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メドレー 晒し中  作者: 南国タヒチ
第一部 優しい歌
1/52

hypnogig 改稿

 hypnogig

 

 朝焼けの光を浴びながら、おれは砂浜を走っていた。

 砂を蹴り上げる足は重く。汗を大量に吸い込んだTシャツはベトついて気持ち悪かった。自慢だった肺も、入院している間に錆びついてしまったのか、息切れが激しい。

 喉も渇いた。

 正直つれぇや。

 〝キツイなら休めばいい〟

 おれはもう肺を苛める必要はなかった。

 おれはもう体を鍛える必要はなかった。

 おれはもう無茶な減量をする必要はなかった。


 〝おれはもうボクサーじゃないのだから〟

 

 引退したボクサーが体を苛めたところで、得るモンなんてなにもない。

 疲れるだけだ。

 それなのに――。

 おれは走るのを止めようとはしなかった。

 自分でも何故走るのか、よくわからない。

 おれが馬鹿だから――

 おれが救いようもないほどの馬鹿だから。 

 身につく努力なのか、無駄な努力なのか、それすらもわからないほどの馬鹿野郎だから――。

 性懲りもなく、走っているのだろうか?

 それとも長年の習慣、てやつか?

 現役時代。おれは毎日この砂浜を走っていた。

 雨が降ろうが。

 風が吹こうが。

 雪が降ろうが。

 何があろうとも欠かさず走った。

 毎日が苦しかった。

 毎日が辛かった。

 でも走るのを止めよとは思わなかった。

 何故ならおれは夢を見ていたから。

 おれはリングに立つ夢を見ていた。

 おれは勝者になる夢を見ていた。

 倒される夢さえも見た。

 だがなによりも一番多くみた夢は――。

 世界チャンピオンになる夢だった。

 だから辛くはなかった。

 夢が、おれの心に麻酔を打ってくれたから。

 でも

 もう

 麻酔は切れちまった。

 おれはグローブを置いたのだから。

 夢を見る時間は終わってしまったのだ。

 現実を。

 現実ってやつを。

 見なきゃいけない。

 そのうち現実すら見ることが出来なくなるのだから。

 おれの目は光を失いつつあった。

 所謂殴られすぎてやつだ。

 かろうじてまだ見えているが、何を見ても酷く滲んで見えてしまう。ちょっと距離を離すとほとんど見えない。

 ついでに言えば――。

 未来はまったく見えなかった。

 おれは中卒だ。学歴もなけりゃ、まともに働いた経験もない。

 おれにあるのは元日本チャンピンという微妙な肩書きだけだった。

 これで目がまともなら、この肩書きで何とか喰っていくことも可能であったが、この目じゃもう無理だ。

 おれの口からため息が漏れた。

 こうなっちまったのも、目が悪いことを隠して試合に臨んだおれが全部悪い。

 誰も攻めることは出来なかった。

 自分が望んだことなのだから。

 〝ああ、格好なんてつけるじゃなかった〟

 無限の後悔と共に過去が蘇る。

 おれの最後の試合。相手は高山きよしだった。

 ――ジムの後輩だった男だ。

 きよしは中学を卒業すると同時に秋田のド田舎から上京してきた。

 第一印象はたんなる田舎者であった。

 どこで売っているのか聞きたくなるようなダサいジャージに、右手には有名スポーツメーカーのバッタ物のバックをぶら下げていた。

 髪型の方もファション性皆無の坊主頭であった。

 きよしはウチのジムに入ってくるなり、助けを求めるように辺りを見回した。

 おれは受付の机に足を投げ出して、スポーツ新聞を読んでいた。

 きよしはチラチラとおれの方をみた。

 声をかけて欲しいのかもしれない。

 優しいヤツなら声をかける場面だ。

 しかしおれは優しくもなければ、親切でもなかった。坊主頭の面をチラッと見た後、すぐに視線をスポーツ新聞に戻した。

 〝それにどうせ案内しても無駄だ〟

 入り口に突っ立っている坊主頭が見学希望者なら、どうせ入門しないので、見学させるだけ無駄であった。

 もし坊主頭が苛められっ子か何かで、はじめの一歩を読んでのぼせ上がっちまった馬鹿なら、回れ右をして家で大人しくはじめの一歩を読んでいた方が本人のためである。

 なにせウチは鴨川ジムのようなお上品なボクシングジムではないのだから。

 おれはスポーツ新聞で顔を覆うと、寝たふりを決め込んだ。

 ほっておけばそのうち帰るだろう。


 ――十分経過。


 坊主頭は帰らない。

 それどころか、狸寝入りを決め込んでいるおれの横顔をジッと見つめている。

 〝ホモかこいつは〟

 これ以上男に見つめられては堪らない。

 おれは態とらしく欠伸をすると眠たげに目をこすった。

 もちろん、起きたフリというやつだ。

「──兄ちゃん。ボクササイズコースやりたいのなら、ほか行ったほうがいいぞ」

 ウチみたいなジムでも時代を反映して、プロコースや一般コースの他にもボクサイズコースというヤツを作ってみたが、受講者は一人もいなかった。

 ボクササイズコースといっても、なにせトレーナーはアレだからな。

 おれはリングの方をチラリと見た。

「クソんだらあ! テメーなに簡単に万歳してんだぁ!」

 貧相な丹下段平がリングのマットをブッ叩きながら怒鳴り散らしている。

 あの小汚い禿げ親父が、おれが所属する沢村ボクシングジムのオーナー兼トレーナーであった。

 最悪なことにおれの実の親父でもある。

 アレがトレーナーであるかぎり、ボクササイズコースが繁盛する可能性はゼロに等しかった。

 親父だけではなく、一般コースの方々にも問題がある。

 リングの中央では、昇り竜を背負った兄ちゃんが必死の形相で立ち上がろうとしていた。

 悠然と見下ろしてる兄ちゃんの右肩にも派手な桜吹雪が散っていた。

 あれがウチの一般コースの方々である。

 もちろん一般の方々ではない。

 本職のヤクザもんである。

 うちのタニマチである片桐組が、若手教育の一環として毎年毎年チンピラの兄ちゃん達を送り込んでくるのである、

 ボクシングジムのタニマチがヤクザ、というのは珍しい話ではないが、さすがにここまで堂々とヤクザを受け入れてるジムは日本広しといえどもウチぐらいなものである。

 ヤクザとの付き合いは完全に切る。もしくは距離を置く、ていうのが時代の流れなのだろうが、悲しいかなウチのジム生の九十パーセントが片桐組の若い衆で構成されているので、距離を置いた瞬間ジム経営が破綻してしまう。

 業界では、うちはボクシングジムというより、ヤクザ養成所だと思われている。

 おれは盛大にため息を漏らした。

 ボクササイズコースなんざ作るだけ無駄だったな。

 ボクササイズコースが流行りゃあ、ウチも片桐組に頼らなくてもやっていけるようになるかもしれないし、運が良けりゃあ巨乳の姉ちゃんがウチに通いに来るようになるかもしれない──。

 だが、親父とヤクザモンがいるかぎり、巨乳の姉ちゃんが、ボクササイズをやりにくる可能性はゼロ以下であった。

 いや巨乳の姉ちゃんだけではない。

 気合いの入ったプロボクサー志望者も、うちの親父とヤクザモンを見れば回れ右してウチに帰る。

 ウチのジムに耐えられるのは、逃げたら指を詰めなきゃいけないヤクザモンか――。

 それか人生の足し算引き算もできない大馬鹿野郎だけであった。

 〝この坊主頭はどうだろう?〟

 ウチのジムに入門するほどの大馬鹿野郎なんだろうか?

 おれは坊主頭の面を改めて見直した。

 鼻から、耳毛が伸びていた。

 典型的な馬鹿面というやつだな、こりゃあ。

 しかしウチに入門決めちまうほどの大馬鹿野郎にも見えない。

「――なあ、兄ちゃん。見ての通りウチはガラが悪い。リングの上でスパ─リングしている連中も、見た目通りのごろつきだ。ボクササイズコースやりたければ隣町の武村ジムの方がいい」

 おれは気の弱そうな坊主頭のために、出来る限り優しい口調で言ってやった。

 返事はない。坊主頭は黙り込んだままである。

 ビビって固まってるのかと思って、あれこれ声をかけてみたが、坊主頭はウンともスンとも言わない。

 地蔵のようにただ突っ立てる。

 いい加減痺れを切らしたおれが怒鳴って追い出そうとしたその時――。

「入門させてください!!!」

 坊主頭が突然怒鳴った。

 あまりの声の大きさに、親父もリング上のヤクザも動きを止めた。 おれもびっくりして固まってしてしまった。

「――こっちは練習してんだ。静かにしねえか、クソ餓鬼!」

 親父は坊主頭にむかって怒鳴り散らすと、今度はリングの上に突っ立てるヤクザモンにむかって「ゴロツキども! 誰が手を止めていいと言った!」

 親父の怒鳴り声で金縛りが解けたのか、ヤクザの兄ちゃんたちも殴り合いを再開した。

「なあ、坊主。ウチの親父が切れないウチに帰ったほうがいいぞ」

 これでビビって帰るだろう──。親父のはげ頭に浮かぶ太い青筋を見てそう思った。

 親父は本職ではないが、へたな本職よりも迫力がある。

 片桐組が送り込んでくる血統書つきのごろつき共でさえも、親父に逆らうやつは滅多にいなかった。

 それでもゴロツキなので、親父に逆らう馬鹿もたまに出てくる。

 そういう馬鹿にたいしては、親父は鉄拳をもって対処してきた。

 これで大概の兄ちゃんは大人しくなるのだが、例外もある。


 片桐剛蔵の息子、片桐忍。


 片桐組の組長の息子である。

 テメーのジムのタニマチの息子ではあるが、親父は手加減するようなタマでもなければ、気を遣うような性格でもなかった。

 片桐忍の方も、おれが見てきた数々のごろつきの中でも最悪のごろつきであった。

 ぶつかることは目に見えている。

 おれの予想通り、入門初日五分で大喧嘩になった。

 片桐忍は親父の腹をドスで刺し、親父は親父で片桐忍の顎を拳で砕いた。

 ジム中が大騒ぎにはなったが、幸い二人とも超合金でできたロボットなみに頑丈なので、一ヶ月ほどの入院ですんだ。

 あとで組長自らが菓子折をもって詫びに来てくれた。

 親父はゲラゲラと笑いながら、「おれっちを刺すなんて、性格は腐ってやがるが根性はある。鍛えればいいボクサーになるぞ。退院したらおれっちがもう一回鍛え直してやる」と宣った。

 さすがの武闘派ヤクザの組長も、次喧嘩になったらどちらかが死ぬかもしれないと思ったのか、息子をジムに再入門させることはなかった。

 そんな親父である。

 普通の人間ならまずビビる。

 それなのにこの小僧ときたら――

「入門させてください!!!」

 またしても怒鳴りやがった。

 どうやら普通の人間ではないらしい。

 頭のネジが緩んでいるようである。

 足し算も引き算も出来ねえ大馬鹿野郎であることが、うちのジムに入門するただ一つの資格であったが、この坊主頭がそこまでの馬鹿には思えなかった。

 ――馬鹿には違いないだけどな。大までは付かない。

 おれは懇切丁寧に坊主頭がボクサーに向いてないことを諭してやったが、坊主頭は入門させてくださいの一点張りだけであった。

 おれじゃあ埒があかない。

 ついに親父がやって来た。

 親父はおれを押しのけると、いきなり坊主頭をぶん殴った。

 坊主頭は派手に倒れた。

 貧相で年を喰っているとはいえ、親父は元プロボクサーだ。

 その上今も鍛えてる。

 鍛えていない素人の肋骨ぐらいなら、簡単にへし折っちまう程度のパンチ力は今でもキープしている。

 そんな男が手加減抜きで殴ったらタダじゃすまない。

「親父・・・・・・」

 なに考えてんだ、いくら相手が馬鹿そうとはいえ、怒鳴っているだけの馬鹿を殴っていいわけがない。ヘタしたら警察沙汰だ。

 おれが親父を諫めようとした瞬間、坊主頭が立ち上がった。

 唇からは血が流れている。

「入門させてください!!!」

 坊主頭は血の混じった唾を吐き散らしながら叫んだ。

 親父は無言で殴り飛ばした。

 坊主頭はまた倒れる。

 坊主頭はよろよろと立ち上がると、折れた奥歯と血の混じった唾を吐き捨てた。

 本来ならジムの常識人であるおれが、非常識極まりない大馬鹿野郎共を止めなくてはいけなかったのだろうが、二人の馬鹿が醸し出す雰囲気に不覚にも飲まれてしまった。

 リングの上のヤクザモンは、ガラの悪い刺青に似合わない間の抜けた面で、二人の大馬鹿野郎のやり取りを見つめていた。

「入門させてください!!!」

 坊主頭は三度怒鳴った。

 親父は、坊主頭の団子鼻にストレートを叩き込んだ。

 坊主頭は前にのめり込んだかと思うと、そのままぶっ倒れた。

〝立てまい〟

 プロボクサーなら誰もがそう思う倒れ方であった。

 試合なら己の勝利を確信する。

 レフリーのカウントを聞くまでもない。

 そういう倒れ方だ。

 だが、坊主頭は立ち上がった。

 よろよろとゆっくりと、薄らみっともない立ち方だが。

 それでも立ち上がった。

 目も死んじゃいない。

「・・・・・・入門させてください」

 坊主頭の鼻は壊れた蛇口のように鼻血を垂れ流していた。

 アノ様子じゃ、坊主頭の鼻の骨は確実に折れている。

 親父はもう殴らなかった。

「――一平。この馬鹿はウチ向きだ。入門させてやれ」

 親父が言い終わると、坊主頭は倒れた。

 親父は坊主頭を助け起こすこともなく、血で汚れた自分の拳をさっさと洗いに行った。

 親父は余裕をカマしているが、周りの人間は泡食った。

 性格容姿ともにヤクザにしか見えないが、親父はたんなるボクシングジムのオーナーで素人だ。ヤクザ者ではない。

 いくら何でも無抵抗の入門志望者の鼻を折るのはまずい。 

 普通なら警察沙汰だ。

 もっともこの大馬鹿野郎が、お巡りにチクるほど利口だとは到底思えないが。

 おれは床に伸びてる坊主頭の面をマジマジと見た。

 鼻が折れてるのに笑みを浮かべている。

 これは手のつけようがない大馬鹿野郎だ。

 頭の方は直しようがなさそうだが、怪我の方は放っておくわけにもいかない。

 おれは坊主頭を抱き起こした。

 いつのまにかおれの後に立っていたトレーナーの山形さんは、坊主の怪我の具合を見ると救急箱を取りに走った。

「坊主、しっかりしろ。自分の名前を言えるか?」

 坊主の名前が知りたくて尋ねたわけではない。

 意識がしっかりしているのかどうか確認するために尋ねた。

「・・・・・・高山きよしです」

 きよしは口元に弱々しい微笑を浮かべながら答えた。

 これがおれと高山きよしとの最初の出会いだった。

 

 翌日。

 きよしは鼻に包帯巻いた間抜けな面でジムにやってきた。

 親父はロードワークにいくぞ! と言い捨てると外に出て行った。

 きよしは慌てて、親父の後を追いかけて行く。

 〝親父に気に入られたみたいだな〟

 親父がロードワークに連れ出すのは、お気に入りの証拠であった。

気にくわない相手なら、親父はロードワークなんぞ付き合わない。

だが親父に気に入られたことが、きよしにとって幸福なことかと言うと微妙なところである。

 いや、はっきり言えば不幸だ。

 親父のシゴキはキツイ。

 親父のシゴキに根を上げて辞めていった人間を、おれは何人も見てきた。

 〝大丈夫かな、あいつ〟

 おれはちょっと心配になったが、すぐに忘れた。

 今朝、日本ランキング三位の堂島隼人から、試合の申し込みがあった。

 堂島は日本ランキング三位。

 おれは九位。

 ランキングは向こうの方が上。

 実力もある。

 華麗なフットワーク、そして強打。

 才能ある万能型ボクサーの典型みたいな男だ。

 おれが唯一まさるのは、無駄に重ねた年と打たれ強さぐらいなもんである。

 なんでこんな化け物が、ランキング下位のロートルに試合を申し込んできたのかというと、ベルトを取るための肩慣らし、所謂かませ犬と言うやつだ。

 考えとしては悪くない。

 いまベルトを腰に巻いてるのは三十過ぎの超ベテランで、狡猾な試合運びと反則すれすれのラフファイト、それと強打を武器にしていた。

 おれと良く似たタイプだ。

 ただチャンピオンにあって、おれには無いものがある。

 才能であった。

 おれには強打という才能がなかった。

 パンチは弱い方ではない。そこそこ強い方だ。

 しかし強打と評されるほどのもんじゃない。

 努力で手に入れることができる程度の強打であった。

 チャンピオンのように努力と才能で作り上げた強打ではない。

 つまり堂島の若造は、へなちょこ強打のおれ相手なら安全にベルト取りのお勉強が出来ると思ったわけだ。

 〝クソがっ〟

 堂島の野郎舐めやがって。

 奥歯を強く噛んだ。これ以上ないぐらい強く、血の味がするまで噛みしめた。

 おれにボクシングの才能があれば――。

 堂島の半分ほどの才能があれば。

 堂島の野郎なんぞ余裕で叩きのめしてやんのによ。

 

 でもおれにはボクシングの才能がなかった。

 

 ボクシングを始めた頃なら、才能のあるなしなんて考えなかった。

 根拠もなしに、はじめの一歩のようなボクサーになれると思い込んでいた。

 根拠もなしに、自分には才能があると思い込むことが出来た。

 でも幾多の敗戦が、ボクシングに賭けた時間が、おれの限界を、おれの才能のなさを、おれに教えてくれた。

 知りたくもなかったのに――。

 〝クソっ〟

 拳を強く握りしめると、おれは近くにあったサンドバックをぶん殴った。

 

 ──三ヶ月後。おれは化け物退治に成功した。

 相手の減量の失敗、際どい判定に助けられたとはいえ、勝ちは勝ちだ。

 嬉しくてしょうがいない。

 なんせ試合前、誰もが堂島の勝利を予想していた。

身内であるジムの連中も口には出さなかったが、おれが負けると思ってた。

 親父なんぞは「お前じゃ殺されに行くようなモンだな」と面と向かって言ってくれた。

 試合が始まればはじまったで解説席に座ってる三流グラビアアイドルも、会場に駆けつけたにわか女子高生ファンも、堂島に黄色い声援を送っていた。

 一方おれはといえば、応援席に座っているのは女子高生ではなく片桐組のごろつき共と、片桐組の連中に無理矢理チケットを買わされた胡散臭い自称素人の方々達。それといつもおれを応援してくれるアル中のおっさん――

 千葉で一番クソな応援団であった。

 おれはヤジのような応援を背にして戦った。

 堂島といえば黄色い声援を背にして戦っている。

 そういう環境のなかで、もぎ取った勝利だ。

 嬉しくないはずがない。

 メチャクチャ嬉しい。

 堂島の悔し涙を見たときなんか、中指の一本ぐらい突き立ててやりたかった。

 まあさすがにやめたけど。

 握手するときなんざニヤニヤ笑いが止まらなかった。

 思わず相手の肩をポンポンと叩いてしまった。

 がんばれよ、みたいな感じで。

 堂島のやつは絞め殺された鶏みたいな顔でおれを睨みつけやがった。

 ロートルのおれとしては、若手のホープである堂島には、この敗戦を期に奈落の底まで堕ちていって欲しい。

 いやきっと堕ちる。

 ああいう才能に恵まれた奴は負け慣れしてないからな。

 挫折に弱い。

 今頃ヤケ酒でも呷って悔し涙を流しているかもしれない。

 半べその堂島が酒を喰らってる姿を想像すると、笑みが零れた。

 腹に鈍い痛みが走る。。

 〝人の腹を殴りすぎだ。あの小僧!〟

 おれが女だったら、子どもが産めない体になってるぞ、堂島の野郎め――。

 心の中で毒突いてるとロードワークを終えた親父ときよしが帰ってきた。

 相当激しく走り込んできたのであろう、二人とも汗まみれであった。

 親父はベンチで喘いでるおれを目ざとく見つけた。

「怪我人は家でセンズリでもコイてろ、このテマンチョ野郎が!」

「ウルセエだよ!、このインチキ丹下が!」

 反射的に怒鳴り返したが、親父のほうが正論なので、悔しいけどそれ以上は反論しなかった。

 たしかに練習もしないで、ジムのベンチでゴロゴロしてるのは目障りである。

 それはわかっているのだが、どうも家でゴロゴロしているとケツの座りが悪い。

 弟の数馬みたいにファミコンが好きなら、家でピコピコしてりゃあいいのだが、生憎おれはボクシング以外なにも知らないし、興味もなかった。

 家にいても、センズリするのが関の山だ。

 センズリは嫌いじゃないから、家で息子を弄っててもいいのだが、いくらタフなおれでも限界はある。

 おれは今日、すでに三回ほどセンズリをこいていた。これ以上チャレンジする気力がないので、ジムにやって来たのだ。

 だから親父の言葉は実行済みだし、親父の言葉に従って家に帰っても、息子と遊ぶ気にはなれないであろう。

 おれは親父の言葉を無視してベンチに寝っ転がった。

 親父はダレきってるおれを無視して、きよしをリングに上げてシャドウをはじめた。

 おれはぼんやりときよしのシャドウを眺めた。はっきり言って下手くそだ。見るに堪えない。

 三ヶ月練習してこれなら、潔く夢を諦めて高校に入学した方が良い。

 〝こいつもおれと同じ根性だけのボクサーか〟

 おれはすぐに飽きて、鼻くそをほじり始めた。

 きよしがリズム感皆無のシャドウを終えると、親父は「おれっちは武田ジムの親父と昼メシを食う約束してるから、後は適当にやっておけ」と言い捨てて、ジムを出て行った。

 親父がいなくなると、きよしはサンドバッグを叩き始めた。

 シャドウと違って、サンドバッグでは生意気な音を出していた。

 〝多少のパンチ力はあるようだな〟

 どんな奴でも一つぐらい取り柄があるようだ。

 もっともこの程度のパンチ力じゃ、欠点をカバーするのは難しそうだが。

 きよしは、おれに評されてるとも知らず馬鹿真面目にサンドバッグを叩きまくっている。

 渾身のアッパーをたたき込んだところで、きよしの膝が折れた。

 床にゲロをぶちまける。

 すべて吐き切ると、きよしはヨロヨロと立ち上がり、サンドバック打ちを再開した。

 〝今どき珍しい馬鹿だ〟

 親父の馬鹿が気に入るはずだ。

 おれはベンチからのそりと立ち上がると、黙ってサンドバッグを支えた。

 きよしは礼も言わずにサンドバッグを殴った。

 喋る気力などないだろうし、おれの姿も目に入ってないだろう。

 礼など、おれも期待していなかったので腹も立たない。

 八ラウンド分のパンチをサンドバッグにたたき込むと、きよしは自分の吐いたゲロ目がけて倒れ込んだ。

 おれは慌ててきよしの体を支えた。

「オメーは無茶しすぎなんだよ。飛ばしすぎると体が壊れるぞ」

 世間にはオーバーワークという言葉がある。

 根性論主体のこのジムにも、オーバーワークという言葉は辞書に載っていた。

 ただしその文字は酷く薄く、ときにはページごと破り捨てられることもあったが。

「大丈夫ス。おれ恵まれてるから大丈夫ス」

「はあ?」思わず聞き返してしまった。

 どうマイルドに考えても、きよしが恵まれてるようには見えなかった。

 きよしの実家は、親父流の汚い言葉でいえば水飲み百姓の貧乏人。

 最終学歴の方も、おれと同じ中卒である。

 彼女いない歴も年齢。もちろん童貞だ。

 趣味といえば、アイドルのポスター収集が唯一の楽しみらしい。

 どこからどうみても恵まれてるとはいえない。

「世間のみんなは学校いってるのに、おれだけ好きなことやっているのだから恵まれてるんス、おれは」

 ぶっ倒れそうになってるのに、きよしの目はきらきらと輝いていた。

 おれはきよしの足下を見た。汗とゲロで水たまりが出来ていた。

「――大したマゾ野郎だよ、お前は」

 おれは呆れかえった。おれも練習量には自信があったが、きよしには負けるかもしれない。

 きよしは自分の足で立てるほど回復すると、急にモジモジしはじめた。

「――あのう」きよしは女に告白するような面で呟いた。

 はっきりいって気持ち悪い。

「なんだよ」

「――感動したっス」

「何が感動したんだよ」

「――昨日の試合ス。おれリングサイドで見てたス」

 きよしは真っ赤な顔で宣った。

「――気持ち悪いだよ、テメーは! いいからゲロ片付けろ!」

 恥ずかしくなっておれが怒鳴ると、きよしは掃除箱の方へすっ飛んでいった。

 床からゲロと汗がなくなると、きよしはまたもモジモジしはじめた。

 〝ダメなオカマかこいつは〟

 おれはウンザリした。

 巨乳の姉ちゃんとは言わねえけど、もう少し色気のある人間に懐かれたい。

「――なんかおれに頼みでもあるのかよ」

 無視しているとずっとちら見されそうなので、仕方なく声をかけてやった。

「――一平さん、ミットを持ってくれナいスか」

「――暇だからべつにいいけどよう。ちょっとは休憩しろよ、お前」

「大丈夫ス。おれもう回復しました」

 おれは答える代わりに、きよしの胸を軽くおした。

 きよしはあっさりと尻餅をついた。

「――うんな体じゃ、ミットを打っても意味ねえよ」

「・・・・・・ウッス」

 きよしは振られた女みたいな顔で俯く。。

「うんな顔すんな気持ち悪い。おれも少しアップしときたいから、三十分たったらリングに上がってこい」

 きよしは垂れてた顔をガバッと上げたが、おれは無視してリングの上にあがった。

 軽く体を動かす。

 ジャブ、ワンツー、フック、疲労が抜けきっていないので、体に切れがない。

 おれが横で見ていたら、リングから降りろと怒鳴りたくなるようなレベルだ。

 それなのにきよしの馬鹿は、生板ショウに囓りついてる童貞小僧みたいな顔で、おれのシャドウを見つめていた。

 〝はずい〟

 おれもプロだから人に見られるのは慣れているはずなのだが、あんなにガチ見されるとやりずらい。

 おれはきよしの視線を追い払うため、シャドウに集中した。

 いい感じで体が温まった頃、きよしはリングに上がってきた。

 足下はしっかりしている。スタミナは回復したようだ。

「はじめんぞ」

 おれが声をかけると、きよしはミットにジャブを撃ち込んできた。 リズム感のない、どんくさいジャブだ。

 〝昔のおれみたいだな〟

 自分の欠点を見せられるているようで、面白くない。

 しかしきよしが右ストレートを打ち込んできた時、おれの顔色が変わった。

 ミットが弾き飛ばされたのだ。

 豪砲だった。

 衝撃が骨を伝わり、腹まで響いた。

 〝二階級上とはいえ、このパンチ力半端じゃねぇぞ〟

 サンドバッグを支えている時も、ハードパンチャーだとは思っていたが、あの時のきよしは体力の限界を超えていたので、あれでもパンチは死んでいたのだ。

 しかしスタミナが回復した今、パンチの威力が蘇りつつある。

 体力が万全だったら、きよしはこれ以上のパンチを放つことができるであろう。

 おれは顔をしかめた。

 右腕に走った痛みのせいばかりではない。

 〝きよしはおれとは違う〟

 ファイトスタイルは同じファイタースタイルだが、持ってるパンチが違う。

 おれのは努力のパンチ。きよしは努力と才能のパンチだ。

 上にいく人間のパンチ。

 才能のないおれとは違う。

「―どうしたんスンカ、一平さん?」

 きよしは馬鹿面ぶら下げて尋ねてきた。

「馬鹿野郎! ボケッとしてないで、さっさと撃ってこんかい!」

 おれはきよしの面をミットで殴り飛ばした。

 きよしの唇が切れる。きよしは唇から血を流しながら、スンまんせんス、と言って頭をさげた。

 殴られたというのに文句の一つも言わない。

 八つ当たりなのに。

 愛情でもなんでもない。

 たんなる八つ当たりなのに。

 ――気づけよ馬鹿野郎が。

 おれの思いに気づくことなく、きよしは拳を放ってきた。

 きよしの拳がミットに打ち込まれるたびに、おれは泣きそうになった。

 〝同じ中卒。同じボクシング馬鹿なのに。なぜきよしなんだ〟

 おれは、お前の何倍もの年月をボクシングに捧げてきたんだぞ。

 何倍もの人間を殴り、その何倍ものパンチを体に刻んできたんだぞ。

 〝――畜生〟

 殺してやりたい。堂島以上に殺してやりたい。

 リングの上できよしの顔面をメチャクチャにぶん殴ってやりたい。二度と立ち上がれないぐらい、ブチのめしてやりたかった。

 

 ミット打ちは終わった。

 

 この日を境に、おれは狂った。

 傷を癒してる間も、ネチネチと体を苛めた。

 傷が癒えると、今度は体のありとあらゆる箇所を苛めた。

 海岸をメチャクチャ走った。

 筋肉をメチャクチャ苛めた。

 サンドバッグをメチャクチャ叩いた。

 拳からは何度も血が出た。

 でも痛みはなかった。

 おれの拳は夢を見ていたから――。

 おれの拳は、きよしの顎を砕くことを夢みていた。

 おれの拳は、きよしの肋を砕くことを夢みていた。

 おれの拳は、きよしの夢を打ち砕いてやることを夢みていた。


 ――夢が叶うことなんて決してないのに。

 

 原則としてボクサーは同門同士で試合を組むことはない。

 それにきよしは、おれより二階級も上だ。階級も合わない。

 明日のジョーでもないかぎり、やり合うことなんて絶対にない。

 なのにおれは、自分を苛めることを止めることは出来なかった。

 どうしてなのか、自分でもわからない。

 きよしに追いつかれるのが恐かったのかもしれない。

 弱い自分が許せないのかもしれない。

 ――それとも何か予兆のようなものを。

 運命とかいうヤツを――。

 感じていたのかもしれない。

 

 狂ったおかげか、一年後おれは日本チャンピオンのベルトを巻くことが出来た。

 嬉しかった。

 正直取れないと思っていた。

 諦めかけていたベルトが、自分の腰で輝いてる。

 〝ありがとう、きよし〟

 おれは憎みながらも、きよしに感謝した。

 きよしがいなかったら――。

 きよしに嫉妬しなかったら――。

 きよしを憎めなかったら――。

 ――おれは死に物狂いになれなかった。

 死に物狂いになれたからこそ、ベルトを巻くことが出来た。

 だから妬み憎んでいるきよしにさえも感謝できた。

 きよしの奴も強打を武器に新人王を取った。

 そして運命の日が訪れる。

 きよしが突然ジムを移籍したいと言い出したのだ。

 親父が移籍する訳を尋ねた。

 おれと戦いたい。

 それがきよしの答えだった。

 横で聞いてたおれは拳を握りしめた。

 握らなければ、拳が震えだしそうだったからだ。

 きよしが来る。敵として。最強のチャレンジャーとして。

 おれの前に立ち塞がろうとしている。

「なあ、きよし。気持ちはわからんでもないけど階級も違うだし、もう少し考えたてみてから答えを出してみてはどうだろうか」

 ジムの常識派である山形さんが諭した。

「新人王取った途端移籍するなんて、恩知らずなんだよテメーは!」

 ヤクザモンは脅した。

 きよしは、どうか移籍を許してくださいと、馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返すだけであった。

 ほかの言葉は何も言わない。

 〝なんか、あるだろうが。ほかにもよう〟

 お願いしますかとか、自分の実力を試したいとか、ウチのジムの悪口だとか――。

 

 ――なんかあるだろうが!


 そう怒鳴りたかった。でも声はでない。

 何かを堪えるように、ただ拳を強く握りしめるだけであった。

 おれのかわりに親父が、きよしの相手をした。

 親父は、入門したときと同じようにきよしを殴り飛ばした。

「万ちゃん!」山形さんが悲鳴を上げる。

「しょうがねえだろう。相手はきよしなんだからよう。話したってラチがあかねえよ」

 親父らしい答えだった。

「きよし。わかったから荷物まとめてさっさと出てけ。移籍金とかは山ちゃんが話まとめてくれるからよ」

 親父は野良猫を追い払うように言ったが、語尾は微かに震えていた。

 ジムの中では親父が一番、きよしを可愛がっていたから、アレでも辛いのだろう。

 きよしは泣きながらありがとう御座いました、と怒鳴った後、ジムを出て行った。

 きよしがジムを辞めた後、おれは王座を二度防衛した。

 どの試合も死に物狂いだった。

 ――とりわけ二戦目は。

 二戦目を終え、若い挑戦者に顔面をしこたま殴られたおれは病院に担ぎ込まれた。 そこで医者に失明の危険があると告げられた。

 殴られすぎて、脳が傷んじまったそうだ。

 一方きよしの奴は、力石なみの減量で肉をそぎ落とし、スパーフェザー級に殴り込んできた。

 ハイエナのような上位ランカーは、やせ細ったきよしを見て絶好のカモだと判断したらしく、きよしの挑戦を喜んで受けた。

 きよしは上位ランカーに嬲られたが、最後は自慢の強打をふるって見事に逆転KOした。

 その後行った二試合もすべて勝利した。

 きよしはベルトへの挑戦権を拳でもぎ取ると、おれに挑戦状を叩きつけてきた。


 ――即答で挑戦を受ける。

 

 なんて格好いいことは、弱いおれには出来なかった。


 きよしは強い。


 肋が透けて見えようが、パンチの威力はまったく落ちてない。

 階級を落としてから行った試合。すべて逆転KO勝ちという戦績が、きよしの強打を証明していた。

 せこく判定勝ちでベルトを守ったおれとは大違いだ。

 ――それに、おれには目に爆弾がある。

 こそこそ隠れて行った精密検査の結果、医者の野郎はやれて一試合。 だが頭に強打を受けた場合、目の保証はできないと宣告された。

 遠回しの引退勧告だった。

 そのおれが強打者のきよしとやるなんて、暴挙以外の何者でもなかった。


 ――迷う。迷いに迷った。


 親父を抜かして、周りの人間は全員逃げろと忠告してきた。

 きよしのスーパーリングの相手をした見習いヤクザの兄ちゃんも、何年もの間、おれのパンチをミットで受け止めてきた山形さんも。

 皆おれに逃げることを勧めた。

 おれも逃げるべきだと思った。

 たしかにきよしに対して、憎しみにも似た激情はある。

 今だって、腹のなかで煮えくり返っている。

 拳で叩きのめしてやりたい。

 拳で実力の差を思い知らせてやりたい。

 拳でお前を想った量を教えてやりたかった。

 だが、おれはもういい大人だ。

 青臭い餓鬼みたいに、夢ばかり追っても仕方ない。

 日本チャンピオンのベルトだって一応巻いたんだ。

腰に巻いたベルトを上手く使えば、引退した後もボクシング関係の仕事で食っていくことができる。

 目が潰れたら、それもオジャンだ。

 目の見えない元ボクサーなんて、誰もまともに相手などしない。

 引退後の生活の方が長いのだ。格好つけて人生をドブに捨てることはない。

 よし上手く世の中ってヤツを渡っていこう。

 もう二十九歳だしな。


 おれは逃げる。そう決心した。

 

 なのにおれは――。

 リングの上できよしと向かい合っていた。


 試合は、序盤から凄絶だった。

 お互いファイター同士。ファイトスタイルは被っている。

 おまけにお互い中卒で頭も悪い。

 作戦もクソもない。

 試合は一ラウンド目からブン殴り合いとなった。

 四つの拳は、試合の主導権をもぎ取ろうと、激しく交差する。

 前半は反則混じりのラフファイトとロートルの狡猾さでおれが試合の主導権を握ったが、きよしは自慢の強打ですぐに主導権を奪い返した。

 中盤戦は主導権もクソもなかった。

 きよしは、おれがスタミナを削るためにしつこく放ったボディーブローと減量苦が効いてフラフラ。

 おれの方はといえば、スタミナが切れたきよしを見て、チャンスとばかりに襲いかかったてみたが、きよしが苦し紛れに放った殺人パンチに返り討ちにされ、膝が笑い出している。

 互いにギリギリ。

 足も使えない。

 ポイントも五分五分だ。

 そうなったらやることは一つしかない。

 我慢比べだ。

 おれはフットワークを止めた。足を大きく開いた。

 示し合わせたかのように、きよしも同じスタンスを取った。

 〝考えてることは同じか〟

 お互い頭悪いな。ニヤリと笑った瞬間、おれはきよしの頬めがけてパンチを放っていた。

 鏡のようにきよしもパンチを打ってくる。

 互いの拳が交わったかと思うと、相手の顔面にめり込んだ。

 〝痛てぇだよ〟テメーのパンチは。

 奥歯が折れちまったじゃねえか。おれは折れた奥歯をリングのマットの上に吐き捨てた。

 血まみれの奥歯がリングに転がる。

 きよしの方は歯が折れていない。

 すでに体勢を整えてる。

 ――パンチ力の差か。

 〝やんなるね、まったく〟

 才能の差って奴は。


 ラウンドは重なる。


 おれときよしはリングの中央で拳を交換した。

 おれの体に拳がめり込むたびに、きよしの拳がおれに語りかけてきた。

 己を苛めた時間を。

 おれに対する憧れを。

 そしてなによりも――

 勝ちたい。

 おれに勝ちたいという気持ちを拳で語った。

 

 わかったよ、クソたれ。


 おれも拳で、きよしに語りかけた。

 若さと才能に嫉妬する気持ちを。

 夢を砕いてやりたいという憎しみを。

 そして何よりも多く語ったのは、倒れてくれという、祈りにも似た思いであった。

 

 しかしきよしは倒れない。


 倒れるどころか、おれの顎の骨を右のアッパーで砕いてくれた。

 おれはきよしの体に縋り付くような形でダウンした。

 敗者特有のポーズ。決着のポーズ。

 だがおれはチャンピオンだ。

 そう簡単にバンザイするわけにはいかなかった。

 カウント8で無理矢理立ち上がった。

 まったくチャンピオンなんかになるもんじゃねえや。

 チャンピオンじゃなかったら寝ていられたのに。

 おれはファイテングポーズを取った。

 レフリーの馬鹿はやれるのか? とアホな質問をしてきた。

「やるから、拳構えてんだよ」

 と言ったつもりだが、顎が馬鹿になってるので言葉にならない。

 おれはレフリーを睨みつけた。

 〝止めたら、殺すぞ〟

 おれの肉体言語が通じたのか、レフリーは試合続行を宣言した。

 きよしはと言えば、信じられないという顔で、おれの顔を見つめている。

 あのアッパーで決まったと思ったんだろう。

 おれが腰にベルトを巻いてなければ――。

 相手がきよしじゃなければ――。

 今のアッパーで決まっていた。

 〝来いよ、きよし〟

 おれは余裕をカマして、手招きした。本当は足が動けないから、きよしが攻めてこない事にはどうにもならなかった。

 案の定きよしは襲いかかってきてくれた。

 おれは亀のように身を固めた。

 きよしは必死の形相で、甲羅のようなガードをこじ開けてようとした。

 あっちもポンコツ寸前であるから、このラウンドで決めたいのだろう。

 それにさっきのアッパーで立ち上がってきたのも、ムカついてんだろう。

 わかるよ、その気持ち。

 おれも逆ならむかつくわ。

 でもよう――

 きよしの強烈な殺人パンチが、次第におれの腕もガードも壊していった。

 〝腕の骨にヒビぐらい入ったかもな〟

 もう限界。おれは耐えられなくなり、ガードを下げた。

 きよしは瀕死のロートルチャンピオンにトドメを刺すべく、得意の右ストレートを放ってきた。

 ――予想通りだ。

 おれはクロスカウンターで返した。おれの拳はきよしの顎の骨を砕き、その威力はきよしの脳を激しく揺さぶった。

 きよしはマットの上にくずれ落ちる。

 〝きよし。おれはチャンピオンなんだ。そう簡単にベルトをくれてやるわけにはいかないだよ〟

 リングの上に転がってるきよしにむかって、心の中で言い放った。

 八カウントできよしは立ち上がってきた。

 観客はどよめいた。

 しかしおれは驚かなかった。

 きよしなら立ち上がってくる。こいつはそういう大馬鹿野郎だ。

 おれは拳を構えた。

 ノロノロときよしに近寄ったところで、ゴングが鳴った。

 互いミミズのように這って、自分のコーナーに戻った。

 

 最終ラウンド。

 

 親父の張り手で何とかコーナーから出たものの、歩くどころか、立ってるのもやっとの状態であった。

 きよしも似たような状態であったが、若いぶんだけ余力はおれよりもあった。

 きよしはナメクジのようにおれに向かって這い寄ってくる。

 おれは歩く気力すらもなかったから、きよしの方から近寄ってきてくれるのは有り難かった。

 きよしは右フックを放った。おれは腰を屈めて避けると、きよしに無理矢理抱きついた。

 〝――すこし疲れたよ。おれは年寄りなんだからちょっとは優しくしろよな、馬鹿野郎〟

 きよしの馬鹿は年寄りに優しくするつもりはないらしく、おれを突き放そうとあがいた。 

 しかしおれが下から抱きついているので、力ずくでは突き放すことは出来ない。

「――焦るなよ」おれは喘ぎながら呟いた。

 大丈夫。ちょっと休めば、また戦えるようになるからさ。

 だから少しだけお前の胸で休ませてくれ。

 おれはボクサーにとって、恋人ともいえる空気を求め喘いだ。

 空気の読めないレフリーはおれを引きはがそうとした。

 リングサイドの観客共も、おれを野次った。

 〝お前等には、これほど必死でなにかを求めた事があるか?〟

 さらなる空気を求め、おれは烈しく喘ぐ。

 〝ねえだろう〟

 お前等がどんなに喚こうが、この空気の甘さだけはリングの上でしか味わえない。

 テメー等は指を咥えてリングサイドで眺めていろ。


 肺が回復してきた。


 おれの肺は長年苛め続けた結果、三十路目前だというのに中学生のちんぽなみに回復が早い。

 肺が回復した頃になって、ようやくレフリーはおれときよしを引き剥がすことに成功した。

「もういいよ」体力は回復した。

 再開の声が上がると同時に、おれは体勢を落とし、きよしに突っ込んでいた。

 おれを引っぺがす作業に夢中になっていたきよしは、スタミナが回復していなかった。

 反応が遅い。

 おれはきよしの腹めがけてアッパーを放り込む。

 きよしは腸でも吐き出しそうな顔で、体をくの字に曲げた。

 おれは渾身の力を込めて左フックをきよしの面に叩き込んでやった。

 〝寝ちまえよ、きよし〟

 おれの想いに答えるかのように、きよしは前のめりになり、そして崩れ落ちた。

 会場から怒濤の歓声が沸いた。

 どうだきよし。

 立てまい。

 おれはきよしを見下ろしながら、勝利を確信していた。

 この倒れ方はボクサーなら誰もが知っている、絶対立ち上がれない倒れ方だ。

 おれはマットの上で倒れているきよしをみて、腹の底から歓喜が込み上げてきた。

 おれはきよしより強い! おれはきよしより強い! 強いんだ、くそったれがっ。

 歓喜が、足の指先から頭の天辺まで満ちていく。

 あとは手を挙げて勝利を宣言するだけだ。

 おれは勝利を確信し手を上げようとしたその時、きよしはゾンビのように立ち上がってきた。

 ゾンビのくせに、きよしの目はまだ死んではいなかった。

〝ああ、忘れてた。相手はあのきよしだったんだ〟

 初めて出会ったあの日。

 親父のKOパンチを喰らっても、きよしは立ち上がってきた。

 おれは拳を構えた。

 いいさ。何度でも立ち上がってこい。何度でも倒してやる。

 きよしはゾンビのように這い寄る。おれも足が死んでいるが、それでもきよしよりはマシだった。

 クリンチときよしからダウンを奪ったことによって、心理的にも体力的にも余裕が出てきたのだ。

 互いの距離を縮めた。

 先に射程距離に達したのはおれだった。

 おれは右ストレートを放つ。

 きよしは額で受けると、右ストレートをぶち込んできた。

 おれの左腕はごく自然に反応し、きよしの拳を受け止めた。

 あとはパンチを返せばいい。一発さえ入れることが出来たら、決着がつく。

 おれは右ストレートをきよしの顔面に打ち込もうとした。

 しかし体勢が崩れた。

 疲れやダメージのせいではない。おれの左腕は、きよしの右ストレートによって砕かれていたのだ。

 折れた左腕のせいで、バランスが取れなくて体勢が崩れてしまったのだ。

 〝嘘だろう!〟

 おれは叫び出しそうになった。が、叫ぶ暇などなかった。

 がら空きになったおれの顔面に、きよしの拳が殺到してきたからだ。

 

 気づくと、おれは病院のベットで寝ていた。

 病院の天井は酷く滲んで見えた。

 〝どうせ負けるんだったら、さっさと寝ておけばよかった〟

 さっさと寝とけば、病院の天井もこんなに滲んで見えることもなかったであろうに。















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