さきの場合 前編
「……」
にぎやかなカフェの角席に深く寄りかかって座り、私は諦めたように一度目をつぶったあと、イヤホンを耳に付けた。
するとそれに同調する室内に仕掛けた見守りカメラは、映像も流れ出す。
私の寝室のベッドの上で、一糸まとわぬ男女がべったりとくっついていた。
「こんなとこでシテ、奥さんにバレないのぉー? バレたらヤバくない?」
「大丈夫だよ、大丈夫。バレやしないって。あの人家事は俺に任せっきりだし、それに俺にぞっこんだからさ。疑うことすらしないよ」
その男……夫は浮気相手らしき女を引き寄せる。
真昼間の自宅。
普通なら主夫である夫が家に女を連れ込んでいるなんて、誰が想像するだろう。
「なにそれ、奥さんかわいそぅ」
「いいんだよ。だっておまえは、俺がいい男でいるための栄養素でもあるんだから」
「やだ、もぅバカ。ふふふ」
夫が女の上にかぶさりると、甘い嬌声が漏れ出した。
私はイヤホンを殴り捨てたくなる気持ちを押さえ、二人の会話に耳を傾ける。
いくら証拠集めと、今後のことを考えてとはいったって。
結構コレ苦痛よね。
いつまでこんなの見させられるんだか。
「なんかこのベッド、結構きしむね」
「じゃあ、今度軽井沢の別荘行く?」
「別荘なんて持ってるの?」
「あの人が親からもらったヤツらしいけど、ベッドも豪華だったよ」
「奥さんお金持ちなんだね」
「いつにする?」
私の目の前に置かれたアイスコーヒーの表面は汗をかき、氷が小さくカランと音を立てる。
あー、最悪。
うんざりした顔が、カフェの窓ガラスに映る。
イヤフォンを外すと、自然とため息がこぼれた。
「さき、おまたせー」
ちょうどとばかりに、待ち合せしていた親友が手を振りながらやってくる。
「ちょっと、また旦那に浮気されたんだけど!」
開口一番の私の言葉に、親友はただ苦笑いをしていた。
「うわ。また? さき、バツ3確定じゃん」
ケラケラと笑いながら、親友は正面の席に座る。
笑いごとじゃないつーの。
もう、ホント最悪だわ。
バツ3って、何よ。
ここまで来ると、男運とかの問題じゃないでしょう。
「今回は運命の人だって思ったのになぁ」
「さきって毎回それ言ってる気がするわ」
「そーかなぁ。でも今回が一番最悪かも」
「なんで?」
「あいつ、家に女連れ込んでるの。信じられない」
あの家は独身時代から私が住んでいるマンション。
夫はそこに転がり込むような形でやってきた。
生活スタイルをまったく変えなくて良かったから、私としてはありがたかったけど。
でも、そこに他の女を連れ込むだなんて思ってもみなかった。
「さすが年下ヒモ旦那」
「専業主夫だってば。家事は全部やってくれるし、ご飯だってすごく美味しいのよ? めっちゃ手が込んだものだって作ってくれるし」
「へぇ」
「残業して疲れて帰ってきて、温かいご飯が待ってるとか最高じゃない?」
毎日バリバリ働くのは好きだけど、家事はあまり得意じゃない。
人並み以上には稼げているから、彼が主夫っていうのは、私にとってまさに理想だった。
「でもさぁ、その食事も浮気相手が作ってたりして」
「げっ」
まさかそこまで考えたことなかったけど、もしかしたらそういうこともあるってことよね。
想像しただけで、それはゾッとする。
「そういえば、前に味付けを聞いたら答えが曖昧だったのよね」
「あはははっ。さすがのさきも、浮気相手からのご飯なんて初めてじゃない?」
「笑いごとじゃないしー。もうホラーじゃない、それ」
「言えてる。今の旦那との出会いも、前の旦那の愚痴ってる時だったよね」
「そうだった。あの時、あいつがただの女好きだって気づいていたらなぁ」
私はふと、今の夫との出会いを思い出していた。
◇ ◇ ◇
「あー、もう! 飲まないとやってらんない!」
やや騒がしい居酒屋の中で、私は一気にジョッキのビールを飲み干した。
「まったく、荒れすぎだよ、さき」
顔がやや暑くなってきた私の向かい側で、親友は苦笑いを浮かべている。
「だって夫に逃げられたのよ⁉」
「えっと、確か売れない元ホストだっけ?」
「……そう。でも売れなくっても、私にとってはすごく良い人だったの」
私はやや視線を落としながら、ビールジョッキの下に出来た水滴をつつく。
そう。いい人で、大切な人だった。
「だから彼の借金だって全部返してあげたのに。それなのに……離婚届だけ置いて逃げるなんて……」
「おめでとう、バツ2。一人目ん時も、確か逃げちゃったんじゃなかったっけ」
「一人目は会社の金使い込んだヤツ。そのまま遺書残して樹海に消えてったわ」
「ビックリするほど、男運がないっていうか見る目がないっていうか」
「それ今言う? もー。ビール追加、お願いします‼」
やや呆れている親友を横目に、私は高く手を挙げて注文をした。
これが飲まずにやってられるかっての。
ホント、男運ないのかな。
あー、やってらんない。
「どうしたのお姉さん? 店中に声、響いてたよ」
ビールジョッキを片手に持った、年下でチャラそうな男の子が私の席までやってくる。
そこまで大きな声出してるつもりはなかったのに、そうでもなかったらしい。
だけど……。
「関係ないでしょ」
人の目を気にしていられるほど、今は人間出来てないのよ。
「えー。冷たいなぁ」
「……旦那に逃げられたの! これで満足⁉」
ここまで言えば、さすがに引いてくれるでしょ。
まったく、なんで赤の他人にまでこんな悲しいことを言わなきゃいけないのかしら。
「え⁉ こんな美人なお姉さんを置いて逃げたの? 信じられないね、そいつ。見る目なさすぎじゃない? 俺なら毎日一緒にいてくれるだけで幸せなのに」
「そりゃ、どうも」
なんか思ってたのと違う。
もっと憐れまれるかなって思ってたのに。
しかも男の子はずっと真っすぐに私だけを見ていた。
どこかくすぐったいのに、私も目が離せないでいる。
「嫌な過去は早く忘れないと、時間がもったいないよ」
「まぁね」
「だから新しい出会いに乾杯しよー。もしかしたらこれが運命かもしれないしさ」
運命……ね。
そうね、そう考えたら少しは楽かも。
「かんぱーい」
彼のペースに飲み込まれるように、気づけば一緒にお酒を飲んでいた。
◇ ◇ ◇
「今思えば、ただの手慣れたヤツじゃない!」
もー。ホント、失敗した。
あのペースに飲み込まれちゃった自分が情けないわ。
「でも甘えられると可愛かったんだもん。だから、つい」
「騙されちゃったってわけね」
「うー」
「ま、落ち着いたら憂さ晴らしに海外でも行こう」
「うん。ありがとう、絶対に行く」
親友が帰ったあと、もう一度私は先ほどの映像を確認する。
「あーあ、毎日傍にいるだけで幸せだって言ってくれてたのに」
全部嘘だった。
運命なんて最初からなかったんだ……。
海外旅行なんかじゃ、全然満たされそうにもない。
「そうよね。おしおきはしないとね」
到底許せるはずもない行為に、私は夫たちが計画している旅行に乗り込むことを決意した。