伍
「……なんでやろな」
来女が独り言のように呟く。その声は乾いていた。
「おっ父を恨む気にはなれん」
「それはきっと――琴音さんも同じなのかもしれませんね」
ゆっくりふり返り、意外そうに志摩禰を見つめる。しかしその表情は、やはり影になっていて見えない。
「過去を見せるのが、死神の仕事なんか……?」
「走馬灯とも言います。ひとは死の間際、それまでの経験を思い出す。死出の旅の退屈しのぎには丁度良いでしょう」
「私の記憶じゃない」
首を振る来女に、志摩禰は静かに腰のあたりを指した。それに気づいて娘は、「ああ」とすべてを理解したように息をつく。毛皮の根付が静かに揺れた。
「だから、これはここでお終いです。――さあ行きましょう」
二人はまた歩きだす。
その後、遠くの縁者に引き取られた娘が幸福であったのか知るよしもない。だが、この現状を見れば、やはり推して知るべしなのだろう。
憐れむように志摩禰はふり返った。
後を追ってくる来女は、大人の足に追いつこうと必死だ。そのせいで、頭には狐の耳が、お尻には尻尾がひょっこりと飛びだしているのにも気づかない。
待ち受けた志摩禰は、こっそりと娘の眉に自分の唾を塗る。すると妖かしの姿が消えて、元の娘の容姿に戻るのだった。
「少し早く歩きすぎましたか」
「平気」
来女は微笑む。けれどもその表情には、疲労の色が見てとれた。
「まだ先は長いの……?」
いいえ。と死神は答える。ほら、もうすぐ、そこに。と。
死神が誘う先には一転した目映い光。それはあたたかく懐かしい。この先がきっと、望んだあの世に違いない。
「なあ。――おっ母は……おる?」
改めての質問に、志摩禰は黙って頷く。来女の顔はぱっと輝いた。
「では。どうぞ。おいきなさい」
促され、駆けだしそうになった娘は、けれどもはたと気づいて不安げに死神を見あげた。志摩禰はその場を動かなかった。
「わたしはここまでです。最初に言いました」
「……うん」
納得しかねて来女は、心細そうに目を伏せる。やがてその濃いまつ毛を持ち上げると、力強く男を見つめた。
「ありがとう」
その言葉を聞いて、死神はわずかに驚き、そして微笑んだようだった。
「大丈夫。真っ直ぐ進みなさい」
「うん……」
まだ不安げな来女に、屈み込んで志摩禰は小さな布包みを渡す。
「餞別です。元気を出しなさい……と、死神が言うのもおかしな話ですが」
来女は笑い、その背を志摩禰が優しく押した。
娘は駆けだした。光に向かって、脇目も振らず。ふり返らずに。
そうして光に包まれてそのなかに消えるまで、黒衣の男は黙って見つめていた。やがてすべて見届けてしまうと、肩をすくめると、また来た道を引き返していった。
そんな彼を迎えるように、小さな灯りがぽぅ、と遠く闇の先に灯った。
*
不知藪から岩下来女が帰ってきたというのは、妖怪絵師としての彼女を語るうえでは非常に重要な逸話である。その際、美しい簪を持っていたというが、生涯手放すことはなかったそうだ。
後年、人に語ったところによると、その幼き日の藪入りは、自ら命を絶つための逃避行であったとされている。育ての親より受けた悪辣な環境から逃れるため、死別した産みの母に会おうとしたのだという。
しかし、神隠しより帰ってきた彼女は、やがて育ての母との関係も修復し、善き母善き娘として過ごしたそうだ。
そんな岩下来女の描く絵物語には、たびたび鎌を持たぬ黒衣の死神が登場するが、それらはまた別の話である。