ボロボロの階段を駆け上る。
半開きのドアの隙間から外へ出た。
僕を迎えた外の世界は。
悲しいぐらいに美しかった。
どこまでも晴れ渡る青空。
流れゆく雲。
そして寄せては返す波。
世界はこんなにも美しいのに。
僕はなぜこんなにも悲しくて、絶望に満たされているんだろう。
「花子お婆ちゃん・・・・・・」
灯台の鉄柵にもたれ掛かりながら涙を流す。
死にたいと思った。この美しい空にむかって身を投げたいと思った。
僕を誘うかのように、鉄柵の支柱は錆びて折れていた。
灯台と空との境界線に出来た歪んだくぼみ。
これだけの隙間があれば、僕の体でもすり抜けることができる。
この鉄柵の向こうに足を踏み出せば、花子お婆ちゃんのいるところへいけるかも。
妄想。
しかし振り払うにはあまりに甘美な妄想。
まるで空に誘われるように、歪んだくぼみに身を入れる。
誰かかが尻尾を思い切り噛んだ。
振り返らなくても、誰か噛んだのか僕にはわかっていた。
「ミミちゃん――」
僕は足を止めると、ミミちゃんも噛むのをやめた。
「あんた人間じゃあるまいし、なに自殺なんかしようとしているのよ」
「ごめん、ミミちゃん。でも僕はもう生きていたくはないんだ」
花子お婆ちゃんが、僕のことを完全に忘れてしまった世界。
そんな残酷な世界僕には辛すぎた。
「なに寝言ほざいているのよ!」
ミミちゃんは泣きながら引っ掻く。
「あんた、私がママに捨てられたとわかったとき、私のことを追いかけてくれたでしょう。それは私が死んだら悲しいから。違う!」
「うん。その通りだよ。僕はミミちゃんがいなくなったら悲しい」
「私も同じよ。あんたがいなくなったら悲しい。悲しすぎてとても耐えられない・・・・・・」
ミミちゃんは絶句し、そして涙をこぼした。
僕の胸が締めつけられる。
激しい痛み。でも不快ではない。
「ミミちゃん、僕もだよ」
「ポン・・・・・・」
僕とミミちゃんは見つめ合った。ミミちゃんの瞳には僕しか映ってなくて、僕の瞳にはミミちゃんしか映っていなかった。
二つの唇がゆっくりと距離を縮めていく。二つの唇が重なり合った瞬間、壊れたはずの投光器のレンズに光が灯り、世界を照らした。