抱きしめたい
打撃音。
それに男の悲鳴で目が覚めた。
目を開けたはずなのに、視界は暗く霞んでいた。
ほとんど何も見えなかった。
でも暗闇を照らすかのように輝く金髪だけは目に映った。
「来てくれたんだ、舞島――」
絶対に来てくれると思っていた。
どんなことがあっても来てくれると思っていた。
わたしが来るなと言っても絶対に助けに来てくれるはずだと思っていた。
「――わたしの王子様」
わたしも朱美ちゃんと変わらないな。
舞島と初めて出会ったとき、もうすでに心を奪われていた。
舞島は綺麗さっぱり忘れているけど、舞島と初めて出会ったのは、小学生の時だった。
小学生の頃から舞島の美貌は有名だった。アイドルでもないのに、となりの学区の女の子達にまで騒がれていた。
少女漫画をよくわたしに貸してくれた友達が、舞島に告白するので付いてきて欲しいと頼まれた。地味なわたしも、噂の金髪の美少年に興味があったので付き合うことにした。
舞島は、わたしの予想をはるかに超えるほど美しかった。
告白しにいった少女は上擦った声で好きです、と言ってラブレターを渡した。
舞島はありがとう、と優しい声で言った後、今は古武道に夢中だから付き合えないと断った。
帰り道、わたしは泣きはらしている友人を慰めるのも忘れて、舞島の事ばかり想っていた。貧乏な我が家に着く頃には、舞島のことが完全に好きになっていた。
わたしはチビどもが寝た後、友達から借りたお気に入りの少女漫画――
――ヒロインの女の子は眼鏡を取るとお姫様に変身して、王子様に積極的にアタックする――。
――陳腐な内容の少女漫画。でも胸のときめきを押さえることができない。
わたしも眼鏡を取れば、お姫様になれる。王子様を振り回すことができる。
でも現実のわたしは王子様に告白することも、分厚い眼鏡をとることさえ出来ずにいた。
小学校最後の夏休み。わたしはありったけの勇気をかき集めて、舞島に告白しにいった。
あの少女漫画の主人公のように、わたしも舞島の目の前で眼鏡をはずして告白するんだ。そう息巻いていた。
夕暮れの校門の前で舞島が来るのを待っていたが、その日にかぎって舞島はなかなか出てこなかった。
誰も校門を通らなくなると、雨が降り始めた。
それでも待ったが、雨足が強まるばかりで、舞島が出てくる気配はなかった。
何度も帰ろうと思った。でもここで帰ったらもう二度と告白する勇気が沸かないようような気がして帰れなかった。
雨でずぶ濡れになり、夏だというのに寒さに震えた。わたしがガタガタと歯の根をならしていると、傘を差した舞島が学校から出てきた。
舞島は怪訝な顔で、校門の前で震えているわたしを見つめた。
――最悪だと思った。雨に打たれて震えている姿なんて舞島に見せたくなかった。
舞島に見せたかったのは、眼鏡を取って美少女になったわたしだった。 わたしは自分がどうしようもないぐらい惨めに思えて、悲しくなった。
「――傘やるよ」
舞島はわたしに傘を押し付けると、土砂降りの雨のなかを駆けていった。
中学生になって学校が一緒になると、あの時の傘のお礼と、あの時出来なかった告白をしたいと思った。
でも、舞島の周りにはいつも大勢の女の子や男の子達がいた。とてもじゃないが、わたしが入り込める隙などなかった。
最後のチャンスだった卒業式の日も、舞島は泣いてる女の子達に囲まれていた。
わたしが告白する隙など、微塵もなかった。
だから誰もいない教室に忍び混んで、舞島の机にバーカと落書きして、中学校を卒業した。
高校は、舞島と同じ学校だからという理由で、タマカスに入学した。女子がほとんどいない環境のおかげで、舞島とわたしの距離は縮まった。
でも絶対に縮まらない距離がある。
分厚いレンズの厚さの距離。
この距離だけは縮まらない。
告白すれば縮まるかもしれないと思っていたけど、告白しても距離は縮まらなかった。
友達という関係も、変わらなかった。
〝無理もないか〟
わたしはいつも分厚いレンズの影に隠れていた。
わたしはいつも友達という関係に隠れていた。
告白した今だって心のどこかで、特別な一人になんかなれなくてもいいと思っている。
舞島と離れるぐらいなら、一生友達のままでいい。
でも――
――一度ぐらい眼鏡を取って勝負したかった。
わたしのささやかな願い。
しかしそのささやかな願いは叶わない。
わたしは死んじゃうのだから。
「――今のわたしきっとブスだろうな」
幸いなことに鏡がないので、自分の顔を見ずにすんだ。でもあんなに殴られたのだからきっと酷い顔をしている。
そんな酷い顔、舞島に見せたくなかった。
ふと床を見ると、壊れた眼鏡が転がっていた。
眼鏡をかけたら、少しは隠せるかな。
〝最後の最後まで、眼鏡か〟
わたしは苦笑いを浮かべながら、腫れ上がった顔を少しでも隠すため、壊れた眼鏡に手を伸ばした。
体がボロボロのせいか、眼鏡をかけるだけでも辛かった。
なんとか眼鏡をかけると、分厚いレンズは割れてしまっているのに、まるで魔法のように視界がはれた。
舞島は血まみれのボロ雑巾となった三森を淡々と殴っていた。
三森の顔はもうパンパンに膨れあがっていて、元の顔を判別することは出来なかった。
舞島が三森を殴るたびに、灯台の壁に映る舞島の影が歪んだ。
舞島の影が歪むたびに、舞島の影が崩れた。
舞島の崩れた影は形を変え、無数の黒い蛇となった
黒い蛇は、舞島の方に這い寄っていく。
――あれはよくないものだ。
あんなものに舞島を触れさせてはいけない。
そして何よりも、舞島に人殺しなんてさせちゃいけない。
舞島はみんなの王子様なのだから。
舞島はわたしの王子様なのだから。
わたしは立ち上がろうとしたが、ボロボロのわたしには立ち上がる力すら残っていなかった。
わたしはナメクジのように這いずりながら、舞島に近寄っていた。
急がなきゃ。あの蛇どもより先に舞島のところへ行かなくちゃ。
しかし黒い蛇の方が早い。このままじゃ蛇に先をこされてしまう。
「――さわらせない。絶対に舞島にさわらせないだから!」
ありったけの力を膝にこめて立ち上がる。傷だらけの体が悲鳴を上げたが、無視して舞島の背中めがけて走った。
黒い蛇もスピードをあげた。
手を伸ばせば舞島の背中に触れる距離。黒い蛇は鎌首をもたげ、舞島にむかって牙をむいた。
このままじゃ間に合わない。
わたしは地を蹴った。
ジャンプというよりも、舞島の背中にむかって倒れただけだった。
それでも手を伸ばしたおかげで、黒い蛇よりも一瞬早く、舞島の背中に抱きつくことに成功した。
舞島は振り上げる拳を止めて、わたしを抱きしめてくれた。
「――加藤」
舞島は泣きながら、わたしを強く抱きしめてくれた。
嬉しかった。死にかけているというのに、嬉しかった。
「舞島――」
わたしはそこで意識を失った。
第三部はこれで終わりです。次回で終了なので少しお待ちください。