聖女の信仰
わたくしの乳母は、正妃である母の親類であるという事と、母乳が出る特異体質という事で、ザーラという女性が選ばれた。
魔力量が豊富な者は生後数ヶ月の幼児であろうとも、脳のリソースを魔力が代替してくれるため、高度な会話であっても理解出来る、というのが常識である。
しかしそれは高位貴族や王族の中でも魂魄が強く、魔力を多く溜め込めるだけの下地があってこそ。
だからそれは、高位貴族達の常識であり――多くの貴族や平民達の常識ではない。
ザーラは優しく、綺麗な女性であった。
自分の娘であるかのように、わたくしへと精一杯の愛情を注いでくれていたと思う。
エルフの血が少し混じっているらしく、当時八十歳という年齢であったが、その見た目はヒューマン基準では三十代前後にしか見えない程若々しかった。
そんな彼女は優秀な乳母であると同時に――熱心な〝悪魔信仰者〟でもあった。
そのため、よく寝物語代わりにわたくしに話してくれていたのは、多くの悪魔達の話。
ザーラ曰く『悪魔程平等な種族はいません』『彼らは徹底した契約主義者であり、それは絶対のルールとして定められているのです』『愚かな人種が後になって、対価を支払うのが惜しくなり、ゴネた結果、鉄槌がくだされたりする事も過去には多くありました。しかし、正当な対価さえ与えれば、彼らは素晴らしい知識を授けてくれるのです』『乱世の時代では多くの悪魔召喚が行われました。戦争に悪魔を利用したのは人種であり、命令したのも人種。けれど直接手を下したのが悪魔であるから、人は悪魔を恐れるのです』
「――愛しい、愛しい、ミーラン王女殿下。貴女様は将来、広い視野をもって思考し、些事に囚われず、真理を見抜き、自由に行動し、そして誰よりも純粋な可愛い子でいて欲しいわ」
発声器官の発達が遅いため、そんなザーラへわたくしは返事をすることはなかった。
だからこそ、殆どのそれはザーラの自己満足による一方通行のお喋り。
きっと元々がお喋りが好きなタチだったのであろう。
わたくしがその内容を理解しているとは気づいていないのにも関わらず、いつもわたくしに優しい口調で語りかけ続けてくれていた。
――そんな彼女がわたくしに聞かせた多くの悪魔の話は、わたくしを魅了した。
彼女の語り口が上手かったのだろうか、それとも寝物語代わりに聞いていたから、安心感と悪魔の話がイコールで繋がってしまったのかもしれない。
けれどそんなことはどうでも良く、とにかくわたくしは物心ついてすぐに、悪魔という存在を夢想し、憧れ、羨望した。
ザーラのもつ悪魔の知識はとても豊富だった。
少しだけエルフの血が入っているヒューマン寄りのザーラの方が、長寿で物知りな純血のエルフよりも、遥かに悪魔についてとても詳しかったように思う。
わたくしが拙いながらも、次第に言葉を話せるようになるにつれて、ザーラは悪魔の話をしなくなった。
幼い泡沫のような朧げな記憶と共に、一方通行のお喋りも、共に消えていくとでも思っていたのだろう。
けれどわたくしは記憶している。
そして何よりその話をもっと聞きたいと願っていた――。
三歳になったあたりからだろうか。
ようやく自身の立場を理解し始め、他者からの印象を気にするようになったのは。
わたくしは自身の性質を良く知っている。
人は自分の事ほどよく見えないモノだと言うが、わたくしは自身を客観視することにかけて、とても長けているのだと思う。
わたくしは常に擬態し続けなければ、生きてはいけない人間なのだろう。
周囲に愛嬌を振りまき、年相応の行動を取って、自身が最大限魅力的に映るよう演技をしながら、心の中ではいつもザーラの話してくれた、悪魔の話を何度も何度も反芻していた。
わたくしは善の気質ではないのだと思う。
かといって悪の気質であるのかと問われれば、それもまた違うように思え、返答に窮してしまう。
王族の中でわたくしが本心から慕っているのは、同腹の兄や姉ではなく、第二王子のアロガン兄上と、第四王子のネロ兄上くらいのもの。
ネロ兄上の方はともかく、アロガン兄上に対する世間からの評価はすこぶる悪い。
王家伝来の虹瞳を引き継いだのにも関わらず、あまりの悪評は到底払拭出来るようなものではなく、次代の王には決してなれないだろう。
粗野で粗暴。
プライドが高く、自身の傲慢さを隠すことなくひけらかす。
奴隷を買ってきては剣闘士ごっこと称して、地下の秘密の部屋で殺し合いを楽しんでいる。
平民は人ではないと考え、それを玩具として買ってきては甚振って遊ぶ。
理性がない獣と称されるほど刹那的な享楽に耽る。
政治能力は皆無に等しい。
しかし傀儡としてはちょうどいいので神輿にされ、そこそこの派閥を築いてもいる。
けれど多くの貴族だけではなく、平民にまでもアロガン兄上の悪名は轟いているため、次期王になれないのは確実だろうに。
それでも一定の派閥があるのは、純血主義であり、虹瞳を継ぐものこそが次代の王であると信じて疑わない、頭の凝り固まった老人達によるもの。
多くの者達はアロガン兄上をそう見ている。
しかし実のところアロガン兄上は決して頭が悪いわけではない。
むしろ柔軟さも兼ね備え、あらゆる思索に耽るような人だ。
自身が利用されているのも分かっていて、あえて気づかないフリを続けている。
ただアロガン兄上は、自分の趣味が他人に理解されないものだと気づいた時には、既に手遅れだっただけ。
だからこそ吹っ切れて、好き放題にやっている。
血の濃さ故か、王家には稀にこういった一部の感情が欠落した人物が生まれる。
――それはきっとわたくしも同じだ。わたくしも、きっと、どこか壊れている。
ザーラの話を聞いていたせいか、多くの人が忌避する悪魔に、どうしようもなく憧れてしまったのだから。
ザーラは言ったのだ。
『悪魔程平等な種族はいないのです』
わたくしはザーラの言葉を胸に刻み込んだ。
ザーラはこうも言っていた。
『乱世の時代では多くの悪魔召喚が行われました。戦争に悪魔を利用したのは人種であり、命令したのも人種。けれど直接手を下したのが悪魔であるから、人は悪魔を恐れるのです』
その言葉に間違いはないのだろう。
わたくしが今生きているこの世界では、確かに悪魔召喚が日常的に行われている。
そして戦争においても、悪魔召喚が活用されてきた歴史がある。
けれどそれは、あくまで手段の一つに過ぎない。
悪魔が恐ろしい存在であることは変わらない。
けれど、それが全てではないのだ。
表裏一体。すべての物事には裏と表があり、混じり合っている。
彼らは善でも悪でもないのだ――その中庸というべき有り様に、どうしようもなく心惹かれた。
それこそ初恋のように恋い焦がれたのだ。
アロガン兄上はその虹色の瞳で、わたくしとネロ兄上の本質を見抜き、いち早く同志として、優しくわたくし達を迎え入れてくれた。
「俺が直接お前らに会うのは、お前らのためにならんからな。秘密の通り道を教えてやる。そこで深夜に三人で集まって遊ぼうぜ」
王国の長い歴史の中でも、似た価値観を持つ『欠落した王族』が、三人も同時期に現れたのは奇跡だと、ネロ兄上は語る。
その瞳には兄への尊敬と、妹であるわたくしへの慈しみが湛えられている。
アロガン兄上とネロ兄上は、特に良く似ているように思う。
他者を甚振る事に快感を覚える――天性のサディスト。
ネロ兄上は、アロガン兄上を見て育ったために、擬態することいち早く学んだ。
わたくしもアロガン兄上の悪評を聞き、人に好かれる振る舞いを心がけるようにした。
わたくし達の反面教師としての恩人が、アロガン兄上である。
もし、わたくしやネロ兄上が先に生まれていたら、アロガン兄上と同じ失敗をしたかもしれない。
わたくし達三人は、深夜に秘密の通路を通って集まっては、夜のお茶会と称して、秘密の地下室で遊ぶのが恒例であった。
どこからか連れてきたのか、綺麗な顔立ちをした平民を連れてきては、甚振って遊ぶネロ兄上とアロガン兄上。
わたくしは他者を甚振る事に快感を覚える質ではないので、それよりもその人体の構造が知りたかった。
そう伝えると、アロガン兄上は、獣の解体処理を教えるようにして、優しく、そして丁寧に、より長く人を苦しめる方法や、人体の急所等を教えてくれる。
ネロ兄上は、その講義の時間よりも、実技の時間が大好きなようだけれど、わたしはあまり興味がない。
いつの頃だったかアロガン兄上が、その虹色の瞳を用いてわたくし達の本質を語ってくれた。
『ネロ――お前は俺と同じで、命の重さや軽さのバランスが崩れていく様を見ることに、快楽や爽快感を覚える、俺と同じタイプだ。けどミーラン、お前はちょっと俺達とは違う。ミーラン、お前は怖いくらいに純粋だ。何色にも染まれるし、何度でも染め直せる事が出来る、とても異質な純粋さ。染め直せない程焦がれるような何かを見つけられないと、死ぬためだけに生まれたような空虚な魂を持っている。ミーラン……お前は俺たちなんかよりもずっと、人の社会ではひどく生き辛い事だろうな……可哀想に』
そういってアロガン兄上は大きな手のひらで、優しく頭を撫でてくれる。
それを聞いた時、わたくしは歓喜した。
――ああ、それでは、まるでわたくしも悪魔のようではないですか。
人の皮を被った精神の悪魔。
けれど、二人の兄上はそんなわたくしを純粋に妹として可愛がってくれている。
深夜のお茶会はわりと好きだ。
取り繕う事もなく本来の自分でいられるし、兄上達はわたくしの本来の性質ごと、まとめて愛してくれている。
この時間はきっと、わたくしにとってかけがえのないものだ。
けれど、いつかこの時間が終わるときが来るのだろうか? その日が来ない事を願いながら、わたくしは今日も、深夜のお茶会で兄上達と共に過ごす。
◇◇◇
七つの時にわたくしはザーラの行方を探し出した。
目的は悪魔信仰――サタニストに入信するためだ。
噂は大分前から知っていた。
長命種であっても『いつから存在しているのか分からない』というほど長い歴史を持ち、大陸中に根を張る組織だと。
所詮は偽りの信仰を掲げた、ただの犯罪組織だと思っており、気にもとどめていなかった。
しかしわたくしが六つの頃、サタニストが王都内で大暴れした事件が起きる。
その日の《深夜のお茶会》は、地下牢に捉えられた人物を、観察しにいくことだった。
アロガン兄上が『ソイツの本質をこの虹瞳を使って見たいな』と言い出した事が発端。
そして虹瞳を持つ者にしか見えぬ秘密の通路を伝って、件の犯罪者が捉えられている牢の真上に着いた。
小さな覗き穴から見た彼の第一印象は、どこか親近感を覚えるものであった。
兄上も「少しだけだがミーランの魂魄に似ている部分があるな……」と呟いた事から、それは気の所為でなく確信に変わった。
わたくしと地下牢の男との間には共通した何かが、あるのだろう。
暫くの間、覗き穴から親近感の湧く理由を探して、男を凝視していると、彼の首元に見覚えのある入れ墨が見えた。
六対で十二翼の漆黒の翼を持つ蛇の入れ墨。
それはザーラが脇に小さく入れていた、入れ墨と同じものであった。
カチリと、パズルが綺麗にハマったような感覚がわたくしを覆う。
ザーラのあの豊富な悪魔の知識は、サタニストから得たものではないのだろうか?
だとすると、ザーラもサタニストということになる――。
ただの偶然という線も捨てきれない。
けれどわたくしはザーラがサタニストであるのだと本能で確信した。
そう考えるや否やわたくしは、自身の価値を高めるべく行動を開始した。
戦地後方で医療従事者として参加し、献身的に働き、回復魔法をかけてはすぐに次の病人の元へ。
侍女や護衛の反対を押し切って、魔力が空になるまで使い、気を失う。
それでもまた目を冷ませばすぐに回復魔法を使い、何度も何度も体内の魔力を空にする。
侍女達に泣いて止められたが、美談とするにはこれくらいやらないとダメだと思った。
意識して魔力が空になるまで魔法を使って気を失うというのは、自身の首をナイフで何度も突き刺すような覚悟が必要である。
無意識下で常に行われている防衛機制を突破するのには、死をも恐れない相当な胆力が必要であった。
そうして得たものは予想よりも大きい代物で返ってきた。
『エーレサント』という新たな名誉爵位を貰い、聖女としての名声を確立する。
ただの大国の姫という肩書だけでは、些か足りないと思っていたのだ。
これでサタニスト内でのわたくしの価値も高まるはずである。
後はザーラを仲介にして、サタニストへと接触を図るのみ。
意外にもザーラの行方はすぐに分かり、わたくしは久しぶりにザーラと対面する事となった。
「大きくなられましたね、ミーラン王女殿下」
涙ぐむザーラ。
彼女はわたくしに対して、実の娘のような感情を抱いている節がある。
それもそうだろう、なにせわたくしが幼い盛りには、常に共にあったのだ。
乳母という存在は、王侯貴族にとって実の母より、よほど母親であるのだ。
久々の再会に、わたくしにも多少の感慨はあった。
「ザーラ、久しぶりにギュッとしてくれないかしら」
「あらあら、ふふ。ミーラン王女殿下の頼みとあっては仕方有りませんね」
自然な上目遣いで両手を広げると、ザーラはわたくしの身長に合わせて膝をつき、ハグを交わしてくれる。
この自室には、今はザーラとわたくししかいない。
それはわたくしが乳母であるザーラに甘える姿を見られるのが恥ずかしいから、という理由で無理やり侍女達に席を外させることに成功したからだ。
侍女達も『王女といえど、たまには気の置けない、親の用な存在に甘えたいのだろう』とどこか微笑ましげ。
ザーラはわたくしの乳母であったため、危険は少ないと判断されたこともあっての特例だ。
けれど、万全ではない。
扉の前には未だ他の侍女や護衛が複数待機しているし、もしかしたら今も何処かで監視されているのかもしれない。
万一があってはいけない。
チャンスは少ないのだ。
だからこそ必要以上にギュっとザーラに密着し、口元を隠して、言葉静かに告げる。
「ザーラ、わたくしサタニストに入りたいの。どうすればわたくしも同志として認められるの?」
その問いにザーラは一瞬肩を跳ね上げ、すこしの間逡巡する。
「――もしや、幼少の頃のお話を全て覚えておられたのですか……?」
「もちろんよ。何度もザーラのお話を心のなかで反芻していたのよ」
未だハグは交わしたまま。
ザーラの表情は見えない。
しかしザーラは暫く沈黙したのち、なにかを決めたのか、一度小さくうなずく。
「それでは今夜の――夜更けの時間帯に、ミーラン様のお部屋に我らが同士がお邪魔いたします」
「え? でも、それは難しいのではなくて?」
「ふふ。サタニストにとっては容易い事なのですよ」
ハグを終えて離れたザーラは、静かに涙を流していた。
愛する我が子のような存在が、自身と同じ信仰を持つことへの感涙。
その感情が手に取るように分かる。
――わたくしには虹色の瞳がないのにも関わらず、なぜか相手の考えが『理解』できる。
◇◇◇
――深夜。
半信半疑であったが、客人を用意するための椅子を一人で整える。
どれだけの数が必要かは分からないので、部屋にある椅子を片っ端から適当に並べる。
深夜の寝室にはわたくし一人しかいない。
しかし扉一枚隔てた先には、寝ずの番の護衛が待機している。
どうやって来るのだろうかと考える間もなく、その人達は現れた。
「まさか聖女と名高い王女殿下が我々と同じ神を信ずる同志であったとは。幸運でありますな」
「聡明であらせられるからこそ、この偽りだらけの世の中で、か細い糸の真実を掴み取られたのでしょう」
「然り、然り」
部屋の中に突然現れた彼らは、わたくしが用意していた椅子に自然に座っていた。
皆が黒を基調とした、赤い装飾が施された独特の祭服を着ている。
祭服といえば白が当然で、高貴な色という意味合いでは黒い祭服もあるのかもしれないが、そこに忌み嫌われる赤い文様をわざわざ施しているのが珍しい。
「おや? この祭服が気になるのかい?」
「――えっ、あっ、はい」
「これはルシフェル様の黒の髪に、紅い瞳を模したもの。悪魔の方々はみな紅い瞳をしているのですよ」
「そうなのですね! 知りませんでしたわ! わたくし今までザーラのお話しか聞いてこなかったので――」
なるほどと感心し、そして興奮した。
そんな些細な事でさえ、悪魔に対する知識が増える事に、喜びを覚えたのだ。
こんなにもワクワクする感情は、生まれてこのかた初めてなのではないだろうか。
そしてそんなわたくしの様子を見ていた、この場に現れた七人はみな満足気である。
その視線を一手に引き受けているのに気付き、羞恥の感情から一瞬で冷静になる。
自身が大きな声を出した事に今更ながら気づいた。
あまりにも興奮しすぎていた。
普段であれば、このようなミスは絶対にしないはずであるのに――浮かれすぎていた。
自身を叱咤するように大きく息を吸って吐いて、頭の中を一度真っさらにする。
「隣には護衛が待機しているのです。ですので、どうか小声で――」
そこまで言った所で、一人の老女が愉快そうに笑う。
「ハッハッハ、なに、心配いらんよ、王女様。この場には遮音の結界がはられている」
あまりに簡単に答えたが、それは凄まじい技量である。
大国の姫として、あらゆる強者を見てきたわたくしであっても、理解の範疇にない本物の実力者たちだ。
大国の城へと容易に忍び込み、高位の魔法である結界術が行使された瞬間すら分からなかった。
わたくし自身、魔法師としての適性は高いように思えていたが、まさにそれは次元の違う差であった。
よもや、これこそが大陸でも十数人しか行使できないとされている、法術なのではなかろうか?
「さてミーラン王女よ。貴方の信仰する神は何だい? 悪魔か? 金か? 地位か? 名誉か? それとも力か?」
七人のサタニスト達は祭服の上に王族クラスが使用するような質の良いローブを纏っており、フードを深く被っているため、暗がりの中にあって顔は一切見えない。
しかし、この問いかけで声色が変わったのは分かる。
恐らく神聖なものなのだろう、と直感的に理解し、わたくしは自然と膝をつき両手を組む。
「畏れ多くもわたしの信奉する神はルシフェル様、その人であります」
「あら、ではフランツ。貴方のところの管轄ですね」
「ええ、聖女と名高いミーラン王女がサタニストに入ってくれるというのは、とても意義深い事。サタニストにとって有意義な扱いをするのですよ、フランツ」
もちろんだとも。と穏やかな口調で答えた、フランツ様と呼ばれる御方が椅子から立ち上がり、なにやら教典のような本を片手で開き、残った片手がちょうど跪いたわたくしの頭の上あたりで、触れるか触れないか程度の近さに翳される。
「さあ、ミーラン。我らが神に心惹かれ、私や他のみなと同じ志で仕えようという気概を持つ、若き新たな同胞よ、私達は君のサタニスト入りを歓迎しよう」
その言葉を受けた直後、胸の奥? 体中? わたくしの一部であるが理解できない何かがあって、そこが熱く火照るような感覚が一気に襲ってきた。
しかし不快感はまったくない。
むしろ逆で、その神聖な力の濁流に、思わず陶酔してしまう。
まさに堕落の甘露を一舐めしたかのような夢心地。
ああ――だめ。
淑女としてこの表情はあるまじき――けれど……ああっ!!
「くっくっ、素晴らしい信仰心だ。上位悪魔の加護を得て、この表情。大抵の者は最初に悪魔の加護を得る時には、不快感を示すものだが……彼女は逸材だな。今でこそ私も彼女と同じ志であるが、ここまでの信仰心は昔の私にはなかった」
クツクツと笑ったフランツ様は『時間も惜しいので』との事で、サタニストという組織の必要最低限のことを教えてくれる。
そして半ば放心状態のまま、サタニスト洗礼の儀式というものを略式で受けた。
最初は聖句のような何かを唱えているのだと思ったが、それはよく聴けば、かの有名な七十二柱の大悪魔の名であり、最後に七大罪を司る悪魔の御名を朗々と告げ、それらの対象に絶対の忠義と信仰を捧げるわたくしの宣言によって略式の洗礼は終わった。
その後は祭服と、教義やその組織の在り方を示された一冊の魔道具の本を託される。
これは悪魔の加護を持つ者のみにしか開けない本。
更には組織の連絡網をも担っている魔道具であり、サタニストの教典だとも言われた。
それを受け取ったわたくしは未だ夢心地。
半ば放心状態のわたくしの前から、七人の祭服を纏った男女は現れた時と同じように、気づけばわたくしの目の前から消えていた。
◇◇◇
来る日も来る日も、わたくしは教典を何度も読み耽って過ごしていた。
この魔道具の教典は悪魔の加護を持たぬ他者からは、別の表紙や内容に見えるらしいので堂々と読む事が出来る。
かつて大国同士の戦争で、大勝を収めたエレデスという国があった。
しかし、その国は勝ちすぎてしまった。
終わってみれば、六万近くの投降兵を抱える羽目になってしまうという結果。
もちろんそんな数の捕虜を養う事も出来ず、かといって野放しにすることも。
迅速に対応しなければ、彼らが一斉蜂起する可能性もあり、速やかに処分する方法を模索した。
そして当時の戦勝国の決断は、悪魔召喚の贄えとして、彼らを使う事であった。
およそ六万近い贄を用意して、呼んだのにも関わらず、呼び出された悪魔は大悪魔ではなく『プルソン』という一人の高位悪魔だった。
期待ハズレもいいとこである。
本来ならば大悪魔という圧倒的な力を持つ者を呼び出して、次の戦争に向けての切り札とする予定であった。
それ故に当時の王であったソロモンは『悪魔について知りうる限りの全てを教えて欲しい』と願う。
悪魔召喚は戦争を有利にするが、悪魔そのものについて当時から悪魔という存在は、あまりにも未知な部分が多すぎたのだ。
ソロモンは悪魔という存在の知識を貪欲に欲しており、王でありながら当時の悪魔研究の第一人者とも名高い人物であった。
それに対しプルトンはあっさりと「教えられる範囲であればいいけど」と快諾した。
悪魔界の序列やルール。
大悪魔より上とされている、自身を含む〝72柱の爵位持ちの悪魔〟の存在を語って聞かせた。
その際プルトンが話した言葉全てを書き留めた書物は禁忌の魔法書のうちの一つ《魔法書ゲーティア》として今もなお、ジュラメント神聖国にて厳重に保管されている。
そして最後の返り際にプルトンは、大悪魔を超える72柱の悪魔より更に上の存在に『七大罪』と呼ばれる、ただの悪魔とは次元の違う存在である、悪魔の中の神がいること伝えた。
それらの存在を知る者がいるからこそ、冒険者組合には神罰級という人類滅亡級の区分が存在する。
彼らが受肉、いやただの顕現であっても、人類……いや、世界は未曾有の危機に晒される事になるのだと。
そしてわたくしの教典には《魔法書ゲーティア》と恐らく同じ記述が載っている。
わたくしの一番好きな項目。
あらゆる悪魔の特性や性格、特定の悪魔を召喚する召喚陣などが記されてるのだ。
この項目を読むだけで夢心地の気分に浸れる。
他にはサタニストとしての項目もある。
『七大罪』の方々に因んで、最高幹部は七人おり、それぞれの大罪を司る神を信奉している。
その七人が大司教。
わたくしの部屋に現れた方々も、ちょうど七人であった。
つまり直々に最高幹部が揃って、わたくしを視察するくらいには、大国の聖女である姫、という立場はサタニストにとって価値があるのだろう。
それぞれ七人の大司教の下には、《司教》という実質的な幹部がおり、《司祭》は《司教》から一つの地域を任される。
そして上からの命令が下った際、基本的に遂行するのは、《司祭》よりその下の《助祭》が教徒達を率いて、実行役を担う。
わたくしは一足飛びに《司祭》の地位に任命され、王都での地域を丸ごと任された。
わたくしは、期待されている。
これから徐々に結果を出していけば《司教》として幹部になるのも夢ではない。
そしてゆくゆくは大司教としてルシフェル様を信奉する最高幹部の大司教も夢ではない。
正直地位に興味はない。
しかし『悪魔の加護』これには興味が尽きない。
七人の大司教にはそれぞれ《大悪魔の加護》が付与されており、一つの属性のみ、という条件付きだが、法術を扱えるようになれるとのこと。
そして司教には《高位悪魔の加護》が付与され、こちらは魂器を大きく底上げして強力な魔法行使を可能とするようになれる。
司祭――つまりわたくしには《上位悪魔の加護》が付与されており、こちらも高位悪魔の加護と同じく魂の底上げをしてくれる。
流石に《高位悪魔の加護》よりは魂器の上がり幅がかなり違うようではあるが。
助祭には《中位悪魔の加護》が付与されているが、これも魂器の上限は上がるが微々たるものらしい。
しかし生まれ持った不変の魂器の底上げが出来る時点で凄まじい恩恵とも言える。
一般的な教徒には《下位悪魔の加護》というのを施され、魂器の総量は上がらないが、魔力の扱いが上手くなるといったような恩恵があるらしい。
アンヘル教の加護と似たようなものだ。
サタニストの活動内容は、教義として記されている。
『全ての生命と世界は魔神ルシフェル様が創り出した。
他の大罪神達はルシフェル様の弟妹であり、彼らもまた世界を管理するものである。
七大罪様達の仕事は魂の浄化だけではなく、下界と霊界のバランスを保つ事も仕事の一つ。
つまりサタニストの使命は下界のバランスを整えること。
ある時は殺戮をおかし、そして見込みのある人材には陰ながら保護と支援を施す』
殺戮と支援でバランスを取り、七大罪様たちに変わり、大陸の安寧を日々調整しているのだ。
しかし、わたくしが最も重要視している部分は少し別の所にある。
『《悪魔の加護》を他者に施せるのは《大司教》のみである。加護持ちであれば相手の加護が自身より上か下か本能的に理解できるため、上司部下の関係は符丁などを用いずともすぐに分かる』
という記述。
只の人種が『悪魔の加護』を他者に施せるわけがない。
下界のバランスを保つ役割を担わされ、かつ『悪魔の加護』を他者に付与できるようにして貰えるというのは、管理側の悪魔との接触があったはず。
つまり大司教まで登り詰めれば悪魔の中でも、世界を管理している七大罪様へと御目通りが叶うかもしれないのだ。
ならばわたくしは、どんな悪事であろうとも躊躇なく実行し、サタニスト内で出世してみせましょう。
しかし問題が一つ。
うちの守護式神だ。
アレは知恵の神であり、下界の全てを見通す。
もちろん深夜の茶会のことも知っているのだろう。
しかし、それで何かを言われた事は一度もない。
あのケモノのセーフラインとアウトラインを見極める必要がある。
○ ● ○ ●
そうして数週間後にミーランは白鐸が、個人的な話をする際に使用される『白の庭園』と呼ばれる場所へと呼び出される事になる。




