ひなの場合 後編
「あの……それっておかしくないですか?」
「はぁ? 何が?」
私は拳をつくったあと、まっすぐに彼女を見た。
反論したせいか、彼女は不機嫌さを隠そうとはしない。
「だって私、離婚しようだなんて一言も言われたことないですし。もしあなたが言ってることが本当だとしたら、もうとっくに離婚を切り出されててもいいはずですよね?」
「はぁ?」
「あなたこそ離婚するからって、遊ばれているだけなんじゃないんですか?」
「馬鹿にしないでよ!」
「いつも離婚するするって、いいように扱われているだけなんじゃないですか?」
「愛されていないアタシとあんたじゃ、話が違うのよ!」
私は彼女との距離を、ぐんと詰める。
すると今度は彼女の方が、後ずさりした。
「あの人が煮え切らないから、こんなとこまで押し掛けてきたんじゃないんですか?」
「……」
「自分だって、あの人にいいようにされてるって本当は気づいてるんじゃなくて?」
「そんなことないから!」
「ベッドで愛してるって囁かれた言葉を信じるなんて、随分純粋なんですね。ううん、あなたたちの言葉で言う、バカと言った方が分かりやすいですか?」
一度感情が堰を切ると、言葉がどんどんとあふれ出していくのが分かった。
元々、結婚する前だってグズでどんくさくても、おとなしい性格ではなかった。
家族に結婚を反対されたって、押し切るような感じで結婚までしたくらいだもの。
それなのにいつの間にか、あの人に罵られるのが当たり前になるうちに、自分というものが分からなくなっていってしまってた。
だけど魚が逃げ出そうとした瞬間、私にも出来るって思えたのだ。
「偉そうにしていられるのも今のうちよ! あんたみたいなバカ女、あの人に言ってすぐに出て行かせてやるんだから」
逆切れした浮気相手は地団駄を踏み、家から逃げるように飛び出していった。
でもそうね。
どちらにしても、もう出て行かなくちゃ。
こんな苦しくて狭い世界から……。
「だけどその前に……」
どうしてもやることがある。
だから私はその日のうちに、すぐ行動を起こすことにした。
◇ ◇ ◇
夫は帰宅するなり、一人ワインを飲み始めた。
あらかじめ用意していたそれはアルコールのきつめのもの。
元々さほど酒に強くない夫は、すぐにウトウトし始める。
「疲れているの? ずいぶん眠そうね」
「ああ。なんか今日はやけにワインが効くな」
「最近出張や夜勤なんかも多かったから、疲れがたまってるのよ」
「そうかも……しれないな」
夫はそのままテーブルに突っ伏すように、倒れ込んだ。
私の計画など何も知らないままで。
私は彼をそのままガムテープで椅子にグルグルと縛り付けた。
そして彼のズボンもパンツも投げ捨てる。
しばらくそのまま様子を観察していると、彼は目を覚ました。
「ん? 寝てしまって……いたのか?」
しかし彼はすぐにその違和感に気づいたようだった。
まぁ、手も足も全部椅子と一体になっているのだから、気づかない方がおかしいのだけれど。
「⁉ なんだ、これは!」
ガタガタと椅子を揺らし立ち上がろうとするも、不安定な格好ではそれすら出来ない。
その姿がなんとも滑稽で、思わず笑みがこぼれた。
「目、覚めたのね」
「なんだこれは、ひな!」
「睡眠剤が効いていてくれたおかげで、ゆっくり用意が出来ちゃった」
「一体、何のつもりだ」
こんな状況になっても、夫の威圧的な態度は変わりはしない。
「今日、あなたとお付き合いしてるっていう綺麗な女性がココへ来たわ」
「あいつ」
「まったく……よく、あんな頭の悪そうな女に手を付けたものね。エントランスで堂々と浮気宣言していたわよ」
浮気がバレたら、向こうの方がダメージだって大きいだろうに。
私が言い返しも、慰謝料の請求も何もかもしないって思っていたのかしら。
「お前ごときが俺を脅すっていうのか? 社会になんて出たこともないくせに」
「まだ状況が分かっていないようね。……それに、浮気はダメっていう法律すら知らないくせに、何を言ってるのかしら」
どこまでもどこまでも人のことを馬鹿にして、見下して。
私が何もやり返さないと思ったら、大間違いなのよ。
「でもまぁ、あなたの脳みそは頭じゃなくて下半身にあるみたいだし? 仕方ないか」
怒鳴り散らそうとする夫の口を私がガムテープで止めた。
もうこれで夫の罵倒も聞かなくて済む。
もっと早くにこうしていれば良かったんだわ。
そう。とっとと、嫌なことしか言わない口など塞いでしまえば良かった。
「苦しい? 私はずっと苦しかったわ。あなたに散々罵られて。でもあなたがこんな分別もつかない人間だなんて思わなかった」
ゆっくりと歩き出す私から逃れようと、夫はガタガタと椅子を揺らす。
ああ、転んでしまったら大変ね。
上手く出来なくなっちゃうもの。
私はテーブルに置かれた、大きな大きなブレンダーを手に持つ。
「あなたこそ、魚以下なんじゃない?」
ブレンダーに電源をいれ、ゆっくりと夫に近づけた。
それを見た瞬間、あれほど強気だった夫は泣きながら首を横に振る。
きっと夫はこんな気持ちだったのね。
圧倒的な優越感。
今やっと立場が逆転したんだわ。
そう思うと、ゾクゾクしたものが背中を駆け抜けていく。
「魚以下の人間は、もう魚の餌でいいんじゃないかな」
薄暗い部屋、ただ優雅に泳ぐ水槽の魚たち。
その奥でブレンダーが大きな音を立てる。
私はそれを夫の下半身に突き立てると、室内には肉が刻まれる音だけが響き渡った。
どこまでも鉄臭い血の匂いが充満する室内。
動かなくなった夫を横目に見ながら、私は夫だったモノを魚の餌として水槽に落とし入れる。
「おいしい? さぁ、そろそろココから一緒に出ようね」
ふふふ、と気づけば声に出して私は笑っていた。
こんな風に笑ったのも、数年ぶりかしら。
全てから解放された私は、どこまでも幸せだった。