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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第三部 花の匂い
38/52

あんまり覚えてないや 改稿

 灯台の壁に寄りかかりながら、夜の海を眺めていた。

 この海の果てに、軍神となった友が眠っている。

 孝道、お前は本当に軍神になりたかったのか?

 誰にも言えない疑問を、心のなかでそっと呟いた。

 生野孝道はおれの親友だった。

 おれは酒飲みの漁師の息子で乱暴でがさつでなガキだった。あいつは会社勤めのエリート親父をもつ、大人しい子供であった。

 真逆な性格、趣味も違ったが、それでもおれと孝道はどこかで馬が合い、いつも連んで遊んでいた。

 その関係がおかしくなったのは、女を意識するようになった十六歳の春だった。

 おれと孝道はよりにもよって、同じ女を好きになった。

 野々宮花子。

 黙っていれば美人で通るのに、喋るとどこか抜けた感じのする女だった。

 おれは花子の抜けた感じが好きだった。

 孝道は、花子のどこが好きになったのかは知らない。

 真面目なあいつのことだ。

 花子のどこが好きになったのか、とおれが聞いたら、恥ずかしげもなく全部と答えるかもしれない。

 孝道はそういう男だった。

 おれと孝道は、どうやったら花子の気を引けるか、毎日頭を悩ませていた。

 花子と一緒にいられる理由をみつけては、花子のケツを追いかけ回した。

 照れ屋な孝道はおれのように明け透けな行為は出来なかった。

 それでも照れ屋は照れ屋なりに一生懸命花子を口説いた。

 おれは花子に惚れながらも、心のどこかで花子は孝道を選ぶと思っていた。

 孝道の家は裕福だし、孝道の方が顔もよかった。頭だって良いし、剣道も強かった。

 一方のおれは、家は貧乏だわ、頭は悪いわ、運動神経もイマイチだった。漁師の息子のくせに、釣りの腕でも孝道に負けていた。

 孝道に勝てたのは水泳ぐらいだった。

 端から分の悪い勝負だった。だからおれは花子を口説いていても、どこかでフラれる覚悟もあったし、花子が孝道を選んだら、悔しさを噛み殺して祝福してやろうと思っていた。

 しかし花子が選んだのはおれだった。

 恋に破れた孝道は、泣くのを堪えながら、おれと花子を祝福してくれた。

 おれは素直に、孝道の祝福をうけた。

 孝道も辛いだろうが、おれ達は正々堂々と闘ったのだ。互い、恋に破れたら素直に身を引いて、悔しさを堪えながら新たな恋人達を祝福する――。

 ──そう勝手に思い込んでいた。

 だが違った。それはおれの一方的な思い込みにすぎなかった。

 あれは風が強い暗い夜だった。

 親父に酒を買いに行かされたおれは徳利片手に海岸沿いの道を歩いていた。

 あまりに風が強いので、海岸に繋いである船が心配になった。

 船といっても親父が漁に使う船ではない。

 釣り用の小舟である。死んじまった祖父がおれにくれた小舟で、おれと孝道はよくその小舟に乗って海釣りをした。

 汚い小舟だが、釣り好きのおれと孝道にとっては宝物だった。

 ガキの頃は、毎日その小舟に乗って釣りをしていた。さすがにデカくなった今は、毎日は乗らなくなったが、それでも月に何回かは孝道と一緒に小舟に乗って、釣りをしに行く。

 だから風に流されていまいか、心配になった。

 それに今度の日曜日、花子を乗せる約束をしていた。

 おれは小舟を見に行くため、海岸にむかった。

 海岸に繋いであったはずの小舟は、砂浜にあげられていた。

 おかしいと思った時、小舟の上に誰かいることに気付いた。

 孝道だった。

 孝道は鬼のような顔で、ノミを振るっていた。

 固いノミが当たるたびに、船底が砕けた。

 何故そんなことをしているんだ、孝道。

 止めろよ、と怒鳴りたかった。

 でも声はでない。

 おれは何かに魅入られたかのように、ノミを振るう孝道を見つめた。雨が降り始めた。はじめは小雨だったが、すぐに大雨となった。

 雨足が弱まると、孝道はノミを海に放り込み去っていた。

 孝道が闇の中へ消えていくと、おれは船を見に行った。

 船の底には大きな穴が空いていた。

 大きな穴には、夜の闇と、砕けた木片と砂。それに雨水がつまっていた。

 闇と雨水は混じり合って黒いグチャグチャとした泥となり、砕けた木片を飲み込んでいた。

 その空虚な穴には、闇と、それに砂と雨水でグチャグチャになった物が詰まっていた。

 おれは船底の穴の中を。木片を飲み込んだグチャグチャな泥をジッと見つめた。

 見つめ続けるうちにグチャグチャの泥は、形を変え人の貌になった。

 厭らしい貌だった。泥で出来た貌は、おれの目をみつめながらニヤニヤと嗤っていた。

 〝船餓鬼様を見たら、すぐに目をそらさなきゃなんねえ〟

 死んだ祖父さまの言葉を思い出した。

 海や船には、時に奇妙な物が取り憑くことがある。

 普段は見えもしないし悪さもしないが、ふと何かの拍子でそれを見えるときがあった。

 それは色々な形をとるが、一番多い形は人間の貌だった。

 そんときは慌てちゃなんねぇ。すぐに目をそらせば気味が悪い思いをするだけですむ。

 祖父さまは梅干しで焼酎を飲みながら、おれに教えてくれた。

 ――祖父さま。もしそいつを見つめ続けたらどうなるの? 

 ガキのおれは魚の丸干しを食いながら尋ねた。

 ――見つめ続けたら、船餓鬼様に取り憑かれて暗い海の底に引きずり込まれちまう。しかもそれで終わりじゃねーんだ。海に引きずり込まれても、船餓鬼さまに取り憑かれたまんまだ。もうそうなったら、あの世に逝くことすらできねえ。そいつはずっと暗い海の底につながれてしまう。

 ――助からないの? ガキのおれは怖くなって尋ねた。

 ――女だ。陸にいる女だけが、暗い海の底で捕まっている男を助けることができる。だから猟師は、すぐに女を捕まえる。儂もはじめて海に出たときには、女房がいた。だから光太郎。オメーも海に出るつもりなら、早く女を捕まえておけ。

 祖父さまは大笑いして、暗い話を吹き飛ばした。

 おれはそれっきりその話を忘れていた。

 しかし今、おれを嗤っているこいつは祖父さまの言っていた船餓鬼様なのかもしれない。

 ──なら目を逸らさないと。

 だがおれは目を逸らすことはできなかった。ニタニタと嗤うそれを見つめ続けた。

 気付いた時には雨は完全に止んでいた。

 船の底に空いた穴からは、雨水と泥と化した砂が溢れていた。

 あの気味の悪い顔はどこにもなかった。

 おれは夢を見ていたのか?

 悪夢を見ていただけなのか。

 闇のなかでノミを振るっていた孝道も、あの泥で出来た貌も、悪夢の中での出来事。そう思い込みたかった。

 だが船底には穴が空いていた。

 泥が詰まった穴が空いていた。

 翌日、おれは何事もなかったかのように花子に船が壊れてしまったことを伝えた。

 花子は悲しそうな顔をしたが、おれを慰めてくれた。

 孝道も──。

 ──素知らぬ顔でおれを慰めてくれた。

 孝道の慰め方があまりにも真心がこもっていたので、あれはおれの勘違いだったのでは? と思ったぐらいであった。

 おれは独りになると、この一件は心に仕舞っておこうと決めた。

 たしかに小舟の件は悲しかった。孝道にたいしてむかついてもいる。

 出来ることなら殴ってやりたい。

 でも孝道を殴ったら、昔のように喧嘩をして仲直りするというわけにはいかないだろう。

 おれと孝道の関係は終わる。花子も悲しむ。

 バラしても、誰も幸せにならない。

 ――それに。

 おれは怖かった。闇のなかでノミを振るう孝道も、あの泥で出来た貌も、怖かった。

 口にするのも怖かった。だから黙っておこう。そう決めた。

 それからしばらくの間は、何もなかった。

 花子とも上手くやっていた。孝道とも表面的には仲がよかった。

 あくまで表面的ではあったが。孝道がおれのことをどう思っているのかはわからないが、おれはあの夜のことは一時の気の迷いだと思うことにしていた。

 孝道の態度も特別に変わったところはなかった。

 おれの船を壊して気が晴れたのかもしれない。

 そう思っていた。そう信じ込もうとしていた。

 しかしおれは甘かった。

 孝道がある日突然、陸軍に志願すると言い出した。

 おれも花子も止めた。

「今は国難の時である。陛下のためにも、国のためにも、父母のためにも、学生といえども醜の御楯とならねばいかん」孝道は反論した。

 ──孝道の言葉は正論だ。

 だが戦争は過酷だ。

 おれは兵隊に憧れていた。餓鬼の頃は孝道と一緒にいつも戦争ごっこをやっていた。今だって軍服を着たいと思っている。

 しかしおれは戦争の過酷さも見てきた。

 出征し、そして白木の箱で帰ってきた兵隊をみれば、馬鹿なおれでも思いは醒める。

 戦争なんざいくもんじゃない。

 たったひとつの命がなくなるのかもしれないだぞ。

 でも──。

 赤紙が来たら覚悟を決めて、兵士となり醜の御楯になる覚悟は、おれにもあった。

 だが自ら進んで志願となれば話は別だ。

 自ら望んで兵になる気までなかった。

 出来れば他の誰かが闘って欲しかった。

 出来れば他の誰かがおれのかわりに死んで欲しかった。

 おれには惚れた女がいる。

 アル中だが親父がいる。

 わだかまりがあるとはいえ、親友もいる。

 ──死にたくない。

 孝道、お前だって大切なものがあるだろう? お前の成績なら徴兵が免除される大学の推薦だって取れる。

 孝道が死ぬことはない。

「孝道、よせ。冷静になって考えろ。お前のお袋さんは、お前以外のすべての子供を戦争で亡くしているんだぞ。お前が死んだら、お前のお袋さんは一人ぼっちになっちまうんだぞ」

「父がいる」孝道はぽつりと呟いた。

「そういう問題じゃねーよ。とにかく考え直せ」

 おれはそう諭しながらも、あることが聞けなかった。

 ──おれが花子を取ったから、お前は戦場に行こうとしているのか?

 喉元まで言葉がせり上がったが聞けなかった。

 結局孝道は、おれや花子、お袋さんの反対を押し切って軍に志願した。

 そして白木の箱に入って孝道は帰ってきた──。

 否、孝道は帰ってきてはいない。白木の箱に入っていたのは、南方の島で転がっていた石ころであった。

 孝道の死体は回収されぬまま、今も南方のジャングルのどこかで眠っている。

 おれは白木の箱に入った石ころを見て、兵隊になるのが嫌になった。

 心底嫌になった。

 親友が戦死したから怖じ気づいた──。というわけではない。

 ただ優しかった孝道が軍神となって祭られるのをみて、兵隊やるのが無性にやんなった。

 だがおれは孝道と違って馬鹿だ。大学に逃げ込むなんてことはできない。戦争が続く限りいずれは徴兵されてしまう。だからおれは逃げ道を探した。その結果、輸送船の船員になることにした。

 アメ公の潜水艦のおかげで、日本の輸送船乗りは激減していた。

 だから徴兵される前に、輸送船乗りになっちまえば民属とはいえ一応は民間人だ。

 兵隊になることは免れることができた。

 だが輸送船乗りの戦死率の高さは兵隊と同じ、いや下手をしたらそれ以上に高い。

 なにせ日本の輸送船は、アメ公の潜水艦によってバンバン沈められているのだから。

 それでも兵隊よりマシだ。

 軍神になるよりマシだった。

 花子は賛成してくれたが、孝道のお袋さんには殴り込まれた。

 泣かれ、どやされ、殴られた。

 おれは殴られた頬の痛みよりも、優しかった孝道のお袋さんの涙の方が堪えた。

 孝道、お前はやはり軍なんぞに志願すべきではなかった。

 軍神なんぞになるべきではなかった。

「――光太郎さん!」

 花子の声で、物思いからさめた。

「──遅せえだよ。何やってたんだよ。二時間以上遅れているぞ。また道に迷ったのか?」

「ゴメンなさい。猟師の罠に引っかかってた子狸ちゃんを助けてたら遅れちゃったんです」

「漁師の罠って、そりゃあ山田のところの罠だろう」

 山田は、その名が示す通り山の麓にすむ百姓で、畑を耕すより山に入って狐や狸を狩るのが大好きな、百姓というより猟師と言ったほうが相応しい一家で、口の悪い村の連中からは殺生百姓と言われていた。

「お前なあ、山田ところのおっさんは、狸を狩るのに命をかけているんだから、バレたらうるせえぞ。それに山田のおっさんだって、遊びで狩ってるわけじゃないだから」

「そうかもしれませんけど、でも山道で罠にかかった子狸ちゃんを見つけちゃったら、いくら冷酷な光太郎さんといえども助けてあげちゃうでしょう」

「なんで頭に残酷がつくんだよ! お前みたいな方向音痴な女と付き合ってやっているんだから、おれは十分優しい男だろう」

「──そういうセリフは鼻血をたらさずに告白できてからいってください」

「──古い話を持ち出すなよ」

 花子に告白したとき、緊張のあまり鼻血を出してしまった。

 それ以来、なにかあるたびに蒸し返される。

 一生の不覚である。

「そんなに古い話ではないですよ。わたしは昨日の事のように、鼻血を垂らしながら告白する光太郎さんの姿を思い出します」

「いいから忘れろよ、方向音痴女」

「光太郎さんこそ、人のこと方向音痴、方向音痴って連呼しないでください。人が聞いたらわたしが方向音痴だって誤解されちゃいます」

「誤解もなにも本当のことだろう。家から三十分もかからねえ灯台に行くのに、反対方向の山に行っちまうなんて。普通の人間なら考えられないぞ」

「──夜だからちょっと道に迷っちゃったんです」

「昼間だって、お前は迷うだろう。今度道歩くときは、犬を飼え犬を。犬なら鼻も利くし、なによりお前と違って頭がいいからな」

「──いくらわたしが馬鹿でも、犬よりは利口です!」

「──怪しいもんだ」

「どうしていつもいつもわたしに意地悪な事言うんですか!? そんな意地悪なことばかり言う人には、花子お手製の千人針をあげませんよ」

「・・・・・・千人針って。お前、本格的に馬鹿だな。おれは出征するわけじゃないだぞ。輸送船に乗って大陸行くだけだ」

「輸送船だって危ないですよ。大陸の海の方じゃあ鬼畜米英の潜水艦が日本の輸送船をバンバン沈めているみたいじゃないですか」

「それも大丈夫だよ。この前説明したろう。今回の輸送目的は皇軍に対する食料輸送も含まれてるが、大陸にある捕虜収容所の食料輸送が主任務なんだよ。いくら冷血なアメ公といえども、自分の仲間の食料を輸送する船を撃沈したりしねーよ」

「でも相手は鬼畜米英ですよ。油断させといて襲いかかってくるかもしれないじゃないですか」

「その心配は、軍のお偉いさんもしているよ。だから今回の輸送は事前に米軍に事前に通知してあるし、赤十字を通して協定も結んでいる」

「・・・・・・まあ、そうかもしれませんけど心配は心配なんです!とにかく千人針は持っててください」

「わぁたよ」

 花子が押し付けるように渡してきた千人針を受け取る。

 雑な縫い目に見覚えがあった。

 〝花子の縫い目じゃねーか〟

 地主のお嬢様育ちのわりには、花子は煮炊き裁縫すべて苦手だった。本人も自覚しているのか、お手製のプレゼントというやつを作るのはいやがった。

 それでもやはり女なのか、一年に一度ぐらい雑巾の出来損ないみたいなハンカチを縫ったり、ゆるゆるに伸びきった腹巻きを編んだりして、おれにプレゼントしてくれるときがあった。

 おれは花子のプレゼントを見た瞬間、いつも吹き出してしまいそうになるのだが――。

 おれも馬鹿だ。

 やはり貰うと嬉しくなっちまう。

 だから花子の裁縫の腕のほども、珍妙な縫い目もよく覚えていた。

 千人針の縫い目のほとんどが、花子のものであった。

 〝いくら花子が馬鹿とはいえ、千人針を自分で縫っちまうほど馬鹿ではあるまい〟

 おれに送る千人針だから、村の連中も協力してくれなかったんだろう。

「──お前にしちゃあ上出来な出来だな」

「なんか引っかかる言い方ですね。たまには素直に褒めたらどうですか」

「──海から戻ってきたらな」

 その言葉が微妙な空気を作り出した。

 協定に守られたら航海とはいえ、海に出れば何が起こるかわからない。たとえ何事もなかったとしても、海に出ちまえば花子と会えるのは最低でも半年先だった。

 海という言葉は、おれと花子を感傷的にさせるには十分すぎるぐらい重い言葉だった。

「──花子」おれは花子を抱き寄せようとした。

「──光太郎さん」

 花子の唇を奪うことはできなかった。

 花子はおれの胸に、革で装丁された立派な本を押し付けてきたからだ。

「なんだこれ?」おれは些か不機嫌な声で呟いた。

「日記帳です」

「──随分豪華な日記帳だな。物不足で鉛筆さえ配給制なのによ、こんなもんよく持っているな」

「祖父にもらったんです」

「祖父さまの形見か。しかしお前、こんな大切なものおれに渡してどうするんだ? まさか日記をつけてくれと言うわけじゃないだろうな?」

「そのまさかです。わたしは船乗りの光太郎さんと違って外国になんて行ったことないですから、外国の様子が知りたいんです」

「外国の様子ね・・・・・・。外国たって、お前が好きな絵本とかに出てくる欧羅巴とかじゃなくて、おれが行くのは大陸だぞ。大陸」

 小汚い中国人に胡散臭い大陸浪人くずれ、それに戦火。

 日記にして読みたくなるような場所ではなかった。

「いいんです。どんな場所でも綺麗なものがありますから」

「相変わらず、名前通りのお花畑思考だな」

「なんですか、お花畑思考って!」

「極楽とんぼの親戚みたいなもんだよ。まあ船の中は結構暇だからな。暇つぶしがわりにかいとくよ」

 おれが日記帳を受け取ろうとしたが、花子は日記帳を離さなかった。

「──なんだよ、おれに呉れるじゃなかったのかよ?」

「日記を書くついでに外国のお花を摘んできて、押し花を作って欲しいです。わたし最近押し花に目覚めたんです」

「押し花だぁ? お前は本当にお花畑思考だな」

「またすぐわたしのことを馬鹿にする! 押し花なら、お金もかからない、見ていて楽しい。お手軽な趣味としては最高じゃないですか」

「戦争中なんだ。押し花を作るぐらいなら、菜の花でも浸して喰ってろ」

「光太郎さんって、本当に夢がない人ですね」

「大きなお世話。まぁ、たしかに金はかからないから、押し花ぐらい作ってきてやるよ」

「ありがとう──」

 おれは花子の手を取って抱き寄せた。

「・・・・・・光太郎さん!?」

 花子はこれから始まる行為を想像したのか、顔が真っ赤である。

「おれも花を摘みたくなった」

「こんな所で何言ってるですか。厳左右衛門様も見ているんですよ?」

「うるさい口だ」

 おれは花子の唇を奪った。


 ――あれからもう三ヶ月がすぎたのか。

 おれは輸送船の甲板の上から夜の海を眺めながら思った。

 夜の海はただ静かで、僅かな星明かりと月だけが夜の海を照らしていた。

 隣にもし花子がいればロマンチックな光景だとか抜かすかもしれない。

 おれはそんな花子の肩をそっと抱いて、適当な甘い言葉を耳元で囁いて、そしてそのまま一発決めてしまうかもしれない。

 だが隣には花子はいなかった。

 ――ああ畜生やりたいな。

 大陸で女を買っておけばよかったかな。

 大陸にいた頃はやる機会はいくらでもあった。戦争中とはいえ、人類最古の商売である売春は廃れることはなく、売春宿の薄暗い部屋でも、そこら辺の路地裏でも、盛んに行われていた。

 だからやろうと思えばいくらでもやれたのだが、どうもやろうと思うと花子のことを思い出して萎えてしまう。

 下半身に道徳がないおれにしては珍しい現象なのだが、最後に一発やったときに結婚の約束をしてしまったせいか、だらしないおれの下半身にも節操が生まれちまった。

 まあいい。花子の奴、帰ったら腰を抜かすほどやりまくってやるから覚悟しろよ。

 おれは劣情を冷ますため、昼間の吸い残しであるシケモクに火をつけた。

 まずい。

 配給品の安タバコはいがらっぽく、ヤニが妙に喉に絡みついた。

 今、おれに洋モクをくれたら、この戦争うちらの負けと言うことしてやってもいいや。

 節約も倹約も正直うんざりしている。国家にご奉仕するのもいいが、たまには洋モクの一本ぐらい吸わせてくれ。

「──贅沢は素敵だ」

 おれは誰にも聞かれぬよう口の中で呟きながら、ぼんやりと夜の海を眺めた。

 リズミカルに押し寄せる波が、穏やかな海面を揺らす。

 小刻みに揺れる海面に、花子の顔が映る。

 海面に映っている花子は優しげで、いつものように笑っていた。

 なんだよ、神様。おれの欲求不満を煽ろうというのか?

 おれが苦笑いを浮かべた瞬間、花子の顔がグニャリと歪んだ。

 それはもう花子の顔ではなく、グニャグニャとした気味の悪いナニカとなった。

 ――船餓鬼様だ。

「――光太郎先輩!」

 幼い声が耳に飛び込んできた。

 驚いて後ろを振り返ると、船員見習いの野崎正太郎が立っていた。

「脅かすなよ。後ろからいきなり声かけてきたらビックリするだろう」

「ビックリって、おれもう三回も光太郎先輩に声をかけましたよ」

「三回も?」

 全然気づかなかった。

「ええ。しっかり三回声をかけましたよ。なのに、光太郎先輩全然返事してくれないですよ。陸が懐かしいあまり、頭がおかしくなったかと思いましたよ」

 正太郎はあきれ顔で言った。学校を卒業してすぐに荒っぽい船乗りの世界に飛び込んできたせいか、正太郎は可愛い顔してるくせに、やたらと喧嘩早くそして生意気であった。

 しかし、菓子やら飯やらおごやってやると、途端にガキに戻り無邪気に大喜びするので、先輩連中には可愛いがられている。

 おれも可愛がってる一人であった。

「で、なんの用だよ。正太郎」

「機関長がエンジンの調子が悪いから、ちょっと見てきてくれって」

「えっ、おれが? 今夜の当番は三田村じゃないのか?」

「三田村先輩は晩飯くいすぎて腹の調子がわるいそうです」

 日本の食糧事情は最悪だが、大陸には物資があふれていた。

 おれ達船員も、そのおこぼれに預かり、古い缶詰をもらった。

 三田村はデブで食い意地が張ってるから、缶詰を食い過ぎたんだろう。

「あのデブ、本当使えねえな。しゃーねえ、ちょっとみてくるか」

「光太郎先輩、おれも付いて行っていいですか?」

「見習いのお前連れて行ってもなんの役にも立たないだろう」

「そんなこと言わないで連れて行ってくださいよ。おれは早く機関士の仕事覚えたいです。連れていってくれないのなら、三田村先輩の洋モク勝手に吸ったの、チクりますよ」

 厭らしいことを覚えているガキだ。

「わあったよ。連れてきゃいいだろう。連れてきゃ」

 おれは子犬のように喜ぶ光太郎をつれて、船底にある機関室にむかって歩き出した。


 油と金属の臭いに辟易しながらも、レンチ片手にボロエンジンと格闘しているが、故障の原因すらわからなかった。

「直りそうですか?」

 懐中電灯で、おれの手元を照らしてる正太郎が不安げに尋ねた。

「全然直りそうにもねえよ。いくらおれが腕が良いっていったって、こいつは日露戦争のときの戦艦だぞ。動いていること自体が奇跡なんだよ」

「あんまり大きくな声で愚痴っていると、機関長に聞かれますよ」

 正太郎は自分で言って心配になったのか、首を振って辺りを見回した。

「うんなにビビるなよ。誰かが入ってきたらすぐにわか――」

 轟音と爆発音が、おれの言葉を奪った。

 船は激しく揺れ、おれと正太郎は機関室の壁にたたき付けられた。

「――大丈夫か、正太郎」

 おれはよろよろと立ち上がりながら、後輩に声をかけた。

「──大丈夫です、光太郎先輩。米軍ですかね?」

「この海域なら座礁はねえ。米軍しか考えられないよ。恐らく潜水艦だろうな」

「畜生、薄汚いアメ公めっ! 協定やぶりやがったな」

「怒るのはあとだ。脱出するぞ」

「そうですね。早く甲板に脱出しないと」

 正太郎は機関室のドアノブに手をかけたとき、ドアの向こうから水が流れる音がした。

「開けるの待て!」

 正太郎の手を押さえると、おれはドアの小窓から廊下の様子を覗った。

 恐るべき量の水が、ありとあらゆるモノを飲み込みながら、こちらにむかって押し寄せてきていた。

「ダメだ。ドアを開けた瞬間、水に飲み込まれる!」

 機関室のドアは頑丈に作られてるから、ドアを開けようとしない限り、多少はモツであろう。

 あくまで多少だが。

 おれ達の不安を煽るかのように、ドアの隙間から水が忍び混んできた。

「――水が入ってきてる。もう終わりだ」

 光太郎は絶望のあまり、海水で濡れた床にへたり込んだ。

「馬鹿野郎! 絶望している暇があったら助かる方法考えろ!」

 と光太郎に叱咤するも、先輩であるおれにも何も思いつかなかった。

 水かさがどんどん増していく。水面には、グニャグニャと歪んだ気味の悪い顔が浮かんでいた。

 船餓鬼様かよ。

「おい、正太郎。水面になにか変なの映っていないか?」

「なにも、なにも見えません! それより水が、水が一杯になっていく」

 光太郎は泣きながら叫んだ。

 〝船餓鬼様はおれがご指名かよ〟

「泣くな正太郎! お前は助かる」

 船餓鬼様が海の底に引きずり込みたがっているのはおれだ。

 おれは腹に巻いた千人針の中から日記帳を取りだした。

「正太郎。生きて帰れたらこれを花子という女に渡してくれ」

 光太郎は呆けたように頷く。

「正太郎、あそこに通風口があるの見えるだろう?」

 正太郎は、おれが指さした方に顔をむけた。

「おれが肩車してやるから、お前は通風口を伝って甲板に出ろ。運が良ければ助かる」

「――先輩は?」

「おれは後から行く」

 おれは言い終わると、すぐさま正太郎を肩に載せた。

「正太郎! 肩車だけじゃまだ届かない。おれの肩の上に立て」

「はい!」

 正太郎はふらつきながらも、なんとかおれの肩の上に立った。

 海水はすでにおれの胸元にまで迫っていた。

「急げ、ドアが破られるぞ!」

 ドアが破れた一瞬で機関室は水のなかだ。。

 正太郎はギリギリのところで通風口に手をかけ、なんとか昇っていった。

 おれの方はすでに肩まで水に浸かっていた。

 水面がグニャリと変化したかと思うと、孝道の顔に変わった。

 孝道は大きな口を開けて、おれを飲み込もうとした。

「──孝道!?」

「先輩何してるんですか、早く!」

 正太郎が叫ぶも、おれの心には響かなかった。

 孝道が大口をあけて嗤っている。

 おれを飲み込もうと嗤っている。

「おれが憎いのか?」

 孝道は答えない。ただ嗤っているだけだった。

 〝違うこんなの孝道じゃない〟

 孝道の姿をした薄気味の悪い化け物。

 船餓鬼様。

 目を逸らさなきゃ。

 目を逸らさなきゃ、飲み込まれちまう。。

 深い深い海の底へ、暗い暗い海の底へ。命も魂もすべて飲み込まれちまう。

 しかしおれは水面に浮かぶ孝道の顔から、目を逸らすことは出来なかった。

 機関室のドアが破られた。














もし待っていた方がいたら、投稿が遅れてしまって申し訳ありません。

電撃大賞の二十回めに応募する原稿書いたりしてたら、こちらの方に手が回りませんでした。

 無事、二次落ちしたんで、ぼちぼち再開します。

 ああ、おもしろくねえ。

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