1 余命、幾ばくか
「あなたはどうしたいと思ってる?」
「その時」は、いつも思いがけないタイミングで訪れる。
あなただったら、どうするだろうか。
「もう、余命はそんなにないんだろうなあ」
いつの頃からか、ぼんやりと感じていたこの感覚が、年を経る毎に具体的な輪郭を帯び、よりはっきりとしてきた。もっとも、だんだんと体調が悪い日が多くなっているのであれば、誰にでも感じるものなのかもしれない。
今年、年に一回行われる健康診断で肺に「疑い」が見つかり、念のためということで無理やり受診させられたDWIBS (ドゥイブス:胸腹部MRIがんドック)で腎臓・骨髄にも異常が見つかった。昔のドラマのように「知らないままあの世へ」というのは、私の好むところではない。どちらが原病巣なのかはまだ分からないが、状況的には体調に表れている以上に悪いらしい。
医者から結果を聞いて思ったことは、「ああ、そうか」といった、ごくあっさりしたものだった。別に頭が真っ白になるわけでもなく、「住宅ローンがこれで払わなくても済むかぁ」とか「保険の手続きが面倒くさいなぁ」とか、案外そっち方面ばかりが思い浮かんだ。家族には十分な補償が下りることはもう分かっていたし、特段心配するようなことはなかった。
子どもは……悲しむかもしれないが、もう一人立ちをする年齢だ。いずれ来る時が少し早まったということで、年月とともに消化していくだろう。
妻は……こちらも少しは悲しむかも知れないが、どちらかというと祝砲の一つでもぶっ放すかもしれない。まぁその位のほうがこちらも後顧の憂いが無いというものだ。
人間とは不思議なもので、この世に留まっていられる時間がある程度分かると、どうも度胸が座るようだ。今まで悩みに悩み、ぐだぐだと躊躇していた事が、馬鹿らしいくらいにあっさりと決める事ができるようになった。恐らくそれは、失敗したところで後腐れが無いだろうということと、時間が無いならやらないと損をするという思うからだろう。
もしくは、「他人からの評価」を気にしなくなったからかもしれない。
物心ついてこの方、ずっと「他人からの評価」を受けつづけ、それを行動指針にしてきたように思う。
幼児期の親からの評価。
学校でのテスト、教師からの評価。
社会に出てからは上司の評価。
同僚からの評価。
取引先からの評価。
恐らくそれは、友人間であっても家族間であっても大なり小なりあったものだ。そういった「評価」に耳を貸し、自分の言動を調整するからからこそ、社会はうまく組み合い、動いている。ただ、それはやはり煩わしいものでもあり、時に自分を縛りつけるものでもあった。
そんな感じで仕事(大半は引き継ぎのための「作業」だが)をする傍ら、妻に「治療はどうするの?」と聞かれた。私の原家族は「がん家系」なので、「がん保険」は十分すぎるくらいにかけていた。遺族補償年金や退職金、ローン保険もあり、あまりずるずると延命治療をしなければ、家計を逼迫するようなことにはならないだろう。だから私は「基本的には緩和ケアに留めたい」とだけ伝えた。これは昔から話していたことだったため、案外すんなり話が終わった。
「残りの人生位、好きに生きなさいよね」
それがこの会話の終わりの言葉だった。正直これでダラダラと時間を浪費するほうがストレスになるので、あっさり了承されたことに感謝した。長年連れ添ってきた結果なのか、それとも関心がないのからなのかは、今一つ分からないけれども。
ところが、ここで「さてどうしようか?」と困ってしまった。ずっと人の顔色ばかり見てきたせいか、「自分がしたい事」が何かが出てこない。何事も「したいことをやる」よりは「できることをできる範囲でする」といった具合だったので、いざこうなると、何だか「本当にしていいのか?」と思ってしまう。我ながら、とことんつまらない人生を過ごしてきたものだと、改めて思う。
「あなたはどうしたいと思ってる?」
そう声をかけられたのは、そんな折だった。自分で決められないことがあるときは、案外他の人の一言で一歩を踏み出せることが多いものだ。
……ただ、問題なのは……
その声は、友人からでもなく、まして妻からでもなく。
私の夢の中に時折現れていた、一人の少女からだったことだ。




