はるの場合 後編
夫とは職場で出会った。
彼は看護師として働いていたうちの病院に出入りしていた製薬会社の社員。
人当たりも良く、同僚たちからの人気も高かった。
そんな彼を猛アピールの末に捕まえ、付き合うようになってからは彼のためにただ努力してきた。
私だけを見ていてほしくて。
嫌味を言われたって、家事に協力的じゃなくたって。
彼と幸せでいるためだからって、全部我慢してきた。
惚れた方の負けだなんてよく聞くけど、まさにそう。
「ずっと私だけのものでいて欲しかったのに。なのに、あんなオバサンと……」
何も映さぬモニターの壁に私は爪を突き立てる。
「ずっと尽くしてきたのに。なんで? なんで裏切るの? あなたは私だけのもの。あんなオバサンになんて、絶対に渡さないんだから」
壁に食い込む爪からは、血がにじみ出していた。
◇ ◇ ◇
「ただいまー」
あれから数日。
私は今日の計画のため、浮気になど気づかないふりをしてきた。
内心、玲子さんに復讐を望んだこともある。
だけどそれでは、私が望むモノは手に入らないと分かったから。
「おかえりなさい、あなた」
私は小走りに玄関まで行くと、夫の鞄を持った。
「はる……、なんだよ、その恰好。それに料理まで」
夫はいつもと雰囲気の違う私にすぐ気づいてくれた。
やや胸のあいたワンピースに、ばっりちと施した化粧、午前中に美容院へも行ってきた。
「なにって、今日は結婚記念日じゃない」
夫は落ち着きなく、辺りを見渡している。
覚えてなどいないとは思ったけど、夫は私の言葉にすんなり納得している。
そしていつもと違う雰囲気のせいか、スキンシップも拒むことはない。
「ゆうちゃんは実家に預けてきたの。今日は二人きりで楽しみましょう?」
「あ、ああ」
促されるまま、夫はダイニングの椅子に座る。
今日のためにここ数日、下ごしらえから頑張った料理たちが並んでいる。
「いつも外で頑張って働いてきてくれるあなたのために、いろいろ用意したのよ?」
「ワインもあるじゃんか」
「ええ。あなたが前飲みたがっていたヤツ、友だちに頼んで手に入れたの」
私は夫にワインを掲げてみせた。
前から夫が飲みたがっていたのは知っていたが、いい値段だったのでスルーしていたもの。
だけど今日はお祝いだもの。
わざわざ取り寄せておいたのだ。
「それ! ずっと飲みたかったヤツじゃん。高かっただろ」
「いいのいいの。お祝いだし。たまにはね」
最近見せたことのないくらいの笑顔を、夫は私に見せてくれた。
ワインを飲めば飲むほど、夫は機嫌よく饒舌になっていく。
「お前がここまで気が利くとは思ってなかったよ」
「本当? 嬉しい。だって私、あなたのことを愛しているんだもの」
「そうか? 俺のどこが一番いい?」
「ん-。優しくて、頼もしいとこかな」
「そんなにいい男か?」
「もちろん。だからね。私反省したの。お隣の玲子みたいに、ちゃんとしなきゃって。じゃないと、盗られちゃったら困るし」
機嫌よく飲んでいた夫が、一瞬焦ったような顔をした。
私はそれを見逃すことはない。
「俺が浮気なんてするわけないだろ。こんなに愛妻家なのに」
「でもさ、迫られたら断れないかもしれないじゃん」
「あー。まぁ、モテるからな」
夫は品のない声で笑った。
二人の関係はきっと……。だけど、それでも私がこの人を愛していることには何も変わりはない。
「飲みすぎじゃない? そろそろ寝ないと」
「ん、あ? そうか。ベッド行くか~」
やや千鳥足になった夫の手を引きながら、私たちは寝室へ向かった。
私はそんな夫をベッドに押し倒し、馬乗りになる。
「ねぇ、今日はいいでしょう?」
「今日はずいぶん積極的だな」
「だって二人目も欲しいし」
「二人目?」
「うん。今度こそあなたにそっくりな子が……」
私の口から洩れる嬌声に夫はただ機嫌よく腰を振る。
「ねぇ、それより似てたでしょう?」
「ん? なにが?」
「手の込んだ料理にお酒。胸元が開いた服に甘い香水。みーんなお隣さんと一緒だったでしょう?」
「え」
「あなたが見習えって言うから頑張ったのよ。だけどね。あなたは私のもの。誰にも渡さない」
私は夫に馬乗りになったまま、隠しておいた鎌を取り出す。
真っ青になり、声も出せない夫の顔のすぐ真横に、それを突き立てた。
「うわぁ」
夫は振り下ろされた鎌を見るために、真横を向く。
「ビビらすなよ!」
くっきりと見える、首の頸動脈。
私はもう一つ隠していた注射器を取り出すと、その頸動脈に針を刺した。
「あなたにそっくりな男の子がいいなぁ」
ただ痙攣する彼を、私はそのままずっと見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
季節が春から初夏に変わる頃、私は目立ち始めたお腹を摩りながら公園で遊ぶ子どもに声をかけた。
「ゆうちゃん、そろそろ帰るよ」
夫の病院の面会が終わり、日がゆっくりと沈みだす。
そろそろ帰って夕飯の支度をしないとね。
「もうすぐゆうちゃんに、弟が出来るのよ。楽しみだね」
そう言いながら、病院を背にして私は子どもと手を繋ぎ歩き出す。
ふいに振り返ると、車イスに乗った夫の姿が見えた。
ねぇあなた知ってた?
カマキリのメスって、交尾の最中にオスの首をもいでしまったりするのよ。
子孫を残すための『愛』の自己犠牲よね。これって。
「いつまでも愛してるわ」
風に乗った私の言葉は、自分すら分からなくなった彼に届くことはないだろう。
それでも私は十分に満足だった。