ひなの場合 前編
ややほの暗い部屋の中で、色とりどりの熱帯魚たちが優雅に泳ぐ。
光り輝くとても大きな、綺麗な水槽。
だけど私はそんな水槽の前で夫から正座するように言いつけられている。
「おい! 人の話をちゃんと聞いているのか‼ またこんな無駄なことしやがって」
夫は帰宅早々、永遠にこうやって怒鳴り散らしている。
どれくらいの時間がすでに経っただろう。
しびれた足は、すでに感覚などない。
夫の怒った顔すらまともに見上げることが出来ず、ただ膝の上に作った拳を私は見つめていた。
「誰がこんなものを買ってこいって言った? お前はまともに買い物も出来ないのか⁉」
夫は先ほどチェックした冷蔵庫の中から、野菜を一つ床に投げつけた。
特価、採れたて新鮮と書かれた青物野菜。
今日はどうやらこれが気に喰わなかったらしい。
「特価だったの……安くて新鮮だって、他の人も買っていたし」
「他のヤツがいいと言ったら、それはなんでもいいものなのか? どうやってそれを説明する?」
「それは……そうだけど、でも私はただあなたに旬のものを食べて欲しくって」
「まったくお前はどれだけ馬鹿なんだ。旬だ旬だって言うけどなぁ、これが本当にこの時期にとれた旬のモノだってどうして証明できる? 栽培してるとこでも見たのか?」
「それは……スーパーのポップに、とれたて産地直送って」
私の言葉に夫は、私を見下したまま鼻で笑った。
「お前、本当に馬鹿だよな。今どき産地偽装だってどれだけあると思うんだ。どっかの倉庫にしまっておいたやつを出してきたとも限らないだろ」
たかが特価品一つ買っただけ。
でもそうじゃない。
夫……この人はどんなことだって、ただ私をなじりたいだけ。
彼は高学歴だ。
私が高校の時に家庭教師をしてくれていた人。
グズでどんくさい私のことを、ずっとそばで見てきてくれた。
大学受験に失敗した時、彼からのプロポーズを受けた。
流されたわけじゃないけど、年上で包容力もあって、家のことだけしいてくれればいいという彼の言葉に甘えたのも事実。
だけど、こんな関係を望んでいたわけじゃないのに……。
「人に流されてばっかりで、自分で何ひとつ判断も出来ないのか?」
結婚してから彼の言動は酷くなる一方だった。
まるで私を支配するように。
「だから外に出て働いていないやつはダメなんだ! 本当に使えないな」
「それなら……私も外で……」
「それこそ、馬鹿じゃないのか⁉ お前みたいな使えないヤツを、雇うとこなんてどこにあるんだよ」
「……」
言い返せない自分が悔しかった。
彼の言う通り、私は世間なんて知らない、
一度だってマトモに働いたこともないし。
「お前は水槽の中で飼われているこの魚たちと同じだ。いや、バカなことをしでかす分、それ以下かもな」
どれだけ私が泣きそうになっても、夫はただ自分が満足するまで私を罵倒し続けた。
ようやく解放された私は、ただ水槽を眺める。
「苦しいよ」
私とこの子たちは同じ。
どれだけ苦しいと思ったって、この中から逃げ出すことも出来ない。
昔をどれだけ懐かしんでも、どうにもならないと分かっていても、いつも幸せだった頃を思い出さずにはいられなかった。
いつかはまた昔のような関係に戻れるかもしれない。
そう思わなければ、辛くて生きてなどいけなかったから。
◇ ◇ ◇
「今日は怒られたくないな」
いつの頃からか、ただ彼の機嫌の良さを祈るようになっていた。
念入りに掃除機をかけながら、彼が帰ってくる時のことをただ想像している。
「はぁ」
ため息をついた時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
モニターフォンを確認すると、そこには見知らぬ女性が立っている。
こんな時間に誰かしら。
バッチリと化粧をし、髪の長い綺麗な女性だった。
歳は私と同じか、それよりも少し上くらいだろう。
「どちら様ですか?」
「ああ、奥さんでいらっしゃいます? アタシ、お宅の旦那さんとお付き合いさせていただいてる者ですけど」
「は?」
一瞬、彼女が何を言っているのか理解が出来なかった。
夫と付き合っている? それって……浮気相手ってことよね。
あの人が浮気?
でもそれよりも、なんで浮気相手がここに来たの?
「あの……何言ってるんですか?」
「まずは中に入れてくれません? こんなとこで話してても仕方ないですし」
「いや、でも」
「顔を合わせた方が話しやすいでしょう?」
「……分かりました。今開けます」
どこか怒ったような高圧的な彼女の口調に、私は従ってしまう。
「ふーん。いいんだ」
そんな勝気な言葉と笑みを見ても、私にはどうすることも出来なかった。
玄関の鍵を開けると、その女はすぐに部屋に入ってきた。
そして私を値踏みするように、上から下まで観察している。
「あの、話って」
「専業主婦でしたっけ。世間知らずの子どもみたいで、あの人の言ってた通りの人ね」
あの人は浮気相手にまで、私のことをそんな風に言っていたんだ。
確かにこの人は私とは真逆みたいな人。
どこまでも自信に満ちていて、まっすぐに私を見ている。
この人は浮気相手で私は妻なのに……。
「ご用件は」
「さっき言ったことで分かりませんか? 本当に頭悪いんですね」
「は?」
「奥さんでも分かるように言ってあげる。早く彼と離婚して下さい」
そう言いながら、その女はただ笑っていた。
「彼の妻として恥ずかしくないのかしら。こんなにバカで見た目もダサくて。おまけにこんな簡単に浮気相手を家にあげちゃうなんて。頭悪すぎて、ホント笑えちゃう」
「……」
言い返すことが出来なかった。
どれも本当のことだから。
でも私にはどうすればいいかなんて分からなかったんだもの。
「何も言い返せないのね。こんな子があの人の奥さんだなんて。ああ可哀そう」
彼女の顔が、夫の顔とかぶる。
そこにいないはずの夫が、私を罵倒しているようだった。
使えない
役に立たない
どこまでも馬鹿でグズで
こんな女を飼ってやっている自分に感謝しろ
夫はいつもこんな言葉で締めくくっていたから。
どうして私ばかり。
どうして……こんなにバカにされて生きていかなきゃいけないの。
その時、女の後ろにある水槽で魚がひと際大きく跳ねた。
まるで水槽から逃げ出そうとするかのように。
それを見た瞬間、私の中で何かが振り切れた気がした。