Wake me up! 改稿
生ぬるい感触が頬を撫でた。耳元で犬の鳴き声がする。
天国にしては、随分と騒々しい。
〝いや地獄だろう〟
アル中のおれが天国に行けるはずなどなかった。
――どっちでもいいや。今は眠らせてくれ。
おれは夢を見ていたいのだ。
はじめて書いた小説の夢を見ていたかった。
すべて見ることが出来れば、秋子に小説を書いてやれる。
家族がいた生活に戻れる。
だからもう少しだけ夢を見させてくれ。
今度は猫がうるさく喚いた。誰かがおれの体を揺さぶる。
なんだっていうだ、畜生。
これじゃあ、寝るに寝られない。おれは眠気と酒気で粘つく瞼を無理矢理こじ開けると――
「パパァ!」
芽依の顔が飛び込んできた。
「――芽依?」
なぜ芽依が立っているのか、おれにはわからなかった。
ただ一つ。
芽依が目の前に立っていることを神に感謝した。
おれは芽依を力強く抱きしめた。酒臭く、おまけに血で汚れてるというのに芽依は嫌がらなかった。
いつもなら酒飲んでると、抱っこさせてくれないのに。
今日は特別か。
「――芽依、どうしてパパの場所がわかった?」
「ポンとニャン太が、パパのことを探してくれたの」
「ポン、ニャン太?」
視線を下げると、一匹の犬と一匹の猫が道路の上に座っているのが見えた。
まさかこの犬と猫が、おれを見つけてくれたというのか?
にわかに信じられないが、八歳の芽依が一人でおれを見つけられるとは思えなかった。
「――ありがとうなポン」
おれは白い犬の頭を撫でると、抗議するかのように猫が喚いた。
「お前もありがとうなニャン太」
おれは猫の頭を撫でてやったが、猫はふて腐れた顔で横を向くだけだった。
──女と猫だけは手に負えない。
おれは苦笑いを漏らすと、秋子のことを思い出した。
「芽依、ママは?」
「黙って出てきたから、ママはいないよ」
「馬鹿、ママが心配するだろう!」
おれが叱ると「だって芽依パパが心配だったんだもん」と芽依が反論した。
おれは娘の言葉で自分の状況を思い出した。
酒浸りのアル中の上に、やたらと喧嘩早いおっさん。自分の子供相手とはいえ、偉そうなことを言える身分ではなかった。
「ママにはパパが言っておくから、もう一人で外でちゃダメだぞ」
「うん。パパもママと仲直りしてね」
そいつは難題かもしれないが、今は少なくとも関係修復に向かって努力する気にはなっていた。
何故だろう? 夢をみたせいか?
それとも酒が抜けたせいか?
自分でもよくわからなかった。
おれはガードレールに手をかけなんとか立ち上がると、携帯でタクシーを呼んだ。
ほんの少しだけ迷った後、秋子に電話をかけることにした。
携帯にはもの凄い量の着信が残されていた。
「国近さん? どこにいるの? 芽依が行方不明なのよ!」秋子が早口でまくし立てる。
「心配するな。芽依ならおれの目の前にいる。いまタクシーを頼んだから、すぐに帰るよ」
「――どういうこと?」
「おれにもよくわからん。帰ったら説明するよ」
しばらくしてタクシーがやってきた。おれと芽依はタクシーに乗り込んだ。
おれは恩人である犬と猫を乗せてやるため、タクシーの運転手に金を握らせ、犬と猫を乗せてやってくれと頼んだ。タクシーの運転手は快諾した。いかつい顔をしているが動物好きらしい。
しかし犬と猫はタクシーに乗り込もうとはしなかった。
動物は嫌いだが助けて貰った恩がある。野良なら飼ってやろうと思っていたのに。
「ポン、ニャン太何してるの、早く乗りなさい」芽依は犬たちに呼びかけた。
犬と猫は返事をするかのように吠えると、背を向けて去って行った。
「ポンとニャン太、どこに行くの!」芽依が涙声で呼び止める。
「――芽依、行かせてやれ。ポンもニャン太も用事があるんだよ」
なんでこんな言葉を言ったのか、自分でもよくわからなかった。
でもあの犬と猫を呼び止めてはいけないような気がした。
タクシーのドアが閉まると、車は動き出した。白みはじめた空を見ながら帰途についた。
家の前でタクシーが止まった。
玄関には秋子と、後輩の福田福子が立っていた。それと見たことない金髪の美少年と、中学生ぐらいのおさげの女の子が立っていた。
お巡りもいた。秋子が呼んだのであろう。
秋子と仲がよい福子がいるのは理解できるのだが、金髪の美少年とおさげの少女にはまったく心覚えがなかった。
まあいい。
芽依は母親の姿を見ると駆けだした。
「――ママ!」
「芽依!」
秋子は娘を抱きしめた。秋子は感情が落ちつくと、芽依を抱き上げ、福子に渡した。
〝おれの番か〟
秋子と芽依のような感動の再会にはならない。多分殴られる。
おれにむかってゆっくりと近づいてくる秋子を見ながら思った。
「――お帰りなさい、国近さん」
おれの予想ははずれた。
おれはどう答えていいのか、わからず結局「ただいま」と答えた瞬間、衝動が駆け抜けた。
おれはその衝動に動かされ、秋子を抱きしめてしまった。
秋子は逆らわなかった。
おれは秋子の耳元で「――書くよ、小説」と囁いた。
「――もういいのよ、無理しなくて」
女は嘘をついた。
「馬鹿。おれがペンを放り投げたら、お前は一生おれを許さないだろう。だから書くよ」
おれもチャンピオンを見習ってみることにした。
ゴールが見えなくても、たとえ誰が読んでくれなくても、
ただ前にむかって走り出して、おれの物語を。
秋子に捧げる物語を書いてやる。
──ガキの生き方だ。でもママゴトの延長で突っ走って、結婚までしたおれ等にはガキの生き方しかできないだろう。
それに――。
「――書きたくなったんだ。あの小説の続きを」
あの小説の続きを書きたい。秋子を抱きしめたのと同じくらい強い衝動で、おれはあの小説の続きを書きたかった。
「――どの小説を?」
秋子がわからないのは無理がない。おれが放りだした小説など腐るほどある。
「おれがはじめて書いた小説だよ。あれを完成させてたくなった」
「──へんな貴方。あんなに続きを書くの嫌がってたくせに」
「――夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「あんまり覚えてないや」
でも作品を書き上げる自信だけはあった。
長らくほったらかしていましたけど、おれもこの小説を完結させたいです。