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あいの場合 前編

「あいー、今日仕事終わったら飲みに行かない?」

「そそ。送別会もかねてさ」


 そう言いながら、研究室の仲間がデスクを片づける私の元へやって来る。

 勤続六年。

 私はこの仕事が天職(てんしょく)であり、何よりも好きだった。


 だけど……。


「ほら、もうすぐ退職しちゃうし。せめて最後の~って思ってさ」

「みんなあいには凄くお世話になったから、お礼も言いたいしって言ってるの」

「あ……うん」


 最後か。

 憧れていた研究員になって、やっと自分の居場所を見つけたと思ってた。

 本当は最後になんてしたくなかったのにな。


「結婚しても、仕事辞めないと思ってたよ」

「ホントだよー。でも、やっぱり大変だったんだね。兼業主婦さんって」

「旦那さん、大手勤務だもんねー」

「うん。そう」


 私はどう返していいのかも分からず、相槌(あいずち)を打つ。

 

「なんたってあいの旦那さんの本社は海外だし。出張も多いんでしょう?」

「すごーい。軽くは聞いてたけど、超エリートじゃん。そりゃあ、さすがのあいも惚れこむわけだ」

「いや実はココだけの話、旦那さんがあいにベタ惚れなのよ」

「えー! そうなの?」


 ニマニマ笑いながら二人は私からの答えを待っている。

 どうしてのろけ話になったんだっけ?

 さっきまで違う話をしていたはずなのに。


 もぅ。


「ベタ惚れってほどじゃないわよ」

「でも旦那さんにあいを紹介した友だちが言ってたよ。なんとしても落とすんだーって息巻いてたって」

「ほぅほぅ。これは一度キチンと本人様から話を聞かねばなるまいな」


 どこの時代劇な人よ。

 私は苦笑いをしながらも、どこか憎めない二人を見た。


 いい仲間を持ったなって思う。

 研究は孤独な作業ではあるけど、仲間がいたからどこまでも打ち込むことが出来たのだから。


「ごめんね、行けないんだ」

「えええ。なんで⁉」

「門限があってさ」

「なになになになに。旦那さん、そんなに厳しいの?」

「まぁ、あいは美人さんだし。心配になる気持ちは分かるわー」


 そんな理由だったら、まだ良かったんだけどな。

 現実はそんなに優しくはない。


「彼の……お義母さんから連絡が来るのよ。いつもの時間にちゃんと家にいるかどうかって。確認したいみたいで」

「は⁉ なにそれ」

「超過保護系?」

「ん-、それならまだ良かったんだけどね」


 ため息をつきながら、私は毎日の光景を思い浮かべる。



   ◇   ◇   ◇



 夕方、毎日同じ時間に必ずその電話はかかって来る。

 正直、私はこの電話が好きではない。

 だってそれはどこまでも生産性のない、意味のないものでしかないから。


「あいさん、出るのが遅いわよ」

「すみません、夕飯の用意をしていたもので」

「夕飯? ちゃんと和食にしたんでしょうね」

「お義母様に教えていただいた、肉じゃがとみそ汁、それにだし巻き卵を作ってあります」

「ちゃんと味付けできているの?」

「はい。きちんとお義母様にいただいたメモ通りに作りました」

「今度また家の中も確認しにいきますからね。まったくあなたはすぐ手抜きをしようとするんだから」

「……すみません。気を付けます」


 わざわざこんな忙しい時間に義母が私に電話をかけてくる理由は一つだけ。

 私がちゃんと夕飯を作っているのかよりも、私がちゃんと家にいるのか。

 ある意味そんなどうでも良いようなことが、気になるらしい。


 仕事で忙しい夫に代わり、嫁を監視しているのだ。

 浮気していないかどうか。

 遊び歩いていないかどうか。


 だから私はずっと、家に縛り付けられている。

 たまの外出を楽しもうと思っても、学生よりも厳しい門限があるから。



     ◇     ◇     ◇


「仕事辞めるのも、もしかしてそのせい?」

「うん……最初は許してくれてたんだけどね。子どもが出来ないのも仕事のせいじゃないかって言われちゃって」

「えー酷い! そんなことにまで口出すの?」

「つーか旦那は? 旦那は何してるのよ。そんな言われっぱなしで」

「嫁が出来てテンション上がってるだけだから、テキトーに合わせてやってくれって」


 本心からそれ言ってるのって思うことはある。

 だけど、それでも夫を愛してるから我慢するしかなかった。


「はぁ⁉ あいにそんな仕打ちするなんて絶対に許せないんだけど」

「こんなに仕事も出来て完璧な子なんて、どこにもいないんだからね」

「友だち通してクレーム言ってやる!」


 どこまでも自分のために本気で怒ってくれている二人を見ていたら、涙が溢れそうになる。

 分かってくれる人にだけ、分かってもらえたらいい。


 そうだよね。

 義母とは一生分かり合えなくたって、大切な人たちはすぐそばにいるから。


「ごめんね? 送別会せっかく誘ってくれたのに」

「うーーー」

「ありがとう。その気持ちだけで十分嬉しかったよ」

「もー。あんまり抱え込んじゃダメだよ?」

「そーそー。憂さ晴らしに動画見よ」

「なにそれ」

「今度この研究室にもサンプル来たらしいよ。殺人アメーバ」

「好きでしょ、あい」

「人のコトなんだと思ってるのよ」


 そう言いながらも流れてくる動画を、私は三人で笑いながら見ていた。



     ◇   ◇   ◇



「今日は楽しかったなぁ」


 誰もいないがらんとした家の中。

 本来ならばホッと一息つける空間ですら、私はため息がこぼれた。


 あんなに楽しかったのに、もう数回ほどしかあの場所にはいられない。

 私、本当にやっていけるのかな。


 専業主婦って言ったって、出張の多いあの人がいないこの家で、ただ待つだけの生活なんて。


「やっぱり辞めたくない」


 下を向けば、ため息と後悔ばかりがこぼれ落ちていく。


 しかしその時間すら邪魔するように、またスマホが大きな音を立てて震え出した。


「あいさん? 今帰って来たの?」

「はい。家にいます」

「あなた一人だからって、贅沢しているんじゃないでしょうね」

「いえ、そんなことは」

「これからはうちの息子に食べさせてもらう立場になるんだから、普段からわきまえておかないとダメよ」

「……はい」


 言いたいことだけ一方的に言い放ち、通話は終了する。

 そういつものパターン。


 だけど……好きで食べさせてもらう立場になるわけじゃないのに。

 わきまえるって、何?

 それなら好きな仕事を続けさせてくれてもいいじゃない。


 こんな毎日がずっと続くの? 永遠に? このほぼ一人の家で?


「……早く帰ってきてよ」


 私はただ現実から目を背けるように、目を閉じた。



   ◇   ◇   ◇



 翌日、思い体を引きずるように出社していると、ふと近くを歩く若いサラリーマンたちの会話が耳につく。


「いやー、出張がないだけで、ホントかなり楽だよ」

「やっぱ、あのウイルスの影響?」

「そうそう」

「でもおまえんとこの会社って、本社海外じゃなかったっけ」

「そうだけど、さすがにないよ。時期が時期だぜ」

「えー、マジ?」


 本社が海外でも、出張なしか。

 あの人の会社とは大違いね。

 前に危ないんじゃないのって聞いたけど、会社の方針だから仕方ないんだよって苦笑いしていたし。


 もし一緒にいられる時間がもっとあったら、お義母さんのことだってちゃんと考えてくれるかもしれないのに。


「Cメディカルですらないのかぁ」

「ああ、渡航禁止だってさ」


 今、Cメディカルって言ったわよね。

 嘘でしょう?

 だってCメディカルって……あの人と同じ会社じゃない。


 でも確かにそう聞こえた。

 聞き間違いなんかじゃない。

 でもあの人は、確かに本社に顔を出さなきゃいけないから出張になるって。


 嘘だよね。だっていつもちゃんとお土産だって買ってきてくれているし。


 私は動揺を抑え、スマホで夫の会社を検索する。

 しかしそこには確かに書かれていた。


 当面の間、海外渡航を禁止するとともに、リモートワークを徹底すると。


 でも夫は家にいない。

 もちろん家でリモートワークなんて、したこともない。

 

 じゃあ、あの人はどこにいるっていうの?

 まさか……全部嘘だったの?


 ガラガラと足元から何かが壊れていく気がした。

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