Pro-1 太陽の失われた世界
その世界に、太陽は存在しなかった。
有害な化学物質と核の炎によって汚染された空は汚れた海のように深い漆黒に染まっている。人々の生きる希望も、切なる願いも、果てしなく広がる闇の前には無力で、無慈悲に奪いつくされ、何もかもがその空に飲み込まれていった。
地上に広がるゴミ捨て場のようなスラム街は周囲の看板などからかつては活気にあふれた街だった事がわかる。しかし血と死体の腐臭が漂うその場所からは華やかさはもう微塵も感じられない。
「かぁみさぁまがいぃるよおぉ」
「よぉろこぉびをわかちぃあおお」
だが街の住民たちは前の世界と変わらず幸せそうな顔をしていた。ひどく醜悪で歪な笑顔をしてはいたが。
近くで無数の銃声が鳴り響く。しかし彼らはそれに一切臆することはない。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
そこに運悪く生き残ってしまった一人の無力な男がいた。動く屍と成り果てた街の住人達はその男を仲間に加えようと笑いながら両手を伸ばした。
「よぉこそぉお!」
「たのしぃいしあわせぇえ!」
「ヒッ!?」
もし捕まればどうなるか――言わなくてもわかるだろう。男は亡者の群れから死に物狂いで逃げ出し街を走り続けた。
男は逃げる途中で靴が脱げたためか裸足で、ガラス片やコンクリートを踏み足は血まみれになっている。しかし痛みを感じている暇はなかった。
そして彼は大通りに辿り着く。そこにいた自警団たちは残り少ない弾丸で、必死で人類の敵に悪あがきを続けていた。
「クソ、もう持たないぞッ!」
「耐えろッ! とにかく撃つんだッ!」
自警団たちは互いを鼓舞しこんな状況でも生きる事を諦めていないようだ。だがこの世界はどこまでも残酷である事を彼らはまだ知らなかった。
周囲には血みどろの屍が散乱して酷い死臭がする。その耐え難い悪臭と、アスファルトの地面に広がる汚泥のような得体のしれない何かを素足で直に踏み、逃げてきた男は思わず嘔吐しそうになるが、必死でこらえて力の限り叫ぶ!
「た、助けてくれッ!」
「なッ!? また新手かッ!」
壊れたバリケードの向こう側で戦闘をしていた自警団たちは絶望する。彼がさらにゾンビを連れてきた事で最早手が付けられない事態になってしまったのだから。
バババッ!
「ああぁッ!?」
自警団が撃ったサブマシンガンの弾幕は躊躇なく男諸共ゾンビを蹂躙する。男はその攻撃で辛うじて死ぬ事はなかったが、腹や足を撃たれその場にうずくまってしまった。
「何で……どうして……」
男は虫の息で自警団を睨みつける。しかし彼らは男を助ける事も、とどめを刺す事もせずにゾンビとの交戦を続けた。
男はその時ふと何かの気配を察知し空を見上げた。遅れて自警団の人間たちも。
徐々に近付く空を切り裂く無機質な音。鋼鉄の翼を持った機体が群れを成して終末の空に現れた。
「な、嘘だろッ!?」
即座に自警団はその意味を理解し、すぐに手を振って必死に自らの存在を主張した!
「待ってくれ、まだ生きている! ここにいるんだッ!」
だが無情にも戦闘機は無数の爆弾を投下する。
そして、彼らの希望は完膚なきまでに断たれた。
結局このクソッたれな世界に生まれた意味なんてなかったのだ。ただ自分たちは死ぬために生かされていたのだ。絶望というものが大好物な世界の糧になるために。自警団の男の一人はどうでもいい感慨にふけっていた。
その空の暴力は生けるものも死せるものも一切の区別なく破壊し焼き尽くした。人々が生きていた文明の残骸とともに。
街は黒煙と灼熱の炎に包まれる。全ての命と記憶を飲み込んで。
そんな彼らの最期を一人の中年の男が高層ビルの最上階にある執務室の窓から眺めていた。男は黒い喪服のような高級スーツを着ており、この終末の世界でもそれなりの地位についている事が伺える。
「もうこの世界に太陽は存在しない。こんな時君ならどうしたのだろうか」
ドアの向こう側から銃声が鳴り響く中、男はポツリとそれだけ呟いた。
これは必要な事だ。だからこの残酷な命令を下した事に何一つ後悔はしていない。どうしようもなく虚しくはあるが。
「うおらあああッ!」
ドアを蹴破りサブマシンガンを持った一人の少年が現れる。彼は激しい憎悪の炎を滾らせ、その男を――東日本共和国大統領の顔をひどく忌々し気に睨みつけた。
「部屋に入る時はノックぐらいしたまえ」
大統領は眉一つ動かさず振り向き冷静にその暴漢に応対する。その少年の顔や衣服には警備の人間のものであろう返り血がびっしりと付着していたというのに。
「これがお前のやり方かッ! これで世界を救ったつもりなのかッ!」
「世界を救った覚えもないがね」
大統領は自嘲する様に鼻で笑い、そう告げる。
「私たちは最初から敗北していた。私に与えられた使命は少しでも長く人類を存続させるために最善の手を取る事だ。別に理解してくれなくても構わないが」
「理解したくもねぇなッ! 覚悟しろッ!」
少年は銃を発砲する。だが威圧感に圧倒されたためかその弾丸は命中する事無く背後の窓ガラスを突き破ってしまう。それを見た大統領は思わず失笑してしまったのだ。
「手が震えているぞ。この東日本共和国大統領の私を殺したいのなら君のほうが覚悟を決めるべきだ。この国の、いや世界の、すべての人間の命を背負う覚悟をね。私は君などとは違い死ぬ覚悟などとうに出来ている」
「クッ!」
少年が臆しわずかに怯んだその隙を大統領は逃さなかった。彼は懐から大型の拳銃を素早く取り出し少年目掛けて躊躇なく発砲した。
「ガァ!?」
四発の弾丸は的確に四肢の関節を撃ち抜き少年は即座に無力化されて絨毯に沈む。痛みでもんどりうつ少年に大統領はゆっくりと近付きその頭を革靴で踏みつけた。
「急所は外した。君が率いる反乱軍の詳細についていくつか質問したい事があるのだが」
「テメェに答える事なんて何もねぇよ……!」
少年が吐き捨てるようにそう告げると大統領は無言で踏みつける足に力を込めた。少年は苦悶の表情を浮かべながらも必死でその痛みを堪える。
「まあいい。ではこれだけ聞かせてくれるかな。まず大統領を暗殺するにしては随分と拙い兵力なのはどういう事だ?」
しかし大統領がそう聞くと、その問いを待っていたとばかりに少年は笑みを浮かべた。
「ハハッ、陽動に、決まっているじゃねぇか……! 残念だっ……たな……!」
「ふむ、知っていたがな。だが子供のいたずらに付き合うのも大人の仕事だ。手を抜いてあげたのだから今度はもう少しいい作戦を練るといい。こんな力押しで穴だらけな作戦では私を倒せんよ」
「な……」
大統領は全てを知りながらあえて彼らを見逃していたのだ。少年は自分がてのひらで踊っていた事にようやく気が付き絶句した。
「この世界を救う覚悟があるのならいつでも私を殺しにくるがいい。君にその資格があるとは思えないがね」
そして彼は放心状態の少年にそれ以上興味を示さず、そのまま歩いて執務室の外に出ていったのだった。