その向こうへ行こう 改稿
その向こうへ行こう
蛇のようにくねくねと曲がりくねった長い峠道も、ようやく終わりが見えてきた。もう少し歩けば、隣町に通じる長いトンネルが見えてくるはずだ。
早く歩かないと。僕は道を急いだ。
日の長い夏といえ、もうあと一時間もすれば日は沈んでしまう。
「ちょっと待ってよ~。猫はあんた達犬の違って繊細なんだから!」
峠を登りはじめた頃は僕の前を元気よく歩いていたミミちゃんも、延々と続く坂道に打ちのめされて、今は僕の後ろをとぼとぼと歩いていた。
「もう少しでトンネルだから頑張ってよ、ミミちゃん」
山の中腹にあるトンネルを抜けて、少し歩いたところに道の駅がある。あそこなら灯りもあるし、屋根の下で寝ることもできる。
野宿の場所としては理想的だった。
〝ただしその前にあの暗いトンネルを通らなければいけない〟
灯台に戻ってくるときも、あの暗いトンネルを利用した。
暗闇が嫌いな僕としては、トンネルなど通りたくはなかった。
回り道をすれば、トンネルを通らずに済ませることもできた。
しかし回り道を選択すれば、かなりの遠回りになる。
一刻も早く灯台に帰りたかった僕は、迷わずトンネルを抜けるルートを選択した。
一人で暗闇の中を歩くのは恐くて恐くて仕方なかったけど、花子お婆ちゃんに会えることを夢みて暗闇の恐怖に耐えた。
〝一人でも耐えられたんだ。今はミミちゃんと一緒だ〟
耐えられないはずはなかった。
ミミちゃんの泣き言や文句を浴びながら、坂道を登りきった。
トンネルは歯のない口に暗闇を湛えながら、僕等を見下ろしていた。
心なしかトンネルを照らす灯りも、前に通ったときよりも暗く感じた。
〝それにこんな物のはなかった〟
トンネルの入り口には、生首参上と落書きされた工事中の看板が置かれていた。
「なにボケッと突っ立てるのよ。このトンネルを抜ければ、道の駅があるんでしょう?」
ゴールが見えてきたことによって、ミミちゃんの気力も復活したようだ。
「うん、そうだけど・・・・・・。なんか前にきたときよりも不気味なんだよね」
「疲れて気が弱ってるから、そう思うのよ! ここまで来たら戻ることも出来ないだから、さっさと通り抜けるわよ」
「・・・・・・うん」
ミミちゃんの言うとおりなんだけど、気が進まない。かといって引き返すことも出来ない。
僕は意を決して、トンネルの中に足を踏み入れた。
湿気を孕んだ空気が、僕の体にまとわりつく。
〝厭な空気だ〟
それにここは暗すぎる。
あの暗いダンボールの世界を思い出す暗さだ。
恐い。
僕は震えだした。
「――あんた大丈夫?」
前を歩いていたはずのミミちゃんが、いつのまにか僕の隣を歩いていた。
「――実は僕、暗いのが恐いんだ」
「いい年して、暗いのが恐いの? 情けない男ね。私が隣にいてあげるから我慢なさい」
ミミちゃんは口は悪かったが優しかった。
二匹の犬と猫はぴたりと寄り添いながら、暗いトンネルの中を進んでいく。
突然、生臭い臭いが鼻を刺した。
なんだこれ。
嗅いだことがある匂いだ。
死の暗さ。
死の臭い。
──ここはよくない場所だ。
「ミミちゃん、ここを出よう! このトンネルは危険だ」
時間をいくらロスしようが、構わない。
引き返して回り道を選択すべきた。
ここはよくない場所なのだから。
「なに言ってるのアンタ?」
ミミちゃんはさらに何か言おうとしたとき、
「きゃひん!・・・・・・」という犬の悲鳴が、暗いトンネルの中に木霊した。
「──アンタが叫んだの?」
「違うよ、僕じゃないよ」
二人して顔を見合わせる。
「ニャあああああ!・・・・・・」
今度は猫の絶叫がトンネルの中に木霊した。
「誰か猫を苛めてるのかも!」
ミミちゃんは叫び声にむかって駆けだした。
「待ってよ、ミミちゃん。危ないよ!」
僕はミミちゃんの後を追う。
「なにビビッてるのよ。あんたの同族も苛められてるかもしれないのよ!」
この暗闇の中で行われてるのは、苛めとかそう言った生易しいレべルじゃない。
だってこの臭いは・・・・・・
暗闇のなかには数台のバイクと、一台の車が止まっていた。
車のヘッドライトが照らす先には、矢が突き刺さった無数の犬猫が血を流しながら倒れていた。
――否。
死んでいた。
血の臭い
死の暗さ。
死の臭い。
ここはやはりよくない場所なのだ。
ミミちゃんは死骸を見つめながら、ぼんやりとしていた。
「ミミちゃん、隠れて。見つかったら殺されるよ」
僕の声を聞いても、ミミちゃんは返事をしなかった。
あまりの悲惨な光景にショックを受けて、反応出来なくなってしまったのだ。
僕はミミちゃんの首根っこを軽く噛んで、トンネルの隅の暗がりに引きずり込んだ。
僕は目を凝らし、暗闇を見つめた。
血まみれの生首が描かれた不気味なジャンバーを着たパンチパーマの男が立っていた。パンチパーマの男の片手にはクロスボウが握られていた。
この男だ。
この男が虐殺したのだ。
「おい、ギリ野。さっさと次ぎのヤツ放てよ。とろとろしてると犬のかわりにテメーを的にすんぞ」
「恐いこと言うなよ、三森君」
ギリ野と呼ばれた卑屈な男は、大きな麻袋から、一匹の子猫を取りだした。
哀れな子猫はこれから行われる行為を予感して、激しく暴れた。
ギリ野は暴れる子猫を車のヘッドライトの方目がけて放り投げる。
子猫は地面に足がついた瞬間、トンネルの出口にむかって駆け出していく。
三森は慣れた手つきでクロスボウを構えた。
〝この男は何匹殺してるんだ〟
その手をどれだけ血で汚せば、その手慣れた動作を手に入れることが出来るんだろうか?
知りたくもない疑問が頭をよぎった。
三森は逃げる子猫にむかって狙いを定める。
僕の前を誰かが駆け抜けていった。
ミミちゃんだった。
「行っちゃダメだ、ミミちゃん!」
「子供が殺されようとしているのよ! 黙ってられないわよ」
ミミちゃんは振り返りもせず怒鳴った。
そうだ。ミミちゃんの言うとおりだ。
僕は恐怖に怯え忘れていた。
花子お婆ちゃんなら必ず助けようとするはずだ。
――ダンボールの中で死にかけた僕を助けたように。
僕は三森にむかって駆けだした。
三森のまわりにいた男達は、予想外の襲撃に反応できない。
ただ一人、三森だけが僕等の接近に気づき、クロスボウの狙いを子猫から僕等に移した。
クロスボウからボルトが放たれる。
ボルトは僕の背中をかすめ、地面に突き刺さった。
「畜生外したか!」
「畜生は、お前だ!」
僕は三森に飛びかかり、腕に食らいついた。
ミミちゃんも三森の足首に噛みついた。
「痛てえな! このクソ犬共」
三森は僕とミミちゃんを振りほどこうと、激しく藻掻いた。
僕は闇の中にいるはずの子猫に目をやる。
子猫はいなかった。
逃げ出したようだ。
よかった。
僕は三森の腕を解放した。
三森の腕からは血がどくどくと流れていた。
「ミミちゃん、子猫は上手く逃げたようだ。僕達も逃げよう!」
ミミちゃんは黙って頷くと、トンネルの入り口にむかって駆けだした。僕も後に続いた。
「なにボケっとしてるんだ、テメー等。あのクソ犬共、さっさと捕まえろよ!」
三森に怒鳴られると、子分達は慌てて動き出した。
走って追いかけてくる間抜けな連中もいたが、頭の切れる奴はバイクに乗って追いかけてきた。
マズイ。
人間の足なら逃げ切る自信があるが、バイクとなると話は別だった。
「ミミちゃん、トンネルを出たら左手にある獣道に逃げ込むんだ!」
獣道なら、バイクで追ってくることは不可能だった。
「わかったわ!」
ミミちゃんは怒鳴り返す。バイクの爆音が近づいてくる。
捕まれば確実に殺される。僕等は文字通り死ぬ気で走った。
赤い光が見えてきた。
出口だ。
やった逃げられる。
一瞬気が緩んだ瞬間、ボルトが飛んできた。
三森だ。三森は子分にバイクを運転させて、自分は後ろに跨がってクロスボウを撃ってきた。
「クソ外したか」三森は悔しそうに呻いた。
残虐で、執念深い男だ。
こんな男に殺されたら、死でも死にきれない。
幸いにも三森を乗せたバイクを運転している男は、あまり運転が上手くなかった。
暴走族の下手くそな運転のおかげで、僕等はなんとかトンネルから抜け出すことに成功した。
血のように赤い夕日が、僕等を迎える。
僕等は夕暮れには目もくれず、一直線に獣道に逃げ込んだ。
道路の方からはバイクの爆音が轟く。僕達は大きな木の根元に身を潜めた。
「あの子猫。大丈夫かな」
ミミちゃんはバイクの爆音に怯えながら呟いた。
「大丈夫だよ、僕等より先に逃げだしたんだから」
「――そうね」ミミちゃんは呟いたあと「人間ってなんであんな残酷なことができるの?」
「――わからないよ、ミミちゃん」
でも――
「人間には優しい人も一杯いる。三森のような人間を基準にしちゃいけないよ」
「そうね。ママみたいに優しい人もいるんだから――」
うん――?
ミミちゃんは怪訝な顔で、僕の背中に目をやった。
「あんた背中から血が出てるじゃない!?」
「さっきのボルトか」
当たってはいないと思っていたが、ボルトは背中を掠めていたようだ。
逃げるのに夢中で、痛みに気づかなかった。
「結構血が出てるじゃない。こんなに血を出してるのに気づかないなんて鈍感の極みね」
ミミちゃんは僕を罵倒した後、背中の傷を舐めてくれた。
「ミミちゃん、傷なんか舐めたらばい菌はいちゃうよ」
恥ずかしくなった僕は心にもないことを言うと、
「あんたに死なれちゃ、私がこまるのよ」
それに――
「命がけで、あの子猫助けてくれたでしょう。これはそのお礼よ。猫族は義理堅いからね」
「あれはミミちゃんに釣られたからだよ」
僕一人だったらトンネルの隅で震えているだけで、子猫を助けようともしなかっただろう。
「釣られようがなんだろうが、アンタのおかげで子猫が助かったのは事実だから、恩があるのはたしかよ」
ミミちゃんはそれ以上の反論は許さなかった。僕は仕方なくミミちゃんの柔らかくてざらついた舌の感触に身を委ねた。
目を開けると、空は明るくなっていった。
いつの間にか眠ってしまったようだ。
僕は眠気を払うために、激しく頭を振るった。
背中がズキリと痛んだ。昨日の傷が痛むようだ。
僕は痛みに顔を顰めたが、傷口からは血が出なかった。
ミミちゃんが舐めてくれたおかげかもしれない。
――ミミちゃんにお礼を言わないと。
僕は木の根っこを枕にして眠りこけてるミミちゃんを揺すった。
「――もう朝なの?」
「うん。朝ご飯を食べたらここを出発しよう。こんな人気のないところで三森に出会したら、殺されちゃうよ」
三森という単語が出た瞬間、ミミちゃんは顔を顰めた。
「そうね。あんな男に殺されたら死んでも死にきれないわ。さっさと朝ご飯を食べて出発しましょう」
僕は朝食を食べながら、ミミちゃんに昨日のお礼を言った。
「恩を感じるなら、その鼻でしっかりとママを見つけてよね」
ミミちゃんはそれだけ言うと、朝食を食べるのに集中した。
ひょとしたら照れてるのかもしれない。
朝食を食べ終わると、獣道を抜け出し、峠道を下った。
幸い三森達には出会すことなく、昼前には隣町に辿り着いた。
「ようやくついたね、ミミちゃん。これからどうする?」
「あんたの新聞を配りながら、ママの匂いを見つけるわ」
「なるほど、それなら一石二鳥だね。ところで僕、まだミミちゃんのママの匂い嗅いでないだけど」
「ママのスカーフ嗅がせてあげるから、ちゃんと匂い覚えなさいよ」
「うん」
僕は頷くと、ミミちゃんの首に結わいてあるスカーフの匂いを嗅いだ。
「こらっ、馬鹿犬。あんまりクンクンしないでよ! 恥ずかしいでしょう! それに息が掛かってくすぐったい」
ミミちゃんは恥ずかしいやらくすぐったいやらで、顔が真っ赤になっていた。
「ゴメンね、ミミちゃん。でもよく嗅がないと匂いが覚えられないだよ」
僕がそう言うとミミちゃんは大人しくなった。