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甘い空虚を擦り減らして

「帰ってくれない?」



澱む空気に、少し焼肉の臭いが混在していた。それは上司の口から吐き出された、つばと息の臭い。


上司の明野。こいつは俺に度々「帰れ」と言うのが口癖で、もうガミガミとさっきから俺の耳のそばで怒鳴っているところだった。


多分昨日は焼肉を食べたのだろう。俺の知らないような、食べたこともないような肉を焼いて、ジュージューって口で言いながら食べたんだ。


そのくせ酔いに酔いまくったこいつは、ろくに風呂も入りやしないで、前歯も奥歯も磨かずここまでやってきやがったんだ。


俺には容易に想像できた。どうしてこんなに想像できてしまうのだろうか。しかもマイナスな方向に。クズな方向に。


俺のこいつに対する悪い妄想は、止まるところを知らなかった。でも、地元の優しすぎるくらいの同級生には、こんなことは無かったし、むしろ止まらないのはそいつとの思い出のページをめくる回想だけだった。



やっぱり優しいやつは優しい妄想留まりで、心底根っこが腐っちまってるやつはそのまんま、クズの妄想留まりなんだろうな。


今のところ、俺の脳はそういうふうなノウハウで出来ているってことだろう。そういうことにしておく。




「何黙ってんだよ。まさかキレてんの?お前がキレてもダサいだけだしやめとけよ。そもそも、お前が悪いんだかんな!!!」



「契約取れないお前が!!!」




さっきから明野は、持っていたボールペンを指代わりにして、他の奴らを指しながら目を回していた。


こいつは同調圧力を使ってくるタチで、しかも周りの奴らはそれに乗っかるしかないような、気弱な人たちばかりだった。



「そうだ!明野さんの言う通り!巻田もっと頑張れよ!!言い訳とかだせーぞー。」




「そうっすよね、ダサい。」




何なんだ。俺が何したって言うんだ。確かに俺は契約を取ってない。だけど、仮にも同期だ。なんで誰も俺を庇ってくれないんだろう。


机に突っ伏すようなことも出来ず、ただ上司のヨレたスーツを見ることしか出来ない俺をダサいって思うのは勝手だ。でも、何でそれで終わりなんだ。


この通り。俺には、誰も味方がいなかった。




「わぁー!!美味しそ!!」



「でしょ!好きなだけ食べていいのよ!」




「やった!!いただきまーす!!」



俺は、裕福な家庭とまでは言わないけれど、ある程度贅沢ができるくらいの家庭に生まれた。


外食は月に何回もあったし、わがままもよく聞いてくれる両親だった。


旅館の食べ放題も、年に数回だけど食べた鰻の味は今でも覚えている。口の中でとろけたあの味わいを、覚えている。



焼肉にも行った。そばも食べた。あの時は、言えば何でも食べれた。ハンバーガーもハンバーグも、ステーキだって。



俺は贅沢を、贅沢としてきちんと受け取って、きちんと喉に流し込んだ。



感謝はしていたつもりだ。電気代も水道代も、人参やジャガイモも、たまねぎと卵も、買うにはお金が必要だから。だから、感謝はしてた。


でも、俺はどこかでその感謝の本性を、未だ暴けていなかったのかもしれない。大人になってもまた贅沢が出来るなんて、そんな甘い感謝を、現実を、俺は見落としてしまっていた。



何の因果か悪知恵か、無様な今がそれらによって生まれたのである。


滑稽な俺は、上司のスーツのヨレにしがみつくように、頭を下げていた。



「申し訳ございません、必ず、契約を取ってきます。」



「謝ってる暇あるなら、さっさと動けよカスが。いちいち遅いんだよ」




「すいません。」



復讐しようなんて思わない。そんな勇気も俺にはもうないからだ。



だから、ただ黙って今日も明野の命令を聞き続ける。


他の社員が怒られるところを見れば、同調圧力にひるがえるロボットとなる。



何かを正すことなど俺には到底出来ないし、何かを変えることも、俺には出来ない。




「よっしゃ!じゃあ今日もう俺帰るわ、先になー。」



「お疲れ様です。」



「お疲れー」



焼肉の臭いが鼻の先に近づいてくる。隣の席までいよいよやってきて、思わず身を縮めてしまった俺に、顔いっぱいにシワを作って明野が言った。



「あー、、お前残業な。俺のとこに打ち込み必要なのあるから、あの白いファイル取ってやっとけ。明日の朝までに、頼むぞー。」




「え、いやあのそれ」



「いいからやれって言ってんだよ。締切まで間に合わせろ。」




「はい、すいません。」



心のどこかに大きな穴が掘られたような気分だった。別に悲しくなんてないし、もちろん嬉しくもない。


何もないんだ。本当に何もない。



空虚になった。俺の心は、ぶっ壊れたわけでもなく、ただ、無くなった。



積み重ねてきた何かと、積み上げてきた何かが、込み上げてくる一瞬の感情によって欠落してしまったのだ。



こんなに、情けないことなんてあったかな。俺は自分の耳と心に押し付けるように聞いてみた。



返事は返ってこなかった。そのくせに、涙だけは一丁前に溢れてくる午前0時。


作業を終えた俺は家に帰ってきていた。



納豆をかけたご飯に、醤油を力強く押して捻り出す。



「いただきます。」

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