1-33 全てのしがらみを忘れた祖父と、孫との戯れ
そしてタクシーに乗って僕らはおじいさんがいる老人ホームへと向かった。老人ホームはどこにでもあるような外観で少し年季が入っており昭和の時代に建てられたものであろう事が推測出来る。
受け付けの人とやり取りを済ませ僕らはミヤタのおじいさんが待つ中庭へと向かった。中庭は鮮やかな花が生えているわけでもなく緑一色で地味だったけどきちんと手入れされており、居住者の憩いの場になっていた。
中庭に入ったミヤタは車いすに乗った一人の老人を見つめて立ち止まってしまう。恍惚とした笑みを浮かべた老人は小さな白い蝶にしわだらけの手を伸ばし、介助の女性職員は彼に優しい眼差しを向ける。
ミヤタは少しだけ迷った素振りを見せたけれど、とことこと彼に近寄って声をかける事に決める。
「おじいちゃん、久しぶりなの!」
「おー? 元気あ子ひゃのうー」
おじいさんは笑っていたけれど遠目でもわかる。その顔面の半分が歪んでいる事に。そのせいで上手く喋れず右手と右足もだらんとしているし、おそらく脳の病気を発症した結果車椅子生活になったのだろう。それと関係があるのかわからないがこの様子だときっと認知症も……。
「いっしょに、お話ししていい?」
「もひろんじゃー」
「っ」
ミヤタは無邪気に振る舞いおじいさんと楽しく会話をしていた。けれどレイカは見るに堪え切れずその場から去ってしまったのだ。
どちらをフォローすべきか。僕は少し悩んでレイカの後を追う事に決めた。
建物の裏手に逃げ出したレイカは必死で泣く事を我慢していてとても弱々しく、東北最強のヤンキーの面影はどこにもなかった。
「大丈夫、レイカ」
「大丈夫……じゃないわね。やっぱり会わせるべきじゃなかったわ」
僕はその言葉を否定する事が出来なかった。おじいさんはもう孫の顔も、下手すればその存在すらも覚えていないのだろう。にもかかわらず会わせたのはやはり間違いではなかったのだろうか。
「僕もその提案を支持した。君だけの責任じゃない。それにミヤタは嬉しそうだったじゃないか」
「あたしには無理して笑っているように見えたけど? あんなの見れたもんじゃないわ」
「そうだね」
上辺だけの優しい言葉を僕は友人にかける。もし僕がもう少しレイカと仲が良ければもっと踏み込めたんだけどさ。
だけど一番悲しかったのは、僕は今見た光景をただの事実として淡々受け止めてそれほど共感出来なかった事だ。
年をとれば人は老いて、病に侵され、そして死ぬ。それは当たり前の事なのだ。それが一般的に悲しい事なのはわかっていても僕にはイマイチピンとこなかったんだ。
僕が普通の人間ならもっと悲しむ事が出来たのかもしれない。優しい言葉が思いついたのかもしれない。僕は改めて自分がずれている事を実感しそれがどうしようもなく虚しかったんだ。
「仕方のない事なんだよ」
「……そうね」
僕は感情を込めたふりをしてそう言うのが精一杯だった。彼女の隣に移動し、ふう、とわざとらしくため息をついて。
そして、しばらく経って。
「そろそろ、戻りましょうか」
「うん」
落ち着いたレイカは頑張って微笑み、僕は彼女の後をついて中庭に戻る。
中庭ではミヤタとおじいさんがまだ一緒に遊んでいた。どちらも何も考えずに、ただただ無邪気に。
「ほおやって、なあ」
「おー!」
今はどうやらおじいさんが折り紙を折ってあげているようだ。その不格好な紙手裏剣はお世辞にも上手いとは言えないけれど楽しいならどうでもいいだろう。
「わひにも嬢ひゃんと同じくらひの孫がおってのお。ほんにめんこくてええ子なんひゃ」
「えへへ、そうなのー。いっしょにあそんでみたいの!」
ミヤタは一瞬の間の後心の底から嬉しそうな顔になった。全てを忘れても大好きな祖父はその事だけは覚えてくれていたのだから。
「余計な心配だったかな」
「ふふ、そうね」
その光景を見てレイカも自然と笑顔になる。こういうのは難しく考える必要なんてないんだ。
おじいさんも長く生きてきていろんな経験をした事だろう。悲しい事も、辛い事も……この世で作ってしまった全てのしがらみを忘れて人生の最期にこうして笑って余生を過ごす事が出来るのなら、それはそれで幸せな事なのかもしれない。
優しい時間は過ぎていく。僕らの心配は結局杞憂だったのかもしれない。少し歪だとしてもそこには幸せな光景が確かに存在していたのだから。
「ばいばーい!」
「また遊ひにおひでぇ」
そして別れの時間が訪れる。ミヤタはおじいさんに笑顔で手を振って何の後悔もなくその場を後にした。
だけどこの約束もきっと――明日には、忘れてしまうのだろう。
「ミヤタ」
「なにー?」
僕は何か言葉をかけようとして、やめた。今の彼女に何か言ってしまえばその笑顔を台無しにしてしまいそうで。
ミヤタは不思議そうな顔になるがそのままずんずんと歩いて老人ホームを出ていく。その後ろ姿が寂しそうに見えたけど僕の気のせいであってほしかった。
「てい」
けれどミヤタは唐突に振り向き、僕の両頬を引っ張ったのだ。
「へ、へと、どうしたの」
「わたしは久しぶりにおじいちゃんと会えてうれしかったの! だからそんな顔しないでほしいの!」
「……………」
「それにね、こうやってヨシノくんとレイカちゃんが心配してくれるから、ね? ほれ、だから笑顔になるの、ぐにぐに」
「そっか」
ミヤタの言いたい事はなんとなくわかる。だけどやっぱり僕らは元気過ぎる彼女の事が心配だったのだ。
彼女はまだ小さな子供だというのに。僕に出来る事はこうして両頬を彼女に委ねる事だけだった。
気遣うつもりが逆に気遣われちゃったなあ。こんなんじゃダメだ。僕ももうちょっと人間のふりが上手くなれるといいんだけど。
そんな空気を誤魔化すようにレイカは笑顔になりこう言った。
「さて、折角氷嶋に来たんだし観光でもしましょうか。ミヤちゃんは食べたいものはある?」
「うん! それじゃあラーメンを食べたいの、黒いやつ!」
「黒いやつ? ああ、そういえばこの辺のラーメンは黒かったっけ」
僕もレイカに乗っかり気持ちを強引に切り変える。この結末は初めからわかっていた事だったから。そう割り切るしかないんだ。




