言わせてみてぇもんだ 改稿
英雄を
英雄の話を
書こうとしている。
英雄の死とその復活。
神話の時代から語り継がれているありきたりな叙事詩。
吟遊詩人が広め、語り部が語り継いできたありきたりな物語を。
おれは書こうとしている。
しかし書けない。
あれほど試合を見たのに。
本人とも何度も話し、何度も取材を重ねたのに。
書くネタなんざ腐るほど豊富にあるのに──。
──それなのにおれの指はキーボードを叩くことが出来なかった。
何故書けないんだ?
おれはスポーツライターであり、ゴシップ屋でもあり、芸能人やスポーツ選手の英雄譚を本人の代わりにかくゴーストライターでもあった。
本を売るために、おれはなんでもやった。
アイドルの醜聞は黒く塗りつぶされ、スポーツ選手は美談は捏造された。
おれの本のおかげで芸能人として再デビューを果たしたスポーツ選手、再ブレイクした芸能人やアイドルは実に多い。
そういう連中から感謝もされている。一緒にメシを食うことも多かった。
ちょっとしたプロデューサー気取りで、得意になったこともある。
生まれつきの毒舌と調子にのったおかげで、多くの敵も作った。
敵からは、大量の嫌味と少量の畏敬を込め、金蝿と呼ばれた。
おれは金蝿と呼ばれるたびに、心の中でならお前が書いてみろと。
おれより上手く嘘を書いてみろと思った。
優越感をもって見下してきた。
だが沢村一平の前に出ると、自分のなかにある自信が揺らいだ。
それも激しく揺らいだ。
言いようのない罪悪感と敗北感。
おれの方が成功しているのに。
おれの方が金を持っているのに。
何故、おれはこれほどまでに惨めな気持ちになるんだよ。
おかしいじゃーねえか。
ボクシングなんざ所詮見世物だろう。
おれは卓上のビールを呷った。アルミ缶はたちまち空になった。空になった缶をゴミ箱にむかって放り捨てる。
ゴミ箱はとっくの昔に酒瓶とビール缶で一杯になっていたので、おれの投げた空のアルミ缶は酒瓶の山を崩しただけであった。
アルコールで緩くなった唇から、酒精混じりの唾液が零れた。
──敗残者。
どこからどうみてもおれの方が敗残者であった。
なんだか可笑しくなっちまってケタケタと笑っちまった。
おれの笑い声は誰もいない安アパートの部屋にむなしく響いた。
〝チャンピオン。あんたは紛れもなく英雄だよ〟
おれがどんなに毒舌を吐こうと。世間がどんな評価を下そうと。
おれのなかにある何かが。
ひょっとしたら魂という奴が、沢村一平を英雄だと認めていた。
それを否定するには、彼を間近で見すぎていた。
おれは彼の勝利を。
おれは彼の敗北を
おれは彼の情熱を
おれは彼の狂気を。
おれは彼の絶望を。
すべて見てきた。
彼の死すらもおれは見た。
後輩に敗れ、英雄の証したるベルトも奪われ、視力すら失い、二度とリングには立てない。
闘う場所すら奪われた英雄。
沢村一平はあの日リングでたしかに死んだのだ。
おれは涙と鼻水塗れになりながら、タンカーに乗せられていく英雄を見送った。
あんたは馬鹿だ。大馬鹿野郎だと、涙を流しながら思った。
何故あんたはそんなに頑張れるんだ?
女もいねえ。
ファンもたいしていねえ。
勝ったところで金にもならねえ。
それなのにアンタは何でそんなに頑張れるんだ。
その呆れるほどの努力に対して、報われるものは本当に僅かであったろうに。
敗戦後、沢村一平は絶望と恐怖に苦しみもがいていた。
クズなおれはそのまま腐っちまえと思った。
敗者のまま終わって欲しかった。
出来ることなら、おれのようなアル中になって欲しかった。
英雄を汚してやりたかった。
──なのに。
──それなのに。
おれは彼の復活を。沢村一平という英雄の復活を夢見ていた。
英雄は死んでも、復活し、戦い続ける。
古代から語り続けられる英雄譚。
神話の世界。
おれにない物語。
おれの書きたい物語。
おれの書けない物語。
現実にはありえない、夢の物語。
しかし沢村一平は愛の秘蹟にふれ、復活をはたし、彼は再び走り始めた。
──笑っちまいそうだった。あまりにありふれたパターンすぎて笑っちまいそうだった。クサイドラマだって、ここまでクサイ展開を用意できない。
〝秋子、お前は沢村一平に惚れるべきだった〟
野崎秋子。
おれの女房。
おれの女。
愛しい人。
おれのアニー。
アニーとは、ミザリーに出てくるあの売れっ子作家を監禁したあのアニーのことだ。
この世で唯一、おれの小説のファンである秋子につけたあだ名である。秋子は、アニーと呼ぶに相応しいほど、おれの小説の熱狂的ファンであった。
秋子とおれのはじめての出会いは、中学校の文芸部。
文芸部と言っても部員のほとんどは漫画とアニメが本命で、誰も真面に本など読んではいなかった。今でいうオタクの巣窟であった。
おれは漫画ばかり読んでいる連中を見下していた。
文字で表現するか、絵で表現するのか。
表現方法の違いというだけで、どっちが上か、どっちが下かといった話ではないのだが、ガキで馬鹿なおれは根拠のない優越感に浸って悦にはいってた。
運動はもちろんのこと、本を読むわりには勉強ができなかったおれは、そんなくだらない優越感を持たなければ、無駄に高い自尊心を守ることが出来なかったであろう。
だから文芸部は居心地がよかった。
文芸部はおれという偏屈者がいる以外は平和であった。
騒動といえば、たまにおれが先輩に議論をふっかけて口論をするぐらいなもんであった。
文芸部の平和が崩れたのは、秋子が入部してきてからだった。
秋子は特別に美人というわけではなかった。
可愛いという形容詞も似合わない。
眼鏡の裏に隠れているやや切れ長の目が印象的な、どこにでもいる平凡な少女だった。
しかし悲しいぐらい女に慣れていない文芸部の部員達を色めき立たせるには、十分すぎるほど美しかった。
秋子が入部したその次の日から文芸部の空気が変わった。
いつもは寝癖だらけの髪に櫛を入れたり、小説好きの秋子に気に入られようと読み慣れぬ純文学を読み始める馬鹿も現れた。
おれはそんな連中を軽蔑し、調子に乗った馬鹿が格好をつけて浅薄な文芸論を語り始めると、すかさず論破した。
秋子がいるときは特に激越に──。
何のことはない。おれも同じ穴の狢であり、他の連中と同じように秋子に惚れていた。そして連中と同じぐらいに、いやそれ以上に女慣れしていないおれは、己をアピールするやり方も、他人の議論を論破するという、見当外れも甚だしい方法であった。
勿論こんな幼稚なアピールなど、なんの効果もなかった。
無駄に刺々しいヤツと、秋子に思われただけで終わった。
秋子が入部してから二月ほどたったある日、秋子は文芸部なのだから、文芸誌を作ろうと言い出した。
部員全員が秋子に惚れていたから、誰も反対するやつはいなかった。
皆もやろう、やろうと言い出した。
やることは問題ないのだが、問題はなにを書くかということであった。
ほとんどの人間は名作の批評を書きたがった。へたに小説なんぞ書いて、恥をかくよりは利口な選択であった。
僅かな人間は、短編を書くと言った。
たいした文章量ではないので、自分でもかけるだろうと甘く考えているのだ。
大変な考え違いだ。
面白い短編を書くのは、面白い長編を書くよりもはるかに難しい。
何を書くか。
何を削るか。
確固とした作品の主題がないと、判断できない。
おれも昔短編を舐めて書いて、その出来上がった駄作ぶりに絶望したことがあるので、短編を書こうとは思わなかった。
誌を書くと言い出した馬鹿もいたが、志がないやつが誌をかいたところで、甘ったるいポエムになるだけだ。
そんなもん、秋子に見せられるか。秋子はおれがはじめて惚れた女なのだ。
下手な物を書くぐらいだったら、筆を折った方がマシだった。
おれは何を書くか、散々迷った末、結局小説を書くことにした。
秋子の目を引きたいのなら、批評よりも小説だ。
稚拙でもいい。拙作でもいい。
誤字だらけでも、うすっぺらな教養が見透かされてもいい。
出来ることなら、おれの魂を――
魂ってやつを込めたかった。
しかし書けない。
当たり前だ。
おれに才能なんかない。おまけにまだ中学生だ。
小説を書くための知識も経験も技術も何もなかった。
時間だけが無駄に過ぎていく。
おれは何かいいアイデアがないかと、読書好きだった亡くなった祖父の部屋の書庫を漁った。
古めかしい日記帳を見つけた。
日記帳には、おれの知らない戦争の話が記されていた。
文章は上手いとはいえないが、おれの魂に響く何かがあった。
〝これだ!〟
おれはこの日記の内容を元に作品を書くことにした。おれは憑かれたように万年筆を振るった。
締め切りを二日ほどオーバーして、おれのはじめての小説は未完ながらも完成した。部の連中は締め切りをすぎていることを理由に、おれの小説を載せるのを渋ったが、おれがギャアギャア文句を垂れると、最後は折れた。
おれの作品は部の連中からは不評だった。部で評判よかったのは、少女漫画をパクったようなクソみたいな恋愛小説だった。
おれの書いた作品は薄気味悪いだの、古くさいだの、と散々貶された。
──ただ一人。秋子だけが。技術的には未熟だけど、一番面白いと言ってくれた。
おれは有頂天になりながらも、秋子が次から次えと指摘してくる小説の問題点に反論した。
おれと秋子この日を境に友達付き合いをはじめた。
顔を合わせれば、激論を闘わせ、時にはお互いが愛読している作品を批評しあった、そして毎日小説をかけと催促された。
――どこか甘やかな喧噪。永遠にこういう関係が続くと思っていた。
しかし何事にも終わりは訪れる。
──中学生最後の夏休み。
誰もいない図書室で、おれは秋子にキスをした。
秋子の唇を塞ぎならが見つめた図書室の時計の針は五時四十二分を指していた。
八月四日の五時四十二分。
おれはこの日、この時間を一生忘れない。
この日おれと秋子の友情は終わりを告げ、おれ達は恋人となった。
高校受験をなんとかクリアーし、おれと秋子はそこそこの進学校に入学した。
入学しても、やることは変わらなかった。
毎日毎日、文学論を闘わせ、そして小説をかけとせっつかれる。
おれはいつもいつも理屈の影に隠れて、作品を書くことから逃げようとしていた。
その頃のおれはわかっていた。自分には小説家の才能がないことを。
その頃のおれは知っていた。秋子が好きなのは作品を書くおれであることを。
高校時代も後半に入ると、おれは秋子に追い詰められるよになっていた。
秋子にせっつかれ小説を書く。ただそれだけの事なのに。
何故こんなにもおれは苦しいのだろう?
――作品には欠片がこもっているからだ。
作品と名がつくものには、みな作者の欠片がこもっていた。
かけた時間であったり。
作者の願望であったり。
作者の思想であったり。
作者の想いであったり。
性的な願望であったり。
倫理観であったり。
憧れた作品へのオマージュであったり。
様々な欠片が作品には込められている。
それを恋人とはいえ、他人に批評されるのである。
辛かった。
しかも高校に入ってからは、おれ達の文芸活動は本格的になり、同人誌やら新人賞やら、秋子の勧めという名の強制で、かたっぱしから参加したり応募したりした。
どれもこれも評価は散々だった。
大学に進学する頃には、おれは小説に対するモチベーションを失っていたが、秋子の手前、作品を書くふりだけはしないといけなかった。
秋子はおれではなく、作品を書くおれが好きなのだから。
書くマネすら苦痛になり始めた頃、おれと秋子は親に内緒で安アパートを借りて同棲しはじめた。
おれと秋子は安アパートの一室で、喧嘩をして、小説を書かされ、夜はセックスした。
安アパートの畳に情事の匂いが染みついた頃、秋子が妊娠した。 こういう場合、男が堕ろせと説得し、女は生むと叫ぶものだが、おれ達の場合は違った。
秋子は堕ろすといった。
おれは産めといった。
直情径行のくせに、秋子はへんなところで理性的だから、学生結婚は失敗するから今回は諦めようと主張した。
おれもそう思ったが、でもおれは堕ろすことに反対だった。
おれは秋子との子供が欲しかった。
べつに子供が好きだったわけでもない。倫理観が人よりも強かったわけでもない。
おれが子供を欲しかった理由はただ一つ。
小説から逃げたかった。
秋子は馬鹿の一つ覚えに、おれに小説の才能があると励まし続けた。おれも自分に小説家の才能があると信じ込もうとした。
でももう自分に嘘をつけなかった。
嘘をつくには、おれの作品はあまりにも否定され続けていた。
小説を書かなくても──。
夢を追わなくても──。
──すむ言い訳が欲しかった。
それには子供という現実が一番だと思った。
秋子も子供を作れば、もう小説を書かなくても許してくれると思った。
自分でも呆れるぐらい、どうしようもないエゴイスト。
でも秋子に捨てられるよりマシだった。
結局おれの意見が通り、芽依が産まれた。
生まれてみれば現金なもんで、おれと秋子は芽依を溺愛した。
おれ達はそれぞれの実家に土下座行脚して学生結婚をした。
実家の援助だけでは金がたりないので、おれは生活費を稼ぐために先輩のコネを頼りに、フリーライターの真似事をし始めた。
小説はまったく受けなかったが、おれの書いた記事は何故か受けた。
大学を卒業する頃には、連載を何本も抱える人気ライターになっていた。
本も出した。
生活に余裕が出てくると、秋子の病気も再発した。
自分も仕事するから、小説も書けと言いだしてきたのだ。
おれはもう沢山だと怒鳴った。
あんな思いするのはもうゴメンだった。
秋子は怒鳴られたぐらいで諦める女ではなかった。
なにせ秋子はおれのアニーなのだから。
秋子が小説をかけというたびに、おれは荒れ、そして逃げ出した。
元々酒好きだったおれは、酒に溺れた。
酒精によって夫婦仲が少しづつ醒め、そして壊れていく。
そして――。
家庭は壊れ、おれは家を飛び出した。
家を飛び出したおれは、昔秋子と同棲し、今はおれの仕事場となっている安アパートに逃げ込んだ。
「なんだったろうな、おれの結婚生活ってやつは」
金を稼いでるというのに、ただ小説を書かないという理由だけで、壊れてしまう家庭。
世の中には離婚した夫婦など、腐るほどいるだろうが。
小説を書かない。ただそれだけの理由で離婚するという馬鹿は少ないだろう。
日本広しといえども、ウチだけかもしれない。
おれは英雄の話を書くことを放棄して、ウィスキーの瓶に口をつけ、苦い酒を呷った。
腹は減っていたが、食い物どころかつまみすらなかった。
おれは窓を開け、夜空に浮かぶ三日月を肴にした。
星くずは、嫌になるぐらい美しかった。おれはしばしの間、酒を飲み、酒精によってだらしなくなったおれの瞼は、堰き止めていた想いを堪えることは出来なくなってしまった。
おれと秋子の精液が染みついた畳に。
一滴。
また一滴と涙で濡れていった。
「――秋子。お前は沢村一平を好きになるべきだった」
あの男ならきっと、愛した女のために死ぬまで走れる。
あの男ならきっと、何かを得るために狂うことが出来る。
おれはダメだ。
おれはいつも言い訳をさがしてしまう。
おれはいつも逃げようとしてしまう。
畜生、おれは英雄に。
おれは一生沢村一平になれない。
あの男には勝てない。
──気づいた時には凶暴な衝動が走り、おれは机の上のノートパソコンを掴んでいた。
──ノートパソコンなんて掴んでどうするつもりだ。
理性が囁いた。
捨ててやる。こんなもん捨ててやるんだ。
――出来ない。お前のような根性なしは狂うふりすらできない。酒に逃げるだけさ。
「ウルセーだよ、クソッたれ!」
おれはノートパソコンを窓の外に放り捨てた。
隣の部屋からウルセえぞ、アル中! と怒鳴られた。
殺すぞ、クソ餓鬼と怒鳴り返すと静かになった。
アル中になにを言っても無駄だと思ったのかもしれない。
今のおれにはノートパソコンではなく、酒が必要だった。
しかしウィスキーの瓶は空になっていた。
おれはよろよろと立ち上がると、冷蔵庫をあけた。
なにも入ってなかった。
部屋の片隅には、空になった酒瓶とビールの空き缶が山となっていた。
どおりで酒がないはずだ。
みなおれが飲んじまった。
おれは酒を買いに、外に出た。
夏の夜は酷く蒸し暑かった。少し歩くと、アルコール混じりの汗が大量に出てきた。
すれ違うは通行人は、おれを見るとあからさまに避けた。
そりゃそうだ。
誰だってアル中の親父に関わりたくない。
――クソたれが。
おれは酒屋に急いだ。
酒屋は閉まっていた。自販機も壊れていた。
〝これだから田舎はいやなんだよ〟
酒が飲みたいのに、すぐに買えない。
これほど厭なことは、アル中にとってなかった。
おれは酒屋のシャッターに蹴りをくれた後、酒を求めて歩き出した。
酒、酒、酒。
どこか近くに飲めるところがなかったか?
酒が切れてきたせいか、うまく思い出せない。
ファミレスが見えてきた。
――ここでいいか。静かなところで飲みたかったが、贅沢も言ってられない。
酒が切れたせいで、手が震えだしてきているのだから。
〝ちょっとは我慢しろ〟
おれは震える手を叱りつけた。
すぐに酒を飲ましてやるからさ。
ファミレスに入り、店員の案内を待つことなく空いている席に座った、酒を注文するためすぐにボタンを押した。
幸いなことにアルバイトの兄ちゃんはすぐに来てくれた。
おれはワインのデカンターを注文した。
ビールは飽きたし、アルコールが切れかかった今強い酒が飲みたかった。しかし残念なことにファミレスには日本酒も焼酎もウィスキーも置いていなかった。
〝焼酎ぐらい置いとけよ〟
心の中でファミレスにケチをつけると、おれを宥めるかのようにアルバイトの兄ちゃんがワインを持ってきてくれた。
ありがとうよ、兄ちゃん。
おれはグラスにワインを注ぐと、一息で飲み干した。
あっという間にデカンターが空になる。
もう一本同じ物を注文する。
ワインが来る間、ぼんやりと外を眺めた。
暗い歩道に、疎らに通る車、潰れかかった焼き肉屋。
思い出した。
むかし秋子とよく来てたファミレスだ。
金のなかったおれ達は、ドリンクバーとピザだけで何時間も粘り、書きかけの小説について語った。
不意に涙が零れた。
くそう。こんなファミレス来なきゃよかった。
グットタイミングでアルバイトの兄ちゃんが、ワインを持ってきてくれた。
グラスに移しかえるのも面倒くさいので、おれはデカンターに直接口をつけてワインを飲み干した。
──出よう、ここにいると酒に酔うことができない。
他の場所へ。
秋子の顔がちらつかない。どこか違う場所で、酒を飲もう。
おれは席を立った。
レジにいく途中、馬鹿丸出しの若造が「おれってさ。飲むとやべーだよ。酔うとなにすっかわかんねえからさあ」自慢げに向かい側に座ってるガン黒ブスに語っていた。
テーブルにはワインが半分ほど入ったデカンターが置いてあった。
おれは手を伸ばし、ワインを全部飲み干してやった。あっけに囚われるバカップル。
「――酔うのが嫌だったら、ジュースでも飲んでろ」
なんのために酒を飲むんだ。
酔うためだろう?
おれはレジで会計を済ますと、外に出た。
通りには人はいない。
ふらふらと歩き出した。
どこに行こう。どこに帰ろう。
行き場所も、帰る場所もおれにはなかった。
このままホームレスでもやるかと思った時、誰かにぶん殴られた。
「人のワイン勝手に飲んどいて、挨拶なしか!」
さっきの馬鹿だ。
「――うるせえよ、ガキが」呂律の回らぬ口で言い返した。
ガキは分けのわからぬ言葉を喚きながら、おれを殴った。
殴り返してやろうかと思ったが、酒のおかげで力が入らない。
若造は、無抵抗のおれを殴りまくった。
このまま殴られてたら、おれは死んでいただろうが、彼氏の暴れぷりにビビッたガン黒女が止めたせいで、死ねなかった。
中途半端なガキだ。
どうせやるなら、殺してくれ。
殺してくれたほうが、秋子にも芽依にも迷惑をかけずにすむ。
ガキ共が消えると、おれは寝っ転がったまんま、夜空を見上げた。
綺麗に欠けた三日月がおれを見下ろしていた。
腫れあがった瞼が段々と重くなっていく。
――そういえば、おれが初めて書いた作品。
どんな作品だっけ?
あんまり覚えていないや。