ありふれたLove Story
道路を一周回って、児童館の門を潜った。
児童館の駐車場にはイチョウの木が植えられ、その根元には無数の鳩が群れていた。
「はと! はとです!」
翔は鳩の大群をみて、興奮しはじめた。
「──見られちゃったか。外を出た瞬間鳩に一直線するわね」福ちゃんは呟やいた。
「翔は、動物好きなのか?」
「ううん。正確に言うと鳥の羽が動いてるを見るのが好きなの。自己刺激行動の一種ね」
「私はどうすればいいですか?」恵は尋ねた。
「ちょっと待って、さきに車を駐車場に入れちゃうから」
福ちゃんは何度かバックし直した後、ワゴン車を駐車場に入れた。
「とりあえず舞島君は菊太郎さんと車の中で待ってて。さきに翔君を児童館に入れちゃうから」
「了解」福ちゃんの指示通り、おれと菊太郎さんは二人で車に残ることになった。
「恵ちゃん、翔君の手ではなく手首掴んで。手だとすっぽ抜けて逃げられる可能性があるから」
「わかりました、こうですね」
恵は、福ちゃんに言われた通り翔の手首をがっしりと掴んだ。
「恵ちゃん、翔君に鳩を見に行くのか、質問してあげて」
恵はこくりと頷くと、「鳩、見に行く人は?」翔に質問した。
「はい、翔君見に行きます!」
翔は元気よく答えた。
「じゃあ恵先生と一緒に見に行きましょうか」
普段無愛想な恵にしては優しい声で言うと、翔と一緒に車を降りた。福ちゃんの予想通り、翔は車から降りた途端、鳩にむかって駆けだそうとした。
「恵ちゃん、止まったままでいて」
「わかりました」
恵が止まったままなので、翔は動くことができない。
翔はもどかしげに恵の顔を見つめると、
「翔君、恵先生に歩いてとお願いして」福ちゃんは指示した。
「──恵先生、歩いて」
恵は福ちゃんの顔をちらりと見る。
福ちゃんは小さく頷いた。
恵が歩き出すと、翔も歩調を合わせて歩き始めたが三秒ともたたずに、鳩に突撃しようとする。
恵はすかさず止まる。
「翔君、恵先生と一緒に歩いて」
「翔君、恵先生と一緒に歩きます」翔は悲しげに呟いた。
しかしその二秒後には、やはり鳩に突撃しようとした。
翔は同じ事を二回ほど繰り返した後、お目当ての鳩の元に辿り着いた。
鳩は突然の珍客を無視して、嘴で地面を突っついていた
「ハト!」
翔ははしゃぎながら鳩にむかって手を振る。鳩は翼をはためかせ、青空へと逃げてようとした
翔は飛び立つ鳩をジッと見つめていた。
鳩は翔から少し離れた場所に着地すると、何事もなかったかのように地面をほじくり返す作業を再開した。
「恵先生、ハト行こう!」翔は恵の手を引っ張りながら叫んだ。
「翔君、鳩は終わり。鳩にバイバイして」福ちゃんは言った。
翔は鳩と別れるのが厭なのか、なかなか返事をしない。
しかし福ちゃんに何度か指示されると、悲しそうな声で「ハト、バイバイ」と言った。
「じゃあ、児童館に行きましょうか」
翔は福ちゃんの言葉を聞くと、「児童館行こう、児童館行こう!」と連呼しはじめた。
どうやらハトはもういいようだった。
と思ったが、翔は三歩ぐらい進んだところで、三度鳩に突進しようとして、恵に止められた。
翔をなんとか児童館に入館させることに成功すると、すぐに福ちゃんが戻ってきた。
「お待たせ。それでは菊太郎さん行きましょうか」
「あいぃい、あぁ」
菊太郎さんは謎言葉で答えた。
「福ちゃん、菊太郎さんは鳩は平気なの?」
「全然興味ないから平気。同じ自閉症でも、人それぞれ興味の対象にはズレがあるから」
なにかトラブルがあるかと警戒していたが、菊太郎さんはおれに導かれるまま児童館のなかに大人しく入っていった。
児童館の下駄箱の前では、恵が階段を昇ろうとしている翔を抱きとめていた。
「早く二階にいきたいのね」と福ちゃんは苦笑しながら言った。
「そんなにおれ達と早く遊びたいのかな」
「この場合は、二階の視聴覚室にあるビデオを弄りたがっているのよ。二ヶ月前ぐらいに児童館にきたとき、視聴覚室に逃げ込まれてビデオがあるのバレちゃったから」
「二ヶ月前って、結構前だな。よく覚えているな」
「丸暗記は自閉症児の得意分野だから、二ヶ月ぐらい前のことならしっかりと覚えているわよ。道とかでも、一度通ればすぐに覚えて忘れないから」
「便利そうでいいな」
「いいことばかりじゃないのよ。道順が変わると暴れる子もいるから」福ちゃんが言った後、「あっ、舞島君。靴入れるの、菊太郎さんにやらせて。菊太郎さん、靴入れるのは出来るから」
「了解、菊太郎さん靴入れて」
おれは靴箱に入れようとしていたボロボロの運動靴を菊太郎さんに渡した。
「あがらんぴぃー」と妙な奇声を上げながらも、菊太郎さんはおれの指示に従い空いてる靴箱に運動靴を突っ込んだ。
「──フク。そんなカッコイイ男の子と知り合ったのに、ボランティアなんかさせてるの?」
聞き慣れぬ女性の声が割り込んできた。
声がする方を見ると、縁なしの眼鏡をかけた化粧気のない女性が立っていった。
「──舞島君に手を出したら、そこにいる恵ちゃんに殺されちゃいますよ、秋子先輩」
「こんなところでなに言ってるですか、福ちゃん!」
恵は真っ赤な顔で抗議した。
「あっ、なるほど。すでに唾がついているわけね」
「ええ。だから残念なことに私の出番はないですよ、秋子先輩」
「福ちゃんの先輩なの?」
「ええ。みんなに紹介するね。このお姉さんは児童館のお局さまで、私の大学の先輩でもある野崎秋子先輩です」
「誰がお局よ、誰が」
秋子は後輩に突っ込みを入れた後、おれ達に向き直って「野崎秋子です、よろしくね」と丁寧に挨拶した。
自己紹介がすむと、秋子はおれ達を遊戯室まで案内してくれた。
途中、水飲み場のところで翔と菊太郎さんが水遊びを水飲み場にへばり付いたが、福ちゃんが上手くあしらって二人をなんとか水飲み場から引っぺがすことに成功した。
遊戯室の前にたどり着くと、秋子が遊戯室の鍵をあけ、ドアを開けてくれた。
「なんだ、遊戯室と言うわりには、なんにもないだな」
中央に滑り台があるだけで、遊戯室にはオモチャらしきものは一切なかった。
「フクの希望なのよ。本当なら積み木やら、レゴやらがあるんだけど、私がかたしておいたのよ。アンタは本当に昔から人使い荒いわよね」
「へへへ、すいません。秋子先輩。いつも無茶ばかり言って。秋子先輩が頼れる人だから、つい私も甘えてしまうですよ」
「――舞島君覚えておいて。こうやって人をヨイショしながら、コキ使うのがフクの手口だから」
「――それならよく知ってます」
「──君もコキ使われたクチか。それじゃあ、私が忠告することは何もないか。私はまだ仕事あるから、事務室に戻るわね」
秋子は福ちゃんに部屋のカギを渡すと、遊戯室を出て行った。
福ちゃんは遊戯室のドアに鍵をかけると、
「もう逃げられないから、翔君と菊太郎さん、解放してもいいわよ」
〝手離しちゃっていいのか〟
翔はともかく、菊太郎さんを解放するのは、諸事いい加減なおれでも躊躇をおぼえる。
手を離した途端、何かやらかすかもしれない。
なにをやらかすのか、おれには見当もつかないが、奇声を発している菊太郎さんを見ると、不安を覚えずにはいられなかった。
〝でも福ちゃんが大丈夫といってるから平気かな〟
おれは所詮適当であった。
菊太郎さんの手を離しリリースした。
菊太郎さんはその場にとどまり、上体を揺らしながら「アヒィヒヒ」といつもの不思議言語を発するだけだった。
「あれ動かないだね」てっきり走り出したりするかと思っていた。
「この部屋には菊太郎さんの好きな水関係の物がないから、やることがないのよ。菊太郎さんは元々動くタイプじゃないから」
福ちゃんは菊太郎さんにむかって顔を向けると、「菊太郎さん、座って」
福ちゃんの指示にノロノロと従う菊太郎さん。福ちゃんも腰を降ろすと、自分の膝を叩きながら「菊太郎さん、ここにゴロンして」
福ちゃんに指示されると、菊太郎さんは嬉しそうに膝の上に頭を乗せた。
福ちゃんは自分のカバンから、綿棒と耳かきそれにポケットティシュを取り出すと、菊太郎さんの耳掃除をしはじめた。
「うわっ、やばい。やばすぎるぐらい大きい耳くそがあるわよ、菊太郎さん」
福ちゃんは嬉しそうな声で菊太郎さんの耳の中を解説すると、綿棒で耳掃除をしはじめた。菊太郎さんは気持ちいいのか、ニコニコ顔であった。
「そんなにすげえのか、福ちゃん」
「うん。見てみる?」
おれは喜んで、菊太郎さんの耳の穴を覗き込んだ。耳クソがビッシリと詰まっていた。
「うおっ、すげえ耳クソだな。耳の聞こえが悪くなるレベルだろう、これ。誰か掃除してやらないのか?」
「菊太郎さんのお父さんもお母さんも、介護される側の年だから、あんまり菊太郎さんの世話をする余裕がないのよ」
たしかに。
あの爺さんと婆さんじゃ、世話する方ではなく、世話される方だもんな。
「福ちゃん、あの翔君がボタン押したがってますけど、どうしますか?」
恵は困った声で尋ねた。
見ると、翔は照明のスイッチを押そうと、手を伸ばしながらピョンピョン跳びはねていた。
「バンザイさせてから、抱っこしてあげて」
恵は福ちゃんの言われた通り、翔にバンザイさせたあと抱っこしてやった。
翔は嬉しげにスイッチを押している。
遊戯室の照明が点滅する。
「なんでバンザイさせるんだ?」
「あれはね、翔君の要求を無条件に叶えるより、どんな簡単なことでも指示を従わせてから叶えてあげた方が、人の指示に従ったほうが得になるってことを翔君に学習させることが出来るのよ。そうするとどんな場面でも指示に従おうとするから。パニックを鎮める時とかにも役に立つのよ」
「なんか恐いな」
たしかに指示に従ってくれたほうが、教える方としては助かる。
おれも先生をやっていたから、その有り難さはよくわかっている。
しかしいくら良いこととはいえ、人の意志に、他人であるおれ達が、これほどまでに強く介入してもいいのだろうか?
「その通り、恐いわよ。これは教育というよりある種の洗脳だから。応用行動分析や心理学を使った教育は、効果が高すぎる場合があるの。だから慎重に使用しなければいけないし、セラピストにはつねに果たして心理学的な技法を使っていいのか? という疑問を持って貰いたいの――」
──だから舞島君、その怖いという気持ちを、いつまでも持っておいてね。
「わかったよ、福ちゃん」
おれは師匠のアドバイスを素直に受け入れた。
「まあ、堅い話はこれぐらいにして。舞島君と恵ちゃんに、翔君のラポートを付けちゃいましょうか。恵ちゃん、翔君にボタンバイバイさせたら、翔君こっちに連れてきて」
恵は言われた通り、翔にバイバイさせた。
翔は切なげに、ボタンを見つめたあと「ボタン、バイバイ」と言った。
恵は翔を抱っこさせたまんま、部屋の真ん中に連れてきた。
「翔君に寝てと指示して」
福ちゃんは菊太郎の耳掃除をしながら言った。
恵は翔に寝てと指示すると、翔は素直に従った。
「舞島君は翔君の手を掴んで、恵ちゃんは翔君の足首をつかんで」
おれ達は福ちゃんの指示通り、翔の両手首と両足首をそれぞれ掴んだ。
「そしたら、翔君をゆらして」
おれと恵は翔を持ち上げて揺らしてやる。
翔は楽しいのかニコニコと笑っているが、しかし目は思い切り見開いて天井の一点を見つめていた。
〝あんなに見つめて酔わないだろうか?〟
おれは心配になった。
「いいわよ、恵ちゃんその調子。舞島君とはじめて行う、愛の共同作業ね」
福ちゃんはからかった。
「福ちゃん、変なこと言わないでください!」
恵は抗議した後、恥ずかしくなったのか顔を伏せた。
そういう事やられると、おれの方まで恥ずかしくなる。
二人で照れながらも、はじめての愛の共同作業とやらは終わった。
翔は床に下ろされると、おれの手を掴み自分の手首に持って行った。
「ひょっとしてこれって、またやってくれってことか?」
「そう。名前がわからないから、クレーンやってるの。舞島君、その遊びの名前を教えてあげて」
「なんて言うんだ、この遊び」
「・・・・・・うーん。ぶらぶらでいいじゃない」
福ちゃんも知らないようだった
「翔君、ぶらぶらやって、と言って」
おれが指示すると、「ぶらぶらやって!」翔は早口で捲し立てた。
「よし、ぶらぶらやるぞ!」
おれと恵は、再び翔の手首足首を持つと、翔の体を揺らし始めた。
〝結構楽しいな〟
おれは自分が子供好きだということに気づいた。
「いいわよ、舞島君、恵ちゃん。その調子。適当に簡単な指示をしながら、強化子としてぶらぶらとくすぐりを交互に与えてあげて」
おれ達は福ちゃんの指示通り、握手だとか手にタッチするだとか、そういった簡単な行動を指示し、翔が指示に従うと強化子を与えた。
しばらくたった後「まあ、そんなもんでしょう。恵ちゃん、くすぐるマネしてみて」
「こうですか?」
恵が手をこちょこちょと動かしくすぐる真似をすると、翔は笑いながら脇の下を手でガードした。
「バッチリ、ラポートが出来たみたいね」
「なんで擽る真似して喜ぶと、ラポートになるんだ、福ちゃん?」
「これは私のオリジナル判定法だけど、ラポートがつく前だと擽る真似してもガン無視されたりするの」
「あっそうか。自閉症だと他人にあまり興味を持たないだったよな」
「そうそう。興味を覚えるようになると、自閉症の子もその人の行動に興味をもつようになるのよ」
「なるほど」
「菊太郎さんも、同じことをするわ」
福ちゃんは綿棒をテッシュの上におくと、菊太郎さんと床に寝っころがらせた。
「菊太郎さん~!」
福ちゃんは手をこちょこちょさせながら、菊太郎さんに迫った。
菊太郎さんはアヒヒ言いながら、好きな人に悪戯される生娘みたいな笑顔で己の脇の下をガードした。
おれはこの光景を見て、はじめて菊太郎さんが、おれ達と同じ人間なんだと納得することが出来た。
これまでは、菊太郎さんの変な行動に目が行ってしまって、正直同じ人類だとは思えなかった。
しかし福ちゃんと戯れてる菊太郎さんを見ていると、おれは菊太郎さんとやっていけるような気がした。
「――福ちゃん、菊太郎さんもぶらぶらやったら喜ぶかな?」
「やったことないけど、喜ぶと思うわよ」
と言うと、福ちゃんは菊太郎さんの手首を掴んだ。
「舞島君、足首もって」
「了解」
おれと福ちゃんは、菊太郎さんをブラブラさせた。
「あひひぃ、あひひあぁ!」
喜びの声をあげる菊太郎さん。
「喜んでる、喜んでる」
福ちゃんが嬉しげに言うと、「翔君、ダメェ!」恵の悲鳴が響いた。
菊太郎さんを揺らしながら、恵の方を見ると、翔が恵のズボンにぶら下がっていた。
そのため、恵のパンツは丸見え状態だった。
「ぶらぶらやってぇ!」翔は恵のズボンをズリ下ろしながら叫んでいた。
「あっ、具体的に指示しないと翔君わからないから、手をパーにして、と指示してみて」
福ちゃんの言葉を訊くと、恵はすぐさま「翔君、手をパーにして」と言った。
翔はニコニコ笑いながら、手をパーにした。
恵はその隙に、ずり下がったズボンを直した。
「ああいう場合、怒らないのか?」
「怒るときもあるけど、翔君によく利く弱化子ってなかなかないのよ。強化子探すのも大変だけど、弱化子探すのはそれ以上に大変なことなのよ」
「福ちゃんならあの場合、翔にどう対応するんだ?」
「うーん。ズボンを脱がす行動が定着しているようだったら、弱化子の使用も検討するけど、今ぐらいなら同じように対応したかな」
「二人とも、冷静に人のピンチをネタに話し合わないでください!」
恵は翔の脇を擽りなりながら怒った。
翔の攻勢をかわすため、自分から攻める体勢に転じたようだ。
恵に脇の下をくすぐられて、翔は笑い転げている。
「恵ちゃんがお怒りだから、舞島君行ってあげて。私は再び、耳掃除やるから」
「了解。でもなんで遊んでやったほうがいいかな」
「良い機会だから舞島君が考えてみたら?」
「えっ、おれが?」
「うん。翔君は視覚刺激が大好きだから、視覚を刺激する遊びを考えてあげればいいのよ」
「視覚を刺激って、目なんかどうやって刺激すればいいだよ、福ちゃん?」
さっぱり見当がつかない。
「さっきのブラブラと同じよ。あれも視覚刺激の遊びなのよ。ブラブラやってるとき、翔君は目を見開いていたでしょう?」
「うん」
「あれは揺れる風景を楽しんでるのよ」
「あっ、それで視覚刺激という訳か」
「そうそう。来る途中車の窓に張り付いていたのも、視覚刺激の一種よ」
「なるほど。よし、ちょっと考えてみるか」
おれは菊太郎さんを床に下ろすと、翔に近づいていった。
「視覚、視覚ねぇ――」
そうだ!
「翔君、バンザイして」
おれが指示すると翔は嬉しそうな顔でバンザイした。
おれはすかさず翔の手首を掴むと、ジャイアントスイングをかました。
翔は目を見開き、床をジッと見つめている。
「翔のヤツ、喜んでくれてるかな福ちゃん?」
「喜んでる、喜んでるわよ、舞島君」
おれは福ちゃんの言葉を聞いて嬉しくなった。
――しかし。
「でも、喜ばしすぎてるかもね」
福ちゃんが不吉な言葉を呟いた。
おれは不吉な予感を感じながら、翔を床におろした。
翔は床に足をつけると、すぐさまおれの手を掴んだ。
「グルグルは、怖がる子も多いけど大好きな子はすごい大好きなの」
「そうか。ならよかった」
「うん。好きなのはいいだけど、何度も何度も求めてくるのよ。しかも自閉症の子は、目を回さない子が多いから、ほとんどの場合大人のほうが先にまいちゃうの」
――だから頑張ってね、舞島君。
福ちゃんは菊太郎さんの耳掃除しながら、おれにエールを送った。
──十五分後。おれは床に座り込んでへたばっていた。翔の期待に答えるため頑張ってブン回した結果、福ちゃんの予言通りおれの目の方が先にグルグルと回ってしまった。
おかげで凄い気持ち悪い。
翔の方はというと、まだ満足できないのか、一人でグルグルと回ったりしている。
しかし刺激が足りないせいか、満足できないらしく「舞島先生、グルグルしてぇ!」とおれの手を掴んで要求してきた。
「翔グルグルは終わりです」
もう無理です。
「直人さん、大丈夫ですか?」
恵が心配して声をかけてくれた。
おれが答えようとすると、誰かが遊戯室のドアをノックした。
「フク、おやつ持ってきてあげたから、ドアをあけて」
職員の野崎秋子だった。福ちゃんはドアを開けに行った。
コンビニ袋をぶら下げた秋子が部屋の中に入ってきた。
「秋子先輩がおやつを持ってきてくれたから、休憩しますか」
福ちゃんの一言で、おれはほっとした。
これ以上、翔をぶん回したらもどしそうだし、疲れて喉も渇いていた。
おれ達は遊戯室の隅っこに座った。
秋子はコンビニ袋からオレンジジュースのペットボトルと紙コップを取り出すと、皆に注いで回った。
菊太郎さんは紙コップにすぐさま手を伸ばしたが、事前に行動を察知していた福ちゃんによって阻まれた。
「翔君は百パーセントのリンゴジュースでよかったんだっけ?」
「ああ。覚えていてくれたんですか、秋子先輩」
「子供のくせに贅沢者だったから、よく覚えているわよ」
秋子は笑いながら言った。
「オレンジジュースではダメなのか?」
「翔君、味覚過敏もあるぽいから、食べ物の好みも激しいのよ。ジュースは果汁百パーセントのヤツ以外飲まないし、お刺身とかでも養殖物は食べないの」
「美味しんぼの山岡みたいだな。菊太郎さんは大丈夫なのか?」
「菊太郎さんは全然平気。なんでも食べちゃうから。この前缶潰ししていたとき、空き缶にへばり付いていた蟻さんとかも食べようとしていたから」
「──蟻さんも災難だな。しかし同じ自閉症といえどもだいぶ違うだな」
「ええ。翔君は感覚が過敏なところがあるけど、菊太郎さんの場合だと感覚が少し鈍いじゃないかな」
「自傷とかも感覚が鈍いからやるのかな」
「うーん。そこら辺はなんともいえないけど──」
と福ちゃんが言ったところで、皆が会話よりもおやつを食べたがっている事に気付いた。
「とりあえずおやつにしましょうか」
福ちゃんが手を合わせていただきます、と言うと、皆も続いた。
菊太郎さんも手を合わせながら「あがらんぴぃ」と呟いた。
遊び疲れて腹が減ったのか、みんな菓子に手を伸ばしたが、福ちゃんと翔はテッシュの上に菓子を置いた。
「翔君、順番っこでお菓子食べますよ。はじめは翔君」
福ちゃんの言葉を聞くと、翔は厭な顔をした。
「翔君、食べます」
翔がポテトチップをつまむ。すぐさま食べ終わると、次のポテトチップに手を伸ばした。
福ちゃんに阻まれる。
「つぎ誰の番?」
福ちゃんは無表情の顔で質問した。
「――福ちゃんの番です」翔は無念極まりない顔で答えた。
福ちゃんはポテトチップを食べる。
「次は翔君の番です」
翔は嬉しげに言うと、ポテトチップに手を伸ばした。
「それは何してるの、福ちゃん?」
「これは順番とあきらめを教えてるのよ、舞島君。順番の概念がないと、遊具で遊ぶときとかに困るでしょう。あと好きな物があっても我慢できる強さは、自閉症の子にはとても大切なのよ」
「おやつの時間までABAか。福ちゃんも本当に熱心だな」おれは若干あきれながら褒めた。
「机に座って絵カードやるだけがABAじゃないからね。生活スキルの学習も大切な事だから」
「――フクも、誰かに生活スキルを教えて貰ったら。掃除スキルが身についたら、あの汚部屋も少しは綺麗になるかもよ」
秋子は毒舌を吐いた。
「――あはは。いつもすいません、秋子先輩」
福ちゃんは翔と順番っこにお菓子を食べながら、頭を下げた。
「まさか福ちゃん、秋子さんに部屋の掃除手伝って貰ってるの?」
「――たまにね」
福ちゃんはさすがに照れくさいのか、頭を掻きながら白状した。
「フクの部屋は酷いわよ、舞島君。私も部屋中本だらけにしてるけど、フクの場合は本が部屋に収まりきれず、家中のいたるところに本が溢れてるから。風呂場の脱衣所のところにまで、本がつまれてるのを見たとき、さすがの私もあきれたわ」
「――私もさすがに不味いなと思って、秋子先輩に借りてた本をお返ししたじゃないですか」
「なんで引っ越しの荷造りしてる最中に、ダンボール六箱も送りつけてくるのよ」
「引っ越しした後に本の置き場がないとわかったら困るかな、と思って」
「それなら心配する必要はないわよ。穀潰しが一人減るから」
秋子は吐き捨てた。
穀潰し? 秋子の家庭は荒れているのだろうか?
「穀潰しなんて言っちゃ可哀想ですよ。国近先輩はノージョブじゃないですから。お金だって、ちゃんと秋子先輩に渡しているんでしょう?」
「――まあそうだけど。でもダメよ、あいつは。酒ばっか飲んで、手も震えてるし。もう完全にアル中だから」
秋子は自分の言葉に興奮したのか、目の前にその男がいるかのように空を睨んでいた。
〝旦那と上手くいってないのかな〟
夫婦喧嘩犬も食わないというけど、たしかに他人の家のことは口を挟みづらい。
「でもお父さんがいなくなっちゃったら芽依ちゃん可哀想ですよ」
「・・・・・・わかってるわよ」
秋子は俯きながら、ポテトチップの端を囓った。
「――直人さん、なんか大変みたいですね」
恵は菓子を横取りしようとしてる菊太郎さんの手を防ぎなら、おれの耳元で囁いた。
「穀潰しか、おれんちの親父もよく穀潰しと言われてたっけ」
おれの親父は祖父ちゃんが残してくれた遺産を食いつぶしながら、趣味の世界にのめり込んだ。
家庭を顧みることは滅多になかったし、仕事もしたりやめたりだった。
とてもじゃないが立派な親父だとは言えない。
「お金をいれてくれるなら、まだマシですよ。うちの場合は、お金を入れるどころか子供にせびりにきますからね。ウチより最低の親がいるなら見てみたいですよ」
「――だな」
おれは思わず吹き出してしまった。恵は怒り狂ってるが、おれは加藤の親父さんのことは嫌いではなかった。
いろいろとダメだが、憎めない性格をしている。もっともあれで憎まれる性格をしていたら、とっくの昔に女か自分の子供に刺されている。
「――何がおかしい事ある?」
秋子は、おれの事をギロリと睨んだ。
「いや秋子さんのことじゃないですよ。ウチも恵の家も、親父が穀潰しだから思わず笑ってしまっただけです」
「――家、荒れてるの? 二人とも」
「おれのウチの場合は、荒れてるというか、誰も家に帰ってこないから荒れようがないですよ」
親父は道楽の世界に、お袋は仕事に生きている。二人とも滅多に家庭には戻ってこなかった。
少し寂しいが慣れてしまった。
「私の家の場合は、生活費はまともに入れないわ、女の人には次から次へと手を出すわ、子供は生んでは捨てるはと、本当にダメな父親ですね」恵は吐き捨てた。自分を捨てた親父さんのことを思い出すと、腸が煮えくりかえるのだろう。
「――苦労しているのはウチだけじゃないようね」
秋子はため息をついた。
「どんな家族も、それなりに悩みはあるし闇もありますからね。秋子先輩、とりあえず芽依ちゃんのためにもう少しだけ頑張って見ませんか? 不承、福田福子も力を貸しますから」
「――まさかあんた、時間を稼ぐためにダンボール送りつけてきたの?」
「――芽依ちゃんに頼まれてしまいましたから」福ちゃんは悪びれずに言った。
「――芽依には可哀想な思いをさせてしまったわ。でも――」
言いかけたその時、秋子の携帯が鳴った。
「──あら学童からだわ」秋子は携帯に出だ。「えっ、芽依がいなくなった!」
秋子の顔は真っ青になった。