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続 シルクロードの四人組

作者: 岡崎哲夫

つづいて、シルクロードを四人組で旅しました。

シルクロードの四人組

夕暮れに、アフガンポストバスは中央郵便局のあるバスストップに到着した。我々がバスを下りるといきなり客引きが殺到した。そして、団長のリックを奪い取るといきなり走り出した。

「この野郎、まてー、」

と叫びながら四人で追いかけると、もう団長のリックはタクシーの屋根の荷台の上だった。

それから、値段の交渉が始まった。

「ホテル代は幾らだ」

「三十アフガニー」

「高い、もっと負けろ」

「二十五アフガニー、駄目だ、ベッドか、床か」

とこんな風に交渉をして、やっとベッドと床で二十アフガニー、タクシー代はサービスとまとまった。ホテルは「グリーンホテル」、パキスタン大使館の隣だった。

「これはラッキーだ、明日さっそくパキスタン大使館にビザを取りに行こう」

と団長が言って、ホテルに入った。部屋は両端にベッドで真ん中に三畳ぐらいの空間が有った。さっそく、ジャンケンをして、今日はムッシュとボンボンが床に寝袋を引いて寝ることになった。

次の日、十時頃、隣のパキスタン大使館に行くと休みだった。我々は今日が金曜日であること忘れていた。イスラムは金曜日が礼拝の日でお休みなのだ。我々は仕方がなしに歩いて王宮のそばのカイバルレストランに向かった。ここは我々中近東旅行者にとってはメッカみたいな場所で、あらゆる中近東の情報が集まっている場所だった。四人がカイバルレストランの前まで来ると、アフガニスタンには不釣り合いの立派なビルディングの二階建てだった。

「本当にこれでいいのか」

とボンボンが言うと、

「まあ、入ってみようや」

と団長が言って中に入ると、ネクタイを付けた紳士がいると思えば、我々と同じ様なジーパン姿のヒッチハイカーもいた。ここは入口から中の方までは普通のレストランで蝶ネクタイに白制服のボーイが注文を取りに来るが、奥はセルフサービスのレストランになっていて、大学の食堂のように大きなお盆を持って、自分の手で取って最後にレジでお金を払うシステムになっていた。我々はもちろんセルフサービスの方に行って、魚のフライや新鮮な生野菜サラダや飲み放題の冷たい水を取って、昼食を取った。アフガニスタンに入ってからまともな西洋の食事をしていなかったので、久し振りに我々の胃腸は活気づいた。周りを見渡すと、ちょうど我々と同じ様な日本人グループがいて、さっそく情報の交換をした。すると、パキスタンはビザが要らなくて、パキスタンを出る時に使うロードパーミッションは通過期日が入っている為に、インドの手前のラホールで取ったほうが良くて、むしろここでインド大使館に行ってインドのトリプルビザを取った方がいいと教えられた。しかも、インド大使館は朝の九時から十一時までしか受付をしていなかった。

その晩、我々は大麻パーティーをした。ムッシュがホテルの従業員から手に入れた物だった。

実はカンダハルでフランス人の麻薬中毒者にあった時、団長から

「我々も一度は体験しておいた方が良いのではないか」

と提案があった。僕はオランダでもモロッコでも経験するチャンスは有ったけど、何故か吸わなかった。日本で一度経験をしたことは有ったが、何故かあの甘い匂いが好きになれず、普通のタバコのほうがよっぽど良かった。しかし、ここ本場で皆が当たり前のように吸っているのを見て、一応本格的に経験をしてもいいのではないかと思っていた。

部屋の中で車座になり、電灯を消して真ん中にロウソクを灯して、パイプに火をつけてゆっくりと一人ずつ回し飲みをした。その時、経験者から教わった通り、思いっ切り吸い込んで肺に入れるのではなくて胃袋に入れるようにする事だった。そしてその時、何か楽しい事を頭の中で思う事、もし悲しい事を思うと泣き出してしまうから注意するようにと言われた。そして何回か回し飲みをすると、いきなりボンボンが笑い出した。それにつられて僕も笑いだし、団長も笑い出した。ムッシュだけが何故かキョトンとして何が起こったのか分からない顔をしていた。僕は何故か可笑しかった。目の前にウンコが浮いていてそれが上下に動いてやがてウンコが口を開けて笑い出した。それがまた可笑しくて、僕はいつまでも笑っていた。そして大麻を吸うのを止めるとその現象はピタッと止んだ。それから、二回目の回し飲みを始めると、今度は全員が笑い出した。僕は他のことを思うようにしても、何故かウンコしか浮かんでこなかった。ボンボンがライオンにペロペロ舐められたとか、団長は船に乗っていたらそのまま空を飛んだとか、ムッシュはお城のようなところで美女にアイスクリーム責めにあったとか、僕はウンコが笑っていたというと、ボンボンが汚い奴だと軽蔑した。

次の日、我々はインド大使館にトリプルビザを取り行った。インド大使館は我々が泊まっているホテルより少し南に下ったところに有り、トリプルビザとは一旦インドに入ったあと、ネパールのように出て、もう一回再入国出来るビザの事を言った。ビザは次の日に発行してくれると言うので、その後我々は、シャララ通りを西に行って日本大使館に行き、久し振りに月遅れの日本の新聞などを読んで過ごした。

結局、カブールには五日いた。カブールは結構食べるものがまともなわりには安く、カイバルレストランの他にこのホテルのそばにマルコポーロレストランなどがあり、気候も回りの山々には雪が積もっているも、まだ寒くなく過ごし安かった。

午前七時、我々はペシャワール行きのパキスタンバスに乗ってカブールの街を後にした。しばらく並木道が続くといきなり岩だらけの道になった。曲がりくねった岩だらけの道が続いて左側に谷間が見えてきた時、いきなり大きなトラックがバスを抜きに掛かった。しばらくの間、バスとトラックは並行して走っていたが、やがてトラックが追い越して行った。それから、三十分程走ったろうか、前方に砂ぼこりが見えてきた。するとその前にカーブを曲がり切れなかったのか、先ほど追い抜いて行ったトラックがもののみごと転倒していた。

我々は驚いて窓から外を見ると、まだ転倒したばかりなのか後方車輪が回っていた。しかし、我々がもっと驚いたことには、バスはそこで止まることはなく悠然と通り越して行った。それから、国境の手前のジェララバッドに着くまで、何台の車が道路脇や谷側に転倒していた。我々はヒヤヒヤしながらバスに乗り続けなければならなかった。

シェララバッドを過ぎると、アフガニスタンの国境だ。今回はイランとの国境で懲りているので、わざわざパキスタンのペシャワールまでの通しのバスを選んだ。川を渡るといよいよアフガニスタンの国境だ。バスが税関の前で止まると、我々は税関の建物の中に入った。ちょうどお昼時なのか中はガランとしていて何人かのアフガニスタン人やパキスタン人がいるだけで外国人の旅行者は我々四人だけだった。簡単な審査だけで我々はイミグレーションと税関を後にした。それからしばらく無国籍地帯の山越えが三十キロぐらい続いた。イランとの無国籍地帯の時は砂漠だったがこちらの無国籍地帯は山越えだ。我々はパキスタンまでの通しのバスにして良かったと胸をなでおろした。そしてパキスタンの国境にバスが近づいた。まず国境の重い鎖を開けて中に入ると、イミグレーションと税関の建物が離れていて、まずパスポートの審査が始まった。アフガニスタンのイミグレーションには外国人は誰もいなかったがここのイミグレーションには何人かのヒッピーがいた。パキスタン側の国境は麻薬の取締りが厳しいと聞いていたので、我々はもちろんカブールで使用した大麻もカブールを出る前に処分していたが、見つかると七、八年牢屋に留置されるという話だった。パスポートにスタンプを押して貰い、我々が税関にいくと、今度は別のヒッピーたちが税関の机の上にリックの中身をぶちまけられていた。我々も覚悟してリックを台の上に乗せるとパスポートをチラッと見ただけでそのまま通してくれた。そして外に出ると、バスが止まってあるところに行く間に両側にたくさんの店が並んでいた。タバコ屋やお土産屋に並んで、銃砲店が幾つも有った。猟銃はもちろん自動小銃やピストルまでが並んでいた。

「ピストル、プレゼント」

と英語で話かけてきたので

「ハウ、マッチ」

と聞き返すと

「十五ドル」

と答えが帰ってきた。

国境を出ると、いよいよバスはカイバール峠へと向かった。カイバール峠は標高千百メートル有り、紀元前にアレキサンダー大王がここを通ったし、十三世紀にはジンギスカンもこのカイバール峠を越えた。バスは九十九折の山道を喘ぎながら登って行き、途中でトラックやバスにすれ違うと思わずヒヤッとしたりしながら、無事に峠を通り過ぎた。

その晩、我々はペシャワールで一泊すると、次の日の朝、ラホール行きのバスに乗った。バスはイスラマバードを通って、夕方、ラホールのバスターミナルに着いた。そして、バスターミナルの安ホテルに宿を取った。

次の日の朝、我々はインドへいくためのロードパーミッションを取る為に、ラホール駅前のガバメントハウスのホームデパートメントに行った。それから、四人でバザールに行って、四人バラバラになって、ホテルで夜また会うことにした。僕はバザールを見て歩き、街をふらついてホテルに帰った。ホテルで四人揃った所で夕食を食べに行くと、ボンボンが変な話を聞いてきた。ラホールで女が買えるという話だった。そんな話は聞いたことも無かった。カラチのような港町ならいざ知らず、ラホールのようにイスラム色の強い所では絶対的に無理だった。結局、ボンボンに僕が付いて行く事に成った。

タクシーの運転手は我々二人を街の郊外の丘の上に連れていった。そして、月明かりを頼りに丘の反対側に歩いた。しばらく行くと金網フェンスの前に出て、金網の隙間から中に入った。またしばらく歩くと滑走路のようなところに出て、すると管制塔のような所からサーチライトのようなものがグルグル回っていた。ライトが我々の方に回ってきた時、「伏せろ」の合図で一斉に伏せた。それを何回か繰り返して滑走路から離れた白い宿舎のようなところに入った。すると中は、社交場のような煌びやかな所で赤い絨毯が引いて有った。そして、中の扉を開けると、薄い衣装をまとった千夜一夜物語に出てくるような美女たちがいた。

「これで一人十五ドルは安いや」

僕とボンボンは珠玉の一夜を過ごした。後で運転手に聞くと、最初は尻込みすると思って教えなかったが、パキスタン空軍の将校の慰安婦の所に連れていったという話だった。

次の日の朝、我々四人はインドとの国境に向かった。バスはのんびりした田園風景の中を走って、一時間ぐらいで国境に着いた。インドとパキスタンの無国地帯は五十メートルぐらいで、あんなに厳しかったアフガニスタンの国境と比べたら、いとも簡単に出国出来た。インドの税関に入ると、麻薬の持ち込みは厳しいらしく色々と質問された。カメラやラジオの申告も同じで申告書に値段を書かされた。僕はカメラを持っていたが適当な安い値段を書いた。それから、我々四人はインドのアムリツァー駅に行き、駅で夕方まで過ごすと夜行列車に載って、デリーに向かった。

朝靄の中、列車はデリー駅に着いた。我々四人は、デリー駅のすぐそばのヒッピーの溜まり場であるYMCAホテルに向かった。ホテルは古い建物で病院の大部屋のようにベッドがたくさん並んでいた。我々のベッドはアメリカ人のヒッピーとイギリス人のヒッピーのグループに挟まれた場所だった。ヒッピーたちに挨拶をして、

「何処か食事の出来る所を知らないか」と聞くと、

「すぐそばにチャイニーズレストランが有る。インドのカレーは辛いだけで、不味くて食べられない」と言った。四人は荷物をロッカーに入れると、厳重に鍵を掛けて街に出た。チャイニーズレストランはすぐに見つかった。我々はチャプスイやチャーハンや焼きそばやラーメンなどを頼んで、カブール以来久し振りの満足した食事をした。それから、街の中心であるコンノート・プレイスの方に歩いて行った。デリーに来て、今まで通ってきたイスラム圏と違うと思う事は、鮮やかなサリーを着た女性が非常に目につく事だ。彫りの深いインドの女性がサリーを風になびかせながら、へそを出しておしりを振りながら歩く姿はなまめかしく、イスラム圏で黒いチャドリに身を固めた女性ばかり見て来た我々にとっては、十分な過ぎる程の目の保養に成った。コンノート・プレイスは我々には縁のない貴金属や高級品がたくさん売られていて、その他にたくさんの外国のオフィスビルが並んでいて、我々にとって必要な航空会社のオフィスも有った。僕とボンボンは日本に帰る航空券は持っていたが、団長とムッシュは持っていなかった。それで、団長とムッシュはタイまでの航空券を買おうとタイ航空の事務所を訪ねた。そして、デリー、バンコック間の運賃を尋ねると六十ドルだった。ところが係員がネパールのカトマンズからタイのバンコックまでもタイ航空の飛行機が飛んでいて、こちらの方が十ドル安い五十ドルだという情報を教えてくれた。もちろん団長とムッシュはこれからカトマンズに行く予定だったので、そっちの方がいいとカトマンズで航空券を買う事にした。コンノート・プレイスをグルっと回って、レッドフォート赤い砦などを見学して、線路沿いにホテルに戻ろうと、旧市街の路地を歩いていると

「こんにちは」と日本語で言葉を掛けてきた男がいて、どうやら客引きらしかった。出来る日本語はそれだけで、あとは英語でやたら「ガール、ガール」としつこく勧誘した。ボンボンが試しに

「ハウマッチ」と聞くと、

「十ルピー」と答えた。日本円にして五十円なのでこれは安いと、とにかくその客引きについて行く事にした。古い建物の二階に上がると六畳ぐらいの部屋が有り、真ん中に絨毯が引いてあり女の子が二人とその母親らしい女が座っていた。そして部屋のすみに父親らしい男がいた。我々がキョトンとしていると、客引きが三人を指差して、三人とも売りもので母親が十ルピー、十五、六才の姉の方が十五ルピー、十二、三才の妹の方が十二ルピー、それから、父親を指差して、子供たちの場合は父親が親権を主張して一ルピー、母親が奥の仕切られたベッド部屋は母親のベッドで使用料として一ルピーを徴収するという事だった。流石の我々も、この悲惨な状態には付いて行けず、いまは忙しいからまた後で来ると丁寧にお断りしてその家を出た。この辺り一帯はジキロードという売春街で、ジキジキとはそのものずばり性交の事を言っていた。

我々四人はデリーに四日間いた。この貧困層と裕福層が混沌と入り混じった街で、倦怠感と躍動感が蔓延した状態をどう解釈していいのか解らず、結局、四千年のカースト制度にはどう対抗しても始まらなかった。団長とムッシュのネパール行きは決まっていたが、僕はまだネパールに行く決心は付かず、ボンボンは最初からインドから日本に帰る事を決めていたので、とにかくネパールのカトマンズとの分岐点ベナレスへ行く事にした。それでその途中のアグラに行く事にして、列車に乗って出発した。

アグラは世界的に有名なタージマハール霊廟が有る街で、ムガール王朝の王シャジャハーンが愛する王妃ムムタズマハルの死を痛み、国を滅ぼしてまで作った大理石の霊廟が青い空に向かって高く、自分の美しさを誇示するようにその存在を示していた。アグラ駅に着くと、四人は輪タクに乗ってタージマハールに行った。タージマハールの前に立つと、太陽の光が霊廟に反射してキラキラまばゆく、建物の内部の模様はスペインのアルハンブラ宮殿で見た幾何学模様と同じで、イスラム文化の広がりは相当なものだったと想像し、満月の夜のタージマハールは世界で最もロマンチックな場所らしかった。

そして、ベナレスに夜行列車に乗って向かった。我々はインドに入って以来常に列車は二等に乗らず一等車に乗って来た。二等車は混雑も凄いがそれに輪をかけて盗難が凄かった。駅のホームでも我々が見ている前で物を盗っていくのを目撃していた。ところがベナレス行きの列車はホームに人が溢れていて、一等車といえども通路に人が溢れていた。

朝、四人はベナレス駅に着くと、ここも駅前は人人人で溢れていた。物乞いや客引きが我々を取り囲み、荷物の奪い合いを始めた。やっと英語の通じる奴を捕まえて、ホテルに案内させた。この際だから値段はともかく、安全でシャワーが有って、部屋にキチンと鍵のかかった部屋を指定した。やっと部屋に落ち着いて、それから、四人でガンジス川を目指した。

ガンジスが近づいて来ると、どこからともなく死の匂いが漂って来た。ヒンズー教徒は死後その遺体を火葬しガンジス川に流す事を望む。しかし、これが出来るのは有産階級だけである。他の者は自分の死を悟るとベナレスへベナレスへと向かい、ベナレスの街に辿り着いた者はガンジス川で沐浴して河原でその死を待つ。その死体はゴミのように集められて火葬される。迷路のような路地をふけると沐浴場に出た。沐浴場からお経のようなものが聞こえてきた。それにしても、聖なるガンジス川は何と汚いのだろう。汚物が浮かび、川は濁りどう考えても聖なる川のイメージは湧いて来ない。河原では大勢のヒンズー教徒たちが沐浴をしている。川の水を飲んでいる奴もいる。それから我々四人は、火葬場に向かった。ガンジス川を見下ろすように組まれた櫓の上に二体の遺体が焼かれていた。異様な匂いが立ち込めて来て、我々はまさしく死の匂いを嗅いでいた。

僕はホテルに戻ってしばらく中庭に出て考えていた。インドほど貧富の差が甚だしい国も珍しいのではないだろうか。アフガニスタンやパキスタンなども確かに貧しい。しかし、妙な言い方だが平均して貧しいのだ。それがことインドとなるや、金持階級は週に何回かパーティーをやり、公の建物と見間違うほどの豪華な邸宅に住み、何人もの召使いを雇っている。しかし、通りには家を持たない物乞いがたむろし、生気のない濁った目で道行く人に手を差出す。彼は道で生まれ、道で生活し、道で結婚し、道で子供を育て、そして道で死んでいくのである。彼は何を考え、何を楽しみに生きているのだろうか。

僕はそれを考えると涙が止まらなかった。ベナレスで団長とムッシュに別れを告げると、僕とボンボンはカルカッタに向かった。


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