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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第三部 花の匂い
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イミテーションの木


 窓の外は白み始めていた。

 まだ陽は昇っていないが、あともう少しすれば世界は明るさを取り戻すであろう。

「花子さん。今日は晴れそうですね」

 作り笑顔で、作った明るい声で、私は介護用のベットで眠っている老婆に声をかけた。

 老婆はなんの反応も示さない。ただ虚空を見つめながら言葉にならない何かを呟いている。

 〝喋ろうとはするようになった〟

 はじめは口を開くだけでも強化子を与えた。

 次に、何かしらの音を発したら強化子を与えた。

 そして今は意味のある単語を口にしたら強化子を与えるよう、課題を設定したが、まだ意味のある単語は出てこなかった。

 課題のレベルが高すぎたか。

 私は悩み、思考する。

 ドアをノックする音で我に返った。早乙女さつきが介護食をもって部屋に入ってきた。

「花子お婆ちゃん、さつきさんが朝ご飯をもってきてくれましたよ」

 反応は無い。

 早乙女さつきの顔が悲しみで曇る。

「朝食の方は私がやっておきます。さつきさんは翔君のほうをお願いします」

「すいません。朝から祖母の介護の方までお願いしちゃって」

「私の方こそ、泊めて戴いてありがとうございます」

 私は頭を下げた。芽依の捜索をした後、ほとんど寝ないで早乙女宅に訪問した。疲れ切っているわたしを見て、さつきは「今日は休まれてはいかが」と言ってくれたが、休むわけにはいかなかった。

 今日は野々村花子に言葉を出させる最後のチャンスであったのだから。

 この日を逃したら、野々村花子は老人ホームに入所してしまう。

 老人ホームに入所してしまえば、訓練を行う機会はなくなってしまう。

 だから私は早乙女さつきの申し出を断ったのだが、結局野々村花子に言葉を喋らせることは出来なかった。

 疲れ切っていた私は、夕食の席で船を漕いでしまった。

 そんな私を見て、さつきは自分の家に泊まるよう勧めた。

 眠気と疲労が限界に達した私は、早乙女さつきの好意に甘えることにした。

 翔がベットから這い出て風呂場の水を開けに行った音で、私とさつきは起こされた。窓の外を見るとまだ暗かった。

 私とさつきは風呂場の蛇口を捻ろうとしている翔を捕まえた後、居間でコーヒーを飲んだ。起きるには早すぎたが、寝直すには遅すぎた。

 わたし達が居間で寛いでると、今度は花子が喚きだした。

 さつきはウンザリした顔になったが、私は最後のチャンスだと思った。

 私は花子を様子を見に行くので、その間に朝食の支度と翔の面倒をさつきに頼んだ。

 さつきは、私の提案を受け入れてくれた。

 私は最後のチャンスとばかりに、花子に色々なアプローチを試してみたが、言葉を喋らすことは出来なかった。

「いえこちらの方こそ、翔のABAだけでもお忙しいのに、祖母の介護まで頼んでしまって本当に申し訳ございません。私がもっとしっかりしていれば、福田先生の手をこんなに煩わせることはないのに・・・・・・」

 さつきは愚痴でコーティングされた罪悪感を吐き出す。

「あまりご自分を責めないでください。翔君だけでも大変なのに、お婆さままで背負われたら、貴女が潰れてしまいます。すべてを一人で背負うことはないです。介護にしろ療育にしろ、一人で背負うにはあまりに辛いから、老人ホームやヘルパー、私のようなカウンセラーがいるわけですから。遠慮無く利用すべきだし、それに対して不当な罪悪感を抱く必要はありません」

「仰る通りなんでしょうが・・・・・・」

 さつきは倦み疲れた瞳から涙を零した。

 限界。彼女は文字通り限界だった。

 生まれた子供は自閉症児。それだけでも普通の人間の心を折るのは十分だというのに、祖母まで認知症になってしまった。

 祖母の面倒は、体面ばかりを気にする親戚のせいで、老人ホームに入所させるという選択肢は閉ざされ、僅かな金銭援助と引き替えに早乙女さつきに押し付けられた。

 早乙女さつきは彼女なりに頑張ったが、すぐに限界を迎えた。

 彼女の夫も単身赴任で、妻を支えることは難しかった。

 端から無理だったのだ。

 自閉症の我が子と、認知症の祖母、その両方を面倒みることなど超人か聖人でもないかぎり不可能であった。

 その無理の分、彼女は我が子と祖母を憎んだ。

 早乙女さつきは憎悪を抱え込みながら、それでも何とか我が子を療育しよう懸命に努力した。

 しかし早乙女翔は自己刺激に埋没するだけで、実の母親が名前を呼んでも答えることはなかった。

 介護している祖母の方も、孫娘の思いに答えることはなかった。

 野々宮花子は原因不明の苛立ちのようなものを抱えていた。

 言語を失ってしまった彼女は、突然の癇癪や食事を拒否することで、自分の苛立ちを表現した。

 早乙女さつきの苛立ちが憎悪が限界に達したとき、彼女の理性は外部に救いの手を求めることを思いついた。

 そして大学のボランティア掲示板で私を捜し当てたのだった。

 当時の私は新たな学理を思いついた科学者のように、ABAを試してみたくて仕方がなかった。

 だから彼女の申し出は、私の欲望と合致した。

 私は早乙女翔の療育を引き受けた。

 私は環境をコントロールし、早乙女翔の笑顔を増やしラポートを獲得した。

 要求言語を利用して、早乙女翔に言語を学習させた。

 表面的には愛情豊かなカウンセラーと、その愛情によって成長する子供という図式がなりたつのかもしれない。

 しかしすべては計算尽くの行為だ。 

 私の笑顔は八割が作り笑い。

 人の笑顔が楽しいものだと、早乙女翔に学習させるための作られた笑いでしかない。

 それは野々宮花子にむける笑みもそうであった。

 彼女の場合は、彼女に与える強化子として、笑顔を作ってる。

 彼女が口を動かすたびに与えられる強化子。

 心から笑っているわけではないんだ。たんなる作り笑い。

 

 イミテーションの笑い。

 

 さつきは落ち着きを取り戻すと、我が子の元に戻っていった。

 私は介護ベットを起こし、花子の口元にスプーンをもっていく。

 彼女はのろのろと口を開いた。私はしばらくの間、同じ行為を繰り返す。

 花子は突然、スプーンを手で払った。スプーンは床に転がり、介護食は床を汚した。

 一瞬、怒気が走る。

 しかし怒れない。怒るという手段は早乙女さつきがためした。しかし罵声では花子の怒りを買うだけで終わった。

 弱化子が機能していない。ほかの弱化子の使用を検討するのも一つの手ではあるが、寝たきりの老人に使用できる弱化子は限られている。

 弱化子が使えないなら、強化子の使用を検討すべきであった。

 私は床に落ちたスプーンを布巾で拭うと、再び彼女の口元にスプーンを持っていった。

 花子はスプーンを再び払おうとしたが、私は手で防いだ。

「花子さん、口を開いてください」

 彼女は再びむずかり中々口を開いてくれない。私は彼女のカサカサの唇を指で軽く撫でた。

 彼女の唇が僅かに開いた。

「花子さん、私のことを手伝ってくれるんですか。ありがとう御座います花子さん」

 私は彼女のシワ深い頬を撫でながら褒める。

 花子は頬を緩め喜ぶ。

 その後の彼女は、私の食事介助に対して協力的であった。

 私は彼女の口元にスプーンを運びながら、再び考えこむ。

 彼女は何故定期的に癇癪を起こすのか。

 早乙女さつきは嫌がらせだと言って怒っていた。

 私は違うと思っている。

 彼女は何かを訴えたいのだ。もしくは彼女は何かを私達に伝えたいのだ。

 しかし認知症になってしまった彼女には、思考も記憶も散漫だ。言語も失っている。他者に自分の意志を伝える手段がほとんどない。

 だから彼女は、他者に何かを伝える手段として癇癪を選択してしまうのかもしれない。

 介護の邪魔をすることで、私達に何かを訴えようとしているのかもしれない。

 彼女の訴えが何なのか、私は知りたい。

 そして出来ればその訴えを叶えてあげたい。

 私の行動のすべては、目的を達成させるための計算尽くの対応であった。

 ボランティアを行うことも、私の知的欲求を満たすための手段にすぎない。

 

 でも。


 その計算尽くの対応行っていく過程で、私の心のなかに生まれた愛情や喜びは本物であった。

 花子や翔の笑顔は、私に喜びを与えてくれた。

 彼らの笑顔が、二割の本物の笑顔を、私から引き出してくれた。

 だから私も必ず彼女から言葉を引き出す。

「花子さん、ご飯美味しかったですね」花子に声がけを行う。

 彼女は意味不明な言葉をもごもごと呟く。私は笑顔を作る。花子の顔がほんの少しだけ緩む。

 私の作り笑顔は、強化子として機能しているようだ。

「花子さん、今日は良い天気になりそうですから、車でお出かけしますよ」

 反応はない。この話題は彼女の興味を引かないようだ。

「お花を見ましょうか。今の季節ならひまわりも綺麗だし、朝顔も咲いてますよ」

「はっ・・・・・・」

 彼女の語気が強くなる。私は素早く彼女の口元に耳を近づける。

「もう一回、言ってください花子さん。もう一回頑張って言ってみてください」

 しかし彼女が口を動かしたのはそこまでだった。

 時間がない。彼女が老人ホームに入所したら、彼女と接することはもうないだろう。

「今日、車で海の前を通るんですよ。そういえば花子さんは灯台が好きなんですよね」

「とう・・・・・・」

 彼女は激しく震え出す。今までにない激しい反応。私は急いで彼女の口元に耳を近づける。

「灯台、灯台に行きたいですか、花子さん」

「とうだい・・・・・・。こうたろうさん・・・・・・」


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