HERO
蕾のままの向日葵は夜風に吹かれ揺れていた。
僕は向日葵の根元で震えていた。
〝灯台のなかでいったい何が行われているというんだ?〟
灯台の入り口は、夜の闇と恐怖によって黒く塗り潰されていた。
闇に阻まれているせいで、灯台の中を覗うことは出来なかった。
しかし闇の向こうからは。
ありとあらゆる禍々しい気配と、あの匂いが。
ダンボールの世界を満たしていたあの匂いが漏れていた。
「――あそこはもう僕の知っている灯台じゃない」
花子お婆ちゃんが愛した灯台は闇に飲まれてしまった。
あの闇の向こうは、もう僕の家じゃない。僕を閉じ込めていたあの暗いダンボールの世界と同じ地獄だ。
お婆ちゃんが愛していた灯台が汚されてしまった怒りと、それをはるかに上回る恐怖で、僕は気持ち悪くなって吐いてしまった。
〝しっかりしろ僕〟
あの闇の向こうには、ミミちゃんが捕まっているんだ。
ミミちゃんを助けることが出来るのは、僕しかいないんだぞ。
僕はありったけの勇気を振り絞って、闇に飲み込まれてしまった灯台に忍び寄った。
灯台の入り口を閉ざす闇に近づくにつれ、血の臭いが強くなり、その生臭い臭いに混じって、睡蓮の匂いが漂ってきた。
〝間違いない。ミミちゃんはあの灯台のなかにいる〟
僕が確信したその時、灯台の闇の中から暴走族が飛び出してきた。
「付き合い切れねえよ。あいつは気が狂っている!」
男はよほど怯えているのか、僕に見向きもせず、国道の方にむかって逃げていった。
〝暴走族の男をあれほど怯えさせるなんて〟
灯台の中はどうなっているんだ?
もはや一刻も猶予もゆるさない。
僕は灯台の中に忍び混んだ。
灯台の中は暗く、血の臭いと死の匂いが充満していた。
ミミちゃんはどこだ?
三森はどこだ?
僕が辺りを見回そうとした時、頭の上に生暖かな何かが垂れてきた。
何事かとおもって見上げると、螺旋階段にはナニカが吊されていた。
暗くてよくわからない。それでもジッと見つめていると、目が暗闇に慣れてきた。
螺旋階段にぶら下がってるナニカは、腹を引き裂かれた子猫や子犬の死体だった。
切り裂かれた腹から、臓物が垂れていた。
自らの重みに耐えられなくなった臓物の一部が、僕の目の前に落ちてきた。
臓物は床に接触した瞬間グチャグチャに潰れた。
肉片と血が飛び散り、僕の顔を汚した。
「あっ、あああ」
あまりの恐怖で考えることも、悲鳴をあげることさえ出来なかった。
僕が恐怖でガタガタと震えていると、螺旋階段に光が灯った。
僕は反射的に顔をあげた。
「――なんだアレは?」
螺旋階段には懐中電灯を持った怪物が立っていた。
怪物の顔は獣のように毛むくじゃらだった。怪物は人間のようにズボンを吐いていたが、上半身は剥き出しだった。剥き出しの上半身には、禍々しい赤い紋様が描かれていた。
あまりの異常な事態に、僕は恐怖を覚える前には現実感を失ってしまった。
僕はただ呆然と毛むくじゃらな怪物を見上げていた。
誰でもいい。たとえ三森であってもいい。
僕は誰かに会いたかった。
地獄の化け物以外の何かに会いたかった。会って、ここが現実の世界だとということを実感したかった。
毛むくじゃらの怪物は、僕に気づくことなく、螺旋階段に置いてある袋を漁った。
毛むくじゃらな怪物は、袋の中から一匹の猫を取り出した。
ミミちゃんだった。
「ミミちゃん!」僕は吠えた。
「誰だ! おれの儀式の邪魔をするヤツは!」
三森の声だった。
あの怪物は三森なのか。
〝怪物の正体なんて何だっていい!〟
今は一刻も早く、ミミちゃんを助けないと。
僕は床を蹴った。僕がいた場所にボルトが突き刺さった。
クロスボウのボルト。間違いない。あの怪物は三森だ。
「クソ犬、お前か! お前も殺してやる。お前も殺して、その血と皮を取ってやる!」
「三森! ミミちゃんを離せ!」
僕は螺旋階段を駆け上がりながら怒鳴った。
三森はクロスボウをすて、ナイフを構えて、僕を待ち構えていた。
もう片手には気絶しているミミちゃんをぶら下げていた。
〝早くミミちゃんを助けたいけど、まず先にナイフを何とかしないと〟
ミミちゃんの持つ手を噛んだら、ナイフで刺されてしまう。
僕はナイフを振りかざす三森の股をくぐり抜けた。
「逃げるな、クソ犬!」
「逃げるもんか!」僕は後ろから三森の足に噛みついた。
三森は獣のような悲鳴をあげながら倒れた。
「ポン!」ミミちゃんが絶叫をあげた。
倒れた衝撃で、気絶から目が醒めたのだ。
「――子犬や子猫たちは。殺されるの? 私も皮を剥がされて殺されるの?」
ミミちゃんは泣き喚いた。
〝ミミちゃんは恐怖のあまり混乱しているんだ。
「ミミちゃん、大丈夫だよ。僕が守る。僕が絶対君を守るから!」
「ポンいるの! ポンどこにいるの!」
「クソ犬ブチ殺す!」
三森は血まみれのナイフを振り上げた。
三森の影に隠れていたミミちゃんの姿が見えた。僕は噛むのを止め、ミミちゃん目がけて飛んだ。
「ミミちゃん飛べ!」
ミミちゃんは僕の意図を察して、螺旋階段の鉄柵の隙間から飛び降りた。僕は体が大きいので、ミミちゃんのような芸当は出来ない。
僕はこの場から逃れるため、螺旋階段を駆け下りようとした。
三森が僕の尻尾を掴んだ。
「逃さねえぞ、クソ犬。お前はおれが生まれ変わるための生け贄なんだからな」
三森は血走った凄い目で、僕を睨んだ。
三森の毛むくじゃらな顔がズレていた。
〝マスクか。死体の皮を剥いで作ったマスクを被っているのか〟
三森を間近に見ることによって、ようやく気づいた。
三森が死体の皮から剥いで作った毛むくじゃらな仮面は、禍々しく、そして粗末だった。
三森は僕の尻尾を引っ張り、ナイフで刺そうとした。
僕は身をくねらせて、何とかナイフを避けた。
「避けんじゃねぇ!」
三森は激高し、僕の足を掴んだかと思うと、螺旋階段の外に放り投げた。
〝受け身をとらなきゃ〟
僕はなんとか受け身を取ろうとしたが、僕は所詮犬だ。
身軽な猫のようにはいかなかった。僕は血まみれの床に叩きつけられた。
痛みと衝撃のあまり呼吸ができない。
〝誰か座っている〟
僕は痛みに喘ぎながら、灯台の暗がりに誰かが座っていることに気づいた。
ボロボロの女の人だった。
〝この人は誰だ?〟
酷く殴られているせいで、元の顔がわからないほど女の人の顔は腫れ上がっていた。
「・・・・・・もしかして加藤さん」
そうだ間違いない。花火大会の時にきていた女の人。直人さんの友達だ。
そういえば三森は直人さんのことを酷く恨んでいた。
人質にするために掠ってきたのか?
「ポン、大丈夫!」
ミミちゃんは床に倒れている僕に駆け寄ってきた。
「僕はなんとか大丈夫だよ。ミミちゃんの方は」
「私も傷だらけだけど、体はうごけるわ。それよりアンタ早く逃げましょう?」
「――ごめんミミちゃん。僕一緒に逃げられないよ」
「どうしてよ、まさか足でも挫いたの?」
「違う。加藤さんを置いて逃げられないよ」
「えっ、加藤さんって?」
ミミちゃんは僕の視線の先に、顔をむけた。
「女の人の悲鳴が聞こえたような気がしたけど、夢じゃなかったんだ」ミミちゃんはぽつりと呟いた後「まさか、あの女の人を助けるために残るつもり?」
「うん。僕がいなくなったら、三森は加藤さんを殺すかもしれない。僕はもう誰も灯台で死んで欲しくないんだ」
「私はアンタ以外の誰が死んだっていいと思っている。だから逃げよう、ポン」
ミミちゃんは泣きながら訴えた。
「ミミちゃん、ゴメン」僕は静に首を横に振った。
「馬鹿馬鹿馬鹿、お人好しの馬鹿犬!」
ミミちゃんは泣き崩れた。
「クソ犬、クソ猫、おれを恐れろ! おれに怯えろ! おれは恐怖だ。おれは恐怖なんだぞ!」
三森は喚きながら、階段を降りてくる。
ミミちゃんは三森の声を聞くと震えた。
「ミミちゃん、三森が来る前に早く逃げて」
「アンタ馬鹿よ。大馬鹿野郎よ」
ミミちゃんはそう言うと、泣きながら外にむかって駆けていった。
僕は一人になると、灯台の暗がりに隠れた。
〝三森は狂っているのかも知れない。でも人間だ。暗闇を見通す事は出来ない〟
三森はナイフを構えたまま、下に降りてきた。
「逃げやがったか、クソ犬どもめっ。まあいい。加藤の皮を剥いでやる」
三森はゆっくりと加藤さんに近づいていった。
「舞島――」
加藤さんは譫言のように直人さんの名を呟いた。
「まだ生きていたのかよ、加藤。今日はラッキーだぜ。生きながらお前の皮を剥ぐことができるんだからな」
三森はそう言いながら、加藤さんを縛っている縄をナイフで切った。
「これで解体しやすくなった。加藤、お前の皮を剥いだあと、その汚え体をバラバラにしてやるよ」
三森はナイフの刃を加藤さんの顔に当てようとした。
僕は暗がりから飛びかかり、ナイフを持つ三森の手を思い切り噛んだ。
「クソ犬! テメー逃げ出してなかったのかよ」
僕は答える代わりに、より強く三森の手首を噛んだ。
「痛えだよ、クソ犬が!」
三森は怒鳴りながら、僕を壁に叩きつけた。
壁に叩きつけられた瞬間、痛みと衝撃のあまり気が遠くなった。
それでも何とか三森の手首を噛み続けた。
三森の手首から大量の血が零れた。
「いいだろう。ずっとおれの手を噛んでろよ」
三森は再び僕を壁に叩きつけた。
僕はほとんど気を失いかけていた。
「トドメだ、クソ犬」
三森は手を思い切り振りかぶり、最大限の力を込めて僕を壁に叩きつけようとした。
〝死ぬな〟
花子お婆ちゃんに死ぬ前に一度だけでいいから会いたかった。
ミミちゃんに死ぬ前に一度だけでいいから会いたかった。
でもそれはもう叶わない。
僕はもう死ぬのだから。
「死なないでポン!」
聞き慣れた声。
まさか――
「――ミミちゃん!?」
僕が叫ぶのと、ほぼ同時にミミちゃんは三森の足首を噛んだ。
三森はミミちゃんを振り解こうと、足をばたつかせた。
僕はミミちゃんを援護するため、三森の手首を噛みながら首を振った。
「痛え! テメークソ犬、おれを舐めやがって。だがそれももう終わりだ」
三森は腰にぶら下げている筒からボルトを取り出した。
「死ね!」
三森はボルトを僕の背中に突き刺した。
背中からはドクドク血が流れ、僕は自分の作った血溜まりのなかに倒れた。
もう体のどこにも力など残ってはいなかった。