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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第二部 and I love you
10/52

幸福な食卓 改稿


 盗られる物なんてなにもないのに、加藤家の玄関には鍵がかかっていた。

 〝鍵かけたって無駄だろう〟

 加藤の家は、家と言っても鶏小屋を改造して造った掘っ建て小屋であった

 ベニア板で作られた壁を蹴っ飛ばせば、人が入れる程度の穴などいくらでも作れる。

 もっとも泥棒が加藤家を狙うとは思えないが。

「おーい加藤。玄関開けてくれよ」

 加藤家にはピンポンなどという洒落た物は付いてないので、おれは大声で加藤を呼んだ。

「――舞島? 今開けるからちょっと待ってて」加藤が大声で返事を返した。

 どたどたと走る音がしたあと、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。

「早かったわね、舞島。凄く汗をかいてるけど何かあったの?」

「お前の家に早く来たかったから走ってきたんだよ」

 亀吉の話を持ち出すと話がややこしくなりそうなので、適当なことをふかしておいた。

「・・・・・・そう」

 加藤の顔が赤らんだ。

 まだ熱が冷めてないのだろうか?

「ところで大丈夫なのか、体のほうは?」

「うん。家でゴロゴロしながらテレビ見てたら治った」

「――そうか。丈夫でよかったな、加藤」

 〝踏ん張れよ、加藤〟

「人を超合金みたいに言わな――」

 加藤は最後まで言えなかった。スカートが派手にめくり上がったからだ。

 スカートの影には、加藤家長男の佳太が隠れていた。

「黒パンだ! ババアが色気づいて黒パンはいてんぞ!」

「こらぁ! 桂太。梅干し食らわすわよ!」

「もう食らわしてるじゃねーかよ! 黒パンババア!」

 桂太の言うとおり、加藤の両拳は佳太の坊主頭をがっちりと挟んでいた。

 加藤は容赦なく拳をぐりぐりと擦りつける。

 桂太は悲鳴を上げた。

「加藤、もう放してやれよ。それより加藤、何で黒いパンツなんか履いてるんだ? 今日は黒パン記念日か?」

「――そんな変な記念日あるわけないでしょう!」

 加藤の怒りの矛先が、佳太からおれに変わった。

 そのせいで、佳太の拘束が緩んだ。佳太は顔を激しく振って姉の拳から脱出すると、茶の間に逃げ込んだ。

「あの野郎!」加藤は地団駄をふんだ。

「桂太も相変わらず馬鹿だな。姉ちゃんのスカートなんか捲ったって、なんも楽しくないだろうに」

 今年で小学校五年生になるはずだが、佳太の精神年齢は三年生で止まっているみたいだ。

「学校でスカートめくりが流行ってるのよ」

 加藤の声には怒気が残っていた。おれに黒パンを晒したのが余程恥ずかしかったようだ。

 だったら黒パンなんか履かなきゃいいのに。おれはそう思いながら、玄関脇にダンボールを置いた。

「加藤。全部やっておいたぞ」

「ありがとう舞島」

「礼なら、おれじゃなくクラスの連中にいえ」

 おれ等のやった量など、四分の一にも満たない。

「クラスの連中って?」

「手伝ってくれたんだよ」

 嫌々で、しかも強制だけど。

「うちのクラスの連中も、良いところあるのね――」

 加藤はクラスメイトの予期せぬ友情に感動していた。

 勘違いも甚だしいが、面倒くさいから正さずにおくことにした。

「ところでそのお肉と野菜は?」

「片桐のおごりだよ」

「なんで片桐が?」

 片桐の名前が出た途端、加藤の顔に警戒信号が灯った。

「あいつなりの仲直りのサインだよ。色々言いたいことがあるかもしれねーが、金は肉に化けちまったんだ。とりあえず全部喰おうぜ」

 ――うん。

 加藤は不承不承ながらも肉を食うことに同意した。

 これがもし金だったら加藤も蹴っただろうが、肉となると突き返しづらいのだろう。

 おれは靴を脱ぐと、加藤家の上がり込んだ。

 茶の間の引き戸を開ける。

「わぁ!」

 引き戸の影から、いきなり声がした。びっくりして見ると「引っかかった直兄ぃ!」

 引き戸の影には、三女の絵里花が隠れていた。可愛らしい顔をしているが、生意気盛りである。

「なんだよ、びっくりさせやがって」

 おれは肉と野菜を畳の上に置くと、絵里花の脇の下をくすぐってやった。

「ちょっ、直兄ぃダメ。わたしはもう女なんだから、そんなに気軽にさわちゃあだめぇ!」

 ゲラゲラ笑いながらも絵里花は叫んだ。

「そういう言葉は、熊のパンツを卒業してからいえ」

 姉ちゃんみたいに黒パン履かれるのも困るけどな。

「直兄ぃのエッチ。絵里花のスカートの中を覗かないでよね」

 絵里花はハムスターのように頬膨らませ、むくれた。

「あんなに足をバタバタさせりゃあ嫌でも見えるよ」

 おれはそれだけ言うと、部屋の隅を目をやった。

 借金取りが突き刺していった包丁(おれはエクスカリバーと呼んでいる)の横には幼稚園ぐらいのおかっぱ頭の女の子と男の子がいた。

 〝あれが新しくきたチビか〟

 新しいチビ以外にも、珍しい人間がちゃぶ台の前に座っていた。

「黒田じゃねえか。なんでお前が加藤の家にいるんだよ?」

 見栄っ張りな加藤は、貧乏くさい我が家に客を入れることは滅多になかった。

「いや、ちょっと用があって。加藤さんのお見舞いもしたかったしね」

 黒田は何故かバツの悪い顔をして言った。

 黒田の横にはスイカとペットボトルのジュースが置いてあった。

 実用的な見舞い品だ。黒田らしい。

「それより舞島。相変わらず賑やかな登場だな」

「おれが賑やかなんじゃねーよ。加藤の家が賑やかなんだよ」

「――そうかもな」

 黒田の前には巨大な湯飲みが置いてあった。中身は茶ではなくコーヒーである。

 貧乏な加藤家では、コーヒーカップなどという洒落たもんを買う余裕はないので、ジュースだろうが、水だろうが、すべて湯飲みですませている。

 おれは黒田の隣に腰を下ろした。

 黒田は湯飲みに入ってるコーヒーを一口啜った。

 その姿が妙にジジくさい。

 〝中学校の時から老けてたけど、黒田のヤツタマカス入ってからもっと老けたな〟

 黒田清春とおれは中学時代からのダチで、きちんと二つに分かれた髪型と、校則通りの制服でも見てわかるように、根っからの真面目小僧であった。

 要領が悪いせいで真面目なわりには成績はよくないが、それでもおれの目からみれば頭はよかった。

 しかし黒田は高校受験に大失敗をして、滑り止めで受けたタマカスに入学するはめになった。

 真面目かつ地味に生きることを信条にしていた黒田にとって、バカか、いかれたバカしかいないタマカスでの日々は衝撃的だったらしく、白髪がやたらと増えた。

 タマカスなんかで生徒会長やったのもよくなかったのかもしれない。なにせ黒田が演説している最中、シンナーの入った空き缶を投げつけてくるような生徒がいる学校なのだから・・・・・・。

「舞島、なに飲む?」台所から加藤が尋ねた。

「水でいい」

「絵里花はオレンジジュース飲みたい!」

「おれも!」桂太も続いた。

「ジュースはご飯食べた後って言ったでしょう!」

 加藤の声は、怒った母ちゃんの声そっくりだった。

「チビちゃんは飲みたくないのか?」

 部屋の隅っこにいる二人組にチビに水を向けた。

 おれの顔を見ると、二人組のチビは恥ずかしいのか、それとも金髪のおれが恐いのか、すぐに俯いてしまった。

 〝釣ってみるか〟

 まずは餌をゲットしないとな。おれは絵里花を餌にすることにした。

「絵里花。タカイタカイしてやろうか」

「ええっ~。絵里花はもう三年生だから、タカイタカイなんて恥ずかしいからいいよ」

 保育園のころは喜んでいたくせに。

 生意気になったもんだ。

「うるせえ。いいからタカイタカイやらせろ!」

 おれは絵里花を捕まえると、タカイタカイをしてやった。

 やりたくないとか言ってたくせに、抱き上げると絵里花は歓声をあげた。

 部屋の隅にいる二人のチビは、タカイタカイをされる絵里花を羨ましそうに見つめていた。

 〝釣れたかな?〟

「絵里花。姉ちゃんと違って軽いな」

「うん。女の子だから体重にはいつも気をつけてるもん」

「そうか。でも軽いとタカイタカイのし甲斐がないな」

 〝リールを巻かないとな〟

 おれは絵里花を抱っこしたまんま、新参のチビたちに近づいていた。

 おかっぱの女の子の前で、屈んだ。

「なあ、お兄ちゃん助けてくれないか?」

「――助ける?」

 おかっぱの幼女は小首をかしげた。

「絵里花だけだと軽すぎて空に飛んでちゃうから、おかっぱちゃんも一緒にやってくれると、お兄ちゃん助かるだけどな」

 ――絵飛んでくわけないじゃん。絵里花は可愛くないことをほざいたが、おれは無視した。

「――うん。いいよ」

「そっか。ありがとうな」

 おれは絵里花とおかっぱを二人一緒に抱き上げると、三、四回タカイタカイをしてやった。

「おかっぱちゃん。名前なんて言うんだ」

「久美子っていうの――」

 ――直兄ぃ。

 久美子はまだおれの名を呼ぶのが恥ずかしいのか、小さな声で呟いた。

「そうか。弟はなんて言うんだ?」

「光輝っていうの」

 おれは床に膝をついた。

「光輝。お姉ちゃんと一緒にやるか」

 光輝は、おれの顔と久美子の顔を交互に見た後、頷いた。

 おれは絵里花を下ろし、光輝を抱き上げた。

「よし、持ち上げるぞ」

 小さな姉妹は歓声をあげた。

「直兄ぃ、絵里花もまだやりたい!」

 絵里花はおれの学ランの袖を引っ張った。

 〝やる前は嫌がってたくせに〟

 おれは心のなかで苦笑した。

「絵里花はさっきやったばっかしだろう」

「それでも絵里花はやりたいの――」

「そうか。じゃあ、久美子に順番譲っててお願いしろ」

「久美ちゃん、わたしに順番ゆずって」

「うん」

 久美は小声で頷いた。

 おれは久美子を下ろし、変わりに絵里花を抱き上げた。

「絵里花。光輝が落ちちゃわないように、手をしっかり握ってやりな」

 絵里花はウンと頷くと、「光輝、絵里花が手握ってあげるね」と言った。

 光輝はおずおずと、絵里花は無造作に、手を握りあった。

 おれは二人一緒に舞上げた。

 この後、いい年こいて桂太もやりたいと言い出したので、桂太も混ぜってやった。

 さすがのおれも、体のでかい桂太が混ざると体力的に辛くなってきた。

「チビ達、いいかげん舞島を離しなさい。舞島だって、一応お客さんなんだから」

 〝一応かよ〟

「うるせえなぁ。黒パンババアは黙ってろよな!」

 年中反抗期の桂太が、怒鳴り返した。

「――なんですって!」

 加藤が佳太に制裁を加えようとしたその時、玄関の扉が開く音がした。

 〝恵か?〟と思った時には茶の間の引き戸が開いた。

 加藤家の知恵袋である次女の恵が、トレードマークの三つ編みを揺らしながら茶の間に入ってきた。

「ただいま」恵は愛想のない声で挨拶をした。

 恵の機嫌が特別に悪いというわけではない。

 加藤恵という女は機嫌が良かろうが悪かろうが、無愛想な女なのである。

 黒田は恵の顔を見ると戸惑いの色を浮かべ、何か言おうとしたが黙った。黒田は昔から、この無愛想な小娘が苦手であった。

「おっ、帰ってきたか無愛想女」

 おれは苦手ではなかった。

「いきなりご挨拶ですね、直人さん」

 恵の声には棘があった。機嫌を悪くしたらしい。

「拗ねるな。お前だって化粧して愛想良く笑えば可愛いよ」

「大きなお世話です。だいたい校則で化粧は禁じられてます!」

「わかった、わかった。そう怒鳴るな」

 おれは恵の機嫌をなだめるため、にっこりと笑った。

「――直人さんはずるいです」恵は呟く。

 よく聞こえなかった。

「なんて言ったんだ恵?」

「直人さんはバカバカだって言ったんですよ!」

 今度はよく聞こえた。

「で、直人さん。今日はどういう風の吹き回しなんですか。すき焼きのお肉なんてもってきて」

 すき焼きという言葉が出た途端、チビ共はざわめきだした。

「どうしておれが持ってきたってわかるだよ? 黒田かもしれないだろう?」

「肉の量ですよ。黒田さんならごく常識的な量を持ってくるでしょうけど、台所にあったお肉はもの凄い量でしたからね。絶対直人さんだと思いましたよ」

 恵は冷静に指摘した。可愛くないガキだ。

「直人! すき焼きってマジかよ」

 桂太が驚きの声を上げる。

 〝アフリカの飢えた子供みたいな目だな〟

「おう。マジだぞ」

 おれが答えた途端、チビ共は一斉に万歳をした。

「やったぁ」

 桂太が喜びの声を上げる。

「今日すき焼きをするなら、桂太が捕まえてきた鯉はどうするの?」

 絵里花は唇に指を当てながら言った。

 絵里花の言葉を聞いて、黒田が若干引いていた。

 無理もない。

 〝今どき、川で鯉捕まえてきて食う家なんて、加藤の家ぐらいなもんだからな〟

「鯉なんかタライに入れっぱなしにしとけよ。すき焼きの残りで三日は持つぞ」桂太は言った。鯉は台所から、庭のタライに移された。

「――うんじゃあ、すき焼き作るとするか。加藤、エプロンあるか?」

「舞島が作るの?」

「おれが作るよ。子守りのついでだ。お前はテレビでも見てろよ」

「そこまでして貰わなくても大丈夫よ」

「いいから加藤はゴロゴロしとけって。だいたいお前すき焼きの作り方知ってるのかよ?」

「醤油で適当に煮とけばいいじゃないの?」

 加藤は平然と宣った。

 貧乏生活が長いせいか、加藤の料理に対する関心は、値段と簡単に作れるか、この二つしかない。味の方にはまったく関心がなかった。

「まあ、おれに任せとけ。恵、福引きで当てたガスコンロあるだろう。あれまだあるか?」

 恵はこくりと頷いた。

「なら用意しておいてくれ。おれは肉と野菜を切るから」

 おれが台所に立つと、チビ共もついてきた。

「直兄ぃ、絵里花も手伝う」

「久美も手伝っていい?」

 二人のチビが立候補してきた。久美子の背中には光輝が隠れていた。

 さて何をやらせたものか。一瞬だけ考え込んだ後、

「絵里花は野菜洗ってくれ」

 絵里花は、わかったと返事すると野菜を洗い始めた。

「久美子と光輝は、椎茸のへたをちぎってくれ」

 二人に包丁を持たせるのまだ早い。

「おれは?」桂太は尋ねた。

 特にない。

「――桂太か。お前はすき焼きの歌でも歌ってテンションを上げておけ」

「なんだよ、すき焼きの歌って!」

「頭がついてるだから適当に考えろよ」

 おれが突き放すと、桂太は考え込みはじめた。おれは台所の戸棚からまな板を取り出した。

 まな板には勇者の紋章が刻まれてた。

 加藤の親父がマルチにハマっていた頃、売り歩いていたまな板で、その薄さのわりには勇者の盾になるほどの丈夫さが売りであった。

 しかし一般家庭には、魔王の攻撃を防ぐほどの高い防御力を持ったまな板は不要であったため、マルチの会社は社会問題になる前に潰れてしまった。

 大量に売れ残った勇者のまな板は、今は加藤家の台所で余生を送っていた。

 おれはまな板の上に肉の塊を置いた。

 かなりデカイ。安さを追求した結果、肉はカットされていないブロック肉になったからだ。

「うぉおおおおおおおおおおお!。なんだよこの肉。マンモスかよ」

 桂太が雄叫びを上げた。

「マンモスは死んじゃったんだから、象の肉に決まってるじゃん。ねえ、直兄ぃ?」

 絵里花は同意を求めてきた。

「ああ。正確に言うとナウマン象の肉だ」

 皆の期待を裏切るのも悪いので、適当にフカしておいた。

 ナウマン象に興奮したのか、桂太が歌い出した。


 おれん家のすき焼き肉は、ナウマン象。

 とにかくでっかい。

 食べるのに三日かかるほどでっかい。

 とにかく美味い。

 鯉より美味い。

 給食のカレーより美味い。

 全部食うぞ、おう!


 小学生らしい、欲望に満ちた歌だった。

 おれは桂太の歌を聞きながら、肉を切り始めた。

 小一時間ほどして、大量の肉と野菜が大皿に盛られた。

 割り下も出来ている。チビ共と一緒になってすき焼きを茶の間に運んだ。

 ちゃぶ台には、ジュースのペットボトルとどんぶり飯が乗っかていた。

「――ビールはないのか?」

 一仕事したので、ビールが飲みたかった。

「舞島、僕等はまだ高校生だろう。ビールなんて百年早いよ」

 黒田は真面目くさった顔で言った。

 タマカスに通ってる人間の言う言葉ではなかった。

「――入る高校間違えたな、黒田」

「――それを言うな。舞島」

 黒田は苦虫を噛みつぶした。

 鉄鍋が熱くなると、肉屋のおばちゃんからタダで貰った牛脂を投入し、油を引いた。

 牛肉を放り込み、続いて割り下を投入した。

 その後煮るのに時間がかかる白菜とネギを鍋に放り込んだ。

 肉が煮えてくると、桂太と絵里花がすかさず箸を伸ばした。

 加藤は二人を制した。

「――コラっ、まだ煮えてないでしょう。それにまだいだたきます、言ってないでしょう」

「よしいただきます、すんぞ」

 おれが音頭を取り、頂きますを言うと、今度は全員が箸を伸ばした。

 加藤と桂太の箸が、同じ肉を掴んだ。

「なんだよ、唯姉ぇ。まだ煮えてないじゃないのかよ」

「お姉ちゃんは病気で体が弱ってるから、お肉を食べて体力つけないといけないの!」 加藤が肉を奪い取りながら言い返す。

 加藤達が言い争っている隙に、絵里花は生煮えの肉を箸でつまんだ。

「ナウマン美味しい!」

 絵里花が幸せを噛みしめる。

 おれも肉をつまんだ。

 肉屋の特売品をさらに値切った肉のわりには旨かった。

 すぐ鍋の中から肉がなくなった。

 桂太と絵里花が巣の中の雛鳥のようにピーピーとわめき出した。

「今、肉を入れてるから少し持ちなさい」

 鍋に肉を放り込んでいる恵が、二人を叱った。

 桂太と絵里花がブうたれる。

 文句を言ってないのは、おれの隣にいる久美子と光輝だけだった。

 二人の取り皿に入ってるのは卵だけだった。

 幼い姉弟は、卑しくも逞しい加藤家ノリについて行けないようだ。

 おれは自分の肉を箸で二つに千切った。

「久美子、光輝。ナウマンの肉だぞ」

 幼い姉弟の取り皿に肉を放り込むと、二人の顔がパッと明るくなった。

「直兄ぃ。久美子ばかりずるい。絵里花も肉頂戴!」

 絵里花が唇をタコにして抗議する。

「待ってろ。つぎ煮えたらやるから」

「いいよ、絵里花自分で取るから。だからね、直兄ぃの隣に座っていい?」

 おれの隣に座っていた加藤が、青筋を浮かべて怒り出した。

「絵里花、あんたいい加減にしなさいよ! いつもいつも我が儘ばかり言って」

「お姉ちゃんはいいじゃん。いつも学校で直兄ぃと一緒なんだから。絵里花はたまにしか会えないだから、こういう時ぐらい直にぃの隣に座りたい。直兄ぃもいいでしょう」

 絵里花は笑顔を振りまきながら、おれに同意を求めた。

 おれはどちらが隣に座ろうと、どうでも良かった。

「――加藤。席ぐらいいじゃねーか。どこでも」

「――まあ。いいんだけどさ」

 加藤はふて腐れながらも、絵里花に席を譲った。

「絵里花が直兄ぃのナウマン肉取ってあげるから、直兄ぃは久美とミツの肉とってあげなよ。久美もそれでいいでしょう」

「・・・・・・うん」

 久美子の声には若干の堅さがあったが、それでも多少は慣れたようだ。

 頷いた久美子の顔には控えめな笑顔が浮かんでいた。

 〝抱っこした甲斐があったな〟

 その後絵里花は生煮えの肉を、おれの取り皿に放り込んできた。

 おれは生煮えの肉を食いながら、久美子とミツに肉を取ってやった。

 ――一時間後。大量の肉を食って満足したチビどもは、ボロテレビに囓りつきながら、デザートのスイカを食っていた。

「――黒田。ところで加藤の家なんかに何しに来たんだよ?」

「――いや。お見舞いだよ、加藤さんの」

 黒田の目が若干泳いでいた。理由はわからないが、黒田はおれの問いにあまり答えたくないらしい。

「――そうか。お前も物好きだな。加藤なんざ、叩いたって壊れないぞ」

「――大きなお世話よ」加藤はぶすぐれる。

 台所に茶を沸かしに行った恵が戻ってきた。

 恵は湯気の立つ茶碗を、姉と黒田の前に置いた。

 おれの前に置かれた茶碗だけ、湯気が立っていなかった。

「――恵。よく覚えてたな、おれが温い茶が好きだって」

 おれは温い茶を飲みながら言った。

「あれだけ熱い、熱いと文句言われたら、誰だって覚えますよ」

 恵は無愛想な顔で答えた。

 〝もうちっと愛想よくしろ〟と思ったが口には出さなかった。

 恵は勉強が出来るせいか、頭の回転が速く、口もよく回る。だからヘタなことを言うと、十倍ぐらい辛辣な言葉で返ってくる。

「ところで舞島、片桐と喧嘩したんだって?」黒田は言った。

「喧嘩? あんなもん喧嘩のうちに入らねーよ」

 片桐と喧嘩したら、それは喧嘩ではなく殺し合いだ。

「――舞島の友達を悪く言うのは気が引けるが、片桐には気をつけろよ」

 ――ヤクザなんだから。黒田はそう付け加えたかったんだろうが、熱い茶と一緒にその言葉を呑み込んだ。

「――ありがとうよ、黒田。心配してくれて」

 黒田の心遣いが素直に嬉しかった。黒田は、おれの言葉を聞くと、顔を赤くした。照れくさいようだ。

「ところで舞島。進路はどうするんだ?」

 黒田は話題を変えた。

「進路って? 就職に決まってんだろうが」

「だからその就職先だよ。ヤクザをやらないのなら、本気で進路を考えないとな」

 黒田は真面目な顔で言った。

「お前はおれの親父か」

 〝もっともおれの親父はそんなことを言わないが〟

 可愛いい息子をほったらかして、アメリカで遊びほうけてる親父の顔が横切った。

「茶化すな、こっちは本気で心配しているんだから」

「黒田はどうすんだよ?」

「推薦をもらって大学を狙う」

「推薦をもらわねーと、ウチじゃ大学受からないもんな」

 うちの高校は創立以来、推薦以外で大学に行ったやつは一人もいなかった。

「加藤は?」

「バイト先の店長から正社員にならないかって誘われているんだけど、奨学生の審査が通れば簿記の専門学校に通うかもしれない。資格を取っておけば潰しが利くしね」

「専門学校か――。なら黒田に頼めば一発じゃねーか」

 黒田の父親は専門学校のグループを経営していた。黒田は見た目はとっつあん坊やだが、実は結構なボンボンなのである。

「ばーか。そんなこと頼めるわけないでしょう」

「お前の色気じゃ、黒田も首を縦に振らないもんな」

「――加藤さんに失礼だぞ、舞島」

 軽い冗談なのに、黒田は本気で怒っていた。

 〝なにムキになってんだ、こいつ〟

 加藤がムキになるのならば話はわかるのだが、関係ない黒田が何故か一番怒っていた。

「冗談だよ、黒田。しかし、みんなちゃんと考えているんだな」

 おれだけかよ、考えてないの。

 加藤は熱い茶を口に含んだ。

「この時期になってなんも考えてないの、舞島だけよ」

 返す言葉もない。

 おれは温い茶を啜った。

「舞島。専門学校も視野に入れて考えてみたらどうだ」

「専門学校だぁ?」

「大学進学は現実的じゃないにしろ、専門学校なら、今から勉強すれば舞島でもなんとかなるだろう」

「専門学校ねえ・・・・・・」

 おれは専門学校に通っている自分の姿を想像しようとしたが、頭に思い浮かべることが出来なかった。

「――なんかピンとこねえな」

「パンフレットを見れば少しはピンとくるんじゃないか」

 黒田は鞄から、専門学校のパンフレットの束を取り出した。

 もちろん、黒田グループのヤツだ。

「お前はセールスマンか」

 おれが呆れると、「普段は持ち歩いてないよ。今日は加藤さんに頼まれて持ってきたんだ」

 黒田は嫌そうな顔でそう言うと、パンフレットの束をおれに渡した。

 パンフレットの束をペラペラと捲ってみる。

 もの凄い数字が目にとまった。

「おい、黒田!」

「なんだ舞島」

「これ凄くねえか。就職率が100%超えてんぞ」

 おれは感心しながら、アニメの専門学校のパンフレットを指さした。

 パンフレットには就職率120%とデカデカと書いてあった。

 ほかの専門学校は90%程度なのに、アニメの専門学校だけは100%を超えていた。

 最近のオタクは半端じゃないと言うし、不景気の波を乗り切るにはアニメしかないな。

「加藤ここにしろよ。アニメーターとか声優とかいろいろあんぞ」

 ほかにもシナリオ科、キャラクターデザイン科、なにをやるのか、おれにはさっぱりわからないが選り取り見取りである。

「――絶対いや」せっかく選んでやったのに、加藤はつれなかった。

「なんでだよ。就職率120%だぞ。この不景気な世の中に、インチキでもしねえかぎり、こんな数字だせねーぞ」

「――舞島。そこはアレだ。うちのグループでも特殊なところなんだ」黒田の声は心なしか冴えない。

「まあ、そうだろうな。アニメで喰ってるやつなんておれの周りに一人もいないからな。加藤がその第一号になってこいよ」

 姉のかわりに妹が答えた。

「直人さん。唯姉さんはオタクじゃないし、直人さんもオタクじゃないでしょう。アニメの専門学校は夢を追う人が入学する所なの。そういう人じゃないと、入学できないし、就職率120%達成できないです」

 ――そうでしょう、黒田さん。恵は黒田に同意を求めた。

 黒田はホッとした顔で「そうなんだよ、舞島」と言った。

「――そうか。言われてみればそうかもしれないな」

 次行くか、次。おれはアニメの専門学校のパンフレットを放り投げた。

「おっ、調理師だってよ。加藤ここにしろよ。花嫁修業にもなんぞ」

「大きなお世話よ! だいたいさっきからなんで私の学校を探してるのよ。舞島の話しているんでしょう!」

 加藤が切れた。

「――いや、ついノリで加藤の学校を探しちまった。よし、おれに合いそうな学校を探してくれ」

 おれは気を取り直して、自分の進学先を探すことにした。

 みんなしてパンフレットを読み始める。

「舞島の性格からして、パソコン系はダメね」

 加藤はそう言って、情報処理系の専門学校のチラシを横に置いた。

「舞島はどう見ても公務員て顔じゃないしな。成績からしても絶望的だし」

 黒田は公務員の専門学校をチラシを横に置いた。

「観光系も無理ですね。直人さんはインチキ外人だから、英語喋れないですから」

 恵は観光系の専門学校のチラシを横に置いた。

 パンフレットの束がみるみると薄くなっていく。

「おい。これだけあるのに、おれに合う専門学校は一つもないのかよ?」

 専門学校に通う気などたいしてないが、それでも自分の選択肢がみるみると薄くなっていくのは面白くはなかった。

「黒田のグループも大したことないな」

「舞島が社会不適応者なだけだよ」

 おれの顔すら見ず、黒田は言い返した。

 おれがムッとして黒田に言い返そうとしたその時――

「直人さん、保育士とか介護系の学校はどうですか?」恵が言った。

「介護系?」

 考えたことすらなかった。

「ガキとか爺さんとパラリンピックにでてるようなの連中を世話するやつか?」

「障がい児や高齢者や肢体不自由な人を介護をするやつですよ」

 恵は言い直した。

「――タマカスのおれが?」

 弱い者を見たら殴れ。弱肉強食を地でいくタマカスで生きてるおれが弱い者の世話をする。

「なんか違くねーか?」

「そうですか。結構あうような気がしますよ、直人さんなら」

 ――そうかな。いまいち納得できなかった。

 しかし恵のヤツは年の割には、人をよく見てるしな。おれには隠れた才能があるのかもしれない。

「――合ってるかも。舞島、人の世話焼くの好きだし」

 姉も妹の意見に同意した。

「おれが世話好き?」

 はじめて聞いた。

「舞島は世話好きよ。亀だって片桐だって、普通の人なら見て見ぬふりするもの」

「亀吉はともかく。片桐なんざ大喧嘩しただけじゃねーか」

 喧嘩というより殺し合いだったけど。

「でも片桐がチンピラに掠われたとき、助けに行ったの舞島だけでしょう」

「ありゃあ、ただ単に喧嘩のけりがついてねえから、ケリをつけに行っただけだよ」

――じゃなかったら行かねーよ。おれは付け足した。

「普通の人はそんな理由で、チンピラの巣に飛び込んでいかないわよ」

「そうか?」

「そうよ」

 それまで黙って話を聞いていた黒田が口を開いた。

「すき焼き作っている舞島を見ると、子供の世話とか得意そうだなしな。福祉系も結構いいじゃないか、舞島」

「子供の世話は、ボーイスカウトしてたときの癖だよ」

「舞島、ボーイスカウトやってたの?」

 加藤が驚いた顔で言った。

「ああ。面倒くさいことも多かったけど、山とか海とか連れていってもらえたからな。楽しかったよ」

「ボーイスカウトの他にも、少年野球と古武道の道場にも通っていたよな」黒田は言った。

「よく覚えてるな、黒田」

「よく体が持つわね」

 加藤はおれの頑丈さに呆れた。

「お前だって、ガキの頃から働いてただろう」おれは言い返した。

「直人さん、ひょっとしたら少年野球や古武道の道場でも、小さな子供の世話とかしてませんでした?」恵が尋ねた。

「――言われてみれば、少年野球はおれがキャプテンだったからな。下の連中の面倒みてたわ。古武道の方は、幼児部の指導員が仕事の都合で転勤して、おれが幼児部の指導員やらされてたわ。中学生のおれに指導員やらせるなんて、あのジジイは本当に適当だよな」

「――舞島、十分世話好きじゃないか」

 黒田は呆れた。

「馬鹿言うな。たまたまだよ。たまたま」

「たまたまって。普通はやらないよそんなに。だいたい舞島は、なんで自分が世話好きだということを頑なに否定するんだよ」

 ――世話好きで良いじゃないか。黒田は言った。

「いや、だって自分が世話好きだと思ったこと、一度もないからさあ」

「――直人さんが一つ聞いていいですか?」恵が口を挟んできた。

「なんだ、恵?」

「それだけ色々と活動してたのなら、後輩の女の子からラブレターとか貰ったりしませんでしたか?」

「ああ、貰ったよ。ボーイスカウトのときは学区外の女の子からも貰ったし、そういやクラスの女からもよく貰ったな」

「どれぐらい貰ったんですか?」

 おれは記憶を掘り返してみた。

「――数えたことないけど、山にはなったな」

「山!」

 皆一斉に驚きの声をあげた。

「うんなに驚くなよ。恥ずかしいだろう」

 おれは急に照れくさくなって、頭を掻いた。

「驚くって。リアルで、ラブレターを山ほど貰った男なんてはじめて見たもの」加藤は言った。

「うんなことねーよ。黒田だってラブレターの十枚や二十枚貰ったことあんだろう」

「――一枚も貰ったことないよ」

 黒田はこれ以上ないぐらいブスとした声で答えた。

「マジで?」

「マジだ、舞島」

 黒田の顔は真剣そのものだった。

「人間生きてりゃ、ラブレターの一枚ぐらいもらうだろう」

 おれには黒田の言葉が信じられなかった。

 世の中の半分は女なんだから。ラブレターぐらい誰でも貰うもんだろう。

「それ以上追い打ちをかけるなら、友達辞めるぞ舞島」

 黒田は、静かに怒っていた。

 〝やばい〟

 黒田は怒ると、グジグジとうるさい。しかも長い。

「まあ、あれだ黒田。小学生ときのおれは一生に一度のモテ期だったんだよ」 おれは慌てて黒田をフォローした。

「中学生のときは貰わなかったですか?」

 恵がまたしても質問してきた。

「貰ってたわよ、舞島は」

 忌々しげに加藤が答える。

「なんでお前が知っているだよ!」

「あれだけ貰ってれば、猫だって気づくわよ」

 何だか知らないが、加藤は苛ついていた。

「道場では?」恵はしつこかった。

「道場? 園児の子からも貰ったな。そういや、園児のお母さんからも貰ったな」

「中学生で人妻!」

 おれを除く全員が声を驚きの声を上げた。

「デカイ声だすなよ! からかわれただけだよ」

「――絶対本気でしたよ、直人さん」

 恵は冷たい目で、おれを睨んだ。

「本気って――。考えすぎだよ。だいたい本気だったら、不倫じゃねーか」

「直人さん、不倫はNGなんですか?」

「NGに決まっているだろう。人の女に手を出すほど、おれの趣味は悪くねえよ」

「――直人さんって、そういう所はモラリストなんですね」恵はつまらない本の感想を述べるように言った。

 〝おれをなんだっと思っていたんだ、恵の奴は〟

「――どうだか。人からお金借りてソープ行く男が、モラリストとは到底思えないだけど」

 加藤は冷ややかな目でおれを睨んだ。

「――あの時、血相かえてお金を借りにきたのはそういうわけだったですか」

 恵は冷静に過去をふり返ると、一言。

「――最低ですね、直人さん」

「おい、最低はねえだろう。男にはどうしても断れねえ付き合いてもんがあるだよ、なあ黒田」

 男の黒田ならわかってくれるはずだ。おれは期待を込めて話しを黒田に振った。

「最低だな、舞島」

 黒田は男の癖に、女の味方をした。

 その後も弁明を試みるが、女どもの冷ややかさは増すばかりだった。

 仕方がないので、黙って冷たくなったお茶をちびちびと飲んでいると、恵が口を開いた。

「で、直人さん。どうするつもりなんですか?」

「どうするつもりって?」

「進学の事ですよ。専門学校とはいえ、試験があるんですから猛勉強しないと入れませんよ」

「猛勉強ね・・・・・・」

 一発で気分が萎えた。

「まだ進学すると決めたわけじゃないし、もう少し考えてみるわ」

 今の正直な気分だった。

「・・・・・・そうですか。気が変わったら、私に言ってください。直人さんならタダで勉強見てあげますよ」

 恵はやや視線を下に落としながら、早口で言った。

「タダか。悪いな、恵」

 中学生が高校生に勉強を教えるなんて、まったくのあべこべの話しだが、恵は将来学者になりたいと言うだけであって、そこら辺の高校生なんかよりも全然頭がよかった。

「――いいんですよ。直人さんには、インフルエンザのときお世話になりましたから」

「インフルエンザって、お前知っていたのか」

 おれが驚いて聞くと、恵は黙って頷いた。

「あん時は焦ったよな、加藤」

「たしかに焦ったわ、あんときは」

 おれと加藤は顔を見合わせ、頷き合った。

「インフルエンザって、舞島、恵君になにかあったのか?」

 事情を知らない黒田が問う。

「たいした話じぇねえよ。昔、恵がインフルエンザで倒れたとき、おれが背負って病院まで走っていただけのことよ」

「病院って、どこの?」

「八千代だけど」

「・・・・・・八千代って、ここから十キロぐらい離れているぞ」

 黒田は驚きの声を漏らした後、「よく走れたな」と言った。

「たしかにしんどかったけど、恵が死にそうな面でハアハア言ってんだ、タラタラ歩くわけにもいかないだろう」

「――ひょっとして全部走ったのか、舞島」

「うん。軽い恵だからなんとか走れたわ。あれがクソ重たい加藤だったら、途中の田んぼで放り捨ててたな」

 おれは大笑いした。

「そんなに重くないわよ、わたしは」

 加藤がお約束のようにブスくれる。

「どうして救急車を呼ばなかったんだ、舞島?」

「ああ、そん時たまたま救急車が出払っていて、救急隊員の兄ちゃんが急いでるなら病院までタクシーで行ってくれて言われてさ。まさか緊急隊員の兄ちゃんも、加藤の家がチャリンコもないような貧乏な家だとは思わなかったんだろうよう」

「――自転車ぐらい、今ならあるわよ」

 家長は怒った。

「――まあ、加藤さん落ち着いて」

 黒田が加藤をなだめた。

「舞島も口が過ぎるぞ」黒田は小声でおれを叱った。

「――直人さん」恵は忌々しそうにおれを睨みつける。

「なんだ?」

「なんで黙っていたんですか。姉さんや桂太にも口止めまでして」

 ――言ってくればお礼の一つぐらい言ったのに。恵は目を伏せて呟いた。

「・・・・・・そんな照れくさいこと言えるかよ」

 本当の理由は違った。当時の恵は加藤家に来たばかりで、完全に孤立していた。キツイ性格が禍して、加藤との折り合いも悪かった。

 だから仲良くなるきっかけになればと、加藤がタクシーを使って病院に連れて行った嘘をついた。

 まあ半分以上は、加藤家のためというより、おれの照れ隠しなのだが。

「それにしても何でおれが運んで行ったって気づいたんだよ?」

「この前風邪を引いて病院に行ったとき、担当の先生が教えてくれたんですよ。あの時、君を背負ってきた金髪のお兄ちゃんは元気かね?、って」

「医者って、あのヨボヨボの爺さんか」

 まだ医者やっていたのか。

「その人です」

「――お喋りな爺さんだ」

「とにかくあの時はありがとう御座いました」

 恵は深々と頭を下げた。

「水くさい真似すんな。恵はおれの可愛い妹分だ。何回だって運んでやるよ」

「・・・・・・妹分ですか」

 恵は何故か不満げな顔で呟いた。

「なんか言ったか、恵?」

「――なんでもありません!」

 恵はそれだけ言うとそっぽを向いた。

 〝なにを怒ってるんだ。恵のヤツだ〟

 頭のいい奴はなにを考えてるのかわからねえ。

 おれはふて腐れる恵をほっておくことにした。

 柱の時計に目をやる。

 柱の時計は八時を指していた。

「そろそろ帰るか」おれは立ち上がった。

「僕も、もう遅いからお暇するよ」黒田も、おれの後に続いた。

 テレビを見ていたチビどもが、おれの方に寄ってきた。

「直兄ぃ、もう行っちゃうの。テレビが見終わったら絵里花、直兄ぃと人生ゲームをやるつもりだったのに」

 絵里花がぶうたれる

「明日も来るから、そんときやろうぜ」

「直兄ぃ、明日もくるの?」

「お前の姉ちゃんに首輪つけられちまったからな」

 一万もする、高い首輪をな。

「可哀想、直兄ぃ。絵里花が取ってあげるから屈んで」

 絵里花は手を伸ばした。

 〝冗談に決まってるのに。可愛いモンだ〟

 生意気とはいえ、絵里花もまだガキだな。

 おれは心の中で苦笑しながら、屈み込んだ。

 絵里花は見えない首輪にむかって手を伸ばした。

 唇に柔らかな感触が触れた。

 絵里花がおれの唇にキスをしたのだ。

 おれが驚いて目を白黒させていると、絵里花は唇を離した。

「直兄ぃ。お仕事決まらなかったら、絵里花のお婿さんにしてあげる」

 絵里花は、おれの瞳を見つめながら言った。

 夢中でテレビを見ていたくせに、絵里花はおれ達の話をしっかりと聞いていたようだ。

「絵里花・・・・・・」加藤が絶句する。

 久美子はおれを見上げていた。

「直兄ぃ。・・・・・・わたしもチュウして・・・・・・」

 久美子は恥ずかしそうに俯いたまま、呟いた。

「おうそうか。忘れてた」

 おれは久美子を抱き上げ、唇とほっぺにキスをした。

「――唯姉さんは立候補しなくていいの?」

 恵が、加藤をからかう。

「――なにっ言ってるのよ」

 加藤は真っ赤な顔で否定した。

「黒パンババアが色気づいた」

 桂太がからかう。加藤は思いきり桂太の頭を叩いた。



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