LOVE 旧名君が好き前編 改稿
朱美の家庭教師を引き受けてから二日後。
おれは家庭教師のレクチャーを受けるため、駅前のマックで福ちゃんと待ち合わせしていた。
しかし約束の時間である四時を過ぎても、福ちゃんは姿を現さなかった。
携帯に電話してみようかとも思ったが、一〇分程度の遅れでいちいち電話するのも気が早すぎると思ったので、代わりにメールをチェックしてみた。
メールの受信ボックスには一通のメールもなかった。
〝片桐がメールを返さないなんて珍しいな〟
ヤクザという職業柄、片桐は女子高生なみにマメにメールをチェックするので、メールを送れば大抵すぐ返ってくる。
それが今日に限って返ってこない。
〝出席日数やばいというのに、学校休んでなにやってんだ片桐の野郎は?〟
亀吉のヤツも一緒に休んでやがる。
誰かとモメてるのか?
地元のヤンキー連中は片桐と目を合わせることすらビビっているので、片桐がモメるとしたら同業しかいない。
〝ヤクザ相手にモメてるのかな?〟
そうだとしたら猛烈に関わりたくねえだが。
しかし宮田の野郎に片桐のこと頼まれてるしな。
普段は片桐と関わり合いになることを恐れて放置プレイしている宮田も、ことサボリに関してはうるさかった。
テストの点数や素行の悪さなどは先公がその気になればどうにでもなるが、出席日数だけは甘くするにも限度があった。
もし出席日数が足らず片桐が留年、止め役であるおれや亀吉が卒業ということになれば、タマカスは間違いなく北斗の拳のような世界になる。
不良連中はまず間違いなく、片桐に守り代を取られる。
シンナーやパー券も売られるであろう。
下手すりゃあ、シャブの売買までありえる。
学校内に片桐組のシマが出来るようなもんだ。
警察沙汰というか、新聞沙汰になるのは間違いなかった。
学校側がなんとしても片桐を卒業させたがるのも無理はなかった。
〝だからと言って、宮田もおれに頼むなよな〟
片桐の面倒など見るくらいなら、ゴリラの面倒みてるほうがマシだった。
てか面倒を見るなら片桐より、ゴリラだよな。
おれはゴリラの面倒を見ている自分の姿を想像してみた。
ゴリラにバナナをやるおれ。
ゴリラの膝枕で眠るおれ。
ゴリラにマウントを仕掛けるおれ。
――やべえ。すげぇ楽しそうだ。
片桐も人間やめてゴリラになればいいのに。
ゴリラだったら面倒みてやってもいい。
いやぜひ面倒をみてみたい。
おれはゴリラに生まれ変わった片桐を飼育するというシチュエーションを頭の中で想像してみた。
脳内の片桐ゴリラは、バナナを食べてみたり、手話を覚えたりとなかなか頭の良いゴリラであったが、凶悪な性格はどうにもならず女性飼育員をレイプしようとしたので、おれは想像するのをやめることにした。
人間でダメなヤツは、ゴリラになってもダメだな。
一つの結論に得たところで、おれは片桐に電話をかけた。
――出ない。留守電になってる。
「野郎、電話ぐらいでやがれ」
おれは毒づきながらも、亀吉の携帯にも電話をかけてみた。
亀吉の方も留守電だった。
亀吉にしては珍しい。
〝あまり気が進まないが片桐組の方へ電話をかけてみるか〟
一介の高校生にすぎないおれがヤクザの組に電話かけるのは気が引けるだけどな。
おれは厭々ながらも片桐組の事務所に電話をかけようとすると――
「ごめん、待った」
片手にはトレイを、もう片手には本屋の紙袋をぶら下げた福ちゃんが目の前に立っていた。おれは携帯の蓋を閉じた。
「電話? 大丈夫よ、電話かけても」
椅子に腰を下ろしながら、福ちゃんは言った。
「いや、もう大丈夫」
世間体をあまり気にしないおれも、福ちゃんの前でヤクザの組長宅に電話をかけるのはさすがに気が引けた。
「福ちゃん、ここ禁煙席だけど大丈夫?」
席を決めるときは何も考えていなかったけど、福ちゃんは大学生なので、煙草ぐらい吸うかも知れない。
「平気平気、生まれてこのかた一本もタバコ吸ったことないから。舞島君も高校生なんだから吸っちゃダメよ」
「おれは吸いませんよ。タバコ嫌いだから」
酒は飲むけど。
「そう、ならよかった。これでも私は教育に携わる人間だから、目の前で未成年者にタバコを吸わせるわけにはいかないからね」
「ところで福ちゃん、その紙袋は?」
おれは椅子の横においてある紙袋を指さした。
「あっ、これテキストとか指導の仕方とかの注意書き」
「――そんなにあるのか?」
紙袋の中身はかなり重そうであった。
漫画すらほとんど読まないおれに、何を読ませようとしているんだ福ちゃんは。
「あっ、そんなに怯えないで舞島君。私物の本がほとんどだから。舞島君に読んでもらいたいのはこれだけ」
福ちゃんは袋からテキストの束を取り出した。
そんなに厚くない。てか薄い。
「これが課題のテキスト、こっちが指導の仕方のメモね」
おれは課題のテキストをペラペラと捲ってみた。
ふかい谷
あおい空
まぶしい光
おれでもわかる簡単な漢字の問題が並んでいた。
「これならなんとか教えられそうだな」
「――でしょう。これは小学校2年生の一学期に習う漢字だから」
「小学校二年? 朱美の奴はたしか三年まで学校行ってたんだろう?三年の問題からやらせればいいじゃないのか?」
「この課題は学力の強化が目的ではないの。勉強する姿勢を作ることが目的なの」
「勉強する姿勢? 背を伸ばしたって頭はよくならないだろう?」
「そっちの姿勢じゃないわ、舞島君。本格的に勉強を教えるまえに、まずは朱美ちゃんに勉強を好きになってほしいのよ」
「勉強なんか好きになるのか? おれは頭ワリーから、生涯勉強好きにならない自信だけはあるぞ」
「頭の善し悪しは関係ないわ、舞島君。教え方によっては知的障がい児でも勉強好きにさせることはできるし、IQ180を超える天才児でも勉強を嫌いにさせることはできるのよ」
「本当に? 教え方ひとつでそんなに変わるものかな」
筋金入りの勉強嫌いであるおれは、福ちゃんの話が信じられなかった。
「難しい理屈じゃないわ。勉強に対して苦手意識を植え付けたければ、その子が絶対に解けない課題を与えて、後はひたすら罵倒すればいいのよ。逆に勉強を好きにさせたければ、簡単な課題を与えていっぱい褒めてあげればいいのよ」
「ようは調子にのせるというわけか?」
「そうとも言う」
福ちゃんは喋って喉が渇いたのか、ジュースを飲んだ。
「しかし福ちゃん、あんま調子にのさせると勉強を舐めたりしないか? 勉強なんて簡単だって」
「そういった懸念もあるけど、それは些末なことよ舞島君」と言った後「舞島君、人にスキルを教えるとき一番の障害はなんだと思う?」福ちゃんは逆に質問してきた。
「おれみたいに頭の悪い人間かな」
「――違うわ。その学習に対する成功経験が皆無であり、学習中に辛いことばかりあった人間よ。このタイプの子は学習すること自体拒むから、教えること自体非常に困難なの。朱美ちゃんはこのタイプではないけど、学校に通ってないせいか、勉強することに慣れてないの。だからまずは勉強が楽しいものだということを。努力すれば報われるということを学習させることから始めたいの。ここら辺を学習させておけば後が楽になるから」
「――そんなこと学習させることができるのか?」
「適切な介入を行えば、人間を変えることはできるわ。人間は素質と環境の生き物だからね」
「素質と環境?」
難しい言葉が出てきた。
「素質とは、その人の遺伝的能力や性向。遺伝的能力や性向は私達には変えることができないけど、環境は変えることが出来る。努力すれば報われるという環境を作ってあげれば、朱美ちゃんも努力するようになるわ」
「――環境ねえ。福ちゃんの話を聞いてると、おれの頭のなかにあった先生像が崩れるな」
「どんなの想像してたの舞島君?」
「金八先生や、スクールウォーズみたいなの想像してた」
「私が金八先生に見える?」
「いや見えない」
おれが即答すると、二人して笑ってしまった。
福ちゃんは笑いを納めると、真顔になった。
「舞島君、教育というのは精神論よりも技術なのよ」
「技術?」
「そう技術。教育というと、精神論や愛情がやたらと語られるけど、愛情なんていうのはあって当たり前のものなのよ。教育者が最低でも持ってなきゃいけない免許みたいな物なの」
「その教育者の技術って、おれも当然覚えなきゃいけないだよな、福ちゃん」
愛情はともかく、教育者の技術なんておれに覚えられるかな。
「もちろん。でも安心して、そんなに難しいもんじゃないから。舞島君ならさくさく覚えられるから絶対」
「そうかな福ちゃん。――おれ福ちゃんが想像しているより、絶対に馬鹿だぞ」
「大丈夫、舞島君には才能があるから!」
「才能? おれに?」
発揮した覚えが、まるでないんだが。
「ありますとも。あの扱いが難しい朱美ちゃんを、初対面であれだけコミニュケーション取れたんですから。舞島君には教育者としての才能が絶対あります!」
福ちゃんは力強く断言すると、励ますためかおれの肩をパンパンと叩いた。
「そうかな・・・・・・」
元来お調子者であるおれは、美人のお姉さんに褒められると、その気になってきた。
「そうかちょっと頑張ってみるかな。ちなみにコツみたいなの何かあるかな、福ちゃん?」
「一に褒めて、二に褒めて、三、四がなくて、五に褒める」
「それだけ?」
「うん。基本はこれ」
「そんなに褒めたら甘ったれた子供になるんじゃないのか?」
「大丈夫よ。褒める教育というのは、子供を甘やかす教育じゃないから。私から言わせてみると、世間一般のお母さんの方が子供を甘やかすしてる場合が多いわ」
「たとえば?」
「そうねぇ――。よく見かけるのはオモチャ売り場で、子供がオモチャを買ってと駄々こねてる場面があるでしょう。舞島君がお母さんの立場だとしたらどうする」
「そりゃあ、駄々をこねるなと叱るだろうな、多分」
「でも子供は泣き止まない。それどころか泣き声は激しくなり、周囲の大人達は子供の泣き声に眉をひそめている。子供がねだってるオモチャは安い。そういう状況だったら舞島君どうする?」
「うーむ。今日だけだからな、とか言って買っちゃうかもな」
「世間のお母さんもだいたい舞島君と同じよ。駄々をこねている子供を叱ったりはしているけど、結局はオモチャを買い与えてしまう。これでは子供は泣けば玩具を買ってくれると、学習させているようなものなの。これでは子供を叱っていても甘やかしてるのと同じことなのよ」
「じゃあ、福ちゃんならどう対応するだよ?」
おれはムッとして言い返す。
「応用行動分析的にはよくある手は消去ね」
「ちょっと待ってくれ福ちゃん、応用行動なんたらってなんだ?」
「ああごめん。そういえばまだ言ってなかったわね、舞島君。応用行動分析というのは、人間の行動に焦点を当てた心理学。無視というのは、応用行動分析の手法の一つで、難しく言えば行動に随伴して与えられていた強化子を与えないこと」
「すまんが、さっぱりわからないから簡単な言い方でお願いします」
「了解。簡単に説明すると、子供が泣こうが喚こうが一切無視してオモチャを買わないということね。この場合、子供の駄々という行動を強化しているのは、オモチャを買い与えるという行動なの。だからオモチャを買わなければ、泣くという行動もそのうちやらなくなるのよ。ちなみに強化子というのは、応用行動分析の用語で、行動の直後に出現すると、その行動の将来の正規頻度があがる行為、刺激、条件ね。まあ簡単に言うとご褒美ね」
「なあ福ちゃん、はじめからご褒美って言い方じゃだめなのか?
おれ馬鹿だから、難しい言葉が出てくるとついていけなくなるのだが」
「ごめんね、舞島君。でもご褒美という言い方をすると、誤解を招く場合があるから、あえて正確な言い方をしているの」
「誤解? ご褒美に誤解もクソもないような気がするんだが」
「世間一般では叱られることが罰だとされているけど、なかには叱られたくてわざと怒られるようなことをする子もいるのよ。こういった場合だと叱るという行為が、強化子として機能してしまう。だからそういった誤解をさけるために、ご褒美という言い方はあえてさけたの」
「なるほど。そういやおれも初恋の女の先生の気を引きたくて、わざと授業中騒いだことがあったな。この場合、女教師の叱るという行動が、おれの騒ぐという行為を強化していたことになるのか?」
「正解! 私がちょっと説明しただけで、これだけ理解してくれるなんて。さすが舞島君ね」
そう言うと福ちゃんは頭を撫でてくれた。
かなり恥ずかしかったが、抵抗することは出来なかった。
〝福ちゃんって、おれの初恋の先生になんとなく似ているだよな〟
性格も体格も違うだけど、目元が似ていた。
あと胸がデカイところも、嬉しいことにそっくりであった。
「ふっ、福ちゃん、ほかに注意することあるかな?」
子供みたいに頭を撫でられた余韻のせいで、おれはどもってしまった。
「いろいろあるけど褒め方かな」
「褒め方にもコツがあるのかよ、福ちゃん?」
「うん。まず基本的なことなんだけど、良い行動をしたときや課題を達成したときは必ず褒めてあげること。そして褒めるときは素早く褒めてあげて。できれば三秒以内ね」
「褒める時間まで決まってるのか?」
「うん。早ければ早いほうが反応いいし、なんで褒められてるのかわかりやすいから。あと褒めるという行動が強化子としてちゃんと機能しているのか、よく確認すること」
「ああ、さっき説明してくれたヤツか。叱るという行動が、必ずしも罰となるとは限らないという奴か。ようは褒められて、相手がちゃんと嬉しがってるか確認しろってことだろう?
「その通り、舞島君! よく私の話覚えててくれたわね。はいご褒美ポテト、口をアーンして舞島君」
「えっ、アーン?」
「そうアーン」
福ちゃんはポテトを指でつまみながら言った。
おれは鼻血が噴き出そうなほど恥ずかしかったが、ご褒美ポテトの誘惑には勝てなかった。
「――なあ、福ちゃん。これってもしかしておれに応用行動分析という奴を仕掛けてるのかな?」
口に咥えたポテトを食いながら尋ねた。
「――そこに気づくとは、舞島君もなかなか油断できないわね」
「そりゃあ、気づくよ。これだけ褒められれば」
「じゃあ、私がなにを強化しているかわかる?」
「えっと、なんだろう。福ちゃんの話を聞くことかな?」
「近いけど、ちょっと違う。この場合、舞島君に意見や質問をするという行動を強化しているの。まあ、意見や質問というのは、私の話を聞かないと出来ないわけだから、間接的に聞くという行動も強化しているんだけどね」
「そんなことを考えながら、福ちゃんは会話してたのかよ。福ちゃんこそ油断も隙もないな」
「一種の職業病みたいなものかな。話しを元に戻すけど、舞島君にはこういう感じで朱美ちゃんに接して欲しいのよ。私が用意した課題は、朱美ちゃんにとってかなりやさしい問題だから、朱美ちゃんをいっぱい褒めてあげることができる。まずは朱美ちゃんをいっぱい褒めてあげて、それで勉強することと、舞島君になれてもらおうと、私は考えているの。了解してくれた舞島君?」
「わかった。なるべくたくさん褒めるようにするよ」
「ええ。もちろん、問題が正解したときだけでいいからね、舞島君。闇雲に褒めちゃだめよ。続いては朱美ちゃんに接するときの禁止事事項について説明します。まず体罰は禁止。どんなに頭にくることがあっても、体罰は絶対ダメよ舞島君。たとえ朱美ちゃんに唾を吐かれてもね」
「そのことだけど、唾を吐いても叩かないって甘やかしすぎのような気がするんだが」
「舞島君の気持ちはよくわかるわ。私だってカチンと来ることはあるもの。でもね舞島君、朱美ちゃんの唾はきに関して、愛は体罰で対処してたのよ」
「えっ、あの愛さんが?」
車椅子の妹を叩くような人にはとても見えないのだが。
「そう。あの優しそうな愛が、朱美ちゃんをビンタしてたのよ。それでも朱美ちゃんは唾吐きをやめなかった」
「叩いてもダメだったのか?」
「そう。体罰論者の人は体罰に関して過度な期待を抱きがちだけど、体罰というのは体罰論者が期待するほどの効果がなかったりするものなのよ。たとえば舞島君。私の拳骨と、反省文三枚どっちがやだ?」
「反省文三枚のほうが嫌だな。福ちゃんの拳骨ぐらいならどうってことないし――」
おれはそこであることに気づいた。
「ああ、そうか。体罰が罰として機能していないのか!」
「大正解よ、舞島君!」
福ちゃんはそう言うと、おれを抱きしめてくれた。
おれの両頬は柔らかな膨らみに挟まれた。
これはおれに対する福ちゃんなりの指導の一環であることはわかっているが、この柔らかさには抵抗できなかった。
「舞島君の指摘したとおり、体罰が弱化子として機能していないの。
あっ、弱化子というのは強化子の逆。行動の直後に与えると、その行動がへる行為のことね。愛は、朱美ちゃんの唾吐きを止めさせようと体罰を使用したけど、体罰は弱化子として機能しなかった。朱美ちゃんの無用の反発を招くだけだった。
――だいたいね車椅子の女の子を思いきり叩ける人間なんて、そうはいないのよ。愛もああいう性格だから、最初の方はかなり手加減して叩いていたみたいだけど、でも最後の方はかなり強く叩いてしまったようなの――」
「愛さんが?」
「ええ。これも体罰の問題点の一つだけど、体罰が通用しなくなると、体罰の強度を上げて対処しようとするの。しかも愛の場合だと、朱美ちゃんを叩いたことに罪悪感を感じて、自分自身も罪悪感に苦しじゃっているし」
「――救いのない話しだな」
「ええ。たとえ朱美ちゃんのことを思って体罰を振るったとしても、その意志が正しく伝わるとはかぎらない。暴力はコミュケーション手段としては稚拙なのよ。だからね舞島君。体力が有り余ってるからって、あんまり喧嘩しちゃダメよ」
話題は朱美のことから、おれのことに移った。
「――正直、耳が痛いな」
思えば、くだらない喧嘩ばかりして高校生活を送っちまったな。
おれ自身は、さほど喧嘩が好きというわけじゃないが、つるんでるダチは片桐だし、学校にいる連中もヤンキーというよりチンピラみたいな連中ばかりだからなぁ。
中学時代にくらべて、喧嘩の量が十倍ぐらい増えてる。
「――福ちゃんの言うとおりだわ。おれも少しは大人にならないとな」
「頑張ってね、舞島君。もっとも私もよく人から、大人になれと言われてるから、あまり偉そうなこと言えないだけど」
「そうなのか、福ちゃん十分大人なような気がするが。朱美の面倒だってみてるわけだし」
「朱美ちゃんの場合は家庭教師としてお金もらってるからね。本来の私は自分の好きなことしかやらない主義の人間だから」
「福ちゃんの好きな事って?」
「自閉症と応用行動分析と人間のことを考えること」
福ちゃんは即答で答えた。
「自閉症?」
「うん。もともと自閉症の子のカウンセリングするために応用行動分析を勉強したの。実は朱美ちゃんのような身体障害の子を見るのは初めてだから、なにげに緊張しているんだけどね、私」
「そうだったのか。しかしなんでまた自閉症なんかに関わる気になったんだ?」
「それは――」と言いかけて福ちゃんは喋るのをやめた。
「どうしたんだ、福ちゃん。おれ何かまずいこと聞いたか?」
「いやそう言うじゃなくて、私が自閉症のことをしゃべり始めたら、止まらなくなるだろうから話すのを止めただけ。今日は舞島君のデビュー戦なんだから、朱美ちゃんと接するときの注意点など話さないとね」
福ちゃんはそう言うと、家庭教師のやり方を説明し始めた。
「――いかん、話こんでしまった」
福ちゃんが饒舌が止まったのは、外が暗くなり始めた頃であった。
「アルバイトがあるのにこんなに長話しちゃってごめんね、舞島君」
「気にしないでくれよ、福ちゃん。バイトたってタイムカードがあるようなバイトじゃないんだから。それに聞いてて結構面白かったぜ、福ちゃん」
お世辞ではなく、事実だった。話がつまらなかったら、とっくの昔に帰っている。
「そんなこと言われると、また長話しちゃうわよ、舞島君」
「第二ランドは明日にしてくれ、福ちゃん」
おれと福ちゃんは二人して笑った後、ゴミを片付けてマックを出た。
福ちゃんはいったん家に帰ると言うことなので、駅まで送っていくことにした。
駅前の広場に続く階段を昇る。
車社会の田舎であっても、帰宅時とあって駅前の広場はそれなりに賑わっていた。
仕事帰りのサラリーマン、金のない高校生、絶対売れそうにないアマチュアシンガー、それに暇な爺さんが鳩に餌をやっていた。
鳩に餌をやることは禁止されていたが、爺さんを邪魔する人間は誰もいなかった。
「見て舞島君。空が真っ赤」
福ちゃんは夕空を見上げていた。おれも釣られて空を見上げた。
自然の驚異が作り上げた無数の赤色が段々をなし、空を赤く染め上げていた。
おれはその美しさに心を奪われ、夕空を見つめた。
「――舞島君。魂ってなんだと思う?」
福ちゃんは夕空を見上げたまま問うた。
「魂?」
「そう魂。人は魂を語ろうとするけど、今だ語ることができない。語ろうにも、魂とは何なのか? 何を持って魂とするのか。誰も定義することが出来ない。私もまた魂を語れるほど、知識はない。でも最近おもうの。魂とは認識のことではないかと」
「――認識?」
「――朱く染まった夕日を見て、色々な人が様々なことを思う。
感動する人もいれば悲しくなる人もいる。綺麗だと思う人もいれば、汚いと思う人もいるかもしれない。見向きすらしない人もいる。皆違う認識を持っている。皆違う魂を持っている――」
福ちゃんは語った後「やっぱ人間って不思議だわ」
「不思議?」
「これだけ多様な認識を有している生物は、地球上では人間だけでしょうね。言語があるせいかもしれないけど」
「言語って、喋れるかどうかか?」
「喋れなくても、言語的思考ができればOKだから――」
福ちゃんが得意の長広舌を振るおうとした瞬間、フラフラと倒れ込む。
おれは慌てて福ちゃんを支えた。
「大丈夫か、福ちゃん!?」
「大丈夫、大丈夫。たんなる貧血だから。調子に乗って長話しすぎたわ」
福ちゃんはおれを安心させようと手を振って見せた後、何かに気づいたかのように、おれの目をマジマジと見つめた。
「――舞島君の目って、綺麗ね。陳腐な表現だけどサファイヤみたい」
福ちゃんはおれの目に手を伸ばした。
なんか妙な雰囲気になってきた。
「ねぇ、舞島君彼女いる?」
〝なに言ってるですか、福ちゃん〟
おれはドギマギしながら「別にいないけど・・・・・・」と答えた。
「――そうなんだ。じゃあ舞島君の後ろに立ってる子はお友達?」
「へっ?」おれが間抜けな声を上げると、 「――舞島。天下の往来でなにやってるのアンタは!?」
おれの後ろから鬼の声がした。
姿は見えない。
が、見えなくてもわかる。
加藤だ。
福ちゃんはヨッコラショとおばさん臭いかけ声をかけながら、一人で立ち上がった。
「――なんだ加藤か」
おれが一言漏らすと、「なんだ加藤かじゃないわよ! アンタが乳繰りあうのは勝手だけど、わたしに貸しがあるの忘れてないでしょうね!」
加藤はマシンガンのように怒鳴った。
「忘れてねえよ。これからお前の家行こうとしたところだよ」
おれが弁解してると、福ちゃんが口を挟んだ。
「舞島君って照れ屋さんなのね。こんなに可愛い彼女がいるのに、いないなんて言うなんて」
「彼女?」
おれと加藤は同時に声をあげた。
「ちっ、違いますよ。この馬鹿とはたんなるクラスメイトですから」
加藤は慌てて否定する。
「えっ、私から見るとお似合いのカップルにしか見えないけど」
福ちゃんはいつものニコニコ顔で言い放った。
「――カップルだなんて」
加藤はマジで恥ずかしがってるのか、顔を赤らめてる。
「羨ましいわ、舞島君みたいに格好いい彼氏がいるなんて」
「いや彼氏じゃないですから・・・・・・」
おれが否定すると――。
「またまた~。本当はお姉さんの知らない領域まで突き進んでるじゃないの」
福ちゃんはおばさんくさいことを言って、おれをからかった。
「そんな領域進んでませんから、わたし達」加藤は俯いたまんま否定した。
おれはといえば、馬鹿みたいな顔で突っ立ってる。
「舞島君も早く進めないとダメよ。こんな可愛い彼女いるんだから」
「いや、おれは別に・・・・・・」
「じゃあ、お邪魔虫は去るから。しっかり青春してね!」
福ちゃんは言うだけ言うと、おれ達の前から去っていた。
後にはモジモジしている加藤と、なにがなんやらわからないおれが残された。
〝なんかよくわからねえけど〟
――福ちゃんめ、逃げたな。
絶対そうだ。短い付き合いだが、何故か確信できた。
「――とりあえずお前の家行くか」
突っ立ててもしょうがいない。
「・・・・・・うん」
加藤は俯いたまま呟いた。