赤子の悪魔
父上がやったのか、はたまた私の記憶元から勝手に創造されたのか。
生まれたばかりの当時は、ただ真っ白だっただけの世界は、今や一つの面影もないほどにまで様変わりしていた。
それは、私がイメージする天界や極楽浄土のような世界。
地面は絵本の中の雲のようにふかふかで、しかし足を踏み抜いても落下するようなこともない。
そして周囲には古風な造りの日本建築の店や、洋風の趣ある家屋が、一切の統一感もなく立ち並んでいる。
極めつけは、遠くから離れて見ていても、ついつい見上げてしまうほど大きな西洋風の立派なお城。
どこぞの高貴なお姫様が住んでいるようだと思えてしまう。
しかして、実際にその城に住んでいるのは、お姫様でもなんでもない。
いや、実際は神である父に生み出された、という意味ではお姫様なのかもしれない。
そこは、私を含めた七人の弟妹達と、それぞれ私達の世話をする世話係が暮らしている。
なんともチグハグな世界ではあるのだが、ここは【霊界】と呼ばれる世界。
【人々が過ごす物質界】からは近くもあり、遥か遠くでもある。
身体を持った生命体には決して辿り着けない異なる世界として存在しており、ここでは悪魔や天使などといった肉体を持たない【精神生命体】のみしか存在することを許されない。
いわゆる今、私のいるこの場所は〝神々の住む世界のようなところ〟なのである。
◇◇◇
それはまだ、今よりもずっと精神生命体達の数も少ない頃。
「あの、父上。真っ白だっただけの霊界は、何故この様なチグハグな有様になったのでしょうか? なにかやはり理由があるのでは?」
隣で父上が私の歩幅に気をつけつつも、一切こちらを見ることもなく、前を向いたまま歩き出す。
些かそっけない態度ではあるが、決して父上の機嫌が悪いわけでもない。
父上はたまに物事に集中すると、他の事がおざなりになってしまう傾向にあるのだ。
ようやく考えがまとまったかと思うと、父上は急に視線をきょろきょろと動かし、あちらこちらへと何かの気配を探そうとしていた。
こういった行動は多々あるが、高次元種族の行動などいちいち詮索していては、こちらの身が持たない。
なにせ説明されたところで、ほとんど理解できないのだから。
「今日は少々お時間がかかりそうですね」
苦笑気味に父上の代わりに私に返答してきたのは、人族の貴族を真似たような豪奢な服を着ている悪魔。
「そうね、父上の事だからしょうがないけれど、ちょっと無視されているようでムッとしちゃうのよね」
「ハハハ……創造主様は我々とは異なる存在であらせられるので、致し方がないでしょう」
三本の捻れた山羊角が生えており、人形であるが、その全身は羊のような体毛で覆われており、腰から生えている一本の細い尻尾は無意識なのか常にゆらゆらと揺れているのが特徴的である。
一見すると、一部の獣の特徴が大きく現れた獣人族のように見えなくもないが、歴とした悪魔である彼の名は〝ルキフグス〟という、霊界でその名を知らぬ者はいないとされる程の大悪魔であり、普段は主に霊界の悪魔達が暮らす領域を管理しており、そこの〝宰相〟の役割を任せている。
非情に忠誠心が高く、有能で使い勝手の良い優秀な悪魔である。
どうやら他の大悪魔達に比べれば直接的な戦闘は苦手という話であるが、その代わりに非常に計算高く、搦手等を多く用いた戦闘を得意としているとのこと。
自身で『戦闘に関してだけを言うのであれば、私は大悪魔未満でありますよ』と謙遜の言葉を良く口にしており、常に主である私に対して一歩引いている。
しかしルキフグスの、細長く紅い三日月のように妖しく輝く瞳を見れば、その本質はかなりの実力を持った大悪魔達の中でも、確実に上の方に位置するであろうとすぐに分かる程、濃い魔力を蓄えている事が窺える。
霊界の上位者である【悪魔七十二柱】や、【大悪魔】達のほとんどが戦闘特化や、特殊能力の特化を得意としており、中には知恵者も数多くいれども、殆どの者達が個性が強すぎる者たちばかりであるため、私としては『戦闘能力を有し、知識特化かつ常識的な思考を兼ね備えている』ルキフグスをかなり重宝している。
〝常識的な思考〟これはかなり大事な部分である。
個性の強すぎる悪魔達が多すぎるのだ。
そもそもの話、私の部下達には戦闘力などよりも、そこら辺をもっと重要視してもらいたい。
知識の量や、頭の回転の速さ。
柔軟な思考、真面目な気質。
しっかり者としての性格。
リーダーシップをも有するカリスマ性。
そういったものの方が、戦闘力より遥かに評価に値する。
そしてそれらを全てを兼ね備えているルキフグスは、戦闘力等はむしろなくても良いとさえ思ってしまう。
元は私含めた七大罪の世話役の一人として生まれて来た存在であるため、生まれたばかりの頃のルキフグスは少し有能な執事程度の能力しか持ち合わせていなかった。
けれど、その成長速度は著しく、稀に霊界に生まれるとされる天才の類いであり、すぐに上位悪魔から高位悪魔へと進化を果たし、現在は既に大悪魔としての進化を終えている。
種族進化した速度は、もしかすると霊界で一番かもしれない。
元々は七大罪の世話をすることが仕事であったが、そんな事はお構いなしとばかりに私は『これは使える逸材』と考え、すぐさま私の直属の部下として他の仕事をするように打診した所、二つ返事で了承を貰えた。
ルキフグスを(半ば強引に)部下へと勧誘した後は、徐々にルキフグスに功績を積ませて、最終的には【伝家の宝刀】である「勅命」によって無理矢理〝宰相位〟につけさせた。
私はルキフグスに、普段悪魔達が過ごす領域の管理権限に関して、ほぼ全権を渡した。
つまり丸投げである。
そして好きなようにさせてみたところ、目に見える早さで悪魔族の住処はかなり住みやすい場所となっていった。
弱肉強食が罷り通る霊界の中でも、その傾向が特に顕著なスラム街のような無法地帯への改革を初めに着手したルキフグス。
しばらくは難航するかと思いきや、わずか数週間程度で大まかな問題の大部分を解決してしまった。
さらに土地の確保や、法術で作った簡易住宅の用意等も事前にしており、アフターフォローも万全。
住人達には一時的に用意した簡易住宅にて暮らしてもらっている間に、スラムやら都市のあらゆる問題を把握し、解決。
スラムの解体作業工事と、都市の新造計画も同時に行い、急ピッチで終わらせたのであった。
まさに天才の所業であった。
けれどさすがの天才でも、一人でそれら全てをこなしたわけではない。
彼には出世の度に複数の部下が増えていたし、そして宰相位を得た今では、【七二柱の大悪魔】にも命令を要求する事すら出来る権限を持っているため、あらゆる専門技術の知識を持つとされる『ナフラ』という大悪魔を片腕として辣腕を振るっている。
ルキフグスは、他者の扱いも非常に巧妙いようであった。
まるで隙がない悪魔である。
「…………ああ。ルシフェル、すまない。先程の問いかけに答えよう」
「ええ、なぜこの霊界がこんなにもチグハグなのか。建物に関しても、ルキフグスが建てた建物がいつの間にか変化したりしていますよね?」
ようやく意識が浮上してきた父上に、嘆息しながらも私はもう一度、先程と同じ質問を投げかけた。
そしてかえってきた答えはやはり高次元種族らしい、説明が幾分かすっ飛んだ回答であった。
「【物質界】や【霊界】における、数多生命の深層に在る無意識や、強力な意思達が【世界の意思】を通して取捨選択が行われ、世界自体の変革や、時には新たな生命等を創り出し、理のバランスを保つのだ」
「え、と……? 世界の意思……??」
「むぅ……もっとわかりやすく、か」
父上は自身の両腕を組んで、なにやら難しそうな顔で悩みこんでいる。
これは私が過去に『父上はあまりにも表に感情を表さないので、何を考えているのか分かりづらいです』と苦言を呈して以来、父上はわざとらしくこういった行動を取るようになった。
恐らく父上は、気が遠くなるほどの時間を過ごしてきたはずの存在なのだけれど、もしかするとこういった疑問について、今まで答えるような経験は、私との問答以外にはなかったのかもしれない。
父上以外の他の高次元種族との面識はないが、高次元種族同士ならばそもそもが疑義を呈する事もなく、互いが互いを理解していそうな気がする。
父上は組んだ腕を解く。
まだまだ父上を見上げるのが精一杯の小さな私の身長に、目線を合わせるためしゃがんでくれた。
しかし、まだ上手い説明が出来るのかどうか、という躊躇があるのか、少しの逡巡のあと眉根を寄せて、またしばらく黙り込んでしまった。
もしや聞いてはいけない類いの話だったのか、もしくは本当に分かりやすく伝えるために考えこんでいるだけなのか。
こういう所が父上らしくもあり、とても分かりづらいところなのだ。
ようやく父上は意を決したのかなんなのか、ともかくようやく話す気になってくれたようであった。
しかしその時の父上の瞳は予想外にも真剣味をおびていたため、気持ち少しだけ背筋をピンっと伸ばす。
――例えば、だ。
と重々しい表情をした父上の前置きから始まった話は、まさしく例え話らしい普遍的な話だった。
「陽もそろそろ落ちそうかといった、薄暗がりになる時間帯。一人の青年が外で散歩をしていた。
すると路地の方で、赤い瞳の黒猫に偶然出会った。しかしその黒猫はすぐに青年の前から姿を消してしまう。青年は得体の知れない術を使って姿を消した黒猫に恐怖し、その恐怖を振り払うためにもう一度その黒猫を見つけて『あれはただの錯覚で普通の猫だと確信をもてば怯える必要もない』とずっと探し回っていた」
「それってつまり黒猫の体毛が夜の色に同化して紛れていたから、赤い目を閉じた猫が青年には消えたように見えたって事ですよね?」
「ああ、その通り。冷静になって良く考えれば青年にとってもすぐに分かる簡単な話だ。
実際青年も途中で気付いていて、帰ろうとした。
しかしタイミング悪く、青年が路地でウロウロと何かを必死に探している姿を旧友に見られていてしまった。
脅えきっていた様子の青年に対して、旧友は『何をしているのか』と声をかけた。
旧友に問われた際に、青年は思わず恥ずかしさのあまり咄嗟に『黒猫の魔物を見たんだ!』とつい口からデマカセを言ってしまった。
しかし、その言葉を信じた友人はすぐに街の衛兵に話を通した。そうすれば街中の警備隊の兵士が応援に駆けつけ、更には領内の騎士団までもが出てくる始末になり、いよいよその青年は今更『咄嗟の嘘でした』とは言えなくなってしまった」
「うわぁ……それは……」
いつの間にやら父上が取り出していた珈琲を一口飲み、話を続けようとするが、ちょっとまって欲しい。
いつの間に珈琲なんか用意したの父上?
ずるい私も欲しい。
一人優雅に珈琲を飲む父上を睨みつけていると、「どうぞ」とルキフグスが私に珈琲を一杯差し出してくる。
!! デキる男だ!
いや、デキる男だからこそ宰相に任命したんだけどね。
うん! 美味い!
そして、父上は私が一口珈琲を飲んだのを見計らって、話を続けた。
「そうなると野次馬に来ていた周辺住民。そして騎士団からの情報で領主にまでも噂が広まり、結果として大勢の人々にとってその場所にいるのは【ただの黒猫】ではなく【黒猫の魔物】がいると考えられたのだ。……だが、そうして事実その場に【黒猫の魔物】は現れた。一人の青年が吐いたつまらない嘘一つで命が生まれたわけだね」
「はぇー……」
話を聞いた私は、なんとも間抜けな声をあげてしまった。
父上は私には【世界の意思】と呼んでいたけれど、中々的を射ている表現なのかもしれない。
【お星さんの自然現象】もしくは――【意思なき神】とか?
つまりこれが『この世界のルール』と、単純に言い換えてしまっても良いのかもしれない。
そうして出来上がったのが、あんなヘンテコな組み合わせの世界なのだ。
取捨選択していると父上は言っていたけれど、もしかしてシステムさんってセンスがないのかな?
いや、もしかすると合理性を追求したらあの形になるかもしれない可能性も……?
あまりにも私の記憶からの再現がとても多い気もするのだけれど、それはきっと未完成の世界にイレギュラーとして、私という生命が生まれてしまったからだろう。
そして、その始まりの生命は空の存在ではなく、人一人分の知識を有していた。
だからこそ、意思や無意識の集合知よりも、高い優先度で私の知識が引用されているのかもしれない。
それかもしくは私ってば〝システム〟さんのお気に入りとか!?
まあ、でも『世界の意思』、ひいては『世界のルール』には、父上曰く意思もなにもないようなので、お気に入りも何もないとは思うけどさ……。
けれど物質界である、下界はわりとまっとうだ。
恐らく始まりの空間である霊界は、強く私の影響を受けすぎたのかもしれない。
なんたって、徐々に世界が出来上がる様を目の前で見せつけられたのだ。
対して、物質界である下界は気づいた時にはすでに出来上がっていた。
制作過程に不純物が混じった霊界と、世界が安定してから創られた下界との違いなのかもしれない。
まあ、とにかく私が一生知ることはないだろうけれど、きっとシステムさんにもなにか法則のようなものがあるのだろう。
◇◇◇
ルキフグスは話が一段落した所で『大変貴重なお話をお聞かせくださり――』と丁寧すぎるほど丁寧な礼を述べて、仕事に戻っていった。
宰相としての仕事でかなり忙しいのはずなのにも関わらず、ルキフグスは生まれた理由でもある七大罪のうち――私と四女のベルゼちゃんのお世話担当であり、それを未だに続けている。
そういえばルキフグス達世話役が生まれる時、父上に『お前たち七人の世話役をする悪魔はどんなものが良いか、じっくり考えて、想像して聞かせてくれないかい?』と聞かれた事があった。
その時私が考えたのは、魔法少女の相棒キャラのような、ふかふかのマスコットキャラクターか、ロマンスグレーのイケオジ有能執事系と迷った記憶がある。
そして、なんでも私の真似をしたがるベルゼちゃんは『姉ちゃんと同じのでいい!』といって、結局ルキフグスは私とベルゼちゃんの二人を担当することになったんだっけ――……。
あれ!? ルキフグスってもしかして私が変な想像したせいであの羊形態の悪魔になったの!?
い、いや、まだそうだと完全にきまったわけではないけど――たしかに私は、万能性や付き合いやすさも求めた。
そしてルキフグスは霊界において珍しいほど、しっかりとした悪魔だ。
そして万能でもある。
やっぱり私の意思が介在してるよね……ごめんねルキフグス。
……でもモフモフ…………私は良いと思うよ。
ベルゼちゃんも、モフモフは気に入ってたし……。
あれ? もしや悪魔の個性が強すぎて色々と破綻している理由って、物質界である下界に暮らす人種達の悪魔像が漠然としているわりに、恐怖の対象として強烈だから、とか?
――あり得るね。
…………下界で勤勉な悪魔の啓蒙活動でもしてみようかしら?
ルキフグスも仕事に戻ったことだし、私もそろそろ自分の仕事にでも戻ろうかと考えていると、どうやら、父上の話はまだ終わりではなかったようであった。
「そしてその黒猫の魔物だが、実は真っ赤な瞳をしていたんだ。青年は瞳の色については一切言及していないのにも関わらずに、ね」
「え? それってどういう事ですか? 大勢の人間が信じたから、システムさんを介して命が生まれたのですよね?」
生まれたモデルは、最初の青年が考えたもので固定されていた? でも、それなら青年は魔物がいるはずがないと知っているわけだから、生まれてくる命は魔物になるはずもないし……。
うーん、うーんと唸り声をあげて頭を捻ってみても全く分からない。
ふと、そんな私を父上は優し気に、そしてなによりも嬉しそうにして、私を見つめていることに気づいた。
それは殆ど僅かな表情の変化であったが、長年の付き合いでこれくらいはさすがに分かるようになっている。
「どうかしましたか?」
「いや……なんでもないよ。――――そうだな、先の話、なぜそうなったのか、理とはなんなのか。少し長くなるけどルシフェル。君だけには色々と話しておこうかな」
そういって父上は私の頭の上に大きな手を乗せて、この世界の理というものを教えてくれた。
◇◇◇
霊界を統治していた父上という偉大な創造主は、とうの昔に私へ『この世界を任せる』と言って去っていった。
当時の私はそれはもう悲しんだ。
いつまでも泣いていた。
しかし私も、霊界も、不滅の存在であるのだ。
この霊界にいる限り、死という終わりの概念が存在しない不死の私からしたら、その悲しみも緩やかな時間の流れがいつの間にか解決してくれていた。
流石にどれだけの時間を要したのかは、数えてすらいないけれど。
もしかしたら父上はまた新たに他の世界を創り出して、以前のように楽しく過ごしているのかもしれない。
たまに懐かしく感傷に耽る時はあれど、その事についてもう気が滅入るようなことは殆どなくなった。
父上が去ってからも長女として、私は今までやっていたこの精神生命体が暮らす霊界と、生命体が暮らす物質世界である下界との均衡なんかをずっと調整してきていた。
しかし今では、ルキフグスを始め優秀な部下達にも恵まれたため、そんなお仕事も既に大体の引き継ぎを終えて、私の手から離れていっている。
そろそろが頃合いか、と思いたったのはいつの頃からだろう。
弟妹達にも私の役割を少しずつ振り分け、引き継ぎを任せ始めたのはほんの数百年程前。
六人の弟妹達と、たった一人の親友は自然に生まれた存在ではなく、皆が私と同じように父上によって直接創造された光の玉――卵から生まれた。
それは少しばかし〝特殊な精神生命体〟だ。
――他者の意思によって生まれたわけではない《純粋な生命》。
た、多少、私の意思や無意識が介在しているけれど……。
割合で言えばかなり少ない、と父上が言っていた。
父上とたった二人で歩いていた日々を、ふと少し懐かしく思う。
稀にお散歩中にたまに見かけていた、宙空に浮かぶ光の玉のようなものが、彼ら彼女らだ。
しかし、やはりというべきか私のように、以前の記憶を持つような特異な者は一人もいない。
その代わり……といってはアレだが、やっぱり私の影響もちょっとは受けていたりする。
だって(一人を除き)下の子達もれなく全員悪魔なので。
それは未完成の世界で(父上を除き)、意思ある生命がいるというあり得ざる状態によって生まれた特殊な事情。
そんな特殊事情で、システムさんにより私の潜在的な無意識がちょこっと作用してしまった結果で……決して自身が意図したことではない。た、多分だけど……。
――だって私がルシファーをモデルとした悪魔なら、次に生まれてくるのは大体予想がつくんだもの。
現に後に生まれた弟妹達の全員が私が前世の、人の頃に本で読んだ悪魔がモデルになっている。
もちろん弟妹達や、親友の天使族であるミカイル以外の、その後生まれてくる者達にもそういった特徴は多く現れている。
しかし最近は、私の前世の記憶の特徴を保持した悪魔はあらかた出し尽くしたのか、下界での悪魔像が反映されて生まれてきているような者達が多いようだ。
天使の方はちょっとよくわからない。
現在の霊界は色々あって悪魔族が住む魔界と、天使族が住む天界の二つに分かれている。
そんな天界で天使達を管轄しているのが、私の親友であるミカイルである。
ミカイルはとってもおっとりとした、金髪碧眼のぽやぽや美人さんだ。
けれどなぜだか天使族は、悪魔より遥かに好戦的な者が多かったり、ちょっと怖い存在でもあったりする。
前世の私自身がもしかすると天使たる存在を嫌っていたからなのか、何がどうしてそうなったのかは、まったくもって疑問ではあるのだが……。
――しかし天使族のその好戦的な性格は、私とミカイルにとっては丁度いい存在でもある。
◇◇◇
「さて、では下界の視察へといきますか! それにしてもちょっとドキドキするね!」
長生きした自信はあるが、それでも下界に降りる事は非常に稀なのだ!
精神生命体が下界である物質界で安定して存在するには、下界にいる生命体への受肉が必要である。
受肉せず下界に顕現した場合は、霊界本来での力の半分程度しか力が出せないうえ、顕現出来る時間も非常に少ない。
精神生命体が下界に受肉する際は、下界の数多の生命体の命が必要である。
下界側から、生贄を用意して受肉を請われるなどの呼びかけがなければ、特殊な例外を除き、まともな受肉をすることはできない。
大幅な弱体化をしても構わないという前提があれば、適当な人種の肉体が一つあれば受肉自体に、難しい技術は必要なく簡単にできる。
ただその際、力のベースは完全にその肉体と同程度にまで落ちてしまうため、人種の死体が相当な数でもないかぎり、何千何万年と生きて魔力を蓄え続けてきた悪魔や天使にとっては、人がアリに憑依するようなものである。
そしてそんな安易な方法で受肉して下界で命を落とせば、不死の存在である精神生命体でも消滅は免れない。
時間が経てば誰かの記憶からなのか、世界の記憶からなのか、システムさんを介して霊界で復活する事もあるらしいが、その際は生まれたて同然の存在として発生するため、また何万年と霊界でコツコツと力を蓄えなければならない。
そんなわけだから、強力な肉体を得られるなら兎も角、そんな事をしてまで下界に降り立つような奇特な精神生命体は悪魔にも天使にも存在しない。
しかし始まりの悪魔である私にいたっては別である。
父である神に直接創造され、イレギュラーとして生まれ、そんな父を最も隣で支え続け、近くで見てきた私は、霊界においても下界においても文字通り〝格〟が違う。
〝理〟を理解した生命体は神格者となる。
現在の神格者は〝七大罪〟と呼ばれる私含む悪魔族七名と、ミカイルとその部下である天使四名の計十二名だけだ。
そんな神格者に名を連ねる私は、下界からの呼びかけなど無視して下界に顕現することも出来るうえに、死体の一つでもあれば弱体化せずに受肉することもできるのだ。
しかしこの弱体化しない受肉方法には、ちょっとした裏技が必要である。
裏技とはいってもぶっちゃけてしまえば、誰でも考えつくはずの技術なのだ。きっと。
しかし皆がそのやり方に気づいていないのか、それとも実は本当に高度な技術を要するためにできないのか…………。
それは分からないままではあるのだが、あまりこの事を広めても良いことにはならないのだろうと思う。
だから、現在の神格者達以外にはこの方法は話していない。
もし私以外の誰もが気づいていないだけで、本当にこれが誰にでも出来る技術であるのならば、今後の世の中は予想もつかない状態で、霊界も物質界も上から下までの大混乱に陥るかもしれない。
たとえ高度な技術を必要とするものであった場合でも、時間だけはたっぷりある種族が精神生命体なのだ。
誰かしらが技術の簡易化を研究する可能性がないともいいきれない。
だからこそ私は、そのやり方を秘匿しようと、神格者達の間でそう決めた。
でもなんとなくだけど、このやり方は理を理解した者でないと出来ないような気がする。
だって高次元種族の父上が創り出した世界なのだ。
そんな簡単に破滅へ向かうような構造であるはずがない。
けれど理を理解し、神格者となる者は今後も増え続けるはずだ。
今はまだ十数名。
話し合いで簡単に方針の決定ができる。
けれどそれが数百、数千になった場合は?
とりあえず下界に降りれば、私はただの人種の身。
今と違って面倒な仕事もないのだ。
暇な時間も今よりはあるはずなのだから、その間にでもこの事についての対策も今後のために練らなくてはいけないかもしれないなあ……。
他にも色々と問題もあるし…………ああ、やばい。
ワーカホリック気味かも知れないな、私。
ま、まあ! よしッ! 下界に降りる決心はとうに決まっている!! ウダウダと管を巻いていたのは、ちょっと怖いから、とかそういう事ではないのだ! 決して!! さ、いざ行かん! し、し新天地へと!!
◇◇◇
荘厳な城の最奥にある一室。
重厚な両扉を開いた先には、霊界で地位ある悪魔が下界に顕現する儀式を行うためだけの部屋があり、床も壁も天井までも神術陣でビッシリと埋め尽くされている。
神術とは、理を理解した神格者のみが扱える術式であり、それを陣として設置することで、神格者ではないものでも、誰もが簡易的に神術の恩恵を受ける事ができる。
ここは単純な顕現だけでなく、受肉するため魂という精神的エネルギーしか持ち得ない精神生命体が、魄と呼ばれる物質界特有の肉体的エネルギーを獲得し、魂と魄を『一つに融合』するための儀式の間としても使われる。
物質界では魂だけではなく、魄が必要であり、それが精神生命体が長時間下界に顕現できない理由でもあり、精神生命体が受肉の際に物質界の生命体が必要な理由の一つでもある。
二つのエネルギーを融合することで魂魄というエネルギーが身体に確立され、下界で自由に動く事が出来るのだ。
いよいよ肉体的エネルギーである魄を得るため――受肉の儀式を行うべく、私は精神を集中させる。
自身にとって最も相性の良い肉体を検索――――見つけたっ!
けど、赤子!?
どうしよう……相性はハチャメチャに良いはずなんだけど、もし亡国の王族の子とかで、メイドに抱えられながら、追われたりしている真っ最中ならそこでゲームオーバーだよね…………。
いや、逃げるくらいは出来るかもしれないけれど、赤子としての肉体が保つかが怪しい。
というか、そんな滅多にないシチュエーションを妄想しても仕方がないね。
でも、前世の物語では良く見かけたから……。
だから、ついつい二の足を踏んでしまう――いや、違う。
『赤子かあ……最初は不便そうだなあ……』ってのが正直な感想だ。
――だってこの子まさに今生まれる寸前なんだもの。
そして、このままだと生まれてすぐに死ぬ定めの子。
………………うん!
人生は博打!! と父上が言ってたような気がしないでもないこともないかもしれないし!
なるようになるでしょう。うん、うん。
別に? 物質界が怖いわけではないけどね?
通称が下界だよ? 下々の者達が住まう世界よ? 私、神格持ち。つまるところ神様。しかも今のとこ、実力や権力的にいえば最高神。
うん……行けそうな気がしてきた。
よしッ! このノリのまま勢いにのって行こう!!
「さあ、哀れな一つの水子よ。既に役目を終えた貴女の根源たる魂は、今霊界であるこの場に漂っているわ。二度と元の肉体には帰れない。諦めなさい。けれど朗報が一つ。
その空いた肉体という席を、私に献上することが出来る事を誉れに思うといいわ。
貴方の魂の残滓も余すことなく貰っていくわ。これで殆ど黄泉返りのようなものね、貴女はとても幸運よ、ふふっ」
ぶわりと長い黒髪が舞い、私の周囲に無数の陣が展開され明滅しはじめる。
その時ふと、気配を感じて横目で気配の方を見やると、そこには弟妹達と、たったひとりの私の親友である〝天神ミカイル〟とその部下達が泣きそうな表情で、扉を少し開けてこちらを見守っているのが見えた。
たった数百年程度の予定だから、見送りはいらないと言ったのに……。
あの子達ったら…………アレ?
も、もしかして今のセリフも全部聞かれてた?
でも、なんかしんみりしてる雰囲気があるし、聞かれていない可能性もある。
ど、どうしよう。恥ずかしいなんてもんじゃない……。
いや、そうだ! 逆にこのテンションで押し切ろう! 遊んでたという事にすればいいんだよ!!
「貴女達もたまには遊びに来てもいいのよ。その時はこの私が直々に下界を案内してあげるわ。なによりの名誉に咽び泣いても良くてよ? オーホッホッホ!」
六人の愛しい弟妹達と、最大の友らの表情は困惑であった。
だよね。ちょっと気が動転してたかも。
「ごめん、冗談」
私の意識は、そこで暗転するように途切れた。
◇◇◇
目が痛くなるほど眩しい光のせいで、目が開けづらい。
そもそも瞼の筋力が、上手く機能しない。
自身を上手く制御出来ない感覚。
この不快感は、父上に生み出されたばかりの頃と少し似ていて懐かしく感じる。
といってもあの頃に関しては、未知の肉体を動かす不便はあっても、不快感はなかったが。
〝法術〟を使って視界を確保するのもいいかもしれないけれど、もしこの場に法術を正確に探知出来る者がいれば、その手段も憚れる。
神術は言わずもがな、余りにも消費する魔力が多すぎるし、それによって生まれる反応も大きいから、まず下界で使う事は余程緊急事態でもない限り、扱う事はないであろう。
それでなくとも先程、受肉する際のほんの一瞬だけ自身の魔力の隠蔽制御に手こずって、魔力の残滓である魔素を少量だが周囲にバラまいてしまった。
恐らくただの人種程度には気づかれない程ではあったものの、強力な存在が近くにいたら絶対に察知されていた。
危ない、危ない……少し油断していたかもしれない。
言い訳をさせてもらえるのならば、私だって初めての受肉なんだから、そういうこともあるよね……しかも受肉先は赤ん坊なのだ。
仕方ない。
不自由は窮屈ではあるけれども、悪魔だとバレるよりはマシなのでしばらくは人間の赤ん坊として、この身を不自由な流れに委ねよう。
「な、泣いていないぞ! 呼吸もしていない! 早く治癒を!!」
「はっ、はい!!」
しまった……。
泣くどころか、ずっと必要もなかったせいで呼吸も忘れていた……。
ほんのり温かい〝治癒の法術のようなもの〟を受けて、いかにも『治癒法術モドキのおかげで息を吹き返しました』というように呼吸をして泣き声をあげる。
――しかし、これは……いや深く考えるのはあとにしよう。
兎にも角にも私の羞恥心を押し殺した泣き声で、周りがホッと安堵の息を吐く音が聞こえた。
「ふぅ……良かった。フィーリャ、どうやら無事に産まれてくれたようだぞ」
「ええ、ツォルン。それに女の子だわ……もしかすると次代当主にふさわしい逸材かもしれないわ!」
おそらく今生の父と母であろう二人の会話。
本来ならば聴覚はまだ完全ではないものの、隠蔽済みの魔力で代替して脳を完全に働かせているからか、言葉はしっかりと聞こえてくる。
視界確保の法術とちがって自身の体内のみで完結するこの技術は、法術とはまた別の技術であり、そして単純なもの。
しかし自身の魔力を察知されない程に、魔力を微小に動かすという魔力制御の極み。
悪魔として長年の研鑽の末の単純な技術。
恐らくこれならば、どれだけ腕の立つ法術士であろうと、見破ることはできまい。
ふはは! 伊達に長く生きてはいないのだ!
それよりも……次代当主ということは貴族か何かなの……?
けれど確か人種の中でも、とりわけ人間の間では男児が優遇されていると認識していたけど……まあ、そこまでこまめに下界を見ていたわけでもないし、色々な社会的慣習が変わっていてもおかしくはないか。
泣いて意識的に呼吸をして、忙しない周りの会話から様々な情報を得て、考察して、と忙しくしていると、ドンっと鈍い何かがぶつかるような大きな音が聞こえた矢先、一人分の足音が増え、こちらに近づいてくる。
恐らくドアを乱暴に開けた音か何かだったのだろう、とあたりをつけた。
本当に今は殆どただの赤ん坊としてしか機能していないので、普通にビックリした……。
勘弁してください……。
どこのだれだか知らないアナタさ……ま……?
「あッ……ああッ……! す……素晴らしいィ!! ああ! ああ!! ああッ!!!! ようやく……ようやくお会いすることがっ!!」
これは……何……? 気配からして人間ではないみたいだけれど……?
とにかく魂魄がバカでかい……。
そして魂魄に収まっている保有魔力も膨大なのにも関わらず、一切の無駄なく魔力を循環している技術力……。
大悪魔……いや、受肉せず下界に降りた悪魔は、自身の存在が半分程になる事を考えると、高位悪魔と同程度くらいかな?
これは…………もしかしてかなり不味い?
まだ赤ん坊の身では本気を出さねば勝てる相手じゃない……むしろ本気を出してしまえば体が持たないし……え? 詰んだ?
けどこの娘から悪意や害意をまるで感じないし…………どころか父上に似た安心感を感じる? なぜ? why? 何かが私とこの娘を繋げている?
――ああ、考える事が多すぎる……さっきの治癒モドキの事だってゆっくり考えたいのに。
精神生命体が受肉体に囚われたまま死を迎えると、消滅してしまうのというのは大原則であり覆らない絶対のルールの一つだ。
それが多くの悪魔や天使が、下界という魂いっぱいのパラダイスで、安易な受肉をしない理由の一つでもある。
精神生命体は文字通り魂のみで、構築された生命体である。
霊界で自身を高める方法は、殆どが精神修行だ。
他者を倒した所で戦闘技術は上がっても、別に魂は増えない。
成長するためには、ただ生きていればいい。
霊界とはそこに住まうだけで緩やかにだが、自身の存在を成長させてくれる。
だからこそ、長生きしている悪魔ほど強い傾向にある。
しかし下界では違うやり方ができる。
――他者の魂を奪い取れるのだ。
数多の生命体を殺戮し、魂を喰らい吸収することができるため、その分魂で出来ている自身が強化される。
しかし魄を持たぬ精神生命体は、下界での活動時には一時的に魂が半分程にまで落ちる。
それはすなわち、自身の存在が半分になる事と同義。
戦闘技術や有した知識は保てていても、魔力量やその出力、あらゆる戦闘能力は霊界とはまるで比べ物にならないほど落ちてしまう。
それは魂の半分が一時的に、魄の代わりのような役割をする事に、リソースが割かれているためだ。
とはいえそれはあくまでも〝代わりのようなもの〟。
そのため、長い間下界に滞在する事は不可能なのである。
そしてそんな状態で討伐された場合、受肉したわけではないので、消滅はしないものの霊界に戻った際、〝魄の代わりとして費やしていたリソースぶん〟の自身の力は失うというデメリットも存在する。
要するに下界に顕現した実力半分と、同じ状態になって霊界に戻ってしまう。
そのため本来悪魔や天使が気兼ねなく狩りを行えるように、受肉を目指す際にはまず下界の生命体を、生贄として求める。
それは霊界での自身の強力な魂に匹敵するだけの、多数の肉体エネルギーである魄を求め、それが自身の魂と、集めた魄のバランスが均衡を得た時、ようやく魂魄として融合し、下界でも不自由のない完全受肉体としての生活を送れるのだ。
ただし、何度も言うが、受肉を果たした状態での死は消滅と同義。
消滅の後に霊界で自然発生しても、それは下位か中位の悪魔からのスタートとなる。
しかしそれでも完全な受肉をした悪魔や天使は、下界では強力無比な力を誇るので、完全受肉体が消滅されるなんて、余程のポカをしなければまず避けられる。
そして下界無双をして多くの魂を得たのち、肉体を捨てさり、霊界へと帰還すれば、霊界での自身の格や地位向上に繋がるので、受肉を目指す悪魔や天使も一定数いる。
そして何より魂を得たいというのは、悪魔にとって最も根源的な本能のようなものでもある。
つまり私は今、完全受肉を果たした、瀕死に近い赤子状態で強者の前にいるという、〝余程のポカ〟のBADEND√にハマってしまっている。
誰だ! 『人生は博打』なんて父上が言ってたとか妄言吐いた奴は!!
私だ! こんちくしょう! どうしよう肉体を捨て去って一度逃げるべき? でもそれは受肉時の儀式と同じ程度には時間がかかる。
ましてや、今は魄という慣れないエネルギーを所持してるうえ、赤子の状態。
下手すれば失敗もありうる。
けど……。
殺意どころか悪意もない……とういうより好意や思慕、むしろ崇拝の念まで感じる……。
私、赤子で今出てきたばかりだよ? どうなってんの? 生まれてすぐに好感度マックスっておかしくない?
どうしたものか、と考えていたがこのままでは埒が明かないので、限りなく隠蔽した法術を使って、目を閉じたままであろうとも、一定空間内のあらゆる情報を知覚する術で、その声の主である白と黒のメイド服姿の女性を認識する。
なぜだろう……彼女はなぜか両膝をついており、さらには両手を組み、赤色の涙を滂沱しながら、私に対して祈りを捧げていた。
これは……逃げなくても大丈夫かもしれないね。
――い、いや、それよりも重要な事もある。
後ろに編み込んで纏めた白銀の髪。
紅色の宝石のように輝く瞳。
歪みのない端正で中性的な顔立ち。
鮮血の涙。
そして決定的なのがこのメイドの魂魄から得られた情報。
まさしく純血の吸血鬼だ。
まさかまだ現存する個体がいるとは……これは驚きだった。
私自身とっくに絶滅した種だと思っていたし、なによりこの吸血鬼はただの吸血鬼ではあり得ない魔力を持っている。
ましてや人種の中でも、人間のみを狙って襲う代表のような妖魔が人間に仕えている?
ああ、そういえば例外を忘れていた。
――もしかして……本当に〝アレ〟をしているのならばこの反応にも、私と繋がりが有ることにも頷ける。とても低いが可能性はある。そして彼女の庇護の元で、私は脆弱な赤子状態でも安全な環境を得られる事ができる…………。割りとアリなのでは?
「リア様……ではまさか……?」
母と思われるフィーリャという女が戸惑いながら、祈りを捧げるメイド、リアへと問う。
その声にはリアに対する、若干の呆れと驚きが入り混じっている。
「ええ! ええ! よくやりましたわフィーリャ!! この御方こそ今代における我が主様!! 契約に従い、この尊き御方のお名前は〝ルーナ〟様といたしますわ!」
リアと呼ばれた吸血鬼の唐突なその宣言に、周囲の人間たちから息を呑む音が聞こえた。
「なっ! 貴様ッ! それは初代カルローネ様の名だぞ! 不敬にも程がある!!」
恐らくは息を呑んだうちの一人であったであろう、今生の父ツォルンは赤子がいることを忘れているのか、それとも眼中にないのか、喉がはちきれそうな程の大声でリアを糾弾する。
対して糾弾された側のリアと呼ばれる吸血鬼は、その怒声に一切躊躇することもなく、冷めた眼をツォルンに向けているだけであった。
「黙れ下郎。ルーナ様の御前だぞ。お可哀そうに……萎縮してしまっているではないですか」
「うっ……」
どちらかというと、ただの人間の大声より、バカみたいな魂魄を持った吸血鬼に対して萎縮しているわけなのだけれど……。
リアの威圧に言葉を失った様子のツォルンだが、冷静になってみれば彼の周りには侍女の大勢が一室に詰めており、未だ言うべきか言わざるべきか口をパクパクと動かし、次第に閉口するかと思われた。
しかしそれでもまだ憤慨しているのか、大きく息を吸ったツォルンは、もう一度糾弾すべくリアを睨みつけ、またしても何かを言い募ろうとした。
しかしそんな矢先にリアがツォルンに対して腕を真っ直ぐ伸ばしその手の平を向け、これ以上の問答は無意味、と暗に告げ、静止させる。
「そもそもこれは契約の範疇です。この御方を名付ける権利は私にあります。それこそ初代のルーナ様との盟約。それに意義を申し立てするのならば、旦那様こそが不敬と言わざるを得ないのでは?」
「……っ!! 道具の分際でッ……!」
未だ激昂した様子のツォルンに、冷たい声色でメイドのリアが威圧すると、ツォルンは憎々しげにチッと大きく舌打ちしたのち、捨て台詞を吐いて部屋を出ていってしまった。
部屋に詰めていた侍女達は、主であるツォルンが部屋を出ていった事にほっと安堵の息をはいていた。
――ああ、なにやらとても面倒な家の子に受肉してしまったようだ……。
※神術※
神格者のみが扱う事のできる術。
※法術※
魂魄のうち、魂の器である魂器に宿った魔力だけで行使する術。