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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第一部 優しい歌
2/52

終わりなき旅 

 

 砂浜を走っている現在のおれはため息をついた。

 〝あんな試合、やらなきゃよかった〟

 人間、格好つけると後悔するもんだな。

 漫画やドラマなら、後悔なんかしてねェ!、と大見得を切る場面だろうが、現実のおれはえらく後悔していた。

 

 だって目が見えなくなるの怖ェえし。

 

 本当に怖ぇえ、怖くて怖くて堪らなかった。

 少しづつ視力を失っていくのは、試合前に感じる恐怖とはべつの怖さがある。

 ボクシングの試合にはゴングがあった。

ゴングさえ鳴っちまえば、どんなにビビっていても恐怖は消える。 きよしと戦ったときですら、そうだった。

 しかし人生にはゴングが無かった。

 ダラダラと続く果てしない道があるだけだ。

 おれは失明の恐怖に怯えながら、見えもしないゴールを目指して走らねばならなかった。

 

 耐えられなかった。

 

 〝ああ、だからおれ走ってるんだ〟

 失明の恐怖に耐えられなくて、おれは砂浜を走っているんだ。

 何かを目指すわけでも、チャンピオンベルトを守るためでもなく、ただ恐怖から目をそらすために走っているのだ。

 おれは走るのが急にやんなった。

 どうせ隣で走っている駄犬もへたばってくる頃だし、ちょいと休むかな。

 おれは隣で走っているはずの駄犬に目を向けた。

 駄犬の姿はどこにも見えなかった。

「あのクソ犬どこに行きやがった!」

 〝まさか、もうヘタばってるじゃないだろうな〟

 おれは後ろをふり返った。

 だらしなく滲んだ黒い点が見える。

 あの黒い点は駄犬だ。

 目が弱ってるせいで、滲んだ黒い点にしか見えないが、あれはたしかにウチの駄犬である。

 おれは舌打ちをし、駄犬のいる場所まで走った。

 疲れて走りたくはなかったが、どうせ呼んでも来やしない。

 行ってみると、駄犬は仰向けになってバテていた。

 〝バテるにしろ、もっと犬らしいバテ方があるだろう〟

 駄犬の情けない姿を見たら、休む気もうせた。

「おい走るぞ、駄犬」

「クフーン」

 駄犬は汚らしい声で媚びてきた。犬のくせに走りたくないのだ。

「うるせえ! 走らないと保健所に叩き返すぞ!」

 おれが脅すと、駄犬も渋々と立ち上がった。

 ――と思ったら、駄犬はおれの股間にむしゃぶりついてきた。

 駄犬の目には、ボロスナックのしなびた婆みたいな媚びの色があった。

「馬鹿野郎! 気色わるい媚び方やめろ」

 おれが一喝すると、駄犬はすぐさま地面にひっくり返り、降参のポーズを取った。

 だらしなく伸びたチンポが丸見えだった。

「名前負けもいいところだな、お前」

 〝こんな馬鹿犬、どうやって盲導犬にすればいいだよ〟

 おれは心の中で、親父に毒づいた。

 おれの親父は頭がイカれてるとしか思えないほどのボクシング馬鹿であり、それと同じくらいアホだった。

 これだけでもウンザリするのに、親父はアホなアイデアをよく思いついた。

 実行力だけは無駄にあるので、思いつけば即実行する。

 この馬鹿犬も、親父のアイデアを実行した結果だった。

 現役を引退しナイーブになっていたおれは毎日カリカリしていた。目が見えなくなるのも嫌だし、将来のことを考えると憂鬱で仕方なかった。

 なによりボクサーでないことに慣れることができなかった。

 そんなおれを見て、デリカシーのデの字もない親父は、おれの背中を思い切り叩き、「なに暗れえ顔してんだ、オメーは。目が悪いぐらいで、死んだ魚みたいな顔になっていたら魚屋に捌かれちまうぞ。おれっちが盲導犬買ってきてやるから安心しろ」とのたまった。

 冷静な弟と、親父ほど馬鹿ではないおれは「そんなに都合よく盲導犬が手に入るわけないだろう」と冷静に諭したが、火のついた親父には無駄だった。

 親父は常識を説く息子たちに向かって、「この根性なしどもが!」と罵ると、家を飛び出して行った。

 火のついた親父を一人にさせておくのは、核ミサイルのスイッチを三歳児に持たせるより危険だ。おれは仕方なく親父の後を追った。

 ――一時間後、おれと親父は駅前のデパートの中にある洒落たペットショップにいた。

 親父は行きつけのソープにでも来たかのようにテンションが高い。

 おれは心配になって親父の袖を引っ張った。

「――親父。こんな所に盲導犬が売っているわけないだろう」

「犬屋に、犬が売ってねえわけないだろう! この腐れ金玉が」

 親父の怒鳴り声がフロア中に響いた。

 フロア中の人間が一斉に、馬鹿な親子に注目した。

 おれは居心地悪くて仕方なかったが、親父はまったく動じていなかった。

 親父は唖然としている店員の兄ちゃんに、何事もなかったかのように声をかけた。

「兄ちゃん悪いが、一番安い盲導犬一匹くれや」

 〝一番安いやつかよ〟おれは心のなかで毒突いた。

 ペットショップで盲導犬を買えるはずはないのだが、それでも面白くなかった。

「――申し訳ございません、うちでは盲導犬は扱ってないのですが・・・・・・」

 店員の兄ちゃんは予想通りの答えを返した。

「なんだと! お前は何年犬屋やってんだよ! そんなんだからこんなしみったれたデパートでのたくってるだよ! この腐れ貧乏人がっ!」

 親父は店員にむかって怒鳴り散らした。

 店員の兄ちゃんは謝る必要など微塵もないのだが、怒り狂う親父に向かって頭を下げまくっている。

 騒ぎを聞きつけた他の店員たちも、恐る恐るこちらの様子を窺っていた。

 最悪だ。

 おれはわめき散らす親父をなだめながら思った。

 ――一時間後、親父とペットショップの店員は笑顔で語り合っていた。店員の兄ちゃんが根気よく丁寧に説明してくれたおかげで、無知で馬鹿な親父もようやく盲導犬がペットショップに売っていないことを理解することが出来た。

「兄ちゃん、あんたは犬の神様だよ。あんたほど犬に詳しい野郎、おれっちは見たことがない。今度、ボクシング教えてやるからウチのジムこいよ。犬のことを教わった礼に、おれっち自らがボクシング教えてやるから」

 親父は店員の兄ちゃんの肩を馴れ馴れしく叩きながら言った。

 店員の兄ちゃんは愛想笑い浮かべながら返事を誤魔化した。

 店員の兄ちゃんも、この一時間の会話で親父の性格を理解したのだ。

 うっかり頷くと、本当にボクシングやらされるハメになることを。

「兄ちゃん遠慮すんなよ。兄ちゃんは頭いいから、きっと良いところまでいくぜ。なにせウチの馬鹿息子でさえ日本チャンピンになれたのだからな。もっとも根性ねえから、後輩のパンチにヒックリ返されて、死んだ蛙みたいピクピクして負けちまいやがったけど」

 親父はご丁寧にも死んだ蛙の真似までしてくれた。

 〝このクソ親父、殺してやりたい〟

 店員の兄ちゃんは、おれの怒りで引きつった顔を見て青い顔していた。

 おれは怒ると凶悪な顔になるのだ。人相の悪い親父に似たので仕方がない。

 美人で優しいお袋に似れば、もうちっとマシな面になったんだが。

「だからこのトンチキもおれのアドバイス通り、弱きを挫き、強きを助けろ作戦でベルト守ってりゃあよかったんだよ。それなのにこのアホときたら、なに勘違いしたのかテメーより強い奴の挑戦なんか受けちまいやがって・・・・・・。そんなんだからベルト奪われたあげく目までおシャカにされちまうんだよ」

 親父はそう言うと、怒りに震えるおれの背中をバンバン叩いた。おれの顔を見て俯く店員。おれの怒りはとっくの昔に臨界点を超えていた。

 すべての空気を無視して親父の馬鹿は機嫌良く喋っている。

「いいか、アンちゃん。弱いチャンピオンてのはな、強い奴の挑戦受けちゃいけねーだよ。こいつみたいにすぐ負けるからな。噛ませ犬相手に防衛回数稼いどけばいいだよ。そうじゃないとベルトなんて霧の摩周湖で、涙の連絡船だからな。たくぅどうしようないね、こいつは」

 このアホゥー 調子に乗りまくった親父は奇声を上げた。

 おれはその瞬間親父をぶん殴った。

「なにすんだ、このチンカス野郎!」

 親父は怒り狂ったタコのようにはげ頭に血管を浮かべ、おれを睨みつけた。

 息子の方はとっくの昔に血管が切れていた。

「なにすんだ、じゃねーよ。クソ親父! なにが強きを助けろだ。うんなことちらっとも言ってねえだろうがテメーは。おめえが言ったのは、後輩の挑戦を受けないのは、千葉の恥だとかいって散散おれを煽ったろうが!」

「そりゃあテメーに合わせてやっただけの話よ。どうせオメーのことだからきよしの挑戦うけなかったら、挑戦受けとけば良かっただの、おれはきよしより弱いのかよ、とか言って、ダメなコオロギみたいに鳴くだろう! だから親切なおれっちがしなびた金玉みたいなオメーに空気いれてやっただろうが。ひょっとしたらマグレで勝てるかもしれねーしな。そしたらお前、案の定ボロ負けしたあげく後輩に介錯までされやがって。もーうお前は本当にボクシングの才能ないな」

「うっせえ! ボクシングの才能ないのはテメーに似たからだ、このインチキ丹下段平が!」

「うんだとこの負け犬野郎が!」

 親父はおれに殴りかかり、息子のおれは殴り返した。

 デパートで始まる壮絶な親子喧嘩。

 店員は血相変え警察に電話する。

 檻に閉じ込められた犬共は興奮し、ワンワンと吠え始めた。

ある犬などはおれと親父の喧嘩を見て興奮しすぎたのか、犬小屋相手に腰を振り始めた。

 二時間後、おれと親父はお巡りにこってり油を絞られ、交番を追い出された。

 二時間も絞られたのは、親父が交番のお巡りに食って掛かったからだ。

 若いお巡りは、親父の毒舌に頭きて公務執行妨害で引っ張るとまで言い出したが、親父の顔見知りである物わかりのいい中年のお巡りが仲裁に入って事なきを得た。

 まったく親父と一緒に外に出かけると、三回に一回は交番で説教を喰らう。

 おれはウンザリしながら歩いてると、親父は手に抱えている紙袋をあさり始めた。

 ペットショップで警官待たせて、買い込んだヤツだ。

 親父は紙袋から、首輪と鎖を取り出した。

 盲導犬どころか、犬もいないのにそんな物買ってどうすんだ、この親父は。

 なんでそんな物買ったのか聞いてみたかったが、親父とは口も聞きたくなかったので黙っていた。

 親父は首輪に鎖をつけて、カウボーイよろしく振り回しはじめた。

 〝小学生か、お前は〟

「なあ、親父。恥ずかしいから鎖なんか振り回すなよ」おれは小声で諭した。

「なにが恥ずかしいだよ! おれっちは千葉のクリント・イーストウッドて呼ばれてんだぞ」

 〝誰も呼んでねえよ〟

「イーストウッドは犬の鎖なんか振り回せねえよ。だいたい危ねえだろうが」

 それにあれは投げ縄だ。

「お前も男のくせに、小姑みたいにうるせえ野郎だな」

 親父は息子の忠告を無視し、鎖を振り回し続けた。

 勝手にしろ。

 おれは呆れ返って、親父の好きなようにさせた。

 十分ほどすると、親父のアホは英語の歌までガナリ始めた。

 道行く人々は、千葉のカウボーイを気取ってる親父を見て笑いを堪えるのに必死だった。

 これだけでも恥ずかしいのに、学校帰りの小学生の集団が、親父の奇行を見物し始めた。

 おれはさすがに恥ずかしくなって俯いたが、ギャラリーが増えたことによって、親父の野郎は益々調子に乗り始めた。

「おうガキ共。千葉のクリント・イーストウッドが投げ縄教えてやるからな」

 親父は、自分の奇行を見物していた小学生に気安く声をかけた。

 小学生は一瞬戸惑ったが、そこは親父である。

 相手が戸惑っていようが、笑いを堪えていようが一切関係ない。

 親父は誰も聞いてないのに、投げ縄の極意を得意げに語り始めた。

 投げ縄なんか一切したことがない癖にである。

 おれは途中何度も、親父の袖を引っ張って止めさせようとしたが、親父の野郎はそのたびに「テメーもつまらないこと抜かしてねえで、投げ縄の一つでも覚えて女の一匹二匹捕まえてこねえか! この素人童貞が!」と息子を怒鳴り散らした。

 殺してやりたいと思ったが、またお巡りに引っ張られるのも嫌なので、親父が飽きるのを待つことにした。

 一時間ほどして、親父はようやく飽きてくれた。

 親父はガキどもと別れると、鼻歌を歌いながら歩き出した。

 おれは親父の横を歩きながら、いままでずっと聞きたかったことを尋ねた。

「親父、ところでなんで犬の首輪なんか買ったんだよ。店員の兄ちゃんには迷惑かけたが、犬の首輪なんか買ったって仕方ないだろう。それともまさか投げ縄を披露したくて買ったとか言うんじゃないだろうな?」

 そうだとしたなら大馬鹿者もいいところである。

 親父はぴたりと足を止めると、おれの顔をまじまじと見つめた。

「お前も本当にアホだな。頭のなかにおがくずでも詰まってんじゃねえのか? それともオメー犬屋の兄ちゃんの有り難い話を聞いてなかったのか?」

「いや、聞いてたけどよ・・・・・・」

 本当は半分ぐらい聞き流していたのだが、親父には黙っておいた。 聞いてないなど言ったら怒鳴られるのは目に見えている。

「なら、わかるだろう。おれっちが鎖を買ったわけを!」

「さっぱりわからねえよ!」

 何故鎖を買うのか? 何故おれが怒鳴られなきゃいけないのか。 息子のおれにもさっぱりわからなかった。

「ああもう、お前は本当にお前はわかりん坊だな。仕方ねえ、おれっちが馬鹿なお前にもわかるように懇切丁寧に説明してやるよ」

 親父より利口だよ! と怒鳴ってやりたかったが話が進まないので堪えた。

「いいか、世の中には盲導犬が欲しくて欲しくてたまらない可哀想なちびっ子がいっぱいいるんだよ」

 ――わかるか、一平?

 親父は汚い顔をクシャクシャにしながら泣き始めた。

 いや、おれも結構可哀想じゃねえ?

 と言いたかったが、泣きじゃくる親父を見てると何も言えなかった。

「だから一平。そういう可哀想なちびっ子のために、お前は盲導犬を我慢しろ」

 ああ。とだけ答えた。

 何を言っても無駄だと思ったからだ。

 親父はおれの気持ちに気づくことなく、ベラベラと喋り続けた。

「と言ってもだ。お前は日本チャンピオンの癖にジャブの一つもまともに打てねえ、不器用もんだ。盲導犬がいなきゃ、一人で便所にも行けないに違いねえ」

 殴ってやろうか、このクソジジイ。

 おれは鼻水を啜る親父に殺意を覚えたが、親父と違って大人なので我慢した。

「そこで優しいおれっちは考えたのよ。目の見えない可哀想なちびっ子に盲導犬を譲りつつも、ソープをせがむ童貞小僧のように盲導犬を欲しがるオメーに、盲導犬をプレゼントする方法をな」

「いつおれが盲導犬を欲しがったんだよ!」

 我慢しきれなくて、思わず叫んだ。

「おれは一言も盲導犬が欲しいなんて言ってねえだろう」

 盲導犬という発想すらわかなかったわ。

「嘘つけ! テメーはいつも盲導犬が欲しいと思いながら、おれっちのことを視姦するような目で見つめていたろうが!」

「気持ち悪い例えかたすんな! それに親父のことなんか見てないから。だいたいなぁ盲導犬と首輪になんの関係があるんだよ! 肝心の盲導犬がいねえじゃねえか!」

「そんなの決まってんだろう! 保健所から犬貰ってきて、お前が訓練するんだよ。そうすりゃ、バンバンザイだろうが」

 親父はしれっとした顔でのたまった。

「馬鹿じゃねぇーか! ド素人のおれが盲導犬の訓練なんかできるわけねえだろうが!」

「かぁ、これだから嫌だね根性なしは。やる前から出来ねえと諦めやがる」

 親父はおれを馬鹿にするかのように道路に痰を吐いた。

「おれっちを見ろ、おれっちを。お前みたいな才能なしの、根性無しの、玉無し野郎を日本チャンピンに育て上げたろうが!」

「なにほざいてるだ! おれが日本チャンピオンになれたのはトレーナーの山形さんのお陰だ!」

 おれはカッとなって言い返した。

 クソ親父の戯言に慣れてるおれでも、許せないことがある。

 才能がないおれが日本チャンピオンになれたのは、山形さんの指導のお陰であった。

 山形さんの指導は厳しいが、どこか穏やかであった。

 しかもその指導方法はつねに理によって裏打ちされていた。

 根性論一本槍の親父とは大違いである。

 うちのような弱小ジムじゃなければ、世界チャンピオンを育てることも出来たかもしれない。それほどのトレーナーなのに、何故うちみたいな貧乏ジムの専属トレーナーしているのかは謎だった。

 もっと言えば親父見たいな極道な人間と、山形さんのような出来た人間が、親友なのもよくわからなかった。

「テメー! おれっちの金玉から生まれてきたくせに、生意気なこといいやがって・・・・・・。この精子野郎! 調子に乗っているともう一度玉金のなかに戻して生み直すぞ。このドンカスが!」

 親父の最低の言葉に、周りの通行人がどん引きしていた。

 アメリカのチンピラだって、こんな言葉を使わない。

「わかったから怒鳴るなよ、親父」

 おれは恥ずかしくなって、親父を宥めにかかった。

「ふん、はじめからわかっておけ。こんな常識的なこと」

 親父はそう言うとアスファルト目がけて唾を吐いた。

 死ねばいいのに。

「――まあいいや、お前は馬鹿だからな。勘弁したる。それより早くいくぞ、保健所によう」

 呆れ尽くしたおれを置いて、親父は意気揚々と保健所にむかって歩き出した。

 おれは、親父の背中を見ながら思った。

 犬を引き取るかわりに、うちの親父を引き取ってくれればいいのに、と。

 保健所につくと、気の弱そうな係員のおっさんが犬舎に案内してくれた。

 檻の中に閉じ込められている犬たちは、目の悪いおれでもわかるぐらい悲しそうな顔していた。

 〝こいつらだって生きたいだろうに〟

 一匹の子犬は、物悲しい目でおれを見上げていた。

 ガラにもなく胸が締め付けられた。

「――このチビコロはダメだな。育てるのに時間がかかる」

 親父は無神経極まりなかった。

 子犬はクゥーンと悲しげに泣いた。

「親父、場所を考えろよ」おれは親父を諭した。

「お前こそ、犬コロなんかに同情してる場合か!」

 親父は逆切れする。

 おれは怒鳴り返してやろうかと思ったが、係員のおっさんが止めに入ったので我慢した。

 しばらく無言で檻を眺めた。

 どの犬も自分の運命を悟ってか、暗い顔をしていた。

「見ろ、一平。こいつらの顔。どいつもこいつも、シメられる前の鶏みたいな顔してやがる。やっぱ犬コロでも殺されるのは嫌なんだな。可哀想に」

 言葉は最低だが、親父の声は湿っていた。

 親父なりに犬共に同情しているようだ。

「そういやよう、一平。おれが秋田にいたころ、棒きれで犬の頭引っぱたいて、よくシメて喰ったんだよ。癖があるけど精がつくだよ、犬肉はよ。夜なんかに食ったら大変なことになるから、おれっちは昼間しか喰わなかったけどな。ガァハハハ」

 親父は本当にデリカシーがなかった。

「こういう茶色の毛のした、小さいのが美味いだよ。こういうの見つけたら後ろからそっと忍び寄って、棒きれで思い切り殴るんだよ」

 親父は檻の中にいる可愛らしいチャウチャウを指さしながら言った。

 ご丁寧に殴る真似までし始めた。

 チャウチャウは、棒きれで殴る真似をしてる親父を悲しげな目で見つめながら、クウーンと鳴いた。

 おれは親父の袖を引いた。

「おい、親父。犬鍋の材料探しにきたわけじゃねえだぞ」

「うんなのわかっているよ! おれっちはただ犬コロが可哀想だからちょっと言ってみただけだよ」

「可哀想なら食うなよ! てか全然慰めの言葉になってねーよ」

「仕方ねえだろう、腹はへるんだから。それより、最高の犬を探すぞ」

 親父は檻を見て回った。おれはなるたけ飼うのが楽そうな犬を候補にあげたが、親父はそのたびに「こんなもんバター犬にもなれねえよ」と無茶苦茶なイチャモンをつけて却下した。

 とうとう最後の檻まできた。

 檻の中では、赤茶けた毛をもつ不細工な雌犬と、ところどころに十円禿げがある黒犬がいた。

 禿げた黒犬は不細工な雌犬の尻の穴に鼻を近づけると、クンクンと匂い嗅ぎ始めた。

 雌犬は嫌そうな顔で黒犬を一瞥すると、後ろ足で蹴っ飛ばそうとした。

 黒犬は素早くよけると、雌犬のケツに乗っかろうとする。

 猛烈に抵抗する雌犬。

 こいつは論外だな。さっさとガス室に送り込んだほうがいい。

「こいつだ!」

 親父はレイプ犬を指さし叫んだ。

「えっ、こんな見るからにダメそうな犬貰ってどうすんだよ」

 それこそ犬鍋にするしかねえぞ。喰っても不味そうだけどな。

「馬鹿野郎、死の瞬間まで子孫を残そうとする根性をみろ! 間違いなくこいつは根性のある犬だぞ、なあおっさん」 親父は保健所のおっさんに加勢を求めた。

「あのう・・・・・・。ここにいるのはペットにむかない犬ばかり集めた檻なので、お譲りするわけにはいかないのですが・・・・・・」

 保健所のおっさんは申し訳なさそうな顔で頭をさげた瞬間、親父はぶち切れた。

「さんざん犬コロ殺してきた癖に、お前は犬を見る目がないのか!」

「――申し訳ありません」

 親父の剣幕にビビって、反射的に頭をさげる保健所のおっさん。 おれはウンザリしながら、仲裁に入った。

 結局親父の剣幕に恐れをなした保健所のおっさんは、親父に駄犬を引き渡してしまった。

 あの時もっと保健所のおっさんが根性を据えて拒否してくれれば、こんな駄犬の世話などせずにすんだろうに。

 おれはウンザリしながら、砂浜で寝っ転がり続けている駄犬に目をむけた。

 駄犬は鼾をかいて寝ていた。

「犬鍋にするぞ、この馬鹿犬!」

 おれが怒鳴っても、駄犬はなんの反応も示さなかった。

 おれは蹴り起こしてやろうとしたその時、駄犬の目がカッと開いた。

 おれは何事かと思って呆然としていると、駄犬はむくりと起き上がり、海に向かって駆けていった。

 波打ち際には薄汚れたシャム猫が歩いていた。

 猛ダッシュをかます駄犬の瞳は欲情で潤んでいる。

 まさか・・・・・・

 〝あの野郎。種族を超えたレイプにチャレンジする気なんじゃないだろうな〟

 おれの予想は悲しい事に的中した。

 目を血走らせ駄犬は、シャム猫に襲いかかった。

 シャム猫はもの凄い勢いで逃げだした。

 必死に追いすがる駄犬。

 〝あのクソ犬・・・・・・〟

 おれは哀れなシャム猫を救うために、駄犬の汚いケツを追いかけた。


 ――一五分後。おれは駄犬を肩に担ぎながら、海岸を走っていた。こんなうすらデカイ馬鹿犬なんか担ぎたくないが、シャム猫を追いかけ回したせいで、駄犬の体力は底を尽きていた。

 蹴ろうが殴ろうが動かない。仕方ないので担ぐことにした。

「お前なんでシャム猫相手にサカろうとするんだよ。あきらかに種族が違うだろうが」

 おれは肩に担いだ駄犬を叱りつけると、駄犬は情けない声でプシーと鳴くだけだった。

 駄犬の情けない声を聞いた瞬間、反射的に、駄犬を海に放り捨てたくなったが、飼い主としての責任が、おれの手を止めた。

 おれはゼイゼイ息を吐き出しながら灯台の階段までやってきた。

 この階段の上にある灯台がゴールだ。

 現役時代なら足を止めずに、階段を駆け上がるところであった。

 しかし今は現役ではない。

 引退した元ボクサーである。

 当然体力は落ちている。

 しかも階段は急で、長い。

「・・・・・・けえるか」

 長い階段を見上げながら呟いた。

 こんなところ今昇ったら心臓を吐いちまう。

 現役時代、数え切れないほどこの階段を昇ったが、楽に感じたことは一度もなかった。

 特に中段あたりの辛さは尋常ではない。

 傾斜もきつくなるし、強い海風も吹く。

 何度も膝をついた。そのたびに親父の竹刀が飛んできた。

 そういや、きよしの馬鹿ともよく昇ったな、この階段。

 親父に煽られて、よく競争させられたっけ。

 はじめのうちはおれのほうが圧倒的に勝っていたのだが、そのうちきよしに追いつかれるようになった。

 最後の方はよく負けていた。

「けっ! クソろくでもない階段だ」

 思い出したら腹が立ってきた。

 ボクサーでもないのに、こんなクソ階段を昇ってスタミナをロスしてもしようがない。家でセンズリでもして、子種と時間を消費したほうがまだマシであった。

 おれが階段から背を向けようとしたその時、肩に担いでた駄犬が暴れ出した。

 おれはびっくりして、駄犬の足を離してしまった。

 宙に放たれた駄犬は見事に一回転して着地すると、何を思ったのか階段を駆け上がっていった。

「さっきまで死んでたくせになにやってんだよ! お前は」

 と叫んでみたが、脳みそが腐ってる駄犬の足は止まらない。

 尻尾を振りながら階段をどんどん駆け上っていく。

 〝どうせあの駄犬のことだ途中でへたばるだろう〟

 そこを捕まえればよい。

 おれは仕方なく灯台の階段を昇り始めた。

 

 おれの予想に反して、駄犬はなかなかへたばらなかった。

 おれの背中で休んで体力を回復したのかもしれない。

 おれの方はといえば息をするのも辛くなってきた。

 それでもなんとか中段まで辿り着いた。

 おれを待ち構えていたいたかのように、強い海風が吹き荒ぶ。

 おれは思わず階段の手すりにつかまった。

 〝あんなクソ犬しるか〟

 おれは罵りながら膝をついた。

 口から内臓を吐き出すような勢いで、空気を求める。

 やめだ。やめ。おれはこんなクソ階段なんか登らねえ。

 てかあの駄犬を置き去りにして家に帰る。

 おれは階段を下り始めた。

 駄犬が後ろについてくる様子はない。

 〝本当に置き去りにすんぞ〟

 おれはふり返り、駄犬にむかって「置いてくぞ!」と怒鳴ろうとしたが、声が出なかった。

 駄犬の野郎がにんまりと嗤いながら、階段の上からおれを見下ろしていたからだ。視力が低下しているせいで、駄犬の顔は酷く滲んでいたが、駄犬はたしかにおれを嘲り馬鹿にしていた。

 〝あのクソ犬!〟

 これほどの屈辱は久方ぶりだった。親父じゃないが、あの犬だけは棒きれで頭を引っぱたいてシメてやらないといけない。

 おれは階段を再び昇り始めた。

 ――待ってろよ、クソ犬が。

 

 屈辱をバネにして、なんとかおれは心臓破りの階段を昇りきった。

 しかし現役を退き体力が衰えていたおれはバテきっていた。

 駄犬を棒でシメる余裕などない。立ってるだけでも辛い。

 力尽きて、地面に倒れ込むおれ。

 駄犬をシメるのは後だ。

 おれは荒くなった呼吸を整える。息が落ち着いてくると、心に余裕が生まれる。

 〝駄犬の野郎、なにしてんだ?〟

 海にでも落ちてくれればこれ幸いなのだが、他人様に迷惑かけてたらまずい。

 起き上がるのがかったるかったので、首だけ持ち上げて辺りを見回した。

 巨大な金玉が目に飛び込んでくる。

 無論、人間の金玉ではない。この灯台の守り神である厳左右衛門様とかいう狸のご神体の金玉である。

 〝いくら御利益あるとはいえ、もうちっと小さく作っておけよ〟

 こう思ったのはおれだけではなく、フェミニスト団体も同じことを思ったらしく、この下品な狸像を撤去するか、もう少し金玉をちいさくするよう町長に嘆願書を提出したことがあった。

 これを聞きつけた街の爺さん連中は大激怒した。

「厳左右衛門様といえばこの街の守護神であるというのに、それをちいっと下品だからといって、厳左右衛門様の大切なタマ袋を小さくなんぞしたら、大変なことが起こる。それになぁ、金玉がデカイのにはわけがあるじゃ。灯台なんぞなかった江戸時代、厳左右衛門様のタマ袋が海を照らしてくれてたのじゃ。そんなありがたい金玉を小さくするなどもっての外じゃ!」

「科学的根拠ゼロの迷信です! そのような迷信よりも、女性の視点を取り入れた街作りの方が重要です!」

 こうしてフェミニスト団体と、街の爺さん連中との間に大論争が巻き起こり、揉めにもめた。

 祭りと喧嘩が大好きなうちのクソ親父も誰も頼んでいないのに勝手に参戦し、戦いは激化した。

 親父が火にガソリンをぶち込んだ結果「女性の視点か、神様の玉袋か」と争いは地方紙の一面を飾るレベルにまでに発展した。

 あんときは本当に大変だった。

 家は爺さん連中の詰め所と化すわ、フェミニスト団体から訴えられて裁判沙汰になるわ、金はどんどん出て行くわで、あやうく家庭が崩壊するところだった。

 厳左右衛門はもうたくさんだ。

 おれは厳左右衛門の金玉から目をそらし、ウチの馬鹿犬を探し始めた。

 馬鹿犬、馬鹿犬・・・・・・

 辺りをキョロキョロと見回す。

 馬鹿犬の姿は見当たらない。

〝まさか向日葵の花壇とか荒らしてねえだろうな〟

 灯台の横ちょには、物好きな婆さんが作った向日葵の花壇があった。こんな所に勝手に花壇なんか作ったら不味いような気がするが、どこからも文句は出てこなかった。

 〝そういや、婆さんの姿が見えねえな〟

 いつも白い犬を連れて、花壇の世話をしてるか、地面に腰を下ろして海を眺めているのに。

 今日に限って婆さんの姿は見あたらなかった。

 たまたま来てない、というのはあの婆さんに限ってあり得なかった。

 あの婆さんは――

 暑い日も

 寒い日も

 雨の日も

 風の日も

 雪の日も

 灯台の側らで海を眺めていた。

 何故海なんて見てるのか、おれにはわからない。

 ただ姿が見えないのは、見慣れた景色の一部が無断で切り取られたようで、悲しかった。

「向日葵も婆さんがこなくて寂しいのかもな」

 潮風に揺れてる向日葵の蕾を見つめながら、柄にもない言葉を呟いた。

「アイィィーン」

 おれの感傷は間抜けな雄叫び声によって吹き飛ばされた。

 何事かと思って見ると、駄犬が、灯台の入り口の階段の手すり相手に腰を振っていた。

 フィニシュが近いのか、駄犬の面はダメなAV女優のようにアヘ顔である。

「お前それがやりたかったのか・・・・・・」

 おれは駄犬の寂しい一人遊びのために、死ぬ思いであの階段を昇ったのか。

 そう思った瞬間、すべての気力がうせた。

 ガクリと首が折れる。

 再び顔を上げると、駄犬は腰をこすりつけながら、長い舌を屈しして錆びた鉄棒をいやらしく舐め上げていた。

 ――鉄棒相手にテクニックを屈指してどうするんだよ。

 おれはもっと綺麗な物を見つめたくなって、仰向に寝っ転がる。

 綺麗な青空が見えるはずだった。でも壊れかけの目に映ったのは酷く滲んだ空だった。

 どこまでが雲でどこまでが青空なのか、それすらよくわからない。

 青空がもっと近ければわかるのに。

 おれは天にむかって腕を伸ばした。からっぽの手で青空を引き寄せようとしたが――

 

 何も掴むことはできなかった。


 クソっ。

 おれは舌打ちして瞼を閉じた。現実から目を背けたくなったのだ。

「ワフワフ、ワフーン」

 駄犬の間抜けな声のおかげで、すぐ現実に引き戻された。

 またしてもフィニシュが近いのか。

 〝勝手にやってろ〟おれが無視することに決めると、「きゃあー」 という可愛らしい悲鳴が響いた。

 〝きゃあー?〟

 酷く掠れた声だが、たしかに女の声であった。

 おれは驚いて声がするほうに顔を向けると、白いワンピースを着た少女が、めくれ上がったスカートを手で押さえていた。駄犬は激しく尻尾を振りながら、スカートのなかに頭を突っ込もうとしている。

 少女の飼い犬らしき白い犬が、駄犬から飼い主を救うべく、駄犬の尻尾を噛んで引っ張っているが、性欲に狂ってる駄犬を止めることは出来なかった。

 〝種族を超えすぎてんぞ、馬鹿犬が!〟

 おれは慌てて立ち上がると、少女のスカートのなかに頭を突っ込んでいる駄犬の腹を蹴り飛ばした。

 駄犬はキャヒーンと鳴きながら、無様に倒れた。

「なにやってんだこの馬鹿犬! 絞め殺すぞ!」

 地面に転がってる駄犬にむかって怒鳴ると、駄犬はすぐに仰向けになって腹を見せた。

 反省のポーズである。それはいいのだが、駄犬の汚らしいチンコは勃起していた。

「うんなことしたって許さねえぞ、馬鹿犬!」

 てか、息子を大人しくさせろ。

「あの、そんなに怒らないでください。たぶんワンちゃんは、わたしに遊んで貰いたかっただけですから」

「この馬鹿犬にかぎって――」

 おれは声を飲んだ。間近でみて初めて気づいたのだ。

 ワンピースの少女の可憐さに。

「――変ですよね、わたしの声」

 少女は悲しげな顔で微笑みながら、誤解した。

「いや、おれはただ――。そのう・・・・・・、あれだ。綺麗な足をしてるなって」

 何か喋らなければ、と思って出した言葉は最低だった。少女の頬は鬼灯のように赤く染まった。

 〝アホか、おれは〟

 そろそろ加齢臭が漂いはじめた見知らぬおっさんに、いきなり生足ほめられたら普通引くだろう。

「――あの、ありがとうございます。ちょっと細すぎるかな、と自分では思ってます」

 少女は気を使って話をあわせてくれた。ただし顔は真っ赤なまんまであった。

 まずい話を変えないと。

「こっ、こんなところに何しに来たのですか?」

「えっ・・・・・・」

 少女の頬はより赤くなった。

 なんか拙いこと言っただろうか、おれ。

 風俗と飲み屋の姉ちゃん以外、女性に縁がないおれには年頃の少女の気持ちなどわからなかった。

「・・・・・・海を眺めに来たんです。ここからだと海の向こうまで見えそうですから」

 景色はたしかにいいかもな。

 おれは少女の言葉を確かめるかのように、海の向こうを見つめた。

 滲んだ灯台と、ぼやけた青が見えた。

 少女が見たであろう美しい光景は、おれの目には映らなかった。

 なんでも滲んで見えやがる。

 おれは目をそらした。

「――どうしたんですか?」

 事情を知らない少女は怪訝な顔で尋ねた。

「目にゴミが入ったんですよ」

 おれは目を擦って誤魔化した。

「そうですか、ここ海風が強いですもんね。目にゴミが入りやすいかもしれません。とくに一平さんが昇ってきたあの階段、途中のところで凄く強い海風が吹きますよね。わたしも最初はあの階段から灯台に行こうとしたんですよ。でもあんまりにも潮風が強いので断念して、遠回りして国道沿いの森を抜ける道からここへ来ました」

「それが正解ですよ。あんな階段地元の人間だって使いませんよ」

「そうなんですか・・・・・・。でも一平さんはあの階段昇ってましたよね?」

「いやそれは――」

 おれはそこではたっと気づいた。

「――なんでおれの名前知ってるですか?」

 おれはこれでもボクシングの元日本チャンピオンである。試合も、テレビで放映されたことがあるから、有名人と言えなくもない。

 だが所詮マイナースポーツであるボクシングのチャンピオンだ。

 年頃の少女が、おれの名前など知るはずがない。

 テレビでたまたま見て名前を覚えた可能性もあるが、おれの試合がテレビに流れたのは三回。しかも深夜の時間帯であった。

 年頃の少女が夜中にわざわざ起きて、ボクシングの試合を見るとは到底思えなかった。

「やっぱり・・・・・・忘れてる」

 少女の呟き声は、潮風と波の音によって掠われてしまった。

 おれの耳まで届かない。

「なんて言ったんですか!」おれは海風に負けないよう叫んだ。

「なんでもありません!」少女は少しむくれた顔で怒鳴り返した。

「なんか怒ってません?」おれは幾分情けない顔で言った。

 いい年こいてまともな恋愛経験をしたことないおれは女の気持ちなどまるでわからない。

 何も知らない地球人がエイリアンと会話をしているようなもんである。もちろんこんな可愛いエイリアンなら毎日でも遭遇したいし、なんだったら食べられてもいい。

「べつに怒ってませんよ」

 その言葉とは裏腹に少女はぷいと顔を横に向けた。

 〝なに怒ってるんだかわからないけど、マズイ〟

 年頃の少女は難しい。話題を変えなければ。

「このワンちゃん可愛いですね――」

 おれは少女の飼い犬を褒めようとした。犬好きなら飼い犬を褒められて悪い気はしまい。しかし少女の足下にいるはずの白い犬はいなかった。少女も飼い犬がいないことに気づきキョロキョロと辺りを見回した。

「あっ、いました!」

 少女は灯台の方を指さした。おれは目を細め、少女の指が指した先を見つめる。目が悪いせいでよく見えないが、灯台の横穴あたりに白く滲んだ点が見えた。

 滲んだ白い点は、少女のほうに駆け寄ってくる。白い点がたんだんと大きくなり、やがて白い犬となった。

 白い犬はピンクのリボンが結われてる尻尾を振りながら、口に咥えた紙を少女に差し出してきた。

 少女は子首を傾げると、白い犬の口から紙を取って目を通した。

 おれは犬の顔を見てあることに気づいた。

「よく見りゃあ、お前婆さんの飼い犬じゃねえか」

 目がポンコツになっちまっているせいで気づかなかったが、白い犬は物好き婆さんの飼い犬であった。

「ポンちゃんのこと知ってるですか?」

「ええ、ピンクのリボンなんて尻尾に結わいてなかったけど、この犬は、灯台によく来ていた物好きの婆さんの飼い犬ですよ。ひょっとして君は婆さんの親戚か何かか?」

「いえそのお婆さんと会ったことすらありません。この子灯台のなかに住んでいたんです」

「灯台に住んでた?!」おれは驚きのあまり、素っ頓狂な声をあげた。

「はい。『灯台の管理人ポン』と犬小屋に表札が掛かっていました。てっきりここの灯台の管理人さんが飼っている犬かと思ってましたけど――」

 ――何か事情があるみたいですね。少女は白い犬を見つめながら呟いた。

 おれは犬の顔を覗き込んだ。

「お前の婆さんはどうしたんだ?」

 おれが問うと、白い犬ことポンは悲しげな声でクーンと泣いた。

「まさかお迎えが来ちまったのか?」

 おれが病院に入院している間、逝っちまったのかもしれない。

いい年だったしな。

「ワンワン!」ポンは抗議するように吠えた。

「悪い、悪い。おれが悪かった」おれが詫びると、ポンは吠えるのを止めた。

「ポンは訳あり犬なのね――」

 少女はそう言うと、ポンの頭を撫でた。おれはその仕草が妙に儚げに見えた。

「――そういやポンが咥えていた紙はなんだったですか?」

 おれの目じゃ、滲んで見えない。

「灯台新聞です。読みます?」

「灯台新聞?」

 なんで犬が新聞を?

「どこかの高校生が作った学校新聞のようですね。青商新聞部発行って書いてありますから」

「青商かあ、あの馬鹿高にも新聞部なんて洒落たモンあったんだな」

 青商は、お世辞にも頭の良い学校とは言えなかった。

 偏差値レベルは下の上。それでも中卒のおれから見れば頭の良い分類であった。

 しかも元女子校なので、女子率が半端なく高い。勿論低偏差値に比例してズベ公も多かったが、それでもダイヤの原石が混ぜっていることもあった。

 中学のとき、若さの勢いって奴で高校進学諦めてプロボクサーの道を選んじまったが、おれも青商に入りたかったなぁ。

 あんだけ女がいるんだから、おれの童貞を奪ってくれるズベ公も一人ぐらいいただろうに。

 惜しいことをした。もっともおれの頭じゃあ、青商も怪しかったけどな。

「なかなか面白いですね、この新聞」

 おれがド汚い回想している間、少女は新聞を読み終えたようだった。

「――どんな事書いてあったんですか?」

「灯台の歴史のこととか、妖精の追い返す呪文とか、素敵なおまじないのこととか・・・・・・」

「おまじない?」

「とっても素敵なおまじないですよ」

「どんなおまじないなんですか?」

「――ダメです、一平さんには教えられません」

 少女は悪戯っぽく微笑んだ。

「なんでですか?」

 少女はまともに答えず、可愛らしい笑みでおれの言葉をかわした。

 まあいい。よく考えてみればおまじないなんてどうでもよかった。

 それよりももっと聞きたいことがあった。

「――ぞう言えば――」

 おれはごくさり気ない感じで尋ねようとしたが、思い切り失敗した。

 〝震えんじゃねえ、おれの唇〟

 プロポーズしようとしているわけじゃないんだ。

 ただ名前を教えて貰おう、ただそれだけのことだろう。

 たくよう、素人童貞つうのは悲しいな。相手が素人女だと、無駄に緊張しちまう。

 〝頑張れおれ! 素人童貞卒業したいだろう〟

 おれは自分で自分を励ましたが、唇の震えは止まらない。

少女は怪訝な顔で、おれを見上げている。

 顔が近い。

 もう少し距離が縮まれば、少女の吐息まで感じることができるかもしれない。おれの心臓が烈しく高鳴った。

「どうしたんですか、一平さん?」

 少女は小首をかしげた。

 畜生可愛いじゃねーか!

「――お名前はなんでおじゃるんですか?」

 勇気を絞り出し名前を尋ねたものの、緊張のあまりインチキ公家さんみたいな言葉になってしまった。

 少女は吹き出した。少女は笑いながら、おれにむかって何か言おうとしたが笑いすぎて言葉にならない。腹を抱えて笑ってる少女を見て、おれはどうしていいのかわからず、結局おれも笑い出した。

 笑うしかねえや。

 おれは笑いながら、切なさをおぼえた。

 この恋、終わったな。

 早い。あまりに早い恋の終わりだった。仕方ない、おれは素人童貞なんだ。

 美少女に恋するなんて、百年早い。

 素人童貞は素人童貞らしく、ソープで腰ふってればいいのだ。

そうだ、そうしよう。安い大衆ソープ行って、この悲しさをソープ姉ちゃんにぶつけよう。でも金がないから、弟から金を借りないとな。

「一平さん、ずるいですよ、急に笑せるなんて」

 おれが失望を欲望に変換してる間に、少女は笑いを納めていた。

「いや、笑わそうとしたわけじゃあ・・・・・・」

「じゃあ、なにを言おうとしたんですか?」

 気のせいか、少女の大きな瞳には悪戯ぽい光が輝いてた。

「なっ、名前聞いとこうかなと思って・・・・・・」

 一度恥をかいたせいか、さほどどもらずにすんだ。

「――名前聞こうとして、一平さんは照れちゃったわけですか――」

 少女の声には微量の勝ち誇った響きがあった。

 気のせいかもしれないが。

「いや下心があると言うわけじゃなくて、なんて言うのかな、挨拶みたいなもんでしょう」

 おれは声は、あかさまに動転していた。

「なるほど、一平さんは挨拶がわりに女の子の名前を聞いちゃう人なんですね。――もっと硬派な人かと思ってました」

 少女は失望し、大きなため息を吐いた。

「いや硬派ですよ、おれは」

 おれは必死にこいて弁解する。そんなおれを見て少女は笑った。

「まあいいです、あまり苛めると一平さんが可哀想ですから」

「なら、名前教えてくれるんですか?」

「――ポン子です」

「ポン子?」おれは素っ頓狂な声で聞き返した。

「そうです。ポン君のお姉さんだからポン子です」

 少女ことポン子は、上手くおれの問いをはぐらかした。

「ポンのお姉さんのはずないでしょう? 犬じゃあるまし」

「隠してましたが、実はわたしは犬なんです」

 ポン子は頭に両手を当てると、「わん、わん。ポン子だわん」と宣った。

 おっさんのハートがキュンとなると同時に、

〝この女、自分のビジュアルをしってやがる〟と思った。

 少女の行動は天然ではなく、自分のビジュアルに裏打ちされた実に卑怯な仕草であった。

 昔キャバクラでコリン星人そっくりのブリッ子女になけなしの金を巻き上げられた悲しい経験が、おれに少女の狡猾さを教えてくれた。

 ――女の嘘は暴いてはいけない。

 おれが唯一感心した、親父の言葉を思い出した。

 たしかにその通りだ。

 女と言う生き物は皆白鳥なのだ。

 優雅に湖面を泳いでるように見えても、水中の中じゃあ必死に足をバタつかせ水面を蹴っている。

 男はそれを岸から黙って鑑賞していればいい。

 湖に飛び込んで、藻掻いてる足を見るのは、野暮というものである。

「――納得して頂きましたか?」ポン子は耳に手を当てたまんま上目遣いで問うた。

「――納得しました」おれは騙されることにした。

「そうですか、納得して頂けましたか――。たまに疑り深い人がいると、くんくんまでやらないとポン子のことを犬だと信じてくれない人もいるから――」

「くんくんだとっ!」

 ポン子の何気なくはなった言葉は、おれの心を貫いた。

 くんくんと言うのはつまりアレだ。鼻を近づけて男の体臭をかぐわけだ。ごく間近に近づけてな。これだけでも凄い。

 こんなことポン子にやられた日には、鼻血と一緒に射精する自信があった。

 だが、これだけではないのだ。

 大抵の犬はクンクンしただけでは終わらない。だいたいクンクンした後高確率でペロペロがあるのだ。

 ペロペロだぞ、ペロペロ。

 ペロペロが顔面だった日には大変なことになる。ましてやそれが下半身だった日には――

 爆発しちまうぞ、おれは。

「・・・・・・どうしたんですか?」

 気づくとポン子は不安げな顔でおれを見つめていた。

惑乱したおっさんを見て、頭の中身が心配になったのかもしれない。

「いや、そのう、ちょっとまあ、なんて言うか――」

 頭が混乱して言い訳が思いつかない。

 なんか格好いい言い訳はないものか・・・・・・

「――そうだ。むかしの試合を思い出してたんですよ。ほらおれ元ボクサーでしょう。たまに苦戦したときの試合思い出して固まっちまうことがあるんですよ」

 いま硬くなっていたのは、おれの息子なんだがな。

「――なんか嘘くさい話ですね」

 ポン子は疑り深かった。

「なに疑ってるですか、おれは試合に負けたことがあっても嘘だけはついたことないですよ」

 おれは大嘘をついた。

「まあ、そう言うことにしておきます」

「――ところでポン子さんは誰かに今までクンクンしたことあるんですか?」

 失礼な質問ではあるが聞かずにはいられなかった。

「――ポン子はこれでも忠犬なので、ご主人様にしかクンクンはしないつもりです」

「ご主人様がいるんですか」

「生まれてからずっと募集中ですが、まだいません」

 ポン子は態とらしく悲しげに呟いた。

「そうですか」おれは相鎚をうちつつ、ポン子に恋人がいない事に安堵した。

 それにしてもご主人様にはクンクンか、ペロペロまでされたら堪らねえだろうな。

「――なんか目がエッチです、一平さん。わたし一平さんのことをもっと硬派な人だと思ってたのに・・・・・・」 

 ――やっぱ憧れてる人には会ってはいけないですね、と言ってポン子はため息をついた。

「なにを言ってるですか、おれは硬派ですよ」

 おれは情けない顔で、硬派をアピールをした。

「言葉だけでは信じられません。硬派なら行動でアピールしてください」

「行動って・・・・・・」

 押し倒せ、とかだったらどうしよう。

 おじさん素人童貞だから、あんまり難易度の高いのは、ちょっと・・・・・・

 やっていいのなら、是非やらせていただきますけど。

「ポン君のお姉さんとしては、これから毎日朝ご飯をポン君に差し入れするつもりなんですが――」

「はぁあ」

 なんかおれの予想と違う方向の話だ。

「そのついでに少し走ろうかなと思っているんです、わたし。この所、ハーゲンダッツ食べ過ぎてちょっと肥ってしまいましたから・・・・・」

 ポン子は小さくなる。

「でも、一人で走るとすぐに挫折するのがいつものパターンなんです。誰か一緒に走ってくれる人がいればなぁ――」

「ハイっ!!!」

 おれはナチスばりの勢いで手をあげて、立候補した。












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