まゆの場合
「はい、おまたせー」
そう言いながら、私は夫の前に出来立てのカレーを差し出した。
湯気に乗り、どこまでもスパイシーな香りが部屋中に充満していく。
ローテーブルの前にあるソファーに深く腰掛けていた夫は、カレーを見るとすぐに目の色を変えて食べ出した。
「うん、上手い! やっぱりまゆの作るカレーは最高だよ」
脇に置かれたサラダになど目もくれず、夫は嬉しそうな表情でガツガツと食べ進めていく。
「ホント? 嬉しい」
そう言いつつ、私は彼の前に座る。
どこまでも夢中で食べる夫の顔。
ああ、いいなぁ。
「おかわり、まだあるよ?」
「食う!」
あっという間。10分もせずに大盛りによそったカレーは空となり、夫は皿を差し出してきた。
「今持ってくるね」
私はそう言いながら、席を立つ。
結婚して三年目。
私は今、この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。
彼との出会いは、同じ職場だった。
社長の息子である彼は甘いマスクにスラリとした体形、それに誰にだって分け隔てなく接する姿勢から、社内でも人気があった。
そんなハイスペックな彼と結婚できた私は、どこまでも夢のようであり、幸せだった。
だけど現実はそう甘くない。
キッチンに立つと、いつもの光景が浮かんでくる。
◇ ◇ ◇
「まったく、そんなことも出来ないの? だーかーら、そうじゃないって。そこは前にも教えたでしょう」
キッチンで真隣に立ち、仁王立ちしながら私にダメ出しをする義母。
「すみません」
「あなた本当に手際が悪いわよね!」
「すみません」
「まぁまぁ、母さん、初めっからそんなに厳しくしなくても」
そういう夫はこちらに顔を向けるわけでもなく、ただリビングで大好きなスマホをいじっている。
口では私をかばってはくれるものの、所詮はその程度。
何度私が泣きついても『まぁ、テキトーに上手くやってくれ』の一言で片づけられてしまう。
「こういうのは初めが肝心なのよ」
「……」
「だいたいあなた、いくら体調が悪くてもうちの息子になんて家事なんてさせないでちょうだいね」
この話になると先は長い。
自分の家には家政婦さんがちゃんといるくせに、私には家事を一人で完璧にこなせという。
主婦とはそういうものらしい。
だけど私は未だに彼と同じ会社勤務であり、共働き。
みんながうらやむような結婚生活の中身は、家事に協力的ではない夫と、ただ叱責したいだけの義母に挟まれるだけの生活だ。
◇ ◇ ◇
それでも結婚生活を続けているのには、ちゃんと意味がある。
私はキッチンで大きな寸胴鍋に火を入れて、かき混ぜ始めた。
三日以上、肉だけ別の圧力なべで煮込んだあと、さらに具材と合わせて作ったカレー。
火を付けた瞬間、その匂いはどこまでも広がっていく。
「三年間で、これだけはかなり上手になったって言えるよね」
トロトロに煮込まれ、すでに原型すら分からない肉や野菜たちをたっぷりと皿によそった。
ふふふ。
完璧ね。
「おーい、おかわりまだ?」
「ごめんね、今温めなおしていたの。カレー好きだね。カレーの日は、いつもの倍以上食べてくれるもんね」
「このカレーだけ特別な。マジ美味いし。味も香りもその辺の店レベル……ていうか、それ以上じゃね?」
「もう、ほめ過ぎだよ」
「いや、マジだって。まさかまゆにこんな才能があるなんてなー。あの大きな圧力鍋買ってから、さらに実力上がったし」
夫はキッチンにある大きな鍋をちらりと見た。
去年のクリスマスに私が欲しがって買ってもらったものだ。
初めはなんでそんなものを、と疑問に持たれたが、私はどうしてもあれが欲しかった。
ううん。あれ以外、何も欲しくなかったから。
「カレー作るの本当に楽しいの。どれだけでも美味しく作っちゃうぞーって感じ」
「なんだそれ。でもホント美味いよ。なんか隠し味でも入ってるのか?」
「んー。愛情はたっぷりだけど……。でもそうね。肉にはすごくこだわってるの」
「肉?」
夫はその言葉で、カレーの中の肉をスプーンで探る。
しかし原型などとどめていないそれは、探しても見つかることはない。
「新鮮で若いメスの牛肉だよ。今回のは静田県産のメス牛でね、低温で一定時間熟成させてあるものを使ってるから深みがあるでしょう?」
「お、おう。なんかすごいな。でもいつも思うけど、まゆはカレーの日だけは食べないんだな」
「私、カレーは作るのは好きなだけで、食べるのは好きじゃないの」
「ホントか? こんなに美味いのに」
彼はただ豪快に笑った。
隠し味は確かに入っている。
だけど彼には教えてあげない。
まぁどうせ言ったところで、きっと彼の浮気相手には一生作れないけれどね。
でも、絶対に教えない。これは妻としての意地だ。
彼が浮気を何度繰り返しても離婚しないのも、そう。
でもだからと言って、あなたを死ぬほど愛してるから許してるってわけではないのよ。
だってそうでしょう?
浮気は味変するための手段だなんて思っている人に、どうして愛情を持ち続けられるというのかしら。
「おかわり、まだいる?」
「ああ、頼む」
そう言いながらも、通知音が鳴ったスマホにくぎ付けの彼。
私はもちろん、そんなものを気にすることもない。
TVからはやや不穏なニュースが流れていた。
静田県でまた、女性が行方不明となったというもの。
この数年で、すでに何人目だろうか。
しかし未だに一人として見つかってはいない。
私はそのTVを横目に、カレーをよそる。
ああ、そういえば、この女は処理が大変だったなぁ。
思ったより重たくて、運ぶの苦労しちゃった。
で、次はパパ活女子大生だっけ?
ヤダなぁ。若い肉って、煮込むの大変なのよね。
それにどうやって捕まえようかしら。
逃げられらた、メインがなくなっちゃう。
エプロンからスマホを取り出せば、そこには夫と女子大生が顔をくっつけ映る写真が。
「できたよー。今持ってくね」
「ああ、頼む」
次もまたいっぱい作るから、ちゃぁんと食べてね。
彼の後ろに立ち、私はそっと微笑む。
何よりも美味しそうに食べる彼の姿を見て、私は次のカレーの用意のことで頭がいっぱいだった。