はるの場合 前編
「うーわ、きったねーな。帰ってきてこれかよ」
夫は帰って来るくるなり、すぐ嫌そうに声を上げた。
私はその言葉に、そそくさと部屋の片づけを始める。
「今日一日なにやってたわけ? ずっと家にいたのに」
「ごめんね、今日ずっとゆうちゃんがぐずってたもんだから」
夫は散らかった家の中を指さしながら、不機嫌さを隠そうともしない。
私だって、この部屋はちゃんとしているなんて思ってはいない。
だけど……。
「昨日は夜泣きも酷かったし、私も寝不足で」
やっと一人で座れるようになったばかりの子どもの育児と、家の家事全てをワンオペでこなすことが、どれだけ大変なことなのか。
夫は少しも理解してくれようとはしない。
「そんなこと言ったって、はるは専業主婦だろ? これが仕事だったら、そんな甘え許されないって分からないの?」
「……専業主婦っていったって、今は育休中なだけだし」
「そういうのを言い訳っていうの。結局今働いてないんだから変わんないでしょ」
それはそうかもしれないけど、この先私が仕事に復帰した時に、この人は本当に家事も育児もやってくれるのだろうか。
今までだって、一回もオムツすら変えたことがないのに。
「はるは看護師だろ。体力だってあるんだし、もっとちゃんとやれよ」
「確かに前より出来てない点は認めるよ。でもそれは子どもが生まれたからで」
「はい、出たー。やだね、女は子ども生むと変わるっていうけど、ホントだったんだね」
そんな言い方しなくてもいいのに。
それで言い返せない自分が悔しくて、私は何もせずくつろぎ始めた夫に背を向け、キッチンに立つ。
子どもを産んでから変わったのは、私なんかじゃなく、むしろ夫のような気がする。
少なくとも働いていた頃は、あんな風に私を見下すような発言はしなかったもん。
「んで、今日の夕飯なに?」
「カレーだよ」
「またカレーかよ。この前も食ったじゃん」
「あなたが好きだって言ってたから、せっかく作ったのに」
「だからってこんなに何回も作るなよ。手抜きだろ。まったく、玲子さんを見習えよな」
「玲子さんって、お隣さんの?」
お隣の奥さんとは、何度か挨拶もしたことがあって、一度多く作りすぎたとか言っていた料理をもらったことがある。
だけど格段仲が良いというワケではない。
そう、ただのご近所さん。
なのにどうしてこんな時に彼女の名前が出てくるの?
しかも下の名前で、なんて。
「そうそう。あの人凄い料理も上手だろ。しかも綺麗好きで、超美人。まさに完璧じゃん」
「なにそれ。お隣さんとなんて比べないでよ」
「だってホントのことだろ。料理ぐらい教わったら?」
なんでお隣さんと比較されなきゃいけないのよ。
いくら出来ていないことが多いからって。
「なんだよその顔。そんな顔したって、何も変わらないぞ。あ、シワは増えるか」
ムッとする私を横目に、逃げるように夫は寝室へと消えて行った。
「もう。何が玲子さん、よ」
確かに同性の私から見ても、お隣さんは美人だと思う。
私とは違ってちゃんと化粧もしているし、色気だってある。
真逆といえるような人ではあるけど、確か向こうはもう子どもさん大きかったよね。
高校生くらいだっけ。
だけど旦那さんが単身赴任だっていうことは、ワンオペには違いないか。
でもだからといって、比較していいわけじゃない。
その家にはその家の事情があるように、私だって努力していないわけじゃないのに。
洗濯物の終了ブザーに呼ばれ取り出していると、すぐ隣にある鏡に自分の顔が写っていた。
「ひどい顔」
目の下にはクマがあり、肌も乾燥してしまっている。
夫の言葉じゃないけど、女としては確かに手を抜きまくってるわよね。
「最近見た目とかも褒められたことないし。最後にシタのだって……」
レスなのもやっぱりダメなのかな。
同じ寝室では寝ているけど、どうしても子どもにばっかりかかりきりになちゃってたし。
「……よし!」
冷たくなりかけた夫婦関係をどうにかしようと、その夜子どもを寝かしつけたあと、ベッドに入って夫に話しかけた。
「ねぇ」
「うわっ。なんだよ、今寝かけてたのに。変な触り方すんなよ」
「……」
「さっさと寝ろよ」
拒絶されるなんて思っていなかった私は、夫に背を向けて目を閉じる。
だけど消化できない感情が胸に重くのしかかり、中々寝付くことは出来なかった。
◇ ◇ ◇
「もう! なんなのあの反応、ムカツク。せっかくこっちから久しぶりに誘ったっていうのに」
翌日、夕飯の支度をする時間になっても私のイライラは止まることはなかった。
目の前のまな板に置かれた野菜たちを、感情のまま木っ端みじんに切り刻んでいく。
夕飯、ハンバーグにして正解ね。
「まぁま、これー」
部屋で一人遊びする子どもが、嬉しそうにカマキリの人形をこちらに見せていた。
「またそのカマキリ?」
他にもたくさんお人形あるのに、なんであれがお気に入りなのかしら。
子どもの趣味って、イマイチ分からないわね。
「ねー、ゆうちゃん。ママって魅力ないのかな」
答えなど返ってくることはないと分かっていても、思わず愚痴がこぼれていた。
ふうっと一息ついた時、開いていた出窓から大きめの声と音が聞こえてくる。
「ん? 何? すごい笑い声。お隣さんかな」
なんとなく湧いた好奇心から私は、玄関のモニターを押した。
モニターには一階の玄関前の様子が映し出される。
そこには鼻を伸ばした夫と、胸がかなり強調された服を着たお隣さんが仲睦まじく車から荷物を出す姿があった。
え? どういうこと? なんであの人とお隣さんが一緒なの?
「本当に助かっちゃったわ。ありがとう」
「いえいえ、一人でこんな買い物なんて大変でしょう? 俺で良ければいつでも車出すから!」
「うれしい。すごく助かる。頼る人がいなくて困ってたの」
「いくらでも頼ってくれていいんですよ? 旦那さんがいなくて、イロイロ困ってるでしょう」
「本当にそうなの。イロイロと、ね」
うるうるとした瞳で、お隣……玲子さんは夫を見つめていた。
そして夫の腕を掴むと、その肩に自分の頭を寄せてしなだれかかる。
「……うちに寄って行くわよね? お礼もしたいし」
「もちろんですよ、中まで運びます」
「ふふふ。良かった。ゆーっくりしていってね」
べたべたと触り合いながら、二人はそのまま隣の家の中へと消えて行った。
「なに……あれ」
もうモニターには何も映し出されてはいない。
だけど私はそれを見つめたまま、動くことが出来なかった。