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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第二部 and I love you
28/52

祈り 旧題横断報道を渡る人達 改稿

 

 僕と狸子ちゃんは、大勢の人達で賑わう駅前の広場で新聞を配っていた。しかし受け取ってくれる人はほとんどいなかった。

 大抵の人は、僕達の前を素通りしていく。

 背広姿のおじさんがようやく新聞を受け取ってくれたかと思ったら、一瞥もせずに道端に投げ捨て捨てた。

 僕は悲しい気持になって、汚れてしまった新聞を拾いに行った。

 汚れた新聞を狸子ちゃんに渡すと、「――まだまだ修行不足ね、私も」

 そう言って狸子ちゃんは苦笑いをした。

 〝狸子ちゃん、本当は悔しいだろうな〟

 駅の売店で売っている立派な新聞に比べれば、狸子ちゃんの作った新聞など、新聞と呼べるような出来ではないのかもしれない。

 しかし狸子ちゃんだって手を抜いて作ったわけじゃないんだ。

 寝る時間を削って一生懸命作ったのだ。

 それが読まれもせず、道端に捨てられてしまう。

 新聞の作り手である狸子ちゃんとしては、我慢が出来る行為ではなかったはず。

 それを狸子ちゃんは苦笑い一つで納めた。

 学校内で新聞を配るだけなら、狸子ちゃんはこんな目に会わずにすむのに。

 狸子ちゃんは、花子お婆ちゃんのために、僕のために、頑張ってくれている――。

「――ありがとう、狸子ちゃん」

「どうしたの急に?」

 狸子ちゃんは、僕の唐突な感謝に戸惑う。

「――ううん、なんでもない。狸子ちゃんになんかありがとう、て言いたくなっただけ」

「へんなポン君――」

 狸子ちゃんはそれだけ言うと、すぐに新聞配りを再開した。

 ひょっとしたら照れているのかもしれない。


 日が暮れても新聞の束は一向に薄くならなかった。

 疲れと失意のせいで、僕の頭も尻尾も垂れてしまった。

 〝これじゃあ、間に合わないよ〟

 あと四日もすれば、花子お婆ちゃんの大好きな灯台が取り壊されてしまう。

 もはや光を放つことはない灯台。

 歴史的価値も観光地的魅力もない灯台。

 いつ壊れてもおかしくないオンボロの灯台。

 だから取り壊されるのは仕方のないことなのかもしれない。

 ──でも、あの灯台は花子お婆ちゃんが愛した灯台なのだ。

 何故花子お婆ちゃんが、あのオンボロの灯台に通い続けたのか、僕にはわからなかった。

 花子お婆ちゃんと一緒に灯台に行くたびに疑問におもったが、人の言葉を喋れない僕には質問することが出来なかった。

 〝たとえどんな理由があろうとも、花子お婆ちゃんにもう一度灯台を見せてあげないと〟

 犬の僕に恩返しが出来ることがあるとしたら、これしかない。

 それに──。

 花子お婆ちゃんに早く会いたい。

 〝あと一組のカップルが灯台でキスしてくれれば、僕の願いは叶う〟

 落ち込んでいる暇などない。新聞を配らないと。

 決意を新たに顔を上げると、短く刈り込んだ角刈りが似合ういなせなお爺ちゃんが、僕等の前に立っていた。

 灯台取り壊し反対運動のリーダーである白波正太郎お爺ちゃんだった。

「白波のお爺ちゃん!」

 狸子ちゃんは嬉しそうに声をあげた。

 白波のお爺ちゃんは狸子ちゃんの神社の氏子でもあり、狸子ちゃんにとって第二のお爺ちゃん的な存在のような人であった。

 だから落ち込んでいるときに出会えって、嬉しいのだろう。

「狸子ちゃん。この前はすまんのう。儂等の力が足りんばかりに、灯台を取り壊すことになっちまって」

 老人は丁寧に頭をさげた。

「白波のお爺ちゃんのせいじゃないわよ。役人連中の頭が固すぎるのよ」

 狸子ちゃんは市役所で門前払いされた記憶を思い出したのか、眉間に皺を寄せた。

「そうじゃな。たしかに役人の頭は固い。でもな、儂は役人に対してあまり怒る気になれんのじゃ」

 どうして怒る気になれないの? 狸子ちゃんが問い返すと、

「狸子ちゃん、儂等年寄りがなぜ反対運動なんぞしたと思う?」

「えっ、それは・・・・・・」

 狸子ちゃんも僕も言葉につまった。

 僕と狸子ちゃんには、灯台の取り壊しに反対する個人的な理由があった。

 しかし白波のお爺ちゃん達は違う。

 古い灯台が取り壊されても困らない。

 狸子ちゃんはちょっと考え込んだ後、「――うちの神社の氏子だから?」

「それもあるが、儂等がな反対運動しているのは罪滅ぼしのためなんじゃ」

「罪滅ぼしって?」

「儂等は厳左右衛門様に恩があるんじゃよ。戦場から生きて帰れたという恩がな」

「──白波のお爺ちゃん、戦争行ってたの?」

「ああ行っておった。その頃の儂等はまだ青臭い学生で、徴兵には引っかからなかったが、戦局が悪くなると学生といえども戦場に行かなきゃいけなくなった」

 白波のお爺ちゃんは遠い目で、僕等の知らない過去を見つめた。

「学徒出陣のこと?」

「狸子ちゃんの思ってる学徒出陣とはちょっと違う。ありゃあ大学生とかの話しだからな。儂等は大学生ではなく、今でいう高校生じゃった」

「高校生って、それっていくらなんでも早すぎない?」

「──さすがに徴兵ではなかったよ。志願という形を取っておった。

ある日陸軍の兵隊さんが学校に来て、校庭にみんなを集めた。儂等は何事かと思って校庭に集まると、兵隊さんが涙を流しながら演説を始めるんじゃ。若き学生諸君にこのような話をするのは真に心苦しい。なれど皇国の興廃はこの一戦にありと、な」

「それって募兵に来たってこと?」

「そうじゃ。志願兵を集いにきたのじゃ。あの頃の儂等は若かったから、みな演説を聴くと奮い立った。お国のために、天皇陛下のために、アメ公どもをブチ殺さなきゃならんとな」

 犬の僕は、白波のお爺ちゃんの話を聞いてショックを受けた。

 〝白波のお爺ちゃんみたいな人でも、人を殺したいと思うんだ〟

 犬の世界には戦争がなかった。

 犬の世界に縄張りはあっても、国家はないから、喧嘩になることはあっても戦争になることはなかった。

 たとえ喧嘩になったとしても、お互いの体を噛むことは滅多になかった。

 大抵の喧嘩は吠え声対決で決着がついてしまうし、それ以上のレベルになったとしても、お腹を見せて謝れば許してもらえる。

 だから犬の僕には、人間達が何故戦争を行うのかよくわからなかった。

 〝人間にはお医者さんがいるから、戦争をするのかな?〟

 犬の世界にはお医者さんなんて存在しない。だからちょっとした怪我でも命取りになってしまう。

 だからもし犬が人間のように戦争なんかした日には、犬はたちまち全滅してしまう。

「──今だったらこんな事を口にしたら、軍国主義じゃあ、なんだとかいって叩かれるかもしれんが、あの頃は大陸や南方のジャングルで、毎日兵隊さん達が殺されておったんじゃ。日本人なら誰もが米兵を憎んでいた。

 だから兵隊さんの演説を聴いたとき、儂等もイッチョウ志願しなきゃならんと思ったし、村の大人達も男になれとと勧められた。

 でもまあちょっと冷静になるとな、厳しい軍隊生活。戦死して戻ってきた義兄のことなど思い出して、行きたくなくなる。かといってここまで話が煮えてしまった以上、志願しなきゃ男じゃなくなる。それこそ非国民扱いじゃ」

 ――げんに志願を断った奴がその日のウチにエライ目にあっとる。

「エライ目って、軍隊の人に鉄拳制裁とかされたの?」

「いや、そうじゃない。生野の軍神さまに怒鳴り込まれたんじゃ」

「生野の軍神さま?」

「軍神といっても、相手は普通のおばさんなんだが、その人は四人の息子をすべてを戦争で亡くしててなぁ。どの子もそりゃあ勇敢で、国から勲章を貰うぐらいじゃった。わけても一番下の孝道さんは楠木正成みたいに勇敢でのう。日本が敗戦の危機に陥ってることをしると、すぐさま大学の進学を断って、陸軍に志願した。孝道さんのお袋さんはそれを聞いて泣いて止めたらしいが、男なら誰もが戦場に出て、お国のため、天皇陛下のため、勇ましく闘うことが、男の義務であった時代だ。実の母といえども止めることは出来なかった。最後は諦めて、息子のために千人針を作り、息子が戦場に行くのを見送った」

 ――孝道さんのお袋さんも辛かったろうに。白波のお爺ちゃんはぽつりと呟いた。

「孝道さんは頭もよかったがそれ以上に勇敢な人だった。南方方面じゃあかなり活躍をしたようだが、米軍の封鎖作戦のせいで補給が断たれてしまってのう。弾薬どころか、食料さえも事欠く有様になった。戦争どころではなくなってしまった。

 米軍は、ジャングルに潜む日本兵に投降を呼びかけたが、孝道さんは断固拒否した。最後は二人の部下と日本刀を持って、連合軍の基地に切り込みをかけた。戦勝に奢っていた米軍の連中は完全に油断していたから、士官一名、兵士十一人を斬り殺すという大戦果をあげることができた。──もっとも切り込んだ三人の命と引き替えであったがのう」

 たった三人で、大勢の敵に切り込むって、どういう気持ちなんだろう。

 僕には想像もつかなかった。

「この一件が陸軍に伝わると、軍のお偉いさんが狂喜してのう。米軍の物量さえも上回る、斬り込み三銃士だとか言って、勲章はもちろんのこと、新聞やらラジオでも盛んに褒め称えた。――孝道さん死して軍神となったんじゃ」

 あまりに重い話で、犬の僕はもちろんのこと狸子ちゃんも何も言えなかった。

「当時の儂等は孝道さんのことを郷土の英雄だと思い憧れた。儂等も死ぬときは孝道さんのようでありたいと思った。これこそがサムライだとも思った。ただ──」

 ──孝道さんのお袋さんは壊れてしまった。

「──すべての息子を戦争で亡くした孝道さんのお袋さんの心は、心痛のあまり壊れてしまってな。軍から送られた骨壺──」

 白波のお爺ちゃんは僅かの間言い淀んだ後──。

「──あれは骨壺ではなかった。骨なんぞ入っておらんかったからのう」

「骨壺なんでしょう?」狸子ちゃんは怪訝な面持ちで尋ねた。

「骨壺だが、戦場じゃあ死体を回収できるとはかぎらん。とくに孝道さんの戦死した島は、とっくの昔に米軍に占領されておったからな。とてもじゃないが死体を回収する余裕などなかった。

 だから骨壺には、骨のかわりにジャングルで拾った石ころが入っておったそうだ。孝道さんのお袋さんはその骨壺に抱きつきながら三日三晩泣きはらした。その後空っぽの骨壺を抱えては村を徘徊するようになった。

 そして出会う男すべてを怒鳴るようになったんじゃ。何故お前は志願しないのかと、何故お前は闘わないのかと、相手が老人であろうが幼児であろうが、出会う相手が男であれば、そのすべてに喚き散らした。みな辟易したが、事情を知っているから何もいえん。いつしか村のモンは生野のおばさんのことを、生野の軍神さまと呼び、避けるようになった。──その生野の軍神さまの耳に志願を断った話が耳に入ったんじゃ。しかもその男は孝道さんの仲の良い学友だったから、生野の軍神さまの怒りも凄まじかった、話を聞くや、すぐさまその男の家に怒鳴り込んで、その男に骨壺をぶつけて大暴れしたらしい。その男も孝道さんの学友だったから、すべての事情は知っている。生野の軍神さまの好きなように殴らせていた」

 ──言い返そうと思えばいくらでも言い返させたのにのう。

「なにか事情があったの?」

「あった。事情というか、その若い男は志願こそ断ったが、輸送船乗りの会社に就職することが決まっておったんじゃ。当時の輸送船乗りは、兵士とかわらない。いや場合によっては兵士以上に危険な仕事じゃった。なにせ米軍の潜水艦が片っ端から、日本の輸送艦を沈めまくっていたからのう。誰もが輸送艦に乗るのを嫌がったから、輸送艦乗りは慢性的に不足していた。だから勧誘しにきた陸軍の連中も、その男が輸送船乗りだと知ると勧誘を諦めた。強引に勧誘して海軍と揉めたくもなかったろうしな。しかしそんな理屈は生野の軍神さまには通用しないし、生野の軍神さまを諫められる人間など誰もいなかった。結局、村の連中は生野の軍神様に遠慮して、その男は村八分にした。儂等は後で事情を聞いて、その男に多少は同情したが、すぐに忘れてしもうた。他人のことよりも、自分のことの方が心配だった。戦争に行けば戦死するかもしれないし、それ以前に陸軍のシゴキに耐えられるか不安だった。誰かに相談したり愚痴りたかったが、下手なことを言って臆病者だと誹られるのが怖かった。噂がたって、生野の軍人さまに怒鳴り込まれるのも嫌じゃった。だから村の人間が誰も近寄らないあのボロ灯台の下で、かっぱらってきた酒を仲間と飲むのが、唯一の気晴らしだった」

 白波のお爺ちゃんの声はどこか懐かしげであった。

「粗雑に作られた薄い酒じゃったがあんとき飲んだ酒は旨かったな。

みんな飲み納めとばかりにガバガバと飲んだ。馬鹿話や猥談で盛り上がったが、最後の方になると、ポツリポツリと本音が零れてくる。村じゃけして言えないことも漏れてくる」

「村で言えないってことって、なに?」

「――人減らしじゃよ」

「人減らしって?」

「狸子ちゃんじゃ想像も出来んじゃろうが、貧乏な家は食うために、自分の息子や娘といえども、よそにやらなきゃいけない時がった。女は女郎宿に売られたりもするが、男はそういうわけにはもいかない。簡単に放り込める場所といえば軍隊しかなかった」

「それって人減らしのために、村の人達が白波のお爺ちゃん達に志願を勧めたというのに?」狸子ちゃんは信じられないといった顔で、白波のお爺ちゃんの顔をみつめた。

「証拠はないが、多分そうじゃっただろう。軍が勧誘に来たのも、恐らくは村の連中の嘆願があったからなんだろうな。村の大人共は最後まで認めなかったが、儂等は今でも志願するハメになったのは村の大人や、親達のせいだと思っている」

 白波のお爺ちゃんの声は固かった。

 〝白波のお爺ちゃんは、僕と同じだ〟

 僕も捨てられた。

 白波のお爺ちゃんも捨てられた。

 捨てた側には、止む得ない事情があったのかもしれない。

 それでも捨てられた事実が消えるわけではなかった。

 捨てられた者は、いつまでも捨てられたことを覚えている。

「こんな話誰にも愚痴れんかった。それでも儂等は誰かに愚痴りたかった。だから儂等は酒に酔うと厳左右衛門様に愚痴った。はじめの頃は愚痴った儂等が言うのもおかしいが、馬鹿馬鹿しいことだと思った。

 なにせ神さまといっても、はた目から見れば、金玉のでかい狸の像だからのう。信心のなかった若い頃の儂等から見れば、たんなる間抜けな狸像だった。その間抜けな狸像に、酔っ払っているとはいえ、大の男が抱きついて泣いたり、愚痴ったりするんだ。酔いが醒めれば馬鹿らしいやらアホらしいやられで、我が事ながらに笑ってしまった。あの罪のない笑いで、儂は救われた。ほんの少しだけ、暗い思いを忘れることができた。だから儂等は次第に厳左右衛門を信じるようになっていった。出征する前日、儂等は厳左右衛門さまにお祈りをした。

 無事生きて帰れることを。日本が勝つことをな。もし願いを叶えてくれたのなら、毎年必ずお供え物を捧げます、と誓いもした。

厳左右衛門様は儂等の願いを聞いてくれたのか、日本は負けてしまったが、儂等は全員生きて日本に帰ることが出来た。儂等はボロボロの軍服を着たまんま、厳左右衛門様の前で泣きながら抱き合い、互いの生還を喜び合ったが、喜びはすぐに冷めた。生野の軍神さまは玉音放送を聞くと短刀で喉をついてしまった。生野の軍人様に怒鳴り込まれたアノ輸送船乗りの男も米軍の潜水艦によって、輸送船を撃沈されて戦死していた。村の連中は村の連中で、米軍が進駐してきたら村の女が掠われると言って、大騒ぎしていた。

 戦場帰りの儂等も、すぐに現実に立ち向かわねばならなかった。

 敗戦後の生活は苦しかった。戦争も辛かったが、敗戦後の生活も辛かった。儂等は忙しさにかまけて、戦争の記憶が薄らいでいった──。」

 ──いや積極的に忘れようとしたんじゃ。

 白波のお爺ちゃんは悲しげに呟いた。

「――あの辛く悲しい戦争を二度と起こさないために、戦争の記憶を子孫に引き継いでいく。それは立派な考えでもあり、尊い行いなのかもしれない。しかしのう、儂は思うんだが、あの悲惨な、あの惨い戦争を語り継ぐことなんて普通の人間に出来るのじゃろうか?戦友が死んでいったあの悲しい思いを。両親を殺されて呆然としているあの子供の虚ろな目を、戦争を知らない子孫に語り継いでいけるのだろうか? そんなことは出来んと思うし、したくもなかった。語り継ぐにはあまりに陰惨であったし、抱え込んで生きるには重すぎた」

 ──だから儂等は忘れることにした。

「儂以外の連中も戦地で酷い目にあったのか、それとも戦地で辛い目にあった連中に遠慮したのか、儂等の間でも戦争の話はタブーとなった。

 しかし戦争の話が語られる日は一年のうち一度だけあった。

 厳左右衛門様にお供え物をする日じゃ。その日だけは戦争の話しをした。やがて生活が落ち着きを取り戻し、月日が流れると、戦争の記憶は本当に薄らいでいった。厳左右衛門様のお供え物を捧げるのもいつしか止めてしまった」

 ──恩知らずな氏子で申し訳ない。

 白波のお爺ちゃんは狸子ちゃんに深々と頭をさげた。

「そんな気にしないで白波のお爺ちゃん。厳左右衛門様は十分すぎるぐらいお供え物もらっているから」

「命を救ってもらってたんじゃ、十分すぎるどころか足りないぐらいじゃよ。聞いての通り、儂等は恩知らずな罰当たりな氏子だ。本来なら偉そうな顔をして、取り壊し運動する資格なんぞ、儂等にはない。儂等は忘れておったのだから。灯台の下で飲んだ記憶も、アノ戦争の記憶もな」

 しかし──。

「この灯台が取り壊されると聞いたとき、忘れていた記憶が、忘れようとした記憶の数々が蘇ったんじゃ、短刀で喉をついた生野の軍神様のことや、あの死んだ哀れな船乗り、戦場で見た口にするのも憚れる酷い光景──」

 白波のお爺ちゃんの手が激しく震えだす。

 どうしたんだろう? あきらかに様子が変だ。

「──そして何よりも思い出すのは死んでいった戦友達のこと。

儂が配属された部隊は、南方のちっぽけな島であった。幸い激戦区ではなかった。毎日毎日釣りをしたり、芋を作ったりと、村にいた頃とあまり変わりのない生活を送っておったが、それでも戦争だった。いつしか敵はやってくる。米軍の連中が儂等の島に飛行場を作ることを決心すると、爆撃が始まった。連日爆撃され、儂等の作ったちっぽけな基地や畑は破壊された。闘おうにも、飛行機を打ち落とせるような武器なんぞありゃあせん。腹が立って拳銃など撃とうものなら、機銃掃射で万倍にもされて打ち返された。

 米軍の爆撃に堪えきれなくなった儂等はジャングルの洞窟に逃げ込んだ。爆撃からは逃れることは出来たが、今度は飢えに襲われた。飢えと疲労、おまけに熱病まで流行りだしたから、洞窟内はまさに生き地獄だった。メシが食えるのなら、死んでもいい。闘うことなんぞ、どうでもよかった。それでも軍隊というのは凄いもんで、この地獄のような状況でも闘おうとした。上官達はなんとか部下の志気を盛り上げようと、援軍が来ると言ってみなを励ました。誰も本気にはしなかったが、誰も上官の嘘を暴こうとも思わなかった。儂等は来るはずのない友軍を心の支えにして、洞窟内でミミズやネズミを食って暮らしておった。

 そんな暮らしをしていると、正気を失う人間が出てきた。あばた面の戦友は毎朝皇居の方向にむかって、天皇陛下を叱咤激励した。米軍の爆撃が始まると、奇声をあげて洞窟の外に飛び出そうとした男もいた。毎日朝起きると、日本にいる連中に爆撃警報を叫ぶ男もおった。ありゃあ警告してたというよりも、日本で暮らしている連中が憎かったんだろうな。とにかく毎日爆撃警報を叫んでおった。

 こんな状態だ。

 もう正直ダメだと思っていた。儂も一緒に発狂したかった。だが儂が発狂する前に、米軍の連中が本気で儂等を殺しに来た。それまで空爆だけだった米軍が、島に上陸してきた。米軍は砂浜に橋頭堡に築きはじめた。北の洞窟に潜んでいた連中は、上陸してきた米軍にすぐさま突撃し玉砕した。儂等を指揮している中隊長は、北の洞窟の連中の玉砕の報を聞くと、もはやこれまでと思い、玉砕する覚悟を決めた。中隊長は直々に儂等を呼び出すと、傷病兵を処置するようにいった」

「処置って? どうするの? まさか――」

「――そう殺すんじゃよ。誰もが嫌がるから、殺すとはけして言わないが殺すじゃよ。処置をやらされるのは、大抵一番階級の低い人間――」

 ――つまり儂じゃった。

「儂は軍医からもらったクスリを動けない傷病兵に飲ませた後、狂気に犯されていた戦友達にも無理矢理飲ませた。すべてが終わると、中隊長は皆を集めた。これから米軍に対して最後の攻勢を試みる。世界に輝く皇軍の名誉を汚さぬためにも、全員立派に玉砕してもらいたい。言い終わると、中隊長は一本の白布を取り出した。

 この白布で我らは一丸となる。一丸となって全員玉砕する。──玉砕の失敗を恐れた中隊長は、全員の腰を白布で結びつけて玉砕することにしたんじゃ。みな中隊長の言う通りに、白布で互いの腰をしばりつけた。全員が白布で結ばれると、奇妙な安堵感が訪れた。

儂は一人じゃない。全員一緒に玉砕するんだ。玉砕すれば、この辛い戦争もついに終わる。その思いは戦友達も同じらしく、これから死にに行くというのに、みな笑顔じゃった。儂等は洞窟を出て、米軍の橋頭堡を望むことが出来る丘にむかった。特に隠れながら行ったわけじゃないのだが、米軍に見つかることなく丘にたどり着いた。米兵たちの姿を眼下に眺めると、連中はメシを食っておった。それを見て羨ましいやら、頭にくるやらで、頭のなかがカッとした。そん時じゃ、中隊長が突撃の号令をかけた。

 儂等は一斉に駆けだした。米軍の連中は食ってたメシを放り捨て、銃を撃ってきた。儂等も撃ち返しながら、走った。米軍のほうが人数も装備もはるかに上だったが、決死の形相で突撃してくる儂等に恐怖したのか、なかなか弾を当てることはできなかった。

 それでも撃ていればいつかは当たる。一人倒れ、二人倒れた。誰かが倒れるたびに、事前に決めておいた通りナイフで白布を切った。

 どんどん腰が軽くなっていく。儂は恐ろしくなって、絶叫しながら米軍にむかって駆けた。米軍の撃った一発の弾丸は、儂を貫くかわりに儂の腰に結びついた白布を撃ち抜いた。白布は切れ、儂は倒れた。儂と白布で結ばれていた戦友は、倒れた儂に手を差し伸べてくれた。その手を儂は、儂は・・・・・・」

 ──握れんかった。

 白波のお爺ちゃんの目は涙で溢れていた。唇も激しく震えている。

「儂は歯をガタガタ震わせ、顔を何度も何度も横に振った。手を差し伸べてくれた戦友はほんの少しだけ困った顔をした後、手を引っ込めて駆けだした。戦友達は、儂を除いて全員玉砕した──」

 ──申し訳ありません、水原中隊長殿!

 ──申し訳ありません、山田一等兵殿!

 ──申し訳ありません、木須二等兵殿!

 白波のお爺ちゃんは泣きながら絶叫した。

 横断歩道を渡る人達は何事かと思い、足を止めた。

 みな驚きの色を浮かべて、号泣している白波のお爺ちゃんを見つめたが、すぐに無視して歩き始めた。

 白波のお爺ちゃんの慟哭を受け止めたのは、人間ではなく化け狸の狸子ちゃんだった。

「──白波のお爺ちゃんあまり自分を責めないで。私は戦争を知らないから、白波のお爺ちゃんの話をどう受け止めていいのかもわからない。でもね白波のお爺ちゃん、私は巫女だから知っているのだけど、神様というのは人間ではどうにもならないものを受け止めるのが仕事なの。人智ではどうにもならない災害や、不幸。──それに戦争。多くの人が二度と起こらないように、神さまに祈りを捧げる。

 でもその祈りが叶うことは少ない。神様とて無限の力を持っているわけじゃないからね。でもね、白波のお爺ちゃん。神様は祈りを叶えることは出来ないかも知れないけど、どんな祈りも神様の耳にはちゃんと届いているの。巫女である私の祈りも、子供の祈りも、大人の祈りも、お年寄りの祈りも、死にゆく人達の祈りも、みな神様の元に届いている。神様はその祈りに込められた想いや記憶を受け止めてくれる。白波のお爺ちゃんが捧げた祈りだって、厳左右衛門様の耳にはしっかり届いているし、白波のお爺ちゃんの悲しい記憶だって、白波のお爺ちゃんのかわりにきっちりと覚えていてくれる。その証拠に、白波のお爺ちゃんが祈りにきたその日だけは記憶を返してくれたでしょう? その日が終われば、またその記憶を引き受けて、白波のおじいちゃんのかわりに覚えていてくれる──」

 ──それが神様のお仕事なの。

 オオっ、白波のお爺ちゃんは泣き崩れた。道行く人は誰も慰めようとはしない。

 ただ遠巻きに見ているだけだった。

 〝なんで人間は泣いてる人を見ても誰も近寄って慰めたりしないだろう?〟

 僕は人間達のかわりに、白波のお爺ちゃんの涙をペロペロした。

「おうおう、こんな老いぼれを慰めてくれるのか、お前は」

 白波のお爺ちゃんは僕の頭を撫でてくれた。

〝白波のお爺ちゃんも花子お婆ちゃんと同じなんだ〟

 僕はシワシワの手で撫でられながら思った。

 花子お婆ちゃんも白波のお爺ちゃんも記憶を忘れてしまった。

 白波のお爺ちゃんはあまりに悲しい記憶だったから、厳左右衛門様にお祈りして、その悲しい記憶を預かってもらっていたんだ。

 花子お婆ちゃんは病気のせいで、いろいろな事を忘れてしまった。

 〝でも厳左右衛門様なら、病気になった花子お婆ちゃんのかわりに、花子お婆ちゃんの想いを覚えてくれているはずだ〟

 だからきっと花子お婆ちゃんは、僕のことを思い出してくれる。

 白波のお爺ちゃんは落ち着くとポケットからハンカチを出して涙を拭いたあと、照れくさそうに笑った。

「──儂も年を取って涙脆くなってしまったな。狸子ちゃん、新聞を一つもらっていこうかな」

 白波の爺ちゃんはズボンのポケットから財布を取り出すと、一万円札を一枚取り出した。

「タダで配ってるから、お金なんかいらないわよ、白波のお爺ちゃん」

 狸子ちゃんは手を振って断ろうとしたが、

「なにジュース代と儂のことを慰めてくれたワン公の晩飯代じゃよ」

 白波のお爺ちゃんはそう言うと、遠慮している狸子ちゃんに押し付けるように一万円札を渡した。

 狸子ちゃんも断り切れなくて一万円札を受け取ると、白波のお爺ちゃんは家に帰っていった。

「──困ったな。ただでさえウチの厳左右衛門がお世話になっているのに、巫女の私がお金なんてもらえないわよ」

「──ねぇ、狸子ちゃん」

「なあにポン君?」

「厳左右衛門様は、白波のお爺ちゃんの祈りだけではなく、花子お婆ちゃんの祈りも受け止めてくれてるよね」

「うん。あれでも神様だからね。どんな祈りも厳左右衛門様には届いている。ポン君の祈りもね」

「──そうだよね。厳左右衛門様は神様だもんね。犬の僕のお祈りだってきっと受け止めてくれている」

 でも──。

 どうして狸子ちゃんの大きな瞳の隅には微かな不安の色があるのだろう。

 どうして狸子ちゃんからは不安の匂いが匂ってくるのだろうか。

 犬の僕にはわからない何か複雑な事情でもあるのだろうか。

「一服してから、新聞配り再開しようかポン君」

 狸子ちゃんはそう言うとジュースと僕用のミルクを買いに、駅前のコンビニに向かって歩き始めた。


 休憩を終えると新聞配りを再開した。

 頑張って新聞を配ったが、たいして捌けぬまま、日が暮れた。

 薄暗くなると、駅前の広場といえども人通りが疎らになっていく。

 結局、撤収することにした。

 暗くなった並木道を、新聞の詰まった重い鞄を背負いながら、狸子ちゃんと並んで歩いた。

 暗い道をトボトボと歩いてると、気持ちまでもが沈んでくる。

 〝無理じゃないないかな?〟

 三日という短いあいだに、カップルを灯台でキスさせるなんて〟

 二組のカップルをキスさせるのだって、凄い時間がかかったわけなのだから、三組めのカップルをキスさせるのもそれと同じくらい時間がかかると思ったほうがいい。

 でも僕達に残された時間は三日間しかなかった。

「――ポン君、どうかしたの?」

「あっ、ちょっと考え事してて」

「カップルの件で悩んでたんでしょう、ポン君。昨日の私も同じ事で悩んでたもの」

 と言うわりには、狸子ちゃんの声は明るかった。

「何かいい手を思いついたの?」

 僕が問い返すと、狸子ちゃんのかわりに気味の悪い鳥の鳴き声が響いた。

 びっくりして夜空を見上げると、一羽の大鴉が、死骸にたかるハゲタカのように、僕等の頭上を旋回していた。

 大鴉はゆっくりと高度を下げ、狸子ちゃんの前に着地した。

「クロ早かったわね!」

 狸子ちゃんが褒めると、大鴉は「くええぇ」と不気味な声で鳴いた。

「私に褒められて、そんなに嬉しいのクロ」

 〝あっ、喜んでるのか〟

 もの凄い不気味な鳴き声なので、てっきり威嚇してるのかと思った。

「で、クロ。ジジ様から、返事もらってきた?」狸子ちゃんが問うと、大鴉は長い爪の生えた片足をあげた。足首には手紙が結ってあった。

 狸子ちゃんはクロの足首に結わいてあった手紙を解いて、目を通した。

「我が事なったり!」狸子ちゃんが叫んだ。

「どうしたの狸子ちゃん?」

「――金閣寺よ、ポン君」

「金閣寺? 京都にあるあの金閣寺?」

「そっちの金閣寺じゃないわよ、ポン君。伝説の裏本金閣寺のことよ」

「裏本ってなに?」

 僕は犬なので本には疎かった。

「女の裸とか、女の人の大事なところが丸見えの写真が載ってる本のことよ」

「そんな本、人間は読むの?」

 動物は服を着ないので、裸を有り難がる人間の気持ちはわからなかった。

「人間は頭わるいからね。まあうちの権左右衛門も喜んで読んでるいるから、あまり人間のこと馬鹿にできないけど」

「でもなんか関係あるの、その金閣寺は?」

「関係大ありよ。三組のカップルをキスさせるてのは、ようは権左右衛門の欲望を刺激し、奇跡の源である煩悩パワーを充填させるためなんだから、権左右衛門が興奮してくれれば、べつにキスじゃなくてもいいのよ」

「あっ、そうか。金閣寺を使って権左右衛門様を興奮させる作戦か!」

 〝これならキス作戦が失敗しても、権左右衛門様を満足させることができるかもしれない〟

「さすがだね、狸子ちゃん!」

「ふふふ、私だって必死なのよ、これでも。花子お婆ちゃんには50年前の恩があるからね。あの時、花子おばあちゃんが猟師の罠を外してくれなかったら、私は確実に死んでたわ。命まで助けてもらって恩返ししなかったら、化け狸の名折れよ」言い終わるや狸子ちゃんは「ドロン!」と叫びながら一回転した。

 煙がモクモクと吹き出す。煙が晴れると、一匹の小柄な狸が現れてた。

 変身を解いた狸子ちゃんだ。

「うんじゃあ、行ってくるからポン君。ポン君は新聞を配っておいて。金閣寺だけでも大丈夫だと思うけど、念には念を入れないとね。それに煩悩パワーが高まってる方が奇跡の力も強まるしね」

 ――あっ、狸新幹線に乗り遅れる。

 狸子ちゃんは謎の言葉を呟いた。

 なんだろう狸新幹線って? 疑問に思ったが、急いでいる狸子ちゃんに聞く暇はなかった。

「クロ、悪いけど駅まで送っていってくれる!」

 大鴉は子狸となった狸子ちゃんの両肩を掴むと、夜空に飛び立っていった。

「じゃあ、行ってくるからね!」

 狸子ちゃんは地上にいる僕にむかって大きく手を振った。

 ――狸子ちゃんって、巫女というより鬼太郎みたいだな

 夜空の彼方に消えていく狸子ちゃんを見送りながら思った。






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