旅立ちの歌 改稿
狸子ちゃんと別れた後、僕は暗い夜道を一人で歩いた。
お腹が空いていたので。本当はもっと早く歩きたかった。
しかし月は雲に隠れ、街灯の光は弱々しく頼りなかった。
僕は犬なので、目ではなく鼻を頼りに歩けば、暗い夜道でも平気であった。
しかし、鼻を頼る気にはなれなかった。
〝この道は、花子お婆ちゃんと一緒に毎日歩いた道だ〟
アスファルトに鼻を近づければ、嗅ぎなれた匂いが漂ってくる。
風に混じる潮の匂い。
名も知らぬ花々の匂い
アスファルトに蓄えられた夏の熱の匂い。
地面に鼻を近づければ色々な匂いが、僕の鼻孔をくすぐってくる。
でも一番かぎたい匂い――。
――花子お婆ちゃんの匂いは、アスファルトから消えてしまっていた。
三百六十五日。
休みなく――。
毎日、毎日、花子お婆ちゃんと一緒にこの道を歩んできたのに、灯台に通ったのに。
アスファルトからは、花子お婆ちゃんの匂いは消えてしまった。
悲しかった。
切なかった。
やり切れなかった。
だから僕は匂いは嗅ぎたくなかった。
それに――。
急いで帰ったところで誰もいない。
お帰りと言ってくれる人も、頭を撫でてくれる人も、お腹をくすぐってくれる人も、一緒にゴハンを食べてくれる人もいない。
薄暗い灯台のなかで、一人ぼっちだ――。
気持ちがどんどんと暗くなっていく。
しっかりしろ。
独りで暮らすと決めたのは、自分じゃないか。
僕は弱気になる己を叱りつけた。
狸子ちゃんとはじめて出会った日。
狸子ちゃんは一緒に暮らさないかと、言ってくれた。
僕は感謝しつつも、狸子ちゃんの申し出を断った。
「どうしてなの、ポン君? 一人でいたら、野良犬と間違えられて保健所に捕まっちゃうかもよ?」
「――でも灯台にいたいんだ。ひょっとしたら花子お婆ちゃんが灯台に来るかも知れないから」
自分でもわかっている。
それが微かな可能性にすぎないことを。
それでも僕は――。
僅かでいい。
僅かでいいから、その微かな可能性を零にしたくなかった。
狸子ちゃんは暫し僕の目を見つめた後、「――説得は無駄そうね」と言って笑った。
「わかったわ、ポン君。家から必要な物をもってくるから、ポン君の好きなようにすればいいわ」
「ありがとう、狸子ちゃん」
「――ただし野良犬と間違われないように首輪と、それとリボンをつけてもらうわよ」
「えっ、リボン?」
首輪には慣れていたが、リボンなどつけたことなどなかった。
「リボンの裏に名前を書いておくから。これなら誰も野良犬だとは思わないでしょう」
そう言うと狸子ちゃんは、問答無用とばかりに僕の胴体にリボンを結んでしまった。
「リボンは結ばなくても大丈夫だよ」
僕は遅まきながら反論した。リボンのせいでなんかくすぐったいし、それに第一恥ずかしかった。
「照れない照れない。わたしも修行時代、リボンを頭に結んだおかげで、野良狸と間違われずにすんだんだから」
「えっ、狸って、飼い狸っているの? と言うか、狸子ちゃん人間に飼われたことあるの?」
「私は飼われたことないけど、世の中狸を飼う物好きな農家のおっさんとかが結構いるのよ。リボンさえ結んでおけば人間のほうが勝手に飼われていると思うでしょう」
思うかな――。とおもったが、野良経験が少ない僕には反論できなかった。
僕はその日から胴体にリボンを結ばれて、灯台に暮らすことになった。
狸子ちゃんがご飯を持って来てくれるし、いろいろと世話を焼いてくれるから、何の不自由もないだけど――。
でも、独りぼっちはやっぱり寂しいな。
独りで灯台に暮らしていると色々な人達が、僕を構ってくれた。
一平さんやポン子ちゃん、直人さんに朱美ちゃん。その他にも無数の人が――。
僕に優しくしてくれたけど。
でも――
犬の僕には難しくて上手く言葉に出来ないだけど。
僕は一平さん達の外側にいるんだ。
どんなに優しくされても、どんなに構ってくれても、僕は彼らの内側に入ることはできない。
内側とは、人間の言葉で言うところの家族。
そう、一平さん達は家族じゃないんだ。
僕にとって家族とは、花子お婆ちゃんただ独り――。
だから、一平さん達がいくら僕と遊んでくれたとしても――。
その優しい仕草が、花子お婆ちゃんに似ていれば似ているほど。
僕は心のどこかで切なさを覚えた。
いつの間にか灯台にたどり着いていた。
僕はうな垂れたまんま、灯台の横穴を潜った。
誰もいない、夜の静寂が支配する薄暗い灯台の内部。
――のはずだった。
バリボリとがっついた咀嚼音が、狭くて暗い灯台の内部に木霊していた。
びっくりして顔をあげると、首に青いスカーフを結んだ薄汚いシャム猫が、ドッグフードの袋に頭を突っ込んでいた。
「――どなた様ですか?」
僕が声をかけると、シャム猫はドッグフードの袋から頭を出した。
「どなた様とは失礼ねぇ。人の名前をたずねるなら、自分がまず名乗りなさいよ」
薄汚いシャム猫は、僕のドッグフードをボリボリと貪り喰いながら言い返した。
〝僕のドッグフードを勝手に食べるのは失礼じゃないんだろうか?〟と思ったが怒られそうなので、素直に名乗ることにした。
「ポンです」
「――ポンって言うの。ふん、なかなか可愛らしい名前じゃない。だけど、私の名前のほうが可愛いし、響きだってエレガントだし、何よりもゴージャスだわ。なにせお金持ちのママがつけてくれた名前だからね」
「なんて名前なの?」
犬の僕には、ゴージャスかつエレガントな響きを持つ名前など見当もつかなかった。
「──ミミよ」
ミミちゃんは昂然と顎を上げ、重々しく言い放った。
「――普通だね」拍子抜けして思わず本音を口にしてしまった。
「どこが普通なのよ、この能なし犬! いい、ミミのミは、古代エジプトの三千とんで三代目の女王様の飼い猫であるミマスカトレーネボンゴーレの頭文字から取ったのよ!」
「ミミちゃんの頭文字は、エジプトの女王様の飼い猫から、取ったの?」
エジプトという国がどこにあるのか? 女王様がどれぐらい偉いのか、日本生まれの日本育ちである雑種犬の僕にはわからなかった。
しかし田舎者の僕は、外国というだけで圧倒されてしまった。
「じゃあ、次のミは?」
「えっ――」一瞬の間の後、ミミちゃんは「ミル・マスカラス――。メキシコでもっとも猫好きで、もっとも強いレスラーの名前から取ったのよ! どう凄いでしょう」と、レスラーのように鼻息荒くしてミミちゃんは言った。
「――一番強いレスラーか・・・・・・」
エジプトのなんとかと言う女王様の飼い猫よりも、メキシコで一強いレスラーの方が、ミミちゃんにはしっくり来るような気がした。
いきなりミミちゃんに引っかかれた。
「いっ、痛いよ。ミミちゃん。僕なにもしてないよ」僕が抗議すると「なんかむかついたのよ!」と怒鳴られた。
ミミちゃんは乱暴なだけではなく、カンの方も鋭いようだ。
「――ところであんた飼い犬なの? それとも野良犬なの?」
「――えっと、話すと長いだけど・・・・・・」
僕が事情を説明しようとすると、
「こんな贅沢なもん喰っているんだから、甘やかされた飼い犬ね」
僕の事情なんてまったく知らないのに、ミミちゃんは断言した。
反論しようかとも思ったが、たしかに今の状況は野良犬とはいえない。
かといって飼い犬とも言えないような気がする。
僕の飼い主は花子お婆ちゃんだし、それに狸に飼われている犬というのは聞いたことがなかった。
「でっ、あんたを甘甘に甘やかしてる飼い主はどこなの? 一応、ご飯を御馳走になったから、お礼ぐらい言わないとね」
ミミちゃんはキョロキョロと辺りを見回した。お礼を言うつもりらしい。
意外と義理堅い性格なのかもしれない。
〝僕にもお礼言ってくれてもいいのに〟
狸子ちゃんから貰った物だけど、一応そのドックフードは僕のゴハンでもあるのだから。
僕は心の中で呟いたが、口にするほど愚かではなかった。
「今事情があって、ここにはいないんだ」
「じゃあどこにいんのよ、あんたの飼い主は?」
――僕にもわからないよ。
それがわかれば、僕はここにはいない。
「――なんか事情がありそうね。千葉のご意見番と呼ばれてる私に話してみなさい」
僕はミミちゃんに事情を話した。
花子お婆ちゃんに拾われたこと。
花子お婆ちゃんの病気のこと。
花子お婆ちゃんの記憶を取り戻すために、新聞を配ってること――。
それらすべての話を、ミミちゃんは黙って聞いた。
語り終えると、何故かミミちゃんは俯いて肩を振るわせていた。
「――どうしたの、ミミちゃん」
具合でも悪くなったのかと思って、僕が尋ねると、ミミちゃんは何も答えなかった。
そのかわり灯台の床には点々と濡れた跡が――
「――ひょとして泣いてるの、ミミちゃん?」
「そっ、そんな訳ないでしょう。目にゴミが入って痒くて涙が出てるのよ!」
ミミちゃんは泣きながら怒鳴った。
「僕のために泣いてくれてるんだ。ありがとうミミちゃん」
誇り高い人は同情されると怒ると言うが、僕は弱い犬なので素直に嬉しかった。
「――ふん、あんたもなかなか苦労しているみたいね。でもね私だってメチャクチャ苦労してるだから。海岸を歩いていれば、汚らしい狂犬にレイプされそうになるし、ドラム缶の上で寝てたら、鉄砲で撃ち殺されそうになるし。今こうして生きてること事態が奇跡――。そう思えるぐらい壮絶な経験しているんだから。あんただけが苦労してるなんて思わないでよね!」
「――壮絶な経験してるんだね」
平和な田舎町だと思っていたのに、千葉の治安は思ったより悪かった。
「私じゃなかったら、確実に死んでたわね」
ミミちゃんは重々しく呟く。
「でもなんでミミちゃんがそんな目に会うの? ミミちゃんのママはお金持ちなんでしょう」
「――私が二、三日家を留守にしている間に、ママが引っ越しちゃったのよ」
「えっ、ミミちゃんを置いて?」
僕は、ミミちゃんの説明に納得できなった。
何らかの事情で急いでいたとしても、飼っていた愛猫を置いて引っ越してしまう飼い主がいるだろうか?
「ママは会社の社長だから、いろいろと忙しいのよ! それよりあんた、二、三日時間とれる? その狸子とやらが戻ってくるまで多少時間があるんでしょう?」
「えっ、なにかあるの?」
「――あんたに頼み事があるのよ」
「頼み事って?」
「私のママ、どうも隣町にいるみたいなの」
「隣町のどこに?」
「――場所まではわからなかったわ。でも美容室に忘れていったママのスカーフは手に入れることができたから、犬のアンタなら隣町まで行けば匂いがたどれるでしょう?」
首に巻いてあるスカーフはママのか。
助けてあげたいな。
でも――。
「――ごめん。僕新聞を売らないといけないし――」
「新聞なら旅しながらでも売ればいいでしょう。私も配るの手伝うから、お願いだから助けて」
プライドの高いミミちゃんが僕に頭を下げてきた。
「――それにひょっとしたら灯台に花子お婆ちゃんが来るかもしれないから――」
「わかったわよ、馬鹿! もう頼まないから」
ミミちゃんは外に飛び出そうとするが、冷たい雨が行く手を阻んだ。
話に夢中で気づかなかったが、雨が降り出したようだ。
「──とりあえず、今日は泊まっていけば」
僕は自分に出来る精一杯の善意を示した。
「――泊まっていくわよ」
ミミちゃんは硬く冷たいコンクリートの上に横たわった。
激しくなっていく雨音と、ミミちゃんの悲しげな顔が邪魔をして眠れない。
僕は耳と目を閉ざし、なんとか眠ろうとする。
「――寝た?」
雨音のかわりにミミちゃんの声が、僕の耳に侵入してきた。
「──うんうんまだ寝てないよ、ミミちゃん」
「さっきはごめんね。あんたのこと馬鹿なんて言って。あんたも花子お婆ちゃんに会うために必死なんだよね」
――会えるといいね。ミミちゃんはそっと囁く。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
会話は止み、雨音だけが響く。
しばらくして、雨音に寝息が混じった。
ミミちゃんは寝たようだった。
僕も寝ようとするが、眠れない。
心の片隅がちくちくと痛む。
〝花子お婆ちゃん、僕はどうしたらいいんですか?〟
ミミちゃんの力になってあげたい。
ママに会わせてあげたい。
でも――。
僕だって花子お婆ちゃんに会いたい。
自問自答を繰り返す。
「――ママ・・・・・・」
「――ミミちゃん?」
起きたのかと思ってミミちゃんの方をみると、ミミちゃんは眠っていた。
「寝言か・・・・・・」
僕は呟いた後、クシャミをした。
雨のせいか、夏なのに肌寒かった。
僕は毛布を引っ張り出し、寝ているミミちゃんにかけてあげた。
ふと見ると、ミミちゃんの瞳には涙の跡があった。
「ミミちゃん──」
「――ミミちゃん起きて。もうすぐ朝だよ」
僕は眠りこけてるミミちゃんを前足で揺すった。
「──猫は寝るのも仕事なんだから、もう少し寝かせてよ」
目を瞑ったまま、ミミちゃんは答える。
「隣町に行くんでしょう? なら早くここをでないと」
ミミちゃんは薄目をあける。
「──まだ夜が明けてないじゃない。夜が明けてからでも平気よ」
「ダメだよ。僕も行くんだから」
僕の言葉を聞いた途端、ミミちゃんは文字通り跳ね起きた。
「行くって、あんた。助けてくれるの?」
「よく考えてみれば、隣町で新聞配ったことないから、隣町で配った方がみんな受け取ってくれるかもしれないから、僕も隣町に行くことにしたよ」
「ありがとう、ポン!」
感極まったのかミミちゃんは抱きついてきた。僕は女の子の感触にドキマギしながらも「ただし三日後の夕方までには灯台に戻ってこないといけないから、あまり時間はとれないよ」
「三日もあれば十分よ。さあ、ぼけぼけしてないで出発するわよ!」
ミミちゃんは高らかに宣告すると、毛布を蹴っ飛ばして灯台の横穴を飛び出していった。
「ミミちゃん、待ってよ!」
僕はミミちゃんの後を追った。
外はまだ暗いけど、雨は止んでいた。