くみの場合 前編
「はぁ、どうしよう。何度計算したって、赤字は赤字だよね」
テーブルに並べたレシートを家計簿に書き出し、電卓をはじく。
今日でこの作業は何度目だろうか。夫の給与まで、あと三日。
しかし手元に残っているお金は小銭だけだ。
毎月毎月、こんなことを何度繰り返すのだろう。
何度書き出したって、何度計算したって、お金が湧いてくるわけでもないのに。
夫から渡されるお金は月三万円。
この中から食費、日用品、病院費、携帯代といったものを全て賄う。
これだけでもギリギリなのに、さらにオムツ代や夫のビール代、さらには夫の気分での外食。
どう頑張ったって、足りるわけがない。
子どもにだってオモチャの一つも買ってあげられなければ、私自身も水しか飲めない日もある。
「家族三人で三万円だなんて、足りるわけがないよ」
畳の上に置かれた子ども布団の上で一人遊びをする子どもを見た。
この先のことだってある。
たとえオムツ代分はなくなったとしても……。
「どうにかしなきゃだけど、その前に今は夕飯の支度しないと」
時計を見れば、そろそろ夫が帰宅する時刻。
だけど今日はアレがない。
それに夕飯に丼もの出すと怒るんだよなぁ。
こんなのつまみにもならなきゃ、夕飯じゃないって。
そんなことを考えている間に、玄関は開く。
夫は鼻歌を歌いながら、どこまでもニコニコしていた。
何かいいことでもあったのかな。
今日は機嫌が良さそう。
これなら怒られなくて済むかも。
「ただいまー、くみ」
「おかえりなさい、あなた」
「あー疲れた。ビールくれ、ビール」
脱いだ背広を私に渡しながら、夫はテーブルに向かって真っすぐ歩き出す。
私は息を飲み込むと、夫の顔色を窺いながら答えた。
「あ、あのね」
「ん?」
「今日、ビールないの」
「はぁ?」
夫の声のトーンが一瞬で変わった。
「ごめんね」
「ごめんじゃなくて、なんで買ってないんだよ。帰ったらすぐ飲むって分かってんだろ」
「分かってるよ。分かってるけど、月末でその……お金がなくて」
私はそう言いながら、夫から目線を逸らす。
夫の顔を見なくても、今彼がどんな顔をしているか分かっているから。
「は? なんで?」
「ほら、今月の初めに外食したでしょう? あなたが食べたい店があるって」
「だから?」
「だからそこで結構お金使っちゃって、足りなくなっちゃったの」
ドンと大きな壁を叩く音。
見上げれば、真っ赤な顔をした夫が私のすぐ真横の壁を拳で叩いていた。
「なんで外食一回行ったくらいで足りなくなるんだよ。お前、どういう計算してんだよ」
「どういうって。ちゃんとやってるよ?」
「どこがちゃんとやってるんだよ。オレが分からないと思って馬鹿にしてるんだろ」
「そんなことない! だって三万だよ、生活費。食事以外にビールやスマホ代やオムツ代だってかかるんだよ?」
「だからなに」
だから何って。
なんでそんな言い方するの?
ただ食べるだけのお金じゃないんだよ。
全部のお金を三万で賄ってるんだもん。
足りるわけないじゃない。
「お前さ、オレが頑張って働いてきてるのに、唯一の楽しみにまで文句言うわけだ」
「そうじゃない。そうじゃなくって」
「じゃあ、オレの稼ぎが少ないって言いたいんだろ!」
「そうじゃないよ、でも限界なの。せめてあと一万だけでももらえたら……」
「お前が無駄遣いするから足りなくなるんだろ」
無駄遣い? 今、無駄遣いって言った?
今の説明のどこに、無駄遣いなんてあったって言うの。
そんなのどこにもないじゃない。
「つーかお前さ、努力もしないで人から金せびろうなんて何様なんだよ。ふざけんな」
「私だって努力してるよ? 一円だって安い店があれば歩いて行くし、化粧も美容院だって辞めたんだよ」
「はぁ? そんなの当たり前だろ。一日中家にいるやつなんかに、そんなもん必要ないじゃねーか」
「そんな……」
「そんなのなんにも努力なんかじゃねーし」
お金がないから、自分で髪を切って。
おもちゃがないから、あるもので子どもを遊ばせて。
毎日チラシを見て、特価品だけ歩いて買いに行って。
それでもお金がなくて水しか飲めなくて、電気だってこの人が帰ってくるまでは付けることも出来なくて。
寒い日は厚着だけして、暖房だって付けないで我慢もしてきたのに。
こんなにも、こんなにも、苦しくたって頑張ってるのに。
それは当たり前のことで、努力でもなんでもないんだ。
私は泣き出しそうになるのをただグッと堪える。
「オレは外で働いてきて、その何十倍も努力してるんだぞ。それなのに疲れて帰ってきてこれかよ」
「それなら私も外で働いて」
「子どもがいるのに無理に決まってんだろ。あー、マジでイライラする」
言い返せない私の顔を見ながら夫はそう吐き捨てると、私が手に持っていた背広を力任せに取り返してくる。
私がその勢いでよろけても、夫は気にすることなく背広を羽織った。
「どこ行くの?」
「お前のしけた顔を見てるとイライラする。今日は泊まって来るからな。お前は飯も食わずに反省しとけ!」
「そんな」
「ちゃんと頭使えっつーの、バカが」
落ちていたかばんを拾うと、夫は振り返りことなく出て行ってしまった。
バタンと大きな音を立てて締まる玄関。
もう十分頑張ってるのに。まだ足りないんだ。
音に驚いたのか、奥から子どもが泣く声が聞こえてくる。
急いで駆け寄り抱きかかえると、涙が溢れてきた。
「ごめんね、こんなママで。こんなダメなママでごめんね……」
これ以上どう頑張ったらいいの。もう、分からないよ。
ぼろぼろと零れ落ちる涙は、止めることが出来なかった。