1-1 ゾンビのような少年と、変わりゆく故郷
――芳野幸信の視点から――
通学路の何もない朝の秋空を見上げると、遠くから重機の稼働音が聞こえた。
海沿いの工事現場で働く土木作業員の人たちはもうこの街の風景の一部になっており、今日も今日とて一生懸命汗水流して頑張ってくれている。
カラカラカラ。
そしてその日も僕はいつものように、のんびり自転車を押して高校へと向かっていたわけだ。
ここは宮城県、岩巻市。宮城県第二の都市で島国の日本でも特に漁業が盛んな街だ。少し前に大きな震災があって津波によって風景がガラリと変わってしまったけど、今も変わらず暴走バイクのエンジン音と漁師の威勢のいい声が聞こえてくる。
特に漁業は最近ようやく持ち直して、やる気という意味では震災前より一層賑わってきたから地元民としては嬉しい限りだ。
ただ、まあ……たとえ前よりいいものに復興したとしてもそれはもう僕の知っている岩巻じゃない。人も、街も変わらずにいられないのはわかっていても、そこだけは少しだけ寂しいものはある。
周囲からは通学している同じ学校の生徒が談笑する声が聞こえてくる。生憎ぼっちな僕には想いを寄せている幼馴染との登校なんてロマンチックなイベントは発生しない。
まるで背景のように存在感のない僕は、毎日同じ事を繰り返す。
幸せを信じるという名前とは真逆な、幸が薄そうな個性がない見た目の芳野幸信という少年、それが僕だ。唯一特徴を挙げるとすればこの糸のように細い目くらいだろうか。
ある人はそんな僕を仏のようだと形容した。いつも微笑んでいるかのような顔もそうだけど悟りを開いたかのように喜怒哀楽に乏しいからだろう。
一応僕にも感情はあるけれどそれを強く否定はしない。自分には人として大事な何かが欠けている自覚はあるからね。
学校に辿り着いて、自転車を止めて、教室に行って、授業を受けて。
僕はロボットのようにそんな何もない日々を繰り返す。
休み時間の間、クラスメイトはわいわいがやがやとテレビに動画や趣味の話で盛り上がり、なんて事のない青春を謳歌していた。
僕も友達がいれば毎日が少しは楽しくなるのだろうか……いや、無理だろうな。自分の席に座っていた僕はつまらない事を考えるのをやめて図書室で借りた本を読む事にした。
「どうしたの、ゾンビみたいな顔をして」
そんな僕に数少ない友人の同級生、不良少女のレイカが話しかけてくる。
「これが普通の顔だよ」
「そりゃごめん」
彼女は長身で、適当に束ねたツインおさげと目が隠れるほどの前髪、そして何より真っ赤に染めた赤い髪がトレードマークだ。
校則仕事しろという話だがヤンキーが多いこの街ではこの程度の事は黙認される。流石に廊下をバイクで走るとかぶっ飛んだ事をしたら怒られるけどね。どうして不良って学校の廊下をバイクで走りたがるのかな。
中学時代福島にいたレイカは割と名の知れた不良だったらしいけど今は落ち着いているそうだ。ヤンキー時代に培ったそのカリスマ性は健在で、今でも街の不良たちは彼女を見るなり直立不動で挨拶をするとか。
ああ、数少ない友人というのは訂正しよう。彼女は姉御肌で面倒見がいいから誰からも慕われるのだ。一部の不良は尊敬の念が混じっているけどね。
「でも、いつもにも増してシケた顔をしているわね」
「そうかな。いつもどおりだけど」
「それで、その本……カバーのイラストがちょっとあれだけど、何読んでるの?」
「小説版の『ひよこ鑑定士に寝取られた人妻』さ。映画は十八禁だけど高く評価されていて、海外の映画祭で賞を獲るんじゃないかって言われているから一応目を通してみたくて図書室で借りたんだ。もちろんこっちは全年齢だよ」
表紙を彼女に見せると案の定引きつった顔をしていた。映画祭の箔が無ければ普通にセクハラに該当する行為だからね。
「まったく、うちの学校もなんでそんなものを置いてるのかしら。白昼堂々と教室で読むのはどうかと思うわよ」
「図書室にある昔の文学作品には官能的な描写も珍しくないよ、室生犀星や谷崎潤一郎とか。それに僕、自慢じゃないけど女の人には別に興味ないから」
「え、ソッチなの?」
「違うよ」
僕はしおりを挟み読書を中断する。こういう馬鹿馬鹿しい話をすると少しは楽しい気持ちも沸いて来るけど、やっぱりどこか満たされる事はなかった。
「まあいいわ。今度感想聞かせてね。あたしも読んでみようかしら」
「うん」
彼女はそれだけ告げて、僕はまた独りの世界に戻ってしまう。静かな何もない世界に。
ふと窓の外を見てみる。重機の群れは僕の気持ちをよそに街を作り替える工事に精を出していた。