また会えるかな 旧名タガタメ 改稿
さすがのおれも小便塗れのままじゃ辛いので、謎の美女コンビにコンビニで代えの下着を買ってきてくれと頼んだ。
「あっ、じゃあ私が買ってきます」
和風美女が手をあげてくれた。
彼女は美人なだけではく、心の方も優しいようだ。
「そうすか。うんじゃあお願いします」
おれはポケットから財布を取り出すと、片桐のバイトで手に入れた一万円札を取り出した。
「釣りで、みんなの分のジュースも買ってきてください」
懐の金が、おれに大人の余裕を持たせた。
「あっ、いいですよ。そんな気を遣って貰わなくても・・・・・・」
和風美女が遠慮したが「愛、私はオロナミンCね」美人な和田アキ子のほうは遠慮しなかった。
「フクっ!。まだ自己紹介もしてないのよ。少しは遠慮しなさい」
和風美女は窘める。
フクと呼ばれた女性は、それもそうね――、と呟いた後「私は福田福子です。フクちゃんと呼んでね。隣にいる小姑は鷲尾愛。大学の同級生です」。
美人な和田アキ子改め福ちゃんは、自分と友達を手短にを紹介した後、鳥の巣頭の少女の肩にそっと手を置いた。
「この子は、愛の妹の朱美ちゃんです。恥ずかしがり屋さんだけどよろしくね」
朱美はそっぽを向いた。恥ずかしがっているというよりも、怒ってるようにしか見えない。
「それで、君の名前は?」
おれは福ちゃんに促されて慌てて「タマカスに通ってる舞島直人です」と答えた。
「――これで自己紹介終了ね。じゃあ遠慮なく、私はオロナミンCね。朱美ちゃんは?」
「・・・・・・オレンジジュース」
朱美はぼそりと呟いた。
「舞島君は?」
「おれはポカリで」
みんなの注文を聞き終わると、愛さんはコンビニに買い出しに出掛けた。
愛さんの後ろ姿が見えなくなると、自分の服から醸し出されるアンモニア臭が気になり始めた。
「小便くさいな」
「おしっこまみれなんだから当たり前でしょ、このおしっこマン!」
朱美は実に可愛げのない言葉を宣った。
「仕方ねえだろう。長い人生、一回ぐらい小便まみれになるよ」
――ねえ福ちゃん。おれは同意を求めた。
「おしっこはないけど、うんこならちょっと漏らしたことあるかな」
福ちゃんは言いづらいことを、あっさりと告白した。
「あははは、おれ等二人臭い仲ですね」
おれが笑うと、福ちゃんも笑った。
だが朱美だけは笑わなかった。
「馬鹿じゃないの。おしっこまみれなんか自慢にならないわよ!」
「別に自慢してるわけじゃ・・・・・・」
おれの言葉は途中で止まった。朱美がおれに唾を吐きかけてきたからだ。
「なにも唾を吐きかけることないだろう、朱美」
おれが叱ると、「うっさい! おしっこマン! お前なんか大嫌い!」
朱美は叫びながら唾を連射してくる。おれの学ランに唾の染みが広がった。
「朱美!」
温厚なおれもさすがに頭に来た。
朱美が車椅子に乗っていなければ、げんこつの一つぐらいくれてやるところだ。
「朱美ちゃん、わかったから唾を吐くのはやめなさい」
福ちゃんが割って入る。
「やだぁ!」
朱美はあろうことか福ちゃんにまで唾を吐いた。
「朱美!」
おれは本気で腹が立って、怒鳴った。
おれにむかって唾を飛ばしてくるのはまだ我慢できるが、間に入った福ちゃんにまで唾を吐くのは許せなかった。
「――大丈夫よ、舞島君。ここは私に任せて」
福ちゃんは朱美の前に座り込んだ。
「朱美ちゃん、私と約束したでしょう。怒っても唾は吐かないって」
「約束なんてしてないもん!」朱美は怒鳴りながら、唾をはいた。 福ちゃんの顔が唾で汚れる。
黙って見てられなくなったおれは口を挟もうとしたが、福ちゃんは目で止めた。
仕方なくおれは引っ込んだ。
唾と言葉の応酬が続く。
福ちゃんは断固たる決意を目に込めて、「唾をはかない」と言い続けた。
おれは福ちゃんのやり方が生ぬるいように思え、何度も二人の間に入ろうとしたが、そのたびに福ちゃんによって止められた。
福ちゃんの顔がすっかり唾だらけになった頃、朱美はようやく唾を吐くのを止めた。
「・・・・・・ごめん、福ちゃん」
「わかってくれればいいのよ、朱美ちゃん。でも約束だから、カエルさん手帳をだして」
「・・・・・・うん」朱美は毛布の中からデフォルメされたカエルがプリントされた手帳を取り出した。
福ちゃんは手帳を受け取ると、頁を捲った。
カエルのシールが何枚も貼られたページで指をとめた。
福ちゃんはそのうちの一枚をはがした。
「――ああ、八枚まで貯まったのに」
「朱美ちゃんがいい子にしてれば、すぐにたまるわ」
〝あんだけ唾を吐いといて、カエルのシール一枚ですむんだから安いモンだろう〟
「林のそばに水飲み場があったらから、顔を洗いに行きましょうか。直人君もその服洗いたいだろうし」
福ちゃんは車椅子をゆっくりと押した。
朱美の唾の件は納得できなかったが、一番の被害者である福ちゃんが矛を収めている以上、おれも矛を収めざるえなかった。
福ちゃんは長く垂れた毛布が絡まらないよう慎重に車椅子を操作したが、それでも毛布の裾が長すぎるため何度も絡まった。
車輪に毛布が絡まるたびに、福ちゃんは車椅子を押すのを止めて、車輪に絡まった毛布を解いた。
「朱美、夏なんだから毛布取ったらどうだ?」
見かねておれが声を掛けると、朱美の顔が鬼の顔に変じた。
「いやだ!!!」
朱美は鬼の顔で絶叫した。おれは珍しく一歩引いた。
〝ガキのする表情じゃない〟おれは驚くと同時に悲しくなった。
ガキという生き物は、脳天気な笑顔が似合う生き物なんだから。
鬼の表情など似合わない。
「大丈夫よ、舞島君。朱美ちゃんにはまだその毛布が必要なのよ」
福ちゃんは何事もなかったように微笑む。
〝この人も、一筋縄で行く人間じゃないのかもな〟
今まで色々な人間を見てきたが、福ちゃんみたいな人間は初めて見た。
水飲み場に着くと、福ちゃんは唾塗れの顔を洗った。おれは小便で汚れた学ランを脱ぎ捨てた。
無事なのはTシャツだけか。他は全部洗わないとダメだな。
「ちょっとパンツ脱ぐから、後ろをむいててくれ」
ハンカチで顔を拭いてる福ちゃんに声をかけた。
福ちゃんは「はい、はい」と言いながら、朱美の車椅子をくるっと回した。
おれは素早くすっぽんぽんになると、洗濯を開始した。
人間素っ裸になると、何故かテンションがあがる。
おれは鼻歌を口ずさみながら、パンツをごしごしと洗った。
「鼻歌なんか歌ってないで、早く服を洗って着てよ」
朱美が早速ケチをつけた。
「ちょっと待ってろ。今洗ってるところだから」
「だいたいなんであんなところでおしっこしてたの? 直人は変態なの?」
「馬鹿、変態じゃねえよ。おれはただオカマ犬に小便の仕方を教えてただけだよ」
「オカマ犬?」朱美は首をかしげる。
〝そういやオカマ犬は?〟と思った瞬間、 「ワンワン」足下から吠え声がした。
見ると、おれの足下でオカマ犬が吠えていた。おれはオカマ犬をとっ捕まえる。
「お前どこ行ってたんだよ。お前がいないせいで変態扱いされてるだろう」
「クゥーン」
オカマ犬は申し訳ないといった面持ちで鳴いた。
「直人、オカマ犬って何のこと言ってるの?」
朱美がクチバシを挟んだ。
「こいつのことだよ」
おれは朱美にオカマ犬を見せてやった。
「ポン!?」朱美は喜びの声を上げたかと思った瞬間、それは悲鳴に変わった。
「なに直人の裸できてるのよ!? 直人の変態!」
「うおっ、忘れてた」
「・・・・・・やっぱ下の毛も金髪なんだ」
福ちゃんはおれの陰毛を見て感心していた。
〝さすがにはずい〟
ガキンチョだけならともかく、福ちゃんにまで見られるとさすがに恥ずかしい。
――そうだ!
おれはポンを使って息子を隠した。
「クゥンーン」
ポンは悲しいような、すべて諦めたようななんともいえない切ない声でないた。
服を洗濯し終わると、愛さんが帰ってきた。
愛さんが買ってきてくれた下着に着替えると、まだ乾いていなかったがズボンもはいた。
「素っ裸でいると解放感があるけど、でも服を着ないと人間落ち着かねーな」
「普通の人は裸になっても解放感なんて感じないよ」
朱美は憎まれ口を叩いた。
「そうか? 外国とかだとスッポンポンで海岸で寝そっべてる連中がいるだろう?」
「ここは日本だもん。外国とは違うもん」
「でも直人君、半分は外人さんでしょう? だからスッポンポンになると解放感感じるのかもね」福ちゃんは言った。
「なるほど。おれのなかにあるドイツの血が、服を拒否しているのか」
「直人さんって、ドイツ人とのハーフですか」
それまで黙って話を聞いていた愛さんが会話に加わってきた。
「ええ。お袋がゲルマンです」
「どおりで王子様みたいな顔をしていると思いました」
愛さんはクスリと笑い、朱美は何故か頬を赤らめた。
「なんでドイツとのハーフだと王子様なんですか?」
「深い意味はありません。直人さんの顔を見てたら、グリム童話の王子様を思い出しただけです」
「愛は、童話研だもんね。しかし直人君、本当に王子様顔しているわね」
「そうですか?」
「うん。髪も金髪だし、目も蒼いし、おまけに身長も高いし。まさに女の子が夢見る王子様そのものよ。ねっ、朱美ちゃん」
「――似てるけど直人は王子様じゃないもん。がっかり王子様だもん」
「がっかり王子様って、なんだよ」
おれは思わず笑ってしまった。
「女の子の期待を裏切る悪い王子様のことだよ」
「そうなんだ。直人君はがっかり王子様なんだ。でもお姫様がキスをしたら、本物の王子様に変身するかもよ、朱美ちゃん」
福ちゃんはからかう。
「なっ、ならないもん」
朱美はプイと顔を背けた。
「それはそうと福ちゃん。こんな時間に灯台に何しにきたんだよ?」
昼間ならまだわかるが、大人すら歩いていない真夜中に、車椅子の少女を連れて灯台にくるなんて異様でもあるし、危険でもあった。
「紙飛行機を飛ばしに来たの、舞島君」福ちゃんが答えた。
「紙飛行機? こんな時間に?」
おれの頭にぶつかった赤い紙飛行機を思い出した。
──まさかな。
「どうしたの舞島君? 怪訝な顔して」
「──いやなんでもない。ところでなんで紙飛行機なんか飛ばしに来たんだよ、こんな夜中に?」
「――それは秘密です。ねぇ朱美ちゃん」
「・・・・・・うん」
朱美は地面を見つめながら頷いた。
姉である愛さんはそんな妹を優しく見守っている。
「まあ、よくわからないけど紙飛行機飛ばしに来たのなら、飛ばしてみるか」
「そうね。折角だから紙飛行機飛ばしましょうか」
――でももう飛ばす必要なさそうだけどね。福ちゃんは呟いた。
「どうしてだよ? 紙飛行機飛ばしに来たんだろう?」
「――それは秘密です」
「なんだよ、また秘密かよ。ちょっとぐらい教えてくれてもいいのに」
おれがふて腐れると「直人はダメなの! それより紙飛行機飛ばすんでしょう。どうせ飛ばすならボク海に向かって飛ばしたい!」
「・・・・・・海って。潮風が吹いてるからまともに飛ばねえぞ」
「いいの! ボクは海にむかって飛ばしたの」
「――だって。舞島君」福ちゃんは言った。
「そうか。まあ、物は試しだ。海に向かって飛ばしてみるか」
観光地でも自殺の名所でもないので、岬には転落防止用の柵などなかった。
おれ一人ならギリギリのところに立って紙飛行機を飛ばそうとしただろうが、朱美がいるのでかなり余裕を見た。
そのおかげで崖からかなり遠ざかったところに立っていた。
朱美はそれでも怖いらしく、おれの濡れたズボンを小さな手で握りしめていた。
「それおしっこズボンだぞ」
おれがからかうと「――バリアー張ってあるから平気だもん」と答えた。
〝現金なもんだ〟と思ったが、朱美が怒りそうなので口にするのは止めといた。
「おれが風を見るから、おれが声をあげたら飛すんだぞ」
「うん。直人。ちゃんと風見ててよね」
「馬鹿野郎、おれはタマカスの風使いと呼ばれているんだ。間違えるはずはねえだろう」
「・・・・・・うそぽい」朱美は可愛げのない顔で呟いた。
「本当に決まってるだろう! おれはサンパウロで風使いの修行積んできた男だぞ」
おれがいかに修行積んできたのか力説しようとしたその時、「舞島君、追い風になったわよ!」 福ちゃんが声をあげた。
「おう、今だ。朱美飛ばせ」
おれは慌てて、朱美を急かした。
「うん!」
朱美は手にした紙飛行機を飛ばした。
潮風に乗って飛び立つ紙飛行機。
成功かと思った瞬間、風向きが変わった。
紙飛行機は大きくUターンし、あろうことか、おれのおでこに直撃した。
「痛って。てっ、なに戻ってきてるだよ。ハイジャックされたわけじゃねえだから、簡単に戻ってくるなよ」
おれは紙飛行機に説教をたれた。
「紙飛行機に説教しても仕方ないでしょう」
「加藤みたいなこと言うなよ」
言い方といい、口調といい、加藤そっくりだった。
「――だれ加藤って」
朱美の声は、何故かブスくれてた。
「おれの隣に座ってる口うるさい女だよ」
「フーン。どうせ直人がバカバカだから、そのお姉ちゃんもいつも怒ってるんだよ」
女同士のシンクロニティが発生したのか、朱美は会ったこともない加藤の肩を持った。
「なんでおれが馬鹿なんだよ」
「直人はバカだもん。それよりまた飛ばすから風をみてて!」
山ほど言いたいことがあったが、おれは黙って風の流れを読んだ。
風向きは変わった。
「今だ。飛ばせ!」
「うん」
朱美は紙飛行機を飛ばした。紙飛行機は優雅に夜空を飛んだ。
〝今度は上手くいったか?〟
と思ったのもつかの間、紙飛行機は大きく弧を描き、またしてもおれのおでこに直撃した。
「往生際わりいな。飛ぶのが仕事なんだからしっかり飛んでこいよ」
おれは文句を言いながら地面に落ちている紙飛行機を拾い上げた。
「よほど舞島君の所に飛んでいきたいのね」
福ちゃんはそう言うと微笑んだ。
「そっ、そんなことないもん。直人のところになんかに飛んでいきたくないもん。ねぇポン?」
朱美はポンに同意を求めた。ポンは困った顔で首を傾げただけだった。
紙飛行機を飛ばし終わると、結構な時間が経っていた。
まだ辺りは暗いが、もうあと一時間もすれば夜が明けるだろう。
「もうこんな時間?」
愛さんは腕時計を見つめながら言った。
「シンデレラはそろそろ帰る時間ね」
福ちゃんは朱美の頭にそっと手を置いた。
「・・・・・・うん」朱美は浮かない声で返事をすると、おれを見上げた。
「・・・・・・直人、また遊んでくれる?」
「おう、いいぞ。おれはいつも暇だからな」
「約束だよ。破ったら酷いからね」
「大丈夫よ、私が舞島君の携帯番号押さえておくから」
福ちゃんは太鼓判を押した。
「本当?」
「まかせなさい!」福ちゃんは力強く自分の胸を叩いた。
その衝撃で福ちゃんの巨乳が揺れる。
おれは福ちゃんの言葉より、揺れる巨乳のほうが気になった。
「ああっ! 直人がエロ人になってる」
朱美は目ざとく、おれの視線の先に気づいた。
「誰がエロ人だよ。おれはただぼっけとしてただけだよ!」
「ふん、直人のうそつき! エロエロ菌がうつちゃうからお姉ちゃん早く帰ろう」
「遊んでもらったんだから、そんなこと言っちゃダメよ」姉は諭したが、妹はそっぽ向いた。
「いいんですよ、愛さん」
〝福ちゃんの巨乳ガン見してたのは事実だからな〟
それでも姉はもう一度おれに頭を下げると、道路脇に止めた軽自動車に朱美を乗せて帰って行った。
姉妹の姿が見えなくなると、福ちゃんは口を開いた。
「お腹空かない、舞島君?」
「ちょっと腹が減ったかな」
すき焼きだ、いなり寿司だと、昨日は色々なモンを食ったが、徹夜をしたら腹が減ってきた。
「舞島君、ちょっと早いけど近くのコンビニで朝ご飯買ってこようか」
「いいよ、福ちゃん」
おれと福ちゃんはコンビニにむかった。福ちゃんは今日のお礼だと言って、遠慮するおれにお握りとお茶を買ってくれた。
いつもならコンビニの前で食べてしまうのだが、今日の相方は片桐達ではなく、女性の福ちゃんであった。
コンビニの駐車場でお握りを片付けるわけにはいかなかった。
おれ達は灯台に戻ってお握りを食べることにした。
お握りを食べ終わると、地平線の彼方が微かに白み始めていた。
「今日はありがとうね、舞島君。朱美ちゃんと遊んでもらって」
福ちゃんは明るくなっていく海を見つめながら言った。
「いや、礼いうのはこっちですよ。パンツまで買ってきてもらったんですから」
おれ一人だったら、アンモニア臭を漂わせたまんまコンビニに行くはめになっていた。
「ところで朱美ちゃんの件なんだけど・・・・・・」
「朱美の件? ああ、遊ぶヤツか。まかせてください、遊ぶくらい。学校終わったあとでも、遊びにいきますから」
「――それなんだけどね、舞島君」
福ちゃんは真顔になる。
「朱美ちゃん、実は真夜中しか外にでれないのよ」
「へっ、なんでまた?」
「朱美ちゃん対人恐怖症で、昼間は外に出れないの」
「外出れないぐらい酷いのか? その対人恐怖症とやらは」
福ちゃんは黙って頷いた。
「じゃあ、学校とかは」
「――いってないわ」
「そうか・・・・・・」
なんか訳ありなんだろうな、と思っていたけど、おれの想像以上に深刻だった。
〝ただでさえハンディがあるって言うのにな〟
普通のガキなら外で友達と駆け回ってる年なのに、車椅子じゃ校庭を駆け回ることもできない。対人恐怖症じゃ、一緒に遊ぶ友達も出来ない。
「なんで対人恐怖症なんかになっちまっただよ?」
福ちゃんが悪いというわけでもないのに、おれは無性に腹が立って詰問口調になっていた。
「学校側は認めてないけど、イジメが原因みたいね」
――子どもは残酷だから。福ちゃんはぽつりと呟いた。
「――やな話だな」
「たしかにいやな話だけど――」
福ちゃんは天に昇ろうとする太陽に目をむけた。
「――それでも朱美ちゃんは一歩づつ前に進み始めている」
「前に?」
「ええ進んでるわ。二ヶ月前までは、朱美ちゃんは私と口も聞いてくれなかった。はじめて口を聞いてくれたのは、出会ってから三日後のことだった。それから一週間、ドア越しで朱美ちゃんと話したわ」
「一週間も?」
「ええ、一週間、朱美ちゃんとドア越しで会話して、そしてようやく部屋のドアを開けてくれたわ」
福ちゃんと朱美とのあの何気ないやりとりの裏には、福ちゃんの忍耐と努力があったのか。
「ここまで来るのには、さらに一月以上の時間がかかった。私はねぇ、舞島君――」
生まれたばかりの朝の光が、福田福子を照らした。
あまりの眩さに、おれは目を細めた。
「朱美ちゃんにも、この光の下で生きて貰いたいの。そのためには舞島君の手助けが必要なのよ。だから手を貸してくれない舞島君?」
「――福ちゃん。そんな風に頼まれちゃ断れねーよ。それにどっちにしろ、朱美と遊ぶ約束してるしな」
「よかった。これでもう一つの件が頼みやすくなった」
「もう一つの件って?」
「実は舞島君に朱美ちゃんの家庭教師やってもらいたいのよ」
「えっ、家庭教師って、おれは馬鹿高のバカヤンキーだぞ。人に勉強教えるのなんて無理だって」
「心配しなくても大丈夫! 課題や教え方などは私が詳しく教えるから」
「いや、そんな問題じゃないから福ちゃん。おれの通っている高校は名前が書ければ受かっちまうような高校だぞ。そんな高校に通ってる人間が家庭教師なんてできるかよ」
「朱美ちゃんは小学生よ、舞島君。舞島君の学力はたいした問題じゃないわ。それに学力と、人に物を教えるスキルはイコールで結ばれているわけじゃないから」
「でも――」
安請け合いすることに関してはタマカス一と言われているおれが珍しく躊躇すると「大丈夫、舞島君には才能があるから」福ちゃんはおれの肩を掴み、力強く断言した。
「――わかったよ福ちゃん。そこまで言うのならやってみるよ。でもちゃんとフォローをしてくれよ、福ちゃん」
「これで私達戦友というわけね」
福ちゃんは手を差し出してきた。おれはその手を握った。
福ちゃんの手は大きく、そして力強かった。