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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第二部 and I love you
20/52

手紙 改稿

 片桐と揉めてから一週間が過ぎた。片桐とはまだ仲直りをしていなかった。

 お互い教室であってもシカトしている。

 そのおかげで教室の空気は最悪だが、仕方がない。

 〝道は別れてしまったのだから〟

 一人で歩くのは寂しい。だがそれでも生きている以上、歩かねばならなかった。

 それにおれには落ち込んでいる暇などなかった。

 自分自身の勉強。朱美の家庭教師。応用行動分析の勉強。加藤家の食卓とチビ達の面倒。

 これらに加え、家庭教師の打ち合わせまである。

 今もその最中だ。

「全体的に授業中の私語は減少傾向だけど、算数の時間は多いわね」

 福ちゃんは、マックのテーブルの上に広げられたグラフを見つめながら考え込んだ。

 朱美の私語の回数は授業中つねにカウントされ、グラフにされていく。

 なんのためにそんな面倒くさいことをやるのかというと、どの教科で集中力が落ちているのか?

 朱美の私語を減らす対策は本当に効果があるのか?

 それを客観的に検証するためには、統計を取る必要があるのだ。

「朱美は算数が苦手だから、やりたくないんだろう」

「――そうね、朱美ちゃんは国語とか社会は得意だけど、算数は苦手なのよね」

 福ちゃんは算数ドリルの成績に目を移した。

 ほかの教科に比べて、明らかに点数が落ちている。

「福ちゃん、算数だけ課題のレベル下げてみるか?」

「うーん。ちょっと様子見ますか。朱美ちゃんもやる気があるようだし、一時期に比べれば私語も減少してきてるしね」

「様子見か――」

 ――課題のレベルは維持、と。おれは手帳に書き込んだ。

「――舞島君も、板についてきたわね」

 福ちゃんはおれの顔を見つめながら微笑んだ。

「なんの板だ? カマボコか?」

「カマボコじゃなくて、舞島君の先生ぶりのことよ。最初はどうかな、と思ったけど、今じゃどこに出しても恥ずかしくない立派な先生になったわね、舞島君」

「――福ちゃん、最初の頃、おれのこと才能があるとか言ってなかったけ?」

 おれはジト目で福ちゃんを睨んだ。

「私の予想をはるかにこえる才能だったから驚いてるだけよ、舞島先生」

 福ちゃんは師匠らしく、抗議する弟子を軽くいなした。

 なんかおれ、この人に一生頭が上がらないような気がする。

「舞島先生のおかげで朱美ちゃんの勉強の方は問題なさそうね。そろそろ昼間の外出訓練の方もスタートさせてみますか」

「――ついにやるのか?」

 できるのか? という疑問がまず頭に浮かび、ついにやるのか、という緊張が、身を引き締めた。

 朱美の先生だからよく知っているのだが、朱美の引きこもりぷりは酷いものであった。

 昼間は絶対に外を出ない。

 夜も深夜でないと、外に出ようとはしなかった。

 その深夜でさえ、朱美の機嫌によっては無理な日があった。

「正確に言うと朝だけどね」

「――朝、外出訓練やるのか?」

「学生の舞島君には負担がかるかもしれないけど、早朝なら人が少ないでしょう?」

「なるほど、難度を下げるわけか」

 はじめは優しい課題から入るのが、ABAの流儀であった。

「ええ。人通りの激しい昼間の時間帯は朱美ちゃんには難度が高すぎるわ。それに夜型生活の朱美ちゃんには、昼まで起きているのは辛いでしょうから、まず早朝から始めましょう」

「そうだな。ここでなにかあったら今までの苦労が水の泡だからな。まっだるこしくても、朝から始めたほうが賢明だな」

「危険な橋を渡るのは極力さけないとね。ゆっくりでも安全な道を選ぶのが、教育の基本だから」

 〝おれは急いで危険な橋を渡るタイプだな〟

 テメー一人が危険を被るのならそれでもかまわないが、先生の場合は生徒がいる。

 先生のおれに何かあったら、生徒も巻き添えにしてしまう。

 先生を続けるなら、おれも今までの考え方を改めないといけないな。

「さて、難度の設定はこれでいいとして、モチベーションの設定は何がいいかしら?」

「なんだそのモチなんたらって?」

「やる気を出させるための動機付け。なんの目標もないより、目標を設定した方がやる気が出るでしょ?」

「なるほど。たしかに目標はあった方がいいな。おれも中学生の頃、エロ本の自販機でエロ本を買うために、眠いの我慢して夜中まで起きてたもんな。エロ本がなかったら、絶対に寝てたよ」

「――舞島君の目標としては相応しいけど、朱美ちゃんはエロ本では釣れないわね」

「そりゃ、そうだ」

 おれと福ちゃんはそこで大笑いした。笑いがおさまると、二人して考え込んだ。

「――おもちゃを買いに行く、てのはどうだ福ちゃん」

「――悪くない。悪くないんだけど、問題点があるわ」

「どんな問題点があるんだ? 子供はみんなおもちゃ屋が好きだろう?」

「子供はたしかにオモチャ屋さんが大好きかもしれないけど、おもちゃ屋さんが開く時間帯はどんなに早くても昼頃でしょう? その時間帯だと人通りがあるから、朱美ちゃんの負担が重くなる。それにオモチャ屋さんだと、お店の人とのやり取りや、朱美ちゃんと同年代の子供が接触してくる可能性もあるから、対人恐怖症の朱美ちゃんには難度が高すぎるわ」

「――あっそうか。人を避けるために、早朝という時間帯を設定したのに、おもちゃ屋じゃ意味がないよな」

 おれは頭をバリボリと掻きむしりながら「おれってやっぱ馬鹿だな」と、自分の頭のできの悪さを嘆いた。

「そんなことはないわ、舞島君。着眼点は悪くないのよ。アイデアがいっぱいあったほうがたたき台になるし――」

 あっ!

 福ちゃんは手を叩いた。

 なにか思いついたようだ。

「手紙よ、手紙!」

「手紙?」

「単身赴任中のお父さんに手紙を出しにいくのよ。郵便局のポストなら、早朝なら誰もいないでしょう」

「あっ、なるほど。それにポストなら、店員と喋らなくてもすむしな」

 ポストなら朱美にとって一番の困難であろう、知らない人間とのコミュニケーションが避けられる。

「――よく考えられてるな、さすが福ちゃん」

「私一人の力じゃないわよ。舞島君がいいアイデアを出してくれたから、思いついたのよ」

〝さすが福ちゃん。隙あらば褒めてくる〟

 今のおれは意見を言えば褒めてくれるレベルなんだろう。

 福ちゃんとしては、馬鹿なおれに知的作業の面白さを教えるために、まずは意見を言わせるという行動を強化しているのだろう。

 〝おれの知的能力を鍛えてくれるのはいいが――〟

 自分の意志を、福ちゃんにコントロールされているようで、嫌というか気味が悪い。

 応用行動分析を学まえは、おれは漠然と自由意志というものを信じていた。

 しかし人間の意志のかなりの部分は環境に左右される。

 それと情報だ。

 ――動物なら環境だけをコントロールすれば、行動のかなりの部分はコントロールできる。

 しかし人間には言語があるため、情報を得ることが出来る。

 情報を参照して行動を選択できるため、環境を調整するだけでは行動を完全にコントロールすることは難しい。

 今のおれがこうして福ちゃんの行動に疑問を感じているのも、応用行動分析に関する情報があるからだ。

 もしおれが応用行動分析を知らなかったら――。

 おれはなんの疑問も持たず、福ちゃんにコントロールされていただろう。

 〝知識ってのは、力にもなるんだな〟

 しかしおれの知識の出どこは、福ちゃんだ。こういう疑問を、おれが覚えることも、福ちゃんはある程度想定しているのかもしれない。

 〝おれが今、頭のなかで考えていることを、福ちゃんに話したら、福ちゃんは喜んで議論するんだろうな〟

 だからあえて言わない。

 今は応用行動分析よりも、朱美の訓練の方が重要だ。

 ――それにやられっぱなしでは面白くない。

 福ちゃんがおれをコントロールするのなら、おれだってあえて情報を公開しないことによって、福ちゃんの饒舌を封じてやる。

 弟子からのささやかな復讐である。

「――どうしたの舞島君? ボケッとして」

「いやなんでもない。ところで福ちゃん――」

「なに? 舞島君」

「――上手くいくかな、今回?」

 勉強を教えることに関しては、朱美に激しく抵抗されたことはなかった。しかし外に連れ出すとなれば、朱美は激しく抵抗を見せるかもしれない。

「朱美ちゃんのこと?」

「うん。今回は勉強を教えるのとはわけが違うだろう?」

「たしかに勉強と違って難しい部分もあるけど、私は結構楽観的だけどな。深夜とはいえ、外に出ているわけだし」

「福ちゃんは慣れてるから自信があるかもしれないけど、おれこういうの初めてだから不安なんだよな」

 脳天気なおれでも不安になる。

 先生という稼業はやってみて初めてわかったことがある。

〝先生ってヤツは、時に生徒の一生を左右する〟

 おれ達が手を貸さなくても、朱美は外の世界に一歩踏み出す日が来るかもしれない。

 しかしそれは明日、明後日の話じゃない。

 一年先か、三年先か、十年先か――。

 あるいは一生――。

 朱美は外の世界に出ないかもしれない。

 朱美が部屋に引きこもる時間が長引けば長引くほど、外の時間と朱美との時間はズレていく。

 家族の負担も重くなっている。

 今現在だって、十分すぎるほど重い。

 愛さんからチラリと聞いた話だが、朱美の親父さんがアメリカに単身赴任したのも、朱美の治療費や教育費を稼ぐためなんだそうだ。

 愛さんは口を濁してはっきりとは言わなかったが、愛さんが彼氏と別れたのも、大学を留年したのも、朱美の世話で愛さんの時間がほとんど奪われてしまったからだ。

 

 ──疲れてしまった。

 ──妹を憎んでしまった。

 ──妹を憎めば憎むほど、自分が嫌いになっていった。

 

 以前、愛さんがおれに漏らした言葉だ。

 愛さんが背負っているのは、妹に対する愛情だけではない。

 憎しみや恨み。将来に対する不安や恐怖。そういったドロドロとした重い荷物を鷲尾の家族は背負っている。

 おれと福ちゃんは、このクソ重たい荷物を――。

 少しでも軽くするために、愛さんに雇われてるわけだ。

 他人のおれがどこまで荷物を背負ってやれるのか、わからない。

 肩を貸せるのは、ほんの短い距離だけかもしれない。

 だがそれで愛さんや朱美の肩がほんの少しでも軽くなるのなら、肩を痛めてやりたかった。

「大丈夫よ、舞島君。朱美ちゃんと舞島君との間にはラポートがあるから」

 福ちゃんは聞き慣れぬ言葉で、おれを励ました。

「ラポート――?」

「簡単に訳すとするなら信頼関係かな。信頼関係があれば、多少の困難は乗り越えることができる。私の話になるけど、昔見ていた自閉症の子で、車が好きな子がいたの。でもその子、聴覚過敏でね、車のエンジン音が大嫌いなの。だから大好きな車を見にデパートの地下駐車場に行きたくても、怖くて行けなかったの」

「地下駐車場は音がこもるからな。車のエンジン音が嫌いなら行かないだろうな」

「そうなの。でもね、ある日その子が私の手を自分の耳に持っていって、自分の耳を塞いだの」

「何で自分の手を使わないんだ?」

 おれならそうする。

「自閉症の子はクレーン現象と言って、他者の体を道具のように使うことがあるのよ」

「いつもやってるのか、そのクレーン現象ってやつ?」

「ううん。だいぶ前にクレーン現象を言語に置き換えたから、その子がクレーンをしたのは、本当にひさしぶりでだったから、私ちょっと興味がわいたの。だからあえて矯正しないで、しばらく観察してみることにしたの」

「でっ、なにがしたかったんだその子?」

「──地下駐車場に行ったの。私に自分の耳を塞がさせたままね」

「へー」

 おれは素直に感心した。

「不思議なもので、この子、私以外だとやらないの。お母さんの手でも、お父さんの手でも、お兄ちゃんの手でもやらないの」

「福ちゃんの手じゃないとダメなのか?」

「そう、私の手じゃないとダメみたい。その子も家族が嫌いというわけじゃないだけど、家族だと注意が行き届かない所もあるでしょう? 私の場合だと、他人の子で、しかも障がいのある子を預かっているわけだから、仕事中は細心の注意を払うし、自閉症の子の扱いにもなれているしね」

「自閉症オタクだからな」おれが突っ込むと、福ちゃんはそうそうと言って笑った。

「私は自閉症オタクだから、自閉症の子がパニックを起こそうが、奇妙な行動を起こそうが慣れているから、驚きもしなければ怒りもしない。感情的になることも滅多にないから、行動に一貫性があるの。自閉症の子は、不測な事態とか予期せぬ行動とかは苦手だから、反応や対応に一貫性がある相手の方が接してて楽だし安心できるのよ」

「なるほど」

 おれは相鎚を打ちながら少々呆れた。

 自閉症の子から信頼される。

 そういった福祉的ないい話も、福ちゃんにかかるとたんなるいい話では終わらない。

 細かく分析されて、理論化されてしまう。

 〝この人は、二十五時間テレビには出演できないタイプだな〟

 福祉的感動を求めるには、福ちゃんはあまりにも理屈が多すぎる。

 たとえ感動的な話しをしても、そのすぐ後に感動は知性によって解体され、理論化される。

 これでは感動の余韻という奴に浸れない。すぐに冷めてしまう。

 まあ、それが福ちゃんの良いところでもあるのだが。

「一方、お母さんや家族は別なの」

 福ちゃんは思考モードに切り替わってしまったらしく、会話をしているといよりも、頭の中で思いついたことをそのまま口にしているという有様であった。

「どうして?」おれは福ちゃんが話しやすいように相鎚を打ってやった。

「お母さんは私と違って家族でしょう? 我が子がおかしな行動を取れば悲しいし、迷惑な行動をとれば悩んだりもする。時には感情的になって、普段とは違う反応や行動を行ってしまうかもしれない。

 普通の子供にもそういった母親の反応に戸惑いを覚えるものだけど、通常そういった矛盾は、子供の社会性やコミュニケーション能力によって摺り合わせが行われる」

「摺り合わせ?」

「たとえばお母さんが機嫌が悪くて、普段怒らないようなことでも子供に怒ってしまった。こういった場合、健常児の子はその豊富なコミュニケーション能力や情報によって、お母さんの叱責を分析し、なぜ自分が怒られたのか、理解しようとする。素直に自分が悪いと思う子もいれば、八つ当たりだと見抜く子供もいる。他にも色々な事を思うし、考えるのよ、健常児の子は。またその後の対応だって、千差万別で、素直に謝る子もいれば、反抗する子もいる。打算的に親に謝ったほうが得だと判断して、頭を下げる子もいる。母親に八つ当たりされた、という単純な行動にたいして、健常児はこれだけ色々なことを考え、そして色々な対応をとる、こういう豊かなコミュケーション能力によって、人間は他者との関係性において生まれた矛盾を摺り合わせて飲み込むのよ。一方、自閉症児にはこういった思考や行動が凄い苦手なのよ」

「じゃあそういう矛盾が出たとき、自閉症の子はどういう反応するんだ?」

「自閉症といっても、障がいの重さや気質によって様々なだけど、一番多いパータンは怒るかな」

「なんでいつもと違うだよって、怒るのか。悲しむとか、怖くて泣くとかそういう子はいないのか?」

「悲しむ子もいるけど、それはやはり学習を積んだ子じゃないと無理だろうな。人間の感情というのは生まれつき備わってると錯覚されやすけど、感情も学習によって覚えていくものなの。悲しいとか、不幸という感情は、自分の置かれた環境を把握し、他の環境と比較する能力がないと生まれないものなのよ」

「じゃあ自閉症の子は不幸とか、感じないのか」

「そう言われてると答えるのが難しいな。自閉症の子も認識能力がすべて欠けているというわけではないし、経験を積むことによって学習もするからなぁ。でも複雑な感情は理解しづらいし、学習しづらいだろうな。人間の感情の成立には他者と社会が不可欠だから、その両方を認識することが苦手な自閉症児には、感情の学習もすごい難しいことなのよ――」と言ったところで、福ちゃんはアッと叫んだ。

「いけない。話しがまた脱線してしまったわ。今は自閉症の話しではなくラポートの話だったわよね」

「そうラポートの話」

「まあ長々と話したけど舞島君、信頼関係を構築する時に大切なことは一貫性と約束を守ることなの、法律がその時の感情で判断が揺らいでしまったら、司法を信頼することは不可能でしょう?

 先生も同じなのよ。先生にも、一定の基準が必要なの。たとえば何をしたら褒められるのか? 何をしたら叱られるのか? その判断が、先生の気分によって左右されてしまうと、どんなに性格がいい先生でも信頼しづらい。だから判定基準をそのときの感情に左右されないように気をつけてね、舞島君」

「了解。ようは判定に一本筋を通せってことだな」

「そう。あと約束は守ること。自転車の補助輪を外す練習するとき、わざと手を離す人いるでしょう。あれはダメ。ちゃんと約束通り、荷台の端を握ってあげることが重要なの。いつ手を離すかわからない人には、信頼感は抱けないものなのよ。だから舞島君もちゃんと約束を守ってね」

「了解、朱美との約束はなにがなんでも守る。しかしさあ、福ちゃん。おれと朱美にラポートなんて大層なものあるのかな?」

「舞島君は気分屋さんではないから、朱美ちゃんも信頼していると思うわ。それに舞島君には、舞島君にしかない才能があるわ」

「才能? おれが?」

 才能を発揮した記憶など、まるでないのだが。

「舞島君のそういった鈍さも、ある種の才能よね」と言うと、福ちゃんはくすりと笑った。

 

 光の射す方へ

 

 鷲尾家の玄関先に置かれた鉢植えには、赤い花が咲いていた。

 花に興味がないおれには、それがなんの花かわからなかった。

 ただ日が昇り始めた薄暗い世界に不似合いな、鮮やかな赤さに目を奪われた。

 朱美もこの花のように、頑張って外で咲いてもらいたいもんだ。

 赤い花から目をそらすと、ピンポンを押した。

 ドアはすぐに開いた。愛さんと朱美、それに福ちゃんが、すでにスタンバっていた。

「お早うございます。舞島先生」

 愛さんは爽やかな笑顔を添えて挨拶したが、声がすこし固い。

 原因はすぐにわかった。

 朱美の様子が酷い。

 顔は真っ青だし、膝にかけられた汚い毛布を握りしめる手は小刻みに震えていた。

 おれは車椅子の傍らに座り込むと、朱美の目をのぞき込みながら「お早う、朱美」と挨拶してみた。

「――おはよう、舞島先生」朱美はかたい声で挨拶を返した。

〝こりゃあ、無理は禁物だな〟

「朱美ちゃん、舞島先生が来たから、お花に水をあげに行こうか」

 福ちゃんが勇気づけるように、朱美の肩に手を置きながら言った。

 玄関脇のあの花は、このために用意したのか。

「――うん」朱美は力なく頷く。

「じゃあ、外に行くわよ朱美ちゃん。無理そうだったら、すぐに言ってね」

 福ちゃんが言い終わると、愛さんとおれで車椅子を玄関におろした。

 おれは朱美を驚かさないようにゆっくりと玄関のドアを開けた。

 まだ薄暗い外の世界が、ドアの隙間から露わになっていく。

 遠くから聞こえる車の音。

 鳥のさえずり。

 そして微かな人の気配。

「――怖い。やだ。もう無理」

 朱美は玄関のドアがすべて開く前に、泣き出してしまった。

「よく頑張ったわね、朱美ちゃん。今日はこれで終わりにしましょうか」

 福ちゃんはあっさりと終わりをつげた。

 〝えっ、もう終わりかよ〟

 朱美がギブアップしたら、終了とは聞かされていたがここまであっさりと引き下がるとは思ってもみなかった。

 おれが驚いていると、福ちゃんはおれに朱美を褒めるよう、視線で促してきた。

「朱美、今日はよく頑張ったな」

 おれが褒めると「ごめんね、直人。こんなに朝早くきてくれたのに、お花にお水あげられなくて――」朱美は最後まで言えず、残りは涙となって零れた。

「――朱美は頑張っただから気にするな」

 おれは今度は本心から言った。

 人から見ればたいしたことではない。誰にでも出来ることだ。

 しかし朱美にとっては、その簡単なことがたまらなく辛いのだ。

 朱美の涙が、おれに改めてその事を教えてくれた。

「愛が、朝ご飯ご馳走してくれるというから、みんなでご飯食べましょうか?」

 福ちゃんが優しく声をかけると、朱美は手で涙をふきながらこくりと頷いた。

 

 翌日。

 おれは眠い目を擦りながら、朱美の家へと続く坂道を登ってた。

 寝過ごしたせいで、約束の時間よりも三十分ほど遅れてしまった。

 起きてすぐ福ちゃんにメールしたんで、遅刻の了解はもらっているのだが、それでも自然と足が速くなった。

 〝最近、平均睡眠時間が三時間ほどだな〟

 朱美の先生以外にも、加藤のチビ共の世話や、自分の勉強、福ちゃんから借りた本を読んだりと、なにかと忙しい。

 正直寝る暇などなかった。

 朱美の家の玄関の前までくると、眠気を覚ますため自分の両頬を叩いた。

 気合いを入れないと。

 おれはチャイムを押した。昨日と同じようにみんなスタンバっていた。

 朱美も昨日と同じように固い顔をしている。

「遅れてすいません」

「気になさらないでください、舞島先生。無理を言って来てもらってるのはこちらの方ですから」愛さんはそう言ってくれたが、こちらも金をもらっている以上いい加減なことが出来ない。

「朱美、遅れたお詫びと言っちゃあなんだが、面白いものもってきたぞ」

「なに舞島先生?」朱美は気のない声で答えた。

 おれはホームセンターの袋から、隠し球を取り出す。

「あっ、ケロタンのレインボー如雨露だ!」

 朱美は、大口を開けた間抜けな蛙の如雨露を見てはしゃいだ。

「すごい舞島君、それって念じながらお水をやると、虹が出来るやつでしょう」福ちゃんは盛り上がったテンションを高めるために、援護射撃を放つ。

「そう晴れた日ならかなりの確率で虹がでてくるぞ。朱美、外に出て虹を作りに行こうか? ケロタンも虹を作りたがってるぞ」

 おれは朱美がケロタンに手を伸ばせるように屈み込んだ。

 朱美の手はケロタンに伸びるが、途中でピタリと止まった。

「──どうした朱美。遠慮しなくてもいいだぞ」おれは何故朱美の手が止まったのかわからなくて、戸惑いをおぼえた。

「──ううん。ボク遠慮なんかしてない」

 朱美はそう言いながら、おれの左手を握りしめた。

「──舞島先生。まだボク外が怖いから、ボクの手を握っていて」

 朱美の声は今にも消えてしまいそうなほど儚かった。

「朱美ちゃんはケロタンよりも、王子様の方が好きなのね」福ちゃんは言った。

「私がドアをあけるから、舞島先生は朱美ちゃんを外までエスコートしてあげて」

 おれが頷くと、福ちゃんは玄関に降りドアをあけた。

 ドアの隙間からやわらかな朝の光が差し込み、薄暗い玄関を光で満たした。

 愛さんは、光の差す方へゆっくりと車椅子を押し出していった。

 朱美はその光に怯えるかのように瞼を閉ざした。

 愛さんは怯える妹を気遣って車椅子を止めた。

 おれは朱美の手を強く握りしめた。

「おれがついているから怖がらなくても大丈夫だ、朱美」

 朱美は閉じていた瞼を開いて、おれを見上げた。朱美は驚いた表情をした後、ぽかんと口を開いた。

「──どうした朱美」

「──光の王冠みたい」

「・・・・・・王冠?」

「──ううん。なんでもない」

 愛さんは妹が落ち着いたのを確認すると、再び車椅子を押した。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 朱美は光の中へ。

 また熱されていない、朝の光の中へ。

 車輪を踏み入れていった。

 丘の上に立っている朱美の家からは、大海原が一望できた。

 夏の太陽は、夜の闇によって冷え切ってしまった世界を暖めるために、地平線の果てから顔を出し始めていた。

「──すごい眩しい」

 朱美は目を細めながら、地平線の果てから顔を出した太陽を見つめていた。

 おれは朱美の邪魔しないように黙った。

 〝おれにはなんの変哲もない光景でも、引きこもりの朱美には鮮烈な光景なんだろう〟

 魂とは、福ちゃんの言う通り人の持つ認識のことなのかもしれない。

「──舞島先生ありがとう」

「えっ」朱美の突然の感謝に、喜ぶ前に戸惑いをおぼえた。

「舞島先生がいなかったら、朝の世界がこんなにも綺麗だなんて知ることができなかった」

 〝おれも、朱美がいなければ、突っ走る方向を得ることが出来なかった〟

 朱美と出会っていなかったから、片桐と亀と一緒になってヤクザやっていたか、ニートにでもなってぷらぷらしていたかもしれない。

 人の出会いというのは一種の奇跡なのかもしれない。

 ヤンキーのおれが、引きこもりの車椅子の少女と出会うなんて誰が予想したろう。

「おれの方こそありがとう、朱美」

「──なんで舞島先生がお礼をいうの?」

「──そういう気分だったからだ、朱美。それよりお花に水をやるか」

 照れくさくなったおれは名も知らぬ赤い花に助けを求めた。

「うん。虹が作れるといいね」


 訓練をはじめてから四日後、朱美は家の外へ一歩踏み出すことに成功した。

 誰もいない、海へと続く緩やかな坂道を、車椅子を押して歩いた。

 横を歩いている福ちゃんは朱美の手を握っていた。

 ここのところ朱美の手を握るのはおれの役目だったが、福ちゃんがおれ以外の人間の手でも恐怖に耐えられるようにと、今日はおれではなく福ちゃんが握っていた。

「ねぇ、舞島先生」

「なんだ朱美」

「なんで舞島先生は夏になると、森にいくの?」

「よく知っているな、朱美」

「知っているよ。だってボクの部屋の窓から見えるモン」

「そういやそうか」

「で、森に何しに行ってるの?」

「──そりゃあ決まってるだろう、カブト虫を取りに行くんだよ」

「なんで直人は、そんなにカブト虫が好きなの?」

 朱美は呆れたのか、名のほうで呼んだ。

「なんでカブト虫が好きかって? そんなこと考えたことすらないけど、あれだ。親父のせいだな」

「直人のパパのせい?」

「おれの親父は家庭サービスが出来るような人間じゃなかった。ただカブト虫採りだけは連れて行ってくれたんだよ」

 正確に述べると、親父は夏の森を散歩するのが好きで、散歩のついでにいつもほったらかしてる自分の子供を道連れにした。

 子供は子供で、ただ散歩するだけでは退屈だから、肩に網を担いでカブト虫を捕まえることにした。

 ただそれだけの話しだ。

 深い意味はない。

「――直人、パパのこと好き?」

「――嫌いじゃないな」

 好きといえるほど、可愛がられたことはなかった。

 嫌いというほど、厭なことをされたわけでもなかった。

「直人も手紙を書いたらいいのに」

「この年になると照れくさいし、なんの前触れもなく日本に住んでる馬鹿息子から手紙もらったら、親父だって気持ち悪いだろう」

「そんなことないよ。好きな人から手紙もらったら誰だってうれしいモン。そうでしょう、福ちゃん」

「そうね、好きな人に手紙を送るのも、好きな人から手紙をもらうのも、女の子なら誰でも嬉しいし、ドキドキするわよね。まあ舞島君は、昔から女の子からいっぱいラブレターとか貰っていたみたいだから慣れているのかもね」

 話の雲行きが妖しくなってきた。

「──ふーん。直人ってやっぱりスケベだ。ボクだったら、いくら直人が格好良くたって、こんなスケベマンに手紙なんて送らないよ」

「──だって。直人君。朱美ちゃんからの手紙が欲しかったら、少しは控えないとね」

「控えるも何も──」おれがそう言った瞬間、静かな朝の空気を乱すようなエンジン音が鳴り響いてくる。

 〝トラックだ!〟

 おれはすぐさま補助ブレーキを引き、車椅子を止めた。

「福ちゃん!」

 福ちゃんはおれの意図を察して、すぐさま車椅子の前に回り込み、車椅子が動き出さないように支えた。

 おれは車椅子のハンドルから手を離し、朱美の耳を塞いだ。

「トラック、やだぁ!」朱美は悲鳴をあげ、パニックを起こしそうになる。

 無理もない。朱美を轢いたのはトラックなのだから。

 朱美は目を閉じ、唇を噛みしめて恐怖に耐えた。

 その横を無神経にトラックが通り過ぎていく。

「クソっ、この道はトラック通行禁止だろう!」

 外出訓練するための道は、トラックが通らないかどうか事前にチェックしてある。

 なんでこんな朝っぱらにトラックが住宅街を走るのかわからない多分国道の抜け道かなにかに使ってんだろう。

 〝舐めやがって〟

 いつものおれなら、追いつけないとわかっていても走って行っても文句を言いに行くところだが、今やおれも先生の端くれだ。怒りを抑えねばならなかった。

「大丈夫か、朱美」

「うん」朱美は泣き顔のまま頷いた。

「今日は終わりにするか」

「うん、さっきはありがとうね。直人」



 翌日。

 おれは教室で歪な形のハンバーグを箸でつまみながら、中学生の参考書を解いていた。

 両方とも、恵が提供してくれたものである。

 参考書の余白には要点がメモ書きされており馬鹿なおれには有り難かったが、ハンバーグの方はソースがしょっぱっくて食えたもんじゃない。

〝今日の晩飯の時にでも、デミグラミックスソースの作り方おしえてやらないと〟

 こんなしょっぱいハンバーグ毎日食わされたら、間違いなく血圧が上がる。

 おれは冷たいウーロン茶を飲んで、しょっぱいハンバーグを無理矢理食った。

 弁当箱を片付けていると加藤が寄ってきた。

「舞島、宮田が呼んでるよ。職員室に来いって」

「なんだよ、このクソ忙しいときに」

 おれはぶつくさ文句を言いながら弁当箱を鞄にしまった。

「――舞島、恵の作ったハンバーグ美味しかった?」

「――まあまあだな」

 点数にすると三十点だが、それは恵の名誉を守るために言わないでおいた。

「わたしも作ろうかな、恵一人じゃ大変だろうし」

 姉は不吉なことを言い始めた。

 恵は料理ベタ程度だが、姉の方はヘタというレベルを超えている。 食材を毒に変えるスキルの持ち主だ。

「いや、別に無理しなくてもいいだぞ、お前の家は金がないだから」

「大丈夫、スーパーでパートしてるから、余り物とかもらえるし、社員割りも使えるから」

「――そうか。できればハンバーグ以外にしてくれ」

「うん。恵が作ってるもんね。何が食べたいものある舞島?」

 加藤は新婚生活に浮かれてる若奥様のような笑顔で、おれの顔を見つめていた。

「シンプルな味付けの炒り卵と野菜炒めにしてくれ」

 これなら不味くてもなんとか食えるだろう。

「そんな簡単なヤツでいいの?」

 目玉焼きすらまともに作れない癖に、加藤は強気であった。

「ああ。おれはシンプルな味に飢えているんだ」

「そう。じゃあ明日作ってあげる。楽しみに待っててね」

 加藤はニコニコ顔で言い放った。

〝グッバイ、おれの昼食生活〟

 おれは心の中で健全な昼食生活に別れを告げると、職員室に向かうため教室を後にしようとした。

 亀吉とクチャべってた片桐がにやけ面で呼び止めた。

「舞ちゃん、ガリ勉の次は宮田にゴマすりかよ。精が出るな」

「ゴマすりなんかじゃねーよ、片桐。宮田に呼ばれただけだ」

「けっ! 人間変われば変わるもんだな。先公に呼び出されて、尻尾振ってほいほいかよ。おれと殺し合い演じた人間が、まかさこんなになちまうなんて」

 おれは頭にきて言い返してやろうと思ったが、口から出たのは違う言葉だった。

「──悪いな、片桐。おれ、やりたいことが出来ちまったんだ」

 だからお前とはもう連めない。

 悪いが、道が違っちまった。

「――そうかよ!」

 片桐は近くにいたヤンキーを蹴り飛ばした。ヤンキーは思いきり床に転がったが、怒り狂った片桐に文句を垂れるような愚かな真似はしなかった。

 おれは教室のドアを開けて、職員室にむかった。

 宮田はすし屋の湯飲みで茶を飲んでいた。

「おう、舞島か」

 宮田は机の上に茶碗を置いた。

「話ってなんすか?」

「いや、お前だけまだ進路の調査票まだ提出してないだろう」

「それか、忘れてたわ」

「どうすんだ、舞島。就職か? それとも片桐のところでヤクザやるのか?」

「進学でお願いします」

 宮田は口をあんぐりと開いて驚いた。

「――進学って、専門か?」

「大学行って、心理学勉強しようと思って」

「――心理学? 舞島がか?」

 宮田は驚きの表情が固まったまま、おれの顔を見つめた。

 明日この世が終わると聞かされても、宮田はこれほどは驚かないだろう。

「おれじゃあ、ダメすかね」

 馬鹿にされてるようで気分はよくないが、気持ちはわかる。

 昔のおれが聞いたら、そんな未来絶対信じない。

「舞島、お前じゃ推薦はやれんぞ。それでも進学でいいんだな?」

 タマカスは開校以来、推薦を使わずに大学に進学したヤツは誰もいなかった。

「はい」と頷くと「――そうか。難しいとは思うが、舞島も最近真面目に勉強してるようだしな。よし、進学の方向で考えてみるか」

 おれは宮田に礼を言うと職員室を後にした。

 廊下を歩いていると、ポケットの中の携帯が震えた。

〝福ちゃんか〟

 携帯を取り出してメールをチェックした。


 件名 今日の報告

 朱美ちゃんは家の前の道路まで行くことが出来ました。トラックの件もあるから、今日は無理せず早めに切り上げました。


 道路まで行くことが出来たか。

 よかった。

 おれの口から安堵のため息が漏れた。

 昨日のトラックの件があるから、また引きこもるじゃないかと思っていたが、家から出ることが出来たか。

 おれは携帯を仕舞うと、教室に戻った。


 トラックの一件から十日が過ぎた。

 今日はおれと朱美だけで、郵便局にむかっている。

 朱美は五日ほど前から訓練に慣れてきたのか、怯えることはあってもいきなりパニックを起こすようなことはなくなった。

 だから六日目からは、同行する人数をへらし一対一で訓練を行うことになった。

 今では朱美は郵便局のゴールにたどり着きそうである。

〝なんとかなるもんだな〟

 はじめは無理かと思ったが、訓練を進めていくうちに、苦手なトラックが来ても、耳を塞いでやればやり過ごせるようになった。

 知らない人とすれ違っても、なんとか堪えることができるようになった。

 〝適切な訓練をほどこせば、恐怖の克服はさほど難しくない〟

 福ちゃんの言葉であった。

 むしろ難しいのは、快感をともなう簡単な行為──。

 貧乏揺すりだとか、タバコだとか、自閉症の子だと奇声を発するとか、そういった行為を止めさせるほうが面倒だし、難しいんだそうだ。

 おれが考え事をしているうちに郵便局についた。

 ゴールである郵便局についたからといって、ファンファーレが鳴ることも、くす玉が割れるわけでもない。ドラマのように感動を高めるための音楽が流れることもなかった。

 木に留まっている鳥が鳴いて祝ってくれるぐらいだ。

 それでも凄い嬉しかった。

「舞島先生、手が届かないから、先生が入れて」

 感動に浸る暇もなく、朱美が催促してきた。

 朱美が入れた方が絵になるような気がするが、手が届かないじゃしょうがない。

 おれは朱美から手紙を受け取ると、ポストに入れた。

「よく頑張ったな、朱美えらいぞ」

 おれは朱美の頭を撫でて褒めた。朱美は照れくさそうに笑った。

「どれぐらいでパパに届くかな」

「エアメールなんか送ったことないからわからないけど、一週間もあれば届くんじゃないのか?」

「──直人って本当に手紙とか興味なさそう。直人って郵便箱とかあまりチェックとかしないタイプでしょう」

「いっぱいにならない程度にはのぞいているよ」

「もっとマメにチャックしないさい!」

 ──大切な手紙とか貰うかもしれないし、朱美は小さな声で呟いた。

 おれに声が小さすぎて耳に届かなかった。

「なにかいったか朱美?」

「なんでもない! 直人って本当に馬鹿で鈍感なんだから」

 朱美は何故か機嫌がわるかった。

 プリプリしてる朱美を家に送り届けると、福ちゃんに報告メールを送り家に帰った。

 自分の部屋で、英語の勉強をしてると福ちゃんからメールの返事が届いた。


 件名、おめでとう!


 さすが舞島君ね。こんなに早く目標が達成できるとは私も思っていませんでした。

 これも舞島君の教師としての才能と努力のおかげです。

 それで今後の訓練についてなんですけど、打ち合わせもしたいので五時にいつものマックで会いませんか?


 おれは了解とだけ書いてメールを打ち返した。

 

 マックは少し早めの夕食を取る人で賑わっていた。

 福ちゃんは店の隅の窓際の席に陣取り、いつも通り本を読んでいた。

 本を読むと腹が減るのか、チキンナゲットに手を伸ばした。

「福ちゃん――」

 おれが声かけると、福ちゃんは「うわっ」と叫んで仰け反った。

「――ビックリした。舞島君かあ」

 福ちゃんは大きな胸に手を当てながら、安堵のため息を漏らした。

「いや、そんなビックリするなよ、福ちゃん。おれのほうが逆にビックリしたよ」

「ゴメンね、私って考え込んでいると、すぐビックリするのよねぇ――」

 おれは席に座ると「何読んでるの、福ちゃん」

おれは福ちゃんが読んでいるカバーが外されたボロボロの本を指さした。

「うん? これは自閉症の本」

 福ちゃんは背表紙を見せてくれた。

 自閉症児の認知とその世界―― 

 背表紙にはそう書かれていた。

「福ちゃん、本当に自閉症好きだな」

「自閉症オタクですから、グフフフ」

 福ちゃんはオタクを強調するためか奇声を発したが、美人なためキモく聞こえない。

 美人は得だ。

「舞島君も、朱美ちゃんが落ち着いたら自閉症やりましょうよ、自閉症。大物の子もいるから、男手が欲しいのよね」

「大物って、なに?」

「体が大きくて、問題行動が激しい子」

「それって暴れたりするの?」

「走り出したり、唾かけたり、叩いたり、自傷したり、いろいろやるわよ」

「――よくそんなのと付き合えるな」

 普通なら金貰ってもそんな奴の面倒なんかみない。

「いや、舞島君も自閉症の子と接したら好きになるって。みんな萌え系だから」

「そうかなー」

 話聞いてると、とても萌え系には思えないのだが。

「これは私のカンだけど舞島君は絶対自閉症の子と気が合うから。──でもまあ、舞島君的には今は自閉症よりも朱美ちゃんよね」

 福ちゃんは本を閉じると、鞄にしまった。

「それでね、今後の訓練の事なんだけど。外出訓練は一段落ついたから、そろそろ朱美ちゃんに同年代の友達を作る訓練をしようかと思っているの」

「お友達?」

「うん。学校に通うようになれば、大人よりも同じ年の子と接する機会のほうが圧倒的に多いわけだから、同じ年頃の子供達と仲良くするスキルが必要なのよ」

「なるほど、そりゃあそうだな。学校で友達がいないと寂しいからな。でもそれってどう訓練するんだ?」

 友達を作る訓練なんて、おれの頭では丸っきり考えつかない。

「訓練と言うとピンとこないかもしれないけど、ようは合コンと同じようなもんね。合コンの幹事じゃないけど、わたし達大人が場所をセッテングし、友達候補を招待し、朱美ちゃんがみんなと仲良くなれるよう私達が影ながらフォローする」

「なるほど。たしかに合コンみたいだな」

 合コンなんてしたことないけど。

「でね、舞島君。この訓練をやるうえで一番の困難があるんだけど」

「困難?」

「朱美ちゃんの友達候補よ。舞島君、小学校三年生ぐらいの子供の知り合いいない? 私も心当たりはあるんだけど、その子家がが遠いのよね」

「近場に住んでて、小学校三年ぐらいの子ねえ・・・・・・」

 おれは頭を捻り、誰か適当なのがいないか記憶を探ってみた。

「・・・・・・いた! 丁度いいのがいたよ、福ちゃん」

「えっ、誰か心当たりあるの舞島君?」

「ああ。この前福ちゃん、駅の前で眼鏡かけた女にあったろう」

「舞島君の彼女候補ね」

 福ちゃんは厭な言い方をした。

「――まあ、その女なんだけど、あいつの家は貧乏子沢山を地でいってる家だから、小さいのから大きいのまで全部そろってるよ」

「小学校三年生ぐらいの子もいる?」

「いる。絵里花っていう生意気盛りがいるよ」

「おお! なら悪いけど舞島君、加藤さんに頼んでみてよ」

「いいよ。一番上の眼鏡はアルバイトで忙しいけど、ほかの連中は暇だからくるよ」

「──そうかな。あの眼鏡の女の子も忙しくても絶対きそうだけど」

「なんで?」

「そりゃあだって、好きな人と一緒にいられるチャンスですもの。恋する女の子だったら、どんなに忙しくても来るわよ」

「――変なこというなよ、福ちゃん」

 そのことに関してはあまり意識しないようにしているんだから。

「顔真っ赤よ、舞島君。舞島君も王子様みたいな見た目のわりには、女の子慣れしてないようだから朱美ちゃんの件片付いたら、今度は舞島君を女の子になれるような訓練してみようかしら」

「──福ちゃんだって似たようなもんだろう。おれ以上に恋愛下手そうだもん」

「あっ、痛っ。たしかに私もよく言われるのよね。恋愛下手だの、奇人だの、地に足がついてないだの」

 ――親からも早く彼氏作りなさいって、よく言われるし。

 福ちゃんはため息とともに愚痴を吐き出した。

「まっ、いまは自閉症児でいいや。彼氏はあと」

 福ちゃんは一人で合点すると「互いに痛いところを刺しあってもしょうがないから、話を戻しますか」

 福ちゃんは弟子に休戦を申し出た。

「そうしようぜ、福ちゃん」

 弟子が同意すると師匠は話を戻した。

「それで朱美ちゃんの件だけど、友達の件は片付いたとして、あとはどういう遊びを用意するか、なのよね」

「遊び?」

「うん、遊び。朱美ちゃんや、絵里花ちゃん、二人が楽しめる遊びを、我々が用意してあげる必要があるの。よく問題になるけど、障がいのある子と健常児を一緒に遊ばせようとすると、健常児の子がお世話係みたいな感じになったり、用意された遊びが簡単すぎて健常児の子が退屈してしまったりすることがあるの。こういった問題が起こると、大抵の場合教師や親は精神論で片付けるのよ──」

 ──あの子は障がいがある子なのだから、我慢しなさいってね。福ちゃんはため息をついた。

「これはよくないのよ。障がい児は、健常児に優しい心を学んでもらうための教材じゃないし、健常児側からしてみれば厄介ごとを押しつけられたと考えるかもしれない。こういう間柄になっちゃうと友達という関係に発展するのは難しいのよ。舞島君だって同情心とかそういったものだけで朱美ちゃんの家庭教師を引き受けてるわけじゃないでしょう?」

「――同情心だけじゃないな」

 同情する気持ちもある。

 でも、それだけじゃない。

「朱美ちゃんと接して楽しい気持ち、人に物を教える楽しみ、学ぶ楽しみ、他にも色々な楽しみが舞島君のなかにあると思うの。そういった物がないと、こういう仕事は出来ないわ」

「――ようは朱美が好きってことか」

 人と接するというのは、時に苦しいことがあるかもしれない。嫌な時も多いかもしれない。しかしやはり楽しいことなんだろう。

「――朱美ちゃんに聞かせてあげたいセリフね」福ちゃんは呟く

「なにか言ったか、福ちゃん?」

 声が小さすぎて聞こえなかった。

「なんでもない」

 福ちゃんは笑って誤魔化した。

「ところで福ちゃんはなんで朱美とか、自閉症の子と付き合っているんだ?」

「よく聞かれる質問だけど、答えは舞島君と同じ。好きだからよ。好きじゃなきゃ、付き合ってられないもん」

 福ちゃんは笑った。

「まあ他にも、知的好奇心とかもあるけどね。一番はこれかな」

 福ちゃんは一端言葉を切り、考え込む。

「――しかし福祉とかボランティアやってると、よく優しい人ねって言われるけどあれも困るのよね。私がボランティアやるのは単なる趣味だし、性格にいたっては私は優しい人というよりも、どちらかというと人が悪いほうだし」

「――たしかに福ちゃんは人が悪いよな。一見すると人がよさそうに見えるけど」

 これまでの付き合いでなんとなくわかる。

「――なんか酷いこと言われてるな、私」

 福ちゃんはムスッとした顔を作ったあと、笑った。

「またしても話が脱線したけど、用意する遊び何にしようか。足が不自由な朱美ちゃんでも参加できて、できれば加藤家のみんなが楽しめる遊び・・・・・・」

 福ちゃんは顎に手を当て、考え込む。

 おれは手を叩いた。

 福ちゃんは顔を上げて、おれを見た。

「――花火はどうだ? 花火なら朱美でもできそうだし、加藤達も大喜びするぞ」

 加藤家の財政事情では、花火すら厳しいので、タダで花火がやれると聞いたら絶対食いついてくる。

「――花火ねぇ。たしかに花火ならみんな参加できそうね。よし花火で決定!」



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