Monster 新章追加
どこかでガキが笑っていた。
多分、近くの幼稚園のガキどもだ。
死ねばいいのに。みんなみんな死ねばいいのに。
ガキは弱者だ。誰かに支配されなければ生きてはいけない。
弱くて不自由な生き物だ。
おれは弱い者は大嫌いだった。そしてそれ以上に母親という生き物が嫌いだった。
おれは台所でメシを作っているお袋の背中に顔をむけた。
足がびっこを引いているせいで、立っている姿すら無様だった。
「なにトロトロ作ってんだよ、クソババア! 腹がへってるんだからさっさと作れよ、こらぁ!」
おれはテーブルを叩いて怒鳴った。
ガキの笑い声と空腹が、おれをいらつかせる。
「──御免なさい、玲二さん。今すぐ作るからちょっとだけ待っててね」
お袋は媚びと恐怖が混じった笑顔で答えた。
お袋の怯えた顔を見ると、嬉しくなる。
〝ガキの頃、おれのことを散々ぶっ叩いてた親父もお袋も、嬉しかったに違いない〟
イジメは楽しい。楽しいからこそやるのだ。
人間は楽しいことに貪欲だ。だから弱い者を見つけては苛める。
ヤクザはカタギを。金持ちは貧乏人を。ガキはより弱いガキを。
そして親は――。
親父は。お袋は。お父さんやお母さんは――。
――我が子を苛める。
もっとも弱い者をいたぶる存在。それが親だ。
まだおれが弱かった頃──。
自分のことを僕と呼んでいた青臭いガキの頃──。
──僕は地獄にいた。
僕は幼稚園に入ってもおねしょをする悪い子で、言葉もまともに喋れなかった。おとうさんやお母さんは僕のことを低脳児とよんで、いつも僕を叱った。
ご飯の食べ方が悪い。
箸の持ち方が悪い。
部屋が汚い。
僕は悪い子だから、悪いことをいっぱいした。
僕が何か悪いことをするたびにお母さんやお父さんに殴られた。
僕は殴られるたびに、神様にむかってお願いしました。
――僕をどうか良い子にしてください。
お母さんやお父さんに褒められるような良い子にしてください。
でも僕は悪い子だから、神様は願いを叶えてくれてなかった。
僕は良い子にはなれなくて、お母さんやお父さんを怒らせ続けた。
お母さんの言う通り、僕は低脳児だから何をやってもダメなんだろうと思った。
それでも僕はお母さんに褒めて貰いたくて、お母さんがいつもお茶をする時に使っていた大切なティーカップを片付けようとした。
でも、お利口じゃない僕はティーカップを片付ける代わりに、落としてしまった。
粉々に砕け散ったティーカップを見つめながら、僕がシクシクと泣いてると、お母さんに見つかってしまった。
お母さんは鬼の顔になって、僕を殴った。
僕は、ごめんなさい、ごめんなさいと一生懸命謝っただけど、お母さんは許してくれませんでした。
「あんたがいくら謝ってもお母さんのティーカップは元に戻らないのよ!」
お母さんはそう怒鳴ると、悪い子の印として僕の腕にタバコの火を押し付けた。僕が痛みのあまり泣き叫ぶと、家を追い出された。
お母さん、ごめんなさい。僕、良い子になります。
許して、お母さん。ちゃんとお片付けするから許してお母さん。
僕は泣きじゃくりながら玄関のドアを必死で叩いた。
玄関のドアは、悪い子に対して開かれることなかった。
いい子じゃなければ、家に入れない。
だからいっぱい、いっぱいいい子になりますと、玄関のドアに、玄関のドアの向こうにいるお母さんにむかって叫び続けました。
お母さんは許してくれなかったけど、隣の家の田中君のお母さんが、僕と一緒に謝ってくれたら家に入れてくれた。
僕は田中君がいい子だから、お母さんが優しいだなと思って、次の日から田中君のマネをするようになった。
田中君はそんな僕をみてちょっとビックリしてたけど、田中君は良い子だから僕と友達になってくれた。
小学校の三年生の時までは、僕と田中君は友達だった。
僕のお母さんも、僕が田中君のマネをしてよい子になったせいか、あまり僕を怒らなくなった。
お母さんは田中君が家に遊びに来ると、田中君と僕においしいお菓子を出してくれた。
だから僕は田中君が家に遊びに来てくれるのが嬉しくて堪らなかった。
でも、田中君が遊びに来るようになると、田中君のお父さんも僕の家に遊びに来るようになった。
田中君のおとうさんと、僕のお母さんは二人でいるときいつも楽しそうで、僕も嬉しくなった。
ある日、お母さんと田中君のお父さんが裸で抱き合っていた。
僕はドアの隙間から、裸のお母さんと田中君のお父さんを見たとき、それが酷く悪いことのように思えてとても怖かった。
怖くてドアの前で震えていると、僕が覗いているのをお母さんにバレてしまった。
怒られる! と思ったが、お母さんは優しい声でこの事は誰にも言っちゃダメよと言った。
僕はだから黙っていた。
誰にも言わなかった。
――お父さんにも。
――田中君にも。
誰にも言わなかった。
僕とお母さん、それに田中君のお父さん、三人だけの秘密。
でも秘密はばれた。
お父さんは、お母さんを殴り、お母さんは僕を殴った。
「なんて馬鹿な子なの! アンタが余計な事を言わなければ、こんな事にならなかったのに!」
田中君にも殴られた。
「お前のお母さんが、お父さんを取らなければ、お父さんはいなくならなかったんだよ!」
僕はごめんなさい、ごめんなさいと必死に謝ったけど、田中君は許してくれなかった。一ヶ月ほどすると田中君の家はどこか遠いところに引っ越していった。
僕は悲しかったが、いつまでも悲しんではいられなかった。
お母さんは、また僕を怒るようになったからだ。
お母さんは怒るたびに、僕を殴った。
お母さんは時には手が痛くなるからと、ホウキの柄や布団叩きで殴られた。
僕の体は痣だらけになった。
幼稚園の頃よりもお母さんの怒りが激しくなっていた。
僕はお母さんが怖くて怖くて、お母さんの機嫌が少しでも悪くなると布団のなかで震えるようになった。
布団のなかは真っ暗闇で、怖いお母さんの顔も見なくてすんだ。
なんでお母さんは僕を叩くのだろう?
僕は暗闇のなかで囁いた。
ひょっとしたらお母さんは、僕があまりにも悪い子だから、お母さんはお母さんを辞めてしまったのではないのか。
お母さんはお母さんであることを辞めて――。
――恐怖に。
僕を怯えさせる恐怖に生まれ変わってしまった。
僕がいい子になれば。
僕が賢い子になれば――。
――お母さんは恐怖ではなく、他の家のお母さんと同じように、優しいお母さんに生まれ変わってくれるはずだ。
だから僕は必死によい子になろうと、勉強も部屋の片付けも頑張ってやった。
でもお母さんは恐怖のままだった。
もっと頑張らなきゃ。もっと頑張って良い子にならないと、お母さんはいつまでも恐怖のままだ。
僕は安全な布団の中で、布団の中の暗闇のなかで、お母さんに殴られた痛みに堪えながらそう思った。
──本当にそうなのか?
布団の中の暗闇が囁いた。
僕は暗闇が囁いたことよりも、その疑問の方が怖かった。
その疑問を考えることが怖かった。
その疑問の答えを出すことが怖かった。
そんな疑問忘れてしまいたかった。
でも暗闇が囁いた疑問は、僕のなかで消えることはなく、どんどんと大きくなっていった。
小学校五年生になると、大学を卒業したばかりの綺麗な女の人が、クラスの担任になった。
女の先生は黒板に城崎菜々子と書いた。
城崎先生は、優しくて美人で、すぐにクラスの人気者になった。城崎先生は悪い子の僕にまで優しくしてくれたので、僕はすぐに大好きになった。
城崎先生はある日、僕の腕の痣に気づいた。
「三森君、この痣どうしたの?」
「――転んだんです」
僕は嘘を付いた。
本当はお母さんにツネられたんだけど、外の人に家のことを話すとお母さんに怒られるから、僕はお母さんに叱られたくなくて嘘をついた。
城崎先生は怪訝な顔をしたが、それ以上は何も言ってこなかった。
一ヶ月ほどしてから、僕は保健室に呼び出された。
保健室には、保険の先生と城崎先生がいた。
城崎先生は、僕のシャツをめくると息を飲んだ。
僕の体は、痣のせいで全身が斑色になっていた。
城崎先生は泣き出した。
「大丈夫です。僕は大丈夫です。だから泣かないでください」
泣いてる城崎先生を見ていると、僕まで悲しくなった。
それになんだかわからないけど不安だった。
僕は布団の中の暗闇が恋しくなった。
翌日、城崎先生は僕の家にやってきた。
お母さんは初めの頃は愛想良く城崎先生と話していたんだけど、話が僕のことになっていくと、だんだんとお母さんの機嫌が悪くなっていた。
「──お母さん。それはしつけではなく虐待です」
城崎先生のこの一言を口にした瞬間、お母さんは鬼と化した。
お母さんは、城崎先生に罵声を浴びせて家から追い出すと、僕を殴り飛ばした。
僕は泣きながら謝ったが、心の中である疑問が芽生えていた。
お母さんはひょっとしたら、僕のことを愛していないのではないか?
そう思った瞬間、お母さんにビンタされた。
ごめんなさい。ごめんなさい。こんなことを考えてごめんなさい。
いくら謝ってもお母さんは許してはくれなかった。
お母さんは完全に恐怖になってしまった。僕は怖くて怖くて、ゴキブリのようにカーテンのなかに逃げ込んだ。
カーテンのなかは真っ暗だった。
お母さんはカーテン越しから、僕を蹴った。
――お母さん、僕良い子になるから許してください。
僕は叫んだ。お母さんは灰皿で僕を殴った。
血が出た。僕はカーテンの中で亀のように丸まった。
どうしたらお母さんは、僕を殴らなくなるのだろう。
僕は暗闇のなかで呟いた。お母さんは怒声を浴びせるだけで、僕の疑問には決して答えてはくれなかった。
お母さんのかわりに暗闇が囁いた。
――僕が教えてあげようか。
暗闇は優しい声でいった。――その声はすごく優しいのに。田中君のお母さんや城崎先生よりも優しい声なのに。
僕は堪らなく怖かった。暗闇の恐怖に耐えられなくなって、僕はカーテンの中から飛び出した。
お母さんは恐怖に怯える僕を捕まえると、何度も何度もビンタをした。
翌日、お母さんは学校に猛抗議をした。その結果、城崎先生は他の学校に転任することになった。
城崎先生の転任が決まった日の放課後。
僕は誰もいない教室で城崎先生に謝られた。
「ごめんなさい、三森君。わたしは貴方を助けてあげることが出来なかった」
「謝らなくてもいいんだよ、城崎先生。お母さんが怒っているのは、僕が悪い子だからなんだ」
そうに違いない。お母さんは僕を愛しているのだ。
テレビも、漫画も、本も、そのなかに出てくるお母さんはみんな自分の子供を愛していた。
僕のお母さんだって、僕を愛している。愛しているはずだ。
――愛していない。君のお母さんは、君のことを愛していない。
心の奥底の暗闇が囁いた。
違う。僕は独り言のように呟く。
――君はお母さんに愛されていない。僕だけじゃない。君の好きな城崎先生だって、僕と同じ意見さ。
僕は暗闇に囁かれて、城崎先生の顔を見つめた。
城崎先生は泣いていた。
これ以上ないぐらい泣いていた。
城崎先生は僕に見つめられていることに気づくと、泣きながら僕を抱きしめた。
生まれて初めて抱きしめられた。その体温は暖かくて、とても安心できた。
でも僕は何故か不安だった。
僕は知らない。
僕はこんな温もりを知らない。
お母さんも。お父さんも。
誰も僕を抱きしめてくれなかった。
「三森君。違うの。貴方は悪い子じゃない。貴方はとても良い子なのよ、三森君」
城崎先生は泣きながら言った。城崎先生の言葉を聞いて、僕は呆然となった。
城崎先生の言う通り、僕が悪い子でなかったら。
城崎先生の言う通り、僕が良い子だったら。
僕は、僕は――。
「――違う! 僕は悪い子だ!」
僕は生まれて初めて怒鳴った。
城崎先生の言う通り、僕が良い子だったら。
お母さんが怒るのは、僕がただ嫌いだから。僕がただ憎いから。
僕を怒っていることになる。
違う、お母さんは僕を愛しているから。
違う、お母さんは僕にいい子になって欲しいから。
罰を与えているのだ。
そうだ。
そうに違いない。こんな疑問を覚えるなんて、僕はどうしようもないぐらい悪い子だ。
僕は先生の机の上にあったボールペンを奪い取ると、自分の右手を突き刺した。
城崎先生は悲鳴をあげた。
罰しなければ。
悪い子は罰しなければいけない。
僕は自分を罰するためにボールペンで何度も何度も手を突き刺した。
気付いた時には、城崎先生に羽交い締めにされていた。
騒ぎを聞きつけた他の先生達も教室になだれ込んできた。
教室の外では生徒達がざわめいていた。
城崎先生は次の日から学校に来なくなった。クラスの人気者だった城崎先生がいなくなると、クラスのみんなは僕のせいだと言って攻めた。悪口もいっぱい言われた。殴られたりもした。
ボールペンで手を突き刺したことがバレると、キチガイだと言われた。
僕は仕方がないと思った。
僕は悪い子なんだから仕方がないと思った。
夜、僕は暗闇のなかで、自分を罰するために針で体を刺した。
体を刺しながら、僕は友達が欲しいと思った。
城崎先生の一件以来、クラスのみんなは誰も僕と遊んでくれなくなった。
寂しかった。とても寂しかった。あまりにも寂しくて、あの怖い暗闇ですら恋しかった。
あの怖いけれどとても優しい声を聞きたいと思った。
でも暗闇は何も囁いてはくれなかった。
いくら忠告しても耳を傾けない僕を見捨てたのかもしれない。
翌日。学校の校庭の隅でぼんやりと立っていると、他のクラスの子から話しかけられた。
団地の子供達のグループだった。
下品で卑しい貧乏人の子供ばかりだから、お母さんは決して団地の子供と付き合っていけないと言っていた、団地の子供達。
でも僕は友達がいないから、団地の子供達と仲良くなった。
団地グループのリーダーの名は矢野賢治。
ゲームを貸しても、なかなか返してくれないけど、僕の大切な友達だった。
ある日、矢野君達にスーパーに買い食いしに行こうと誘われた。
買い食いはお母さんに禁じられていたので、はじめは断った。
でも仲間外れにされるのが怖くて、自分だけお菓子を買わなければ大丈夫だと思って、スーパーに付いていくことにした。
矢野君は、お小遣いが少ないので、僕のお小遣いでお菓子を買った。
でも矢野君のお小遣いも、僕のお小遣いも少ないので、お菓子はほんの少ししか買えなかった。
矢野君はお菓子を万引きした。
ほかの子も万引きした。
矢野君は、僕にも万引きしろと言ったが、僕は出来なかった。
万引きしたら悪い子になってしまうから。
お母さんを悲しませてしまうから。
万引きなんて出来なかった。
ゲームを貸す約束をすると、矢野君達は許してくれた。
ゲームのソフトは多分返ってはこないだろうけど、悪い子になるよりはマシだった。
スーパーを出るとき、僕等は警備員のおじさんに捕まった。
僕も矢野君達も事務所に連れて行かれた。
僕は歯の根が合わないぐらい震えた。
僕は万引きをなんかしていない。でもお母さんにバレたら。
矢野君達と遊んでいるのがお母さんにバレたら、もし買い食いに付き合ったことがバレたら、どれだけ怒られるか想像もできなかった。
僕はお母さんに殺されてしまうかもしれない。
僕は必死に謝った。泣きながら土下座してスーパーの店長に謝った。
どうかお母さんに言わないでください。
お母さんに買い食いしていることがバレたら怒られてしまいます。
僕は泣き叫びながら訴えた。
でもスーパーの店長は許さなかった。許さないどころか、お前も万引きしたんだろうと、怒鳴った。
「万引きなんてしてないです」
僕は泣きながら訴えたが、スーパーの店長は僕を犯人と決めつけた。
矢野君達も、僕に脅されて万引きしたと言い出した。
「なにを言ってるんだ矢野君!」
僕ははじめて人に向かって怒鳴った。
矢野君のかわりにスーパーの店長に「往生際が悪いんだよ万引き小僧!」と怒鳴られた。
矢野君は、スーパーの店長の背中の影でなんともいえない厭らしい笑みを浮かべた。
怯えと媚びと優越感のまじったとても厭らしい嗤い。
ああ、矢野君は友達ではなかったのだ。
僕はようやく悟った。
お母さんがやってきた。
「お母さん、僕、万引きなんてしてないよ!」
お母さんなら、お母さんなら、僕のことを信じてくれる。
そう信じていた。
でも答えはビンタだった。僕が吹き飛ぶぐらいのビンタだった。
お母さんは僕の髪を掴んで、僕を土下座させた。
スーパーの店長は土下座している僕を散々叱った。
何もしていないのに。
僕は万引きなんてしていないのに。
お母さんはスーパーの店長にむかって、表沙汰にしないでくださいと必死に頼み込んでいた。
お母さんの横で土下座させられた僕はそっと顔をあげた。
なぜ顔をあげたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ僕は無性にスーパーの店長の顔が見たかった。
スーパーの店長の顔は怒りで歪んでいるのに、目は嗤っていた。
〝怒っているときのお母さんの顔と同じだ〟
お母さんがお菓子を弁償し、僕が反省文を書くと、スーパーから解放された。
家に帰ると、お母さんに殴られた。
「僕の話を聞いて、お母さん。僕万引きなんてしていない!」
僕は珍しく母に反論した。
「万引きしたくせにあんたは口答えまでするの! あんたなんて産まなきゃよかった。あんな男と結婚しなきゃよかった。あんたがねえ、万引きなんてしたらあの男は出世すらできなくなるのよ! あんな男、出世しなかったらそれこそなんの価値もないじゃない!」
──自分のことだ。
全部自分のことだ。
お母さんは自分のことしか言わない。
僕のことなんてどうでもいい。
お母さんは僕のことなんて愛していない。
お母さんはお母さんではなく――。
――恐怖だ。
お母さんは、僕を殺す、恐怖だ。
怒りと悲しみ、それをはるかに上回る恐怖が襲ってきた。
僕に味方なんていない。
僕に優しかった人は、みな恐怖によって消されてしまう。
田中君のお母さんも。
田中君も。
優しい城崎先生も。
恐怖が全部飲み込んでしまうのだ。
恐怖は、僕を痛めつけるために近づいてきた。
僕の顔がこれから行われることを察して引きつった。
怒声とともに拳が振り下ろされる。
僕はいつものように亀のように身を丸め、拳から身を守った。
視界が塞がれたことよにって暗闇が出来た。
――どうすれば恐怖に殺されずにすむの?
僕は暗闇に尋ねた。
――僕が教えてあげようか?
カーテンの影に隠れていたあの時と同じように、暗闇はとても優しい声で囁いた。
――暗闇様教えて。
僕はもうお母さんやお父さんに頼る事は出来なかった。
友達もいなかった。
頼りになるとしたら、この暗闇しかいない。だから様をつけて神様のように拝んだ。
――そんなに畏まることはないよ。僕は君の友達なんだから。
暗闇様は優しかった。誰よりも僕に優しかった。
僕は泣きながら、暗闇様の言葉に耳を傾けた。
――大人になればいいだよ。お母さんやお父さんのように大人になればいい。
「大人に? でも僕まだ子供だよ」
――大丈夫、子供でも大人になれる儀式があるんだよ。
暗闇は優しく囁いた。
翌日、僕は学校に行かせてもらえなかった。
お母さんは傷だらけの僕が学校に行くと体裁が悪いから、怪我が治るまで休みなさいと言った。
僕は家にいたくなかった。家にいたら、お母さんにいつ殴られるかわからなかったからだ。
僕はお母さんに怒られないよう二階の自分の部屋に閉じ籠もっていると、下からお母さんとお兄ちゃんが言い争う声が聞こえた。
僕は怖かったけどそっと下におりた。ドアの影に隠れて、居間を覗いた。
「ババア、テメー玲二に対してやり過ぎなんだよ!」お兄ちゃんが、お母さんに怒鳴った。
「亮太! あんた子供のくせに親に逆らうの!」お母さんは怒鳴り返したけど、でもその目には怯えがあった。
〝お母さんは、お兄ちゃんのことが怖いんだ〟
中学生になって、お兄ちゃんは大人のように体が大きくなった。
お兄ちゃんは空手も習っているから、喧嘩も強かった。
昔はお兄ちゃんもお父さんに怒られると泣いていたけど、強くなった今はお父さんに殴られると殴り返すようになった。
お父さんも必死で反撃したけど、体も大きくて空手をやっているお兄ちゃんには勝てなかった。
お母さんはお父さんに喧嘩しても勝てないから、お父さんを殴り飛ばせるお兄ちゃんが怖いんだ。
――君のお兄ちゃんは一足先に大人になったんだよ。
ドアの影から声が聞こえた。暗闇様が僕に囁いてくれているのだ。
――大人になって、君のお兄ちゃんは恐怖になった。君も早く大人にならないと、お母さんやお父さんに殺されちゃうよ
僕も早く大人にならないと。恐怖に殺されてしまう。
でも僕は体が小さいし、おとうさんは僕に空手なんか習わせてくれなかった。
お父さんもお母さんも、僕が強くなると困るんだ。
自分よりも弱い者がいないと面白くないんだ。
僕はもう全部わかっていた。
お母さんやお父さんの嘘を。
お母さんやお父さんが僕を愛していないことを。
お母さんやお父さんが、人間ではなく恐怖であることを。
僕は全部わかっていた。
だから早く大人にならないと。僕は殺されてしまう。
どうやったら大人になれるのか。
答えは出なかった。僕は足音を忍ばせて、自分の部屋に戻ると布団に潜り込んだ。
「ねえ暗闇様、教えて。大人になる儀式を教えて」
僕は布団のなかの暗闇にむかって尋ねた。
――簡単だよ。生け贄を捧げればいいんだ。
「生け贄?」
――そう生け贄だ。君を強くするための生け贄だよ。
「生け贄を捧げれば、お母さんやお父さんよりも強くなれるの?」
――なれるさ。生け贄を捧げれば、君は恐怖になれるんだ。
「恐怖に?」
――そう完全なる恐怖に。君のお母さんもお父さんも完全な恐怖にはなれなかった。
「そうなの? あんなに怖いのに」
僕にとって何よりも怖い存在なのに。
――彼らは目の前に生け贄があるのに生け贄を捧げなかった。
暗闇様は優しい声で囁いた。
僕はその時、生け贄が誰であるか気づいた。
生け贄とは僕だ。
「君はひょっとして、お父さんやお母さんにも囁いたの?」
もしかして暗闇様は、お母さんやお父さんの味方なのじゃないか?
もしかして暗闇様が囁いたから、お母さんやお父さんは恐怖になってしまったじゃないのか?
恐るべき疑問が脳裏によぎった。
――違うよ。お母さんもお父さんも、君を苛めることで満足していた。だから僕なんて必要ない。僕はねえ、本当に強くなりたい人の前にしか現れないだ。本当に強くなりたい人じゃないと恐怖になれないし、それに生け贄も捧げてくれない。
「生け贄は暗闇様が食べちゃうの?」
――僕は食べないよ。僕は何も食べないでも生きていける。暗闇はどこにでもあるからね。生け贄とは食べ物ではなく弱さなんだ。
「弱さ?」
――そう弱さ。君の中にある弱さだ。恐怖になるには、君はその弱さを生け贄に捧げなければいけない。
「僕の中にある弱さ」
それを捧げちゃったら、僕はもう戻れないような気がした。
何に戻れないのか、自分でもわからなかった。
でも生け贄を捧げちゃったら、僕はもう戻れない。
だから生け贄を捧げるのが怖かった。
とてもとても怖かった。
――生け贄を捧げるのが怖いのかい?
暗闇様の声は優しかった。
「怖いんだ。生け贄を捧げちゃったら、もう戻れないような気がして怖いんだ」
――怖がらなくても平気だよ。生け贄を捧げれば、僕はずっと君の中にいられる。もう君が一人になることはないんだ。もう君は一人で怯える必要はなくなるんだ。
「でも――」暗闇様の優しさに感動しながらも、それでも僕は生け贄を捧げることをためらった。
――殺されちゃうよ。君が恐怖になれなかったら、君のお母さんやお父さんは、君の心を、君の魂を、そして最後には命さえも殺してしまう。
――その事は君が一番よく知っているだろう?
そうだ。僕は恐怖になるしかなかった。
恐怖にならねば、僕は殺されてしまう。
「――僕は恐怖になるよ。生け贄を捧げて恐怖になるよ。だから儀式のやり方を教えて」
――よかった。これで僕と君はずっと一緒だ。
暗闇様は優しく囁いた。
布団を這い出ると、窓の外は真っ暗だった。
冬の冷たさが窓の隙間から忍び混んできたせいで、部屋は凍えるように冷たかった。
僕は自分の部屋のドアをそっと開けると、足音を殺して階段を下り、パジャマのまま外に出た。
暗闇様が教えてくれた通り、庭の物置には木刀があった。
僕は木刀を盗み出すと、家を出た。
儀式を行わなければいけない。
どこで?
──神聖な場所で。夜の闇が教えてくれた。
僕は神社にむかった。神社の軒下には一匹の犬が眠っていた。
大きな犬だった。
この犬が生け贄なのだろうか?
こんな大きな犬を生け贄に捧げることが出来るのだろうか?
僕は震えながら思った。
犬は僕に気づき牙を剥きだしにしながら唸った。
怖い、無理だ。
小さな僕じゃ、大人になれない。
僕は神社から逃げ出し、部屋の布団のなかに逃げ込んだ。
僕は木刀を抱きしめながら闇の中で、暗闇様に祈りを捧げた。
暗闇さま、小さな僕でも大人になれる儀式を教えてください。
──僕が教えなくても、君は知っているはずだ。
暗闇様が優しく囁いた。
知らないよ、と僕が答える。
──お母さんが、お父さんが、スーパーの店長が、矢野君が、君に全部教えてくれたはずだ。
暗闇様に言われて、僕はみんなが教えてくれたことを思いだした。
お母さんやお父さん、スーパーの店長に矢野君。みな自分より弱い者を苛めた。
「自分より弱い者を生け贄に捧げればいいの?」
――そうだよく気づいたね。でもまだ教えてくれたことがあるはずだ。
僕は必死で考えた。
「――悪いことをしても嘘をつけばいいの?」
――そうだよ。矢野君が君に教えてくれただろう、罪を犯しても嘘をつけばいい。
「でも嘘をつくのはよくないって、みんな言ってるよ」
――それは嘘が有効だからだよ。嘘をつけば簡単に強くなれる。大人はそのことをよく知っているから、子供が嘘を覚えるのが怖いのさ。
「これでもう全部かな」
――君が覚えなきゃいけないことはまだいっぱいあるけど、でも大人になるにはこの二つだけを覚えていればいい。
「弱い者を生け贄にささげて、嘘をつく」
僕は覚えたことを忘れぬよう、口の中で何度も呟いた。
完全に覚えると僕は布団から這い出た。外は明るかった。
耳をすまし、両親の声がしないか確かめた。
なんの音も聞こえなかった。
お父さんは仕事に。お母さんは習い事に行ったのだろう。
僕は服に着替えると、木刀をベットの下に隠した。
真っ昼間に木刀を持って歩いていたら、お巡りさんに捕まるかもしれない。
〝それに常に武器は隠しておいた方が良い。家には敵しかいないのだから〟
僕は台所の冷蔵庫から生肉を盗んだ。
外に出ると、潰れた廃工場で鉄パイプと、鉄パイプを隠すために近くに落ちていたズタ袋を盗んだ。
僕はズタ袋に鉄パイプを隠し終えると、神社にむかった。
神社には誰もいなかった。軒下で寝ていたあの大きな犬もいなかった。
そのかわりに小さな子犬が、木陰で眠っていた。
僕はズタ袋から鉄パイプを取り出すと、背中に隠した。
子犬はとても小さく可愛らしかった。
〝こんな小さな犬を生け贄に捧げてないといけないの?〟
子犬が可哀想だった。だから暗闇様に尋ねた。
子犬の影に潜んでいた暗闇様が答えた。
──この子犬は君なんだ。
「この犬が僕なの?」
──そう。この子犬こそ弱い君なんだ。子供の君なんだ。
〝そうかこの子犬が僕なのか〟
僕は子犬を見つめながら震えた。これから起こることを想像して震えた。
怖い、それにどうしようもないぐらい厭だった。
自分が、自分を殺すことが、どうしようもなく怖かった。
でも大人にならなければいけない。
僕には親はいない。僕の親は敵だ。
強くならなければ、恐怖にならなければ、僕は恐怖によって殺されてしまう。
僕は覚悟を固めた。
僕は子犬の鼻先に生肉をかざした。
まずは嘘をついて、相手を欺さねば。
僕は矢野君が教えてくれたことを実行した。
子犬はあっさりと僕の嘘を信じた。何も知らない子犬は嬉しそうに尻尾ふりながら、生肉にかじりついた。
子犬は生肉を食べ終わると、僕の手をペロペロと舐めた。
とめどもなく涙が溢れた。
僕は大人に──
僕は恐怖に──
──ならなければならない。
でも僕には出来なかった。どうしても自分を殺すことが出来なかった。
──弱い君を殺さなければ、君が殺されてしまうよ。
僕の影に潜んでいた暗闇様が、耳元で囁いた。
「──出来ないよ。僕を殺すことなんて出来ないよ」
──大丈夫。僕が怖くないやり方を教えてあげるから。
「──どうやるの?」
──ズタ袋のなかに子犬を放り込んで閉じ込めるんだ。
「──放り込む?」
──ズタ袋のなかを覗いてご覧。
僕は言われるままにズタ袋の口を開いて、中を覗き込んだ。
ズタ袋のなかは真っ暗だった。
──僕がいるだろう。僕が助けてあげるよ。僕が君の罪を隠してあげるよ。だから君は安心して大人になればいい。恐怖になればいい。
ズタ袋の中の闇が、優しく。これ以上ないぐらい優しく励ましてくれた。
「やらなきゃ、やらなきゃ大人になれない」
僕の足下では、僕のことを不思議そうに見上げている子犬がいた。
僕は子犬を撫でるふりをしてその首筋を掴むと、闇が詰まっているズタ袋に放り込んだ。
「ごめん!」
僕は子犬の泣き声を無視して、ズタ袋の口を縛った。
子犬はパニックを起こし、ズタ袋は奇妙な形に変化した。
僕はもう怖くなかった。
ズタ袋のおかげで、可哀想な子犬の姿は見えない。
奇妙な形に変形するただのズタ袋があるだけだった。
僕は鉄パイプを勢いよく振り下ろした。
子犬はキャン! と女の悲鳴のような高い声で鳴いた。
無駄だ。
泣こうが、怯えようが、弱い者は許されない。
鉄パイプでさらに叩く。ズタ袋が赤く染まった。
興奮した。血を見たらすごく興奮した。ぼくのちんちんが固くなった。痛いぐらい固くなった。
そして涙が――。
――ズタ袋のなかで闇に呑まれ死んでいく僕がどうしようもなく哀れで、可哀想で、やり切れなくて、涙が溢れて仕方なかった。
僕は泣きながら何度も何度もズタ袋を叩いた。
ズタ袋が真っ赤に染まり、僕のパンツがヌルヌルとした白い液体によって汚されると、もうズタ袋は奇妙な形に変化することはなかった。
もうズタ袋から悲鳴が聞こえることはなかった。
この日、僕はズタ袋の中で死んだ。
おれは、恐怖へと生まれ変わった。
生まれ変わった日の夜。おれは木刀をもって両親の寝室のドアをゆっくりと開けた。
部屋は真っ暗で、ほとんど何も見えなかった。
子犬を放り込んだズタ袋と同じ真っ暗闇だった。
ここはズタ袋の中なんだ。
その証拠に、闇が怖い怖い親父とお袋の姿を覆い隠してくれた。
あの時と同じく、ただ木刀を振り上げて叩けばいい。
まずは親父からだ。反撃されるとまずいので、さきに強い方から叩くことにした。
もう暗闇様がやり方を教えてくれなくても平気だった。
大人になったおれは恐怖であった。恐怖はつねに闇を孕んでいた。
恐怖になったおれはもう暗闇そのものなのだ。
おれは親父が寝ている位置を枕で確認すると、木刀を振り下ろした。
親父が叫んだ。
胸のなかに熱いモノが溢れた。ちんぽが痛いぐらい激しく勃起する。
おれは絶叫しながら、木刀で乱打した。
布団は見る見ると真っ赤に染まっていく。
気づいたときには、兄貴に羽交い締めにされていた。
「よせ玲二! やりすぎだ馬鹿野郎」
兄貴の声と、激しく喘ぐ自分の音。それしか聞こえなかった。
パンツはグシャグシャに濡れていた。
神社で弱い自分を殺した時以上に興奮していた。
血まみれで倒れているお袋や親父の目には、おれに対する怯えがあった。
おれを羽交い締めにしている兄貴の目にも怯えがあった。
おれは恐怖だ。満足だった。
この件で、親父は奥歯のすべてと右手を骨折した。お袋はびっこを引くようになった。
だが事件が明るみに出ることはなかった。
すべて親父達が隠蔽してくれた。
親父達がこの一件を隠すことはなんとなく予想していたので驚かなかった。
親父やお袋は出世と世間体が一番大切だった。
自分のことよりも、息子のことよりも大切だった。
昔のおれはそのことが理解出来なかった。しかし今はわかる。
親父やお袋が教えてくれた。
暗闇様がおれに教えてくれた。
何をやっても親父達が騒ぐことはなかった。
ならもっとやるべきだ。
何を?
復讐を。
親父やお袋をブチのめしたぐらいでは、おれの気は収まらない。
木刀で殴りたい人間は山ほどいる。
おれはまずスーパーの店長から復讐することに決めた。
スーパーの店長は、お袋や親父と違って家の人間ではない。
両親をやった以上に慎重にやらなければいけない。
おれはビデオ屋から、犯罪映画や刑事ドラマを借りて、襲撃計画の参考にした。
所詮作り事なので、たいした参考にはならなかった。しかしDVD以外に参考にするものが思いつかなかった。
おれはDVDを見ながら計画を練った。
サスペンス映画では下調べが重要だと殺人鬼が言っていたので、スーパーの店長の後をつけてみた。
尾行を始めたばかりの頃は、スーパーの店長に気づかれるじゃないかとドキドキしていたが、馬鹿が気付くことはなかった。
尾行の結果、スーパーの店長は金曜日の夜は居酒屋で必ず酒を飲んで帰ることがわかった。
〝あいつが酔っ払ったとき、襲ってやろう〟
金曜日の夜。スーパーの店長は禿げ頭を赤く染めながら、千鳥足で居酒屋から出てきた。
禿げが人気の少ない脇道に入ったところで、鉄パイプで足を思い切り叩いてやった。
禿げ転ぶと、赤らんだはげ頭を鉄パイプで殴ってやった。禿げ頭割れ、血と奇妙な色をした液体が漏れ出た。
はじめは死んだのかと思ったが、禿げの口からは呻き声が漏れた。
〝これじゃあ、面白くない〟
おれが期待していたのは、泣き喚いたり、怯えたりする店長の姿であった。
うぅうう、と唸られたところで面白くもなんともなかった。
おれは禿げの体をパイプで二、三回叩いてみたが、ハゲは悲鳴をあげることも許しを乞うこともなかった。
すぐに飽きて家に帰った。
三日後、スーパーの店長が病院に入院し、植物人間になったことを新聞で知った。
嬉しくて仕方なかった。
警察は通り魔の犯行だとして、犯人を捜し回ったが見つからない。
当然だ。犯人は小学生なのだから。
嗤いがとまらない。大人のくせに小学生を捕まえることが出来ない、警察のマヌケさ加減を思うと嗤いが留まらなかった。
嬉しくなったおれは、お袋にスーパーの店長を襲ったのはおれだと言ってやった。
お袋は血の気の引いた顔で、おれをみつめた。
おれは満足した。
スーパーの店長に対する復讐が終わると、万引きの濡れ衣を着せたクソ野郎共にも復讐することにした。
全員まとめてブチ殺してやりたかったが、数が多すぎる。
ヘタに襲うと返り討ちにされる危険性があった。
まずはリーダー格の矢野賢治を潰すべきだ。頭さえ叩けばあとはなんとかなる。
矢野が帰り道、一人になるのを見計らって、スーパーの店長のときと同じように後ろから鉄パイプで殴った。
スーパーの店長の時と違うのは、頭を殴らずに腹や足を殴った。
ただ殺すだけでは面白くなかった。
おれを恐れ、命乞いさせなければ復讐する意味がない。
おれは矢野が小便を漏らして土下座するまで痛めつけてやった。
土下座する姿が笑えたので許してやった。
矢野賢治は、この日からおれの手下となった。矢野賢治では名前が立派すぎるので、おれはこいつのことをギリ野と呼ぶことにした。
ギリ野は万引きも得意だが、それ以上に友達を売るのが上手かった。
ギリ野は、取り巻き全員を売った。
ギリ野を使って取り巻き連中を騙せたので、簡単に復讐を果たすことができた。
おれの子分になったギリ野は家に出入りするようになった。
すぐに兄貴もギリ野を使うようになった。
おれはいつでも気が向いたときに苛めることができるギリ野を手に入れて満足していた。
ギリ野は、自分が苛められないように、自分よりも弱い相手を見つけては、おれに献上してきた。
ギリ野が差し出してきた人間のなかには女もいた。
両親が事故でなくなり、叔父に育てられている女だった。
叔父は女のことをうっとうしく思っていたので、余計な首を突っ込んでくる心配はなかった。
はじめは単純なイジメであった。中学に上がるとき、女を強姦した。ちんぽを突っ込んだことよりも、メソメソと泣く女の顔に興奮した。
強姦してから、女はすべてを諦めるようになった。
女はおれの指示に従いウリをした。ウリをした金はすべておれに貢がせた。
おれは暴力によって、金も快楽も、弱い連中からの怯えの混じった敬意も手に入れた。
おれが中学にあがるころには、兄貴とおれの暴力によって人が集まるようになった。
兄貴は集まってきた人間を利用して生首を結成した。
数という暴力が加わると、おれはより強くなり、安定した。
誰もおれに逆らえない。
誰もおれに恐怖を与えることはできない。
幸せだった。
だが幸せは長く続かなかった。
最初のケチは中学三年の時についた。ウリをやらせていた女にちんぽを突っ込んだら、ケジラミをうつされた。
女をぼろくそに殴ってやった。しかし話はそれだけでは終わらなかった。
どこからか話しが漏れて、影でおれのことを馬鹿にしてダニ森と呼ぶ奴らが現れた。
悪名高いタマカスにもうすぐ入学するというのに、舐められた状態というのは非常に不味かった。
タマカスでのおれの地位にも影響してくる。
おれはすぐに手を打った。犯人捜しなどかったるいマネはしなかった。
適当に目をついたやつを犯人としてボコボコにしてやった。
おれのことをダニ森と呼ぶやつはいなくなった。
これでタマカスでの、おれの地位も安泰だと思った。
タマカスに入学しても、誰もがおれに怯え、敬意を払うと思っていた。実際、タマカスに入学したばかりのころは、先公もふくめて、皆おれのことを恐れていた。
しかし舞島だけはおれを恐れなかった。
あっさりとおれをぶちのめした。おれは小便に塗れたまま、トイレの汚い床に倒れた。
──舞島の野郎!
あの日のことを思い出した瞬間、おれはムカつきが押さえきれなくなった。
おれは怒りの衝動が命じるまま、テーブルを思い切り叩いた。
テーブルは激しく震え、箸入れは倒れ、醤油は零れた。
メシを作っていたお袋が、暴力の予兆を感じ震えた。
怒りで気が狂いそうになっているおれの目には、震えているお袋の姿など目に入らない。
──舞島め。おれに小便を引っかけたあげく、殴り飛ばしやがって。
許せない。
舞島のヤツを絶対殺してやる。
トイレの床で目が覚めたあの時も、すぐにそう思った。
しかし舞島は強い。
おれとギリ野だけでは勝てないであろう。
そうだ兄貴を使おう。兄貴はおれよりも強いが、タイマンでは舞島に勝てないだろう。しかし兄貴には生首がある。
数で囲めばいい。
いくら舞島が強かろうと、圧倒的な数の暴力の前には勝てない。
兄貴に相談すると、兄貴はすぐに生首の連中を集めてくれた。
群れのなかに混じると、復讐する喜びと群れの一員であるという安心感が、傷ついたおれのプライドを癒してくれた。
舞島、お前には群れがあるのか?
お前がいくら強かろうとも、所詮一人だ。数には勝てまい。
おれは舞島の面を、ナイフでズタズタに切り刻むことを想像しながら、校門の前で舞島が出てくるのを待った。
舞島が校門で屯っている生首の連中を見て、ビビって逃げる可能性もあった。いや普通の人間なら逃げるだろう。
逃げても構わない。
それなら毎日、プッレシャーをかけてやる。
舞島の心も、体も、殺してやる。
そうだ生首の連中にケツを掘らせてやる。
ナイフでズタズタにするより、そっちのほうが舞島のような男には辛いかもしれない。
おれは舞島を色々な方法で追い詰めることを想像し悦に入っていると、舞島は下駄箱から出てきた。
舞島の後ろには亀もいた。
〝亀の野郎もいるのか〟
舞島のことばかり考えていたので、亀の野郎のことすっかり忘れてたわ。あいつも一緒にボコってやらないと。
亀はおれの顔を見つけると、青い顔をして目をそらした。
兄貴は舞島の姿を見ると、金を要求した。
兄貴は新しいバイクを欲しがっていたから、とりあえず金が欲しいようだ。
――舞島のヤツ払うのかな。払っても許すつもりはまったくないけど。
おれがそう思ったとき、舞島は無言で兄貴に殴りかかった。
完全に不意打ちを食らった兄貴は、あっさりとのされた。
おれも、生首の連中も、あまりに予想外の展開に呆気にとられた。
舞島は呆けている連中を殴り飛ばしていった。亀もわあわあ喚きながら暴れた。
舞島の圧倒的な個の強さに度肝を抜かれてしまったおれ達は闘うことを忘れて、逃げ出してしまった。
この日を境に、生首は舐められるようになった。
生首と対立していた暴走族が、喧嘩を売るようになってきた。
おれにシメられた連中が、復讐を企てるようになった。
おれは恐怖を顔に出すまいとしたが、内心かなりビビっていた。
──復讐が怖い。復讐されるのは怖い。
おれは復讐の怖さを知っている。
おれが復讐する側の人間だったからだ。
それでも生首が存在するうちはまだ震えずにすんだ。
しかし生首の幹部の一人である相原が、よりにもよって片桐組のチンピラの車をギッてきてしまった。
すぐに追い込みがかかった。
追い込みの指揮を取ったったのは、片桐忍だった。
片桐忍は、舞島とは違った暴力を有していた。
舞島の暴力は個の強さであったが、片桐忍は暴力の本質そのものだった。
喧嘩をするときは当然のように数を集めた。
暴力団という背景を使う事にもためらいがなかった。
相手の弱みを見つければ平然とついてくる。
道具も平気で使った。
残酷なことも喜んで行った。
圧倒的で残酷な片桐の暴力。
おれは追い込まれながらも、片桐忍にたいして一種の憧れと、それ以上の憎しみを抱いた。
生首は、片桐忍に潰された。その結果、おれと兄貴、それに相原は街にいられなくなった。
兄貴は東京の方に逃げるといった。相原は関西の窃盗団に伝手があるので、関西に逃げると言い出した。
おれも相原と同じく関西に逃げることにした。
兄貴はおれの言葉を聞いて驚いた。兄貴はおれがついてくると思っていたのだ。
兄貴について行ったってしょうがない。
おれは新たな力を得なければいけないのだ。
関西にはおれを強くさせてくれるものがあった。
関西鬼人会。
関西で一番デカく、そして凶悪な半グレ集団。
おれは鬼人会に潜り込んで、強くなることに決めた。
舞島直人にはなれないが、片桐忍になることは出来る。
鬼人会に入って、ヤクザのノウハウを手に入れてやる。
おれはもっと強く、残酷になってやる。
そう決心しておれは関西に逃げ、鬼人会に入った。
はじめはパシリ扱いだったが、鬼人会の抗争相手の幹部の脇腹をナイフでえぐると、鬼人会の幹部連中に一目を置かれるようになった。
おれは鬼人会で様々なノウハウを学び、暴力に磨きをかけた。
ナイフでは勝てない相手には、飛び道具を使うことを覚えた。
おれをぼろくそにぶちのめした元キックボクサーを、後ろからボウガンを撃って殺してやった。
はじめての殺しは意外と簡単だった。
狙いをさだめ、ボウガンをトリガーを引くだけだった。
死体の始末のほうがよほど面倒くさかった。
殺人をクリアーしたことによって、鬼人会におけるおれの位が一気に上がった。
おれは関西でもっとも凶悪な半グレ組織の幹部となった。
生首の頃よりも、おれは皆に恐れられるようになった。
しかしおれは安定しなかった。
夜、眠っていると舞島にブチのめされる夢を見た。
何度も何度も。
繰り返し。
おれは夢のなかで舞島にぶちのめされた。
おかしくなりそうだった。
〝舞島を殺さなければ、おれは完全な恐怖になれない〟
恐怖は怯えてはいけないのだ。
おれは舞島をブチ殺すため、情報を集めることにした。地元から遠く離れているとはいえ、裏社会のコネを当たれば何かわかるかもしれない。
千葉に縁のある裏社会の人間を当たっていくと、一人の男を紹介された。
田島太穗。
元鬼人会の幹部で、今は片桐組で若衆をやっている。関西にもどって来ているのは本家絡みのヤマを手伝いに来ているからなんだそうだ。
どんなヤマなのか尋ねてみたが、田島は笑って話をはぐらかした。
組の外の人間に話すのは不味いのか。話自体が嘘なのか、ハングレのおれにはわからなかった。
田島はおれを妙に可愛がった。おれは無論警戒した。今は鬼人会に所属しているとはいえ、おれは片桐忍によって潰された暴走族の頭の弟だ。
いくら田島が鬼人会のOBとはいえ、片桐組の若衆がおれを可愛がるなどどう考えてもおかしかった。
片桐忍にバレたら、自分の反目にまわったと受け取られかねない。
そんな危険を田島が犯すとは思えなかった。
──なにか裏がある。
おれは田島の本音をさぐった。田島の方もおれの本音を探った。おれは隠そうとしたが、田島は舞島とおれが揉めている一件も知っていた。
酒の席で田島の口から舞島の件が漏れると、隠していた憎悪が隠しきれなくなった。
おれは田島に舞島に復讐したい、殺してやりたいと、何度も口にした。
「――舞島に復讐したいお前の気持ちはよく分かるが、舞島は、若と連んでいるぞ」
田島の言葉を耳にして、おれはハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
〝舞島一人でさえ厄介なのに、片桐忍と連むとは――〟
これでは舞島に手が出せない。グラスを持つ手が震えた。
田島はそんなおれを見て、「舞島に復讐したいのなら、おれが手伝ってやろうか」意外な言葉を言った。
おれは射すような目で田島の目を見つめた。
ヤクザ相手に危険な目つきであったが、田島の話はそれ以上に危険な話だった。
おれの復讐を手伝うということは、片桐忍の反目にまわるということなのだから。
「お前が疑うのも無理はない。おれは舞島なんてどうでもいいが、若には面白くないことがある。お前も若が邪魔だろう?」
「おれの復讐のために、田島さんは自分の組の未来の組長を敵に回すつもりなのか?」
どう考えても信じられなかった。
「三森、そんなに大げさに考えるな。若をちょっと怒らせて、少しの間寄せ場に行ってもらう。それだけの話だ。若も寄せ場で苦労すれば、もっとデカイ男になって帰ってきてくれるはずだ。愛の鞭ってやつさ」
――全部嘘だ。田島の話は全部嘘だ。ヤクザがそんな甘いことを考えるはずがない。
危険を前にして、おれは頭はフル回転した。
――火種だ。田島はおれを焚きつけて火種にしようとしている。
もめ事こそ、ヤクザのメシの種だ。 1
田島は、おれという火種で、片桐組に火をつけようとしている。
目的はおそらく片桐忍の失墜なんだろう。
田島はおれを焚きつけ、そして望み通り火をつけたら、おれを切り捨てるつもりなのだ。
半グレ組織のなかで培った経験のおかげで、田島の考えを読むことが出来た。
しかし田島の裏に誰が付いているかまではわからなかった。
テメーの親分の実子を的にするんだ。田島の裏には絵図を書いてる大物がいるはずだ。
片桐組内部の人間か、片桐組と敵対するどこぞの組か?
わからない。誰が裏に付いているかで、この話の危険度がわかる。
しかし外からでは探れなかった。
探るには、話を飲むしかなかった。
おれは迷った末、田島の話に乗ることに決めた。
舞島が片桐と連んでいる以上、舞島に復讐するには、ヤクザのバックアップが必要不可欠だ。危険を恐れていては、舞島に復讐することは出来ない。
おれは鬼人会のメンバー数人と、相原を連れて密かに千葉に戻ることに決めた。
誰にもばれずに実家に戻ると、すぐに兄貴とギリ野を呼び寄せた。
今となっては兄貴はたいして使えないが、それでも地元じゃおれよりも顔が広い。人を集めるのに使える。
ギリ野は全然使えないが、何かの役に立つだろうとおもって仲間に引っ張り込んだ。
兄貴とギリ野は、鬼人会の幹部となって戻ったおれを見て、怯えが混じった媚びをみせた。
兄貴達の反応に満足すると、おれは復讐の計画を練った。
まずは片桐組との関係の強化。できれば田島ではなく反片桐忍派の頭と直接接触をしたい。
頭と直に結びつけば、相手の腹も探りやすいし、弱みもつかめるかもしれない。
しかしこれは危険な役目だ。
相手はヤクザだ。しかも端からおれを切り捨てようとしている。
甘い言葉に誘われてほいほい関係を深めれば、利用され捨てられる。へたをすれば殺されるかもしれない。
田島とは距離をとらなければいけない。
──ギリ野を使うことにした。ギリ野を間に挟むことによって、田島と距離を取る。
ギリ野に田島を紹介したら、ギリ野は大喜びをした。
弱く、その上自分のことを利口だと思い込んでいる馬鹿なギリ野は、自分よりも強く頼れる人間をつねに求めていた。
おれ。
暴走族の頭である兄貴。
そしてヤクザ。
ギリ野は自分より強い人間に会うたびに、喜び勇んで泥沼にハマっていく。
肩までつかってしまったら、もう戻れないのに。
〝ギリ野。お前は子犬だ。醜く弱い子犬だ。おれはお前を生け贄に捧げて強くなる〟
おれは心の中でギリ野を嘲笑った。しかしおれはあることに気づいた。
おれは?
おれもギリ野と同じように、肩まで泥に浸かっちまってるじゃないのか?
──悪寒。
自分はギリ野とはちがう。賢く、慎重に立ち回っている。そう自分に言い聞かせた。それなのに背中が妙に薄ら寒い。
おれが殺した元キックボクサーの死に顔が脳裏に浮かんだ。
あの元キックボクサーと揉めたのも、元はといえばヤクザ絡みだ。
ヤクザと揉めなければ、元キックボクサーもおれに殺されることはなかった。
よく考えろ、おれ。
おれは千葉でもっとも凶悪な、日本有数の武闘派ヤクザ組織に火を付けようとしているんだぞ。
あの元キックボクサー以上の危険な橋を渡ろうとしているのだ。
利口に立ち回ったぐらいで、生き残れるのか?
否──。
己の死に様が頭に浮かんだ。背中に震えが走った。
関わるべきじゃなかった。でももう遅い。ここまで来た以上引き返す道はなかった。
こうなった以上、慎重に計画を練らなければ。
まずは兄貴をつかって生首の連中を集めた。鬼人会の後ろ盾があると聞いて、下っ端の連中が集まってきた。
ギリ野を使い、片桐組の内情を探らせた。
驚いたことに、反片桐忍の頭は榊原誠次だった。
在日のクソ野郎。穏健派の仮面をかぶった裏切り者。
ゴミクズのヤクザに相応しいゴミクズ野郎。
──まずい。
こんな大物が反片桐派の頭だなんて。
相手はキワモノ揃いの片桐組で、長いこと若頭を務めてきた人間だ。甘い相手ではない。用が済めばきっと殺される。
肩どころではない。泥はもうおれの口元まで迫っている。
──殺してやりたい。
脳天気に笑って報告しているギリ野も。
何も知らない兄貴も。
おれをドブに浸からせた舞島も。
全世界の笑っている連中、そのすべてを皆殺しにしてやりたい。
なぜおれが泥にハマらなきゃいけないのだ?
理不尽だと思った。
早く舞島を殺してヤクザどもから逃げないと。
おれは準備を急いだ。ある程度準備が整うと、千葉に戻ってきてからまだ一度も顔を見ていない舞島の面を見に行くことにした。
舞島が片桐と連んでいるので、おれは舞島と接触することを避けてきた。粗暴に見えても片桐は慎重で狡猾な男だ。
おれが千葉に戻って来たことを知れば、すぐに動くだろう。
そうなれば榊原達は手を引く。いや、手を引く前に知りすぎたおれを殺すだろう。
だから舞島との接触は避けてきた。だがいつまでも敵の面を見ないわけにもいかない。
おれは舞島達にバレないよう、簡単な変装をし喫茶店から舞島達を観察した。
舞島はなにか話している。
片桐はそれを聞いて馬鹿笑いし、カメの野郎も楽しげに笑っていた。
──畜生。
なぜそんなに楽しそうなんだ。
舞島はおれと同じタマカスというゴミ箱に放り込まれた、ゴミクズ野郎なのに。
舞島の周りには光が溢れている。おれは暗闇のなかで泥に浸かっている。
妬ましい。
羨ましい。
そして何よりも憎かった。
憎い、憎い、憎い、憎い。殺してやりたい。いや必ず殺してやる。
お前も、おれと同じく泥に浸けてやる。
いや舞島だけじゃない。世界中のすべての人間を、泥のなかに放り込んでやる。
おれの魂が、おれの肉が、憎悪と怒りで満ち、今にも狂ってしまいそうだった。
何かを殴らねば。
何かを殴らねば、おれは狂ってしまう。
おれの目の前にはお袋がいた。片足を引きずる弱者。力の弱い女。
弱者は死ね!
「クソババぁ! メシ作るのにいつまで時間かけてんだよ!」
おれが怒鳴ると、お袋は悲鳴を上げながら逃げ出した。
お袋は足を引きずっているので、すぐに追いついた。
おれはお袋の髪の毛を掴むと、床に打ちつけた。
お袋はひぃいいと病んだ犬のような悲鳴をあげた。
おれはお袋を何度も何度も殴った。
「──止めて、玲二さん」お袋は鼻血を垂らしながら哀れみを請うた。
「おれが謝っても殴ることを止めたことがあるのか、クソババア」
おれは怒鳴った。
床に蹲っているお袋の姿が、幼い頃のおれに変わる。
幼い僕は必死で謝る。
だが拳は止まらない。恐怖は弱者に容赦することを知らないのだから。