くみの場合 後編
子どもを抱っこしながら、重い荷物を持って一人ふらふら街中を歩く。
あの後、夫は朝になっても帰ることはなかった。
「平日なのに、人多すぎだよ。荷物も重いし」
やや涼しくなった街中には、人が溢れかえっていた。
私は子どものためにとっておいたなけなしのお金で、夕飯や彼のビールを買ったのだ。
本当は使いたくなかったけど。
でも今日もビールがなかったら、また怒られちゃう。
「はぁ」
出て来るのはため息だけ。
この先の見通しなんて、もう考える余裕も今の私にはなかった。
「ねぇ、今日休んだんでしょう? それなら駅前のホテル行こう? あそこ、ローストビーフが超美味しいらしくってさ」
私の耳に、甘い声が聞こえてくる。
どこかで聞いたことがあるような声。
でもそれよりも幸せそうな声と会話に、ただふんわりといいなぁと聞きいってしまう。
彼に何かをねだるだなんて、学生の頃ぐらいまでだっけ。
夫はそういうトコに行くのもすごく嫌いなタイプだったし。
いいなぁ。いくつになったって。あんな風に好きな人に甘えて、好きなところに行けたら……。
なんで私は、こんなにも惨めなんだろう。
「って、あれ? ナナミじゃない?」
どこかで聞いたことのある声は、大学時代からの親友だった。
出産など慌ただしくしていたために、会うのは久しぶり。
その横顔を見るまで、声だけでは全然気づかなかった。
「ホテルのレストラン? んなとこ高いからパス」
「えー。じゃあ、公園通りに出来た新しいカフェは? そこならいいでしょう?」
「しょーがねーな」
仲睦まじく彼氏の腕を引く、ナナミ。
だけど問題はそこではなかった。
嬉しそうなその彼氏は……私の夫だったのだから。
「は? 嘘でしょう?」
だってナナミは、私が彼と結婚したって知ってるよね。
同じ大学の仲間だし。だいたい、結婚式にだって来てくれた。
なのに、なんで?
ううん、そうじゃない。
「私が一円で悩んでいる時に、二人でカフェ? 何それ」
全身から力が抜けて行った。
持っていた荷物も、支えていた抱っこ紐への手も。
その全部から力が抜けていく。
落ちていった荷物も、号泣する我が子も、そのすべてが私を責め立てているように思えた。
「たった三万で頑張ってきた仕打ちがこれ? 浮気してたんだね……。そしてそんなもののために、私たちのお金を使っていた……。許さないから絶対に」
人だかりができ、泣き出す私に親切な人たちが駆け寄ってくる。
だけどもう、私の心を動かせる者などどこにもいなかった。
◇ ◇ ◇
鳴り響くスマホの着信音。
私はそれをしばらく眺めたあと、ゆっくりと受話器を取る。
『おい、何で電話に出ねーんだよ! どこで何してんだ!』
スマホの向こう側の夫は、この数日音信不通となった私に対し、かなり怒っているようだった。
自分のことは棚に上げて、この人は……。
私は辺りを眺めた。
ここは祖母の家。新しくはないものの、田舎特有のどこまでも広い部屋。
日の当たる温かな室内には、ゆったりとした時間が過ぎている。
そのせいか今までの私とは違い、受け答えにも余裕が出て来る。
「祖母の葬儀だったのよ、急だったから連絡出来なくて」
『はぁ? なんだよそれ。そんなのはいいから、いつ帰ってくんだよ』
こんな時でも夫は自分のことばかり。
分かってはいても、どこかでほんの少し期待していた自分をかき消してくれる。
「ごめんね。相続のことでいろいろあって」
『相続?』
「そう。田舎なんだけど、大地主でね。家とか土地とか。あとは現金とかもあって大変だったの」
土地と家があるのは本当。
だけど今時こんな田舎の土地に、いくらの値がつくのだろう。
まぁ、考えなしの夫になど、分からないでしょうけどね。
『そうか。そりゃ大変だったな。それなら迎えに行ってやるよ、困るだろう』
「本当? それならありがたいわ。荷物があるから困ってたの」
『ああ、すぐ行くから待っててくれ』
お金の話をした途端、こうも人が変わるものなのね。
でも……おかげで扱いやすくていいわ。
私は通話を切ると、一人微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「くみ!」
珍しく夫は息を切らしながら、祖母の家のある駅までやってきた。
ここまで自宅からは小一時間くらいだろうか。
祖母が生きていた時なんて、時間と金の無駄だって言って来なかったくせに。
どこまでも分かりやすい人だわ。
「おい、何で手ぶらなんだよ。荷物はどうした、荷物は!」
「それが散歩中に置き忘れてきちゃったみたいなの」
「はぁ? 何してんだよ、金だろ金!」
「大丈夫よ、こんな田舎。それに置き忘れた場所も人が来ないところだし」
「そんなこと言って、何かあったら困るから、とっとと取りに行くぞ。ほら案内しろ」
「……うん」
どこまでも金、金、金。
私の顔をまともに見ることも、抱っこ紐の中の子どもの様子を気にかけることもない。
夫は私は指さすままに、ずんずんと田舎の山道を進んで行った。
「ったく、なんでこんな森の中に忘れてきたんだよ。もうすぐなんだろうな」
「もう少しよ。少ししたら、小さな池が見えてくるから、そこなの」
駅からたった15分ほど。
それでも夫の文句は止まらない。
どれだけ文句を言ったところで歩くしかないと言い聞かせていると、あと少しのところで聞きなれた声が聞こえてきた。
「え、なんで⁉」
夫はぎょっとしたような顔をしながら、声の方へ振り返る。
「おまえ、なんで」
「くみ、どういうこと⁉」
まさか池の前で、浮気相手に会うなんて思ってもみなかったのだろう。
二人とも目を丸くしながら、大きな声を上げているあたりが、本当に滑稽だわ。
状況から考えたって、私が呼び出した以外にないでしょうに。
「ナナミ、おまえこそ、なんでこんなとこにいるんだよ」
「くみに親族と遺産相続でもめてるから助けて欲しいって呼ばれたの。すごい金額だったからって」
「だからって、なんでここなんだよ」
「何とか相続は出来たけど、一人で現金を持って帰るのも怖いし。しかも置き忘れちゃってって」
「まさかお前、オレたちの関係を知ってて……」
真っ青な顔で、夫たちは私を見た。
むしろ今まで気づかなかった方がどうかしてると思うわ。
それにこんな手近で浮気しておいて、どうして私に気づかれないなんて思ったのかしら。
「騙しやがったな! どうせ金のことも嘘なんだろ! こんなやつとはもう離婚だ‼」
自分のしてきたことを棚に上げて、ホントよく言うわ。
まぁ、私もあなたに未練なんてないんだけど。
「嘘じゃないわよ? 相続したお金なら、ココにあるもの」
木陰に隠しておいたボストンバックを開け、中を二人に見せる。
お金を見せた途端、二人の目の色が変わった。
「離婚なら離婚でもいいわ。だけど……私、一人で生きていく勇気がないの。夫も親友も一度に全部失うなんて考えられない。どちらか一人でいいから、私の傍にいて欲しい」
二人はお互いを横目で見たあと、ゴクリと喉を鳴らした。
「バカ! 離婚なんて本気なワケないだろ。これからもずっとオレが傍にいてやるよ」
「わたしよ。わたしが一緒にいてあげる。こんな浮気男の言葉なんて信じちゃダメよ! またどうせ浮気を繰り返すだけなんだから」
「ふざけんな。先に誘惑してきたのはお前だろ。くみ、騙されるなよ。こいつはお前のこと親友だなんて思っちゃいねーからな」
「はぁ⁉ それはそっちでしょう? くみがいるのに何度も何度も誘ってきたくせに。サイテー」
目の前のお金に目がくらみ、二人はどこまでもののしり合う。
「よく言うぜ。くみが持ってるものをなんでも欲しがる最低女のくせに」
「最低なのはあんたでしょう!」
お金を前にしたら、本当に醜いこと。ああ、こんなものだったのね。
私が大切にしたかったモノたちは。
見ている分には楽しいけど、そろそろ頃合いかしらね。
「私にはどちらかなんて選べないから、コレを取ってきてくれた方の人にするね」
私はボストンバックを見えるように高く持ち上げたあと、目の前にある池に放り投げた。
弧を描きながら、池の中にバックが落ちる。
「ああ、あの金は俺のだ! オレはくみの夫なんだからな」
「はぁ? 遺産は離婚したら財産分与されないんだからね。バーカ」
我先にと、押しのけるように二人が池の中に入っていく。
「うるせえ! 部外者のくせに口出すなよ。離婚なんかしねーよ」
「浮気男なんかに選ぶ権利ないんだってば。わたしが先にバックに触ったんだから、離しなさいよ」
「掴むな。沈むだろ」
池の中心は二人の足が届くほど、浅くもない。
暴れながらバックを掴み取ろうと騒ぐ二人の声に、抱っこ紐の中の子どもが声を出して笑った。
「ふふふ、おかしいね、本当に。あのバックの中、三万しか入ってないのにね」
そう、お金は一番上の三万だけ。
私に夫が毎月渡してきた金額だけなのだ。
「なにこれ、新聞紙……」
「ダメだ、上がれない!」
私はため池にかけられた注意書きを見ながら、一人微笑む。
三万の使い方を私に永遠に説教したのだもの。
そんなはした金くらいあげるわ。
命の値段にしてはとっても安いものね。
どこまでも幸せな気分のまま、ただ沈みゆく二人を眺めていた。