四
それから女と仙吉のおぞましい生活が始まったのである。
女に化けた狐を持ち帰った仙吉は、家の一番丈夫な柱に縛りつけた。
だが仙吉は言葉通り、女との約束を守った。
家業の狐釣りをぷっつり止め、代々継いだ罠一式も売り払った。腕の良い職人の手によるものであったから、思いのほか高額で売れたという。そうして教えられた東の栗の木の周りに、畑に拓いたのだった。
古来より、異種婚姻譚は人間に富を与えるものが多い。そしてそれらには、共通してある原則がある。
食わず嫁や鶴女房に然り――
約束を守らなかったがための破滅である。
裏を返せば、約束さえ守れば富は永続する。
こういった存在は人間とは違い、そもそも嘘を吐くという概念がない。化かすことは騙すことであるが、それは「嘘」ではない。
だからこそ、眉に唾をつけることなどによる対処法で見抜けるのである。そういった絶対ではない隙が、人間と物ノ怪を対等の立場にしているのだった。
仙吉が女と交わした約束は、「この山で狐を獲らないこと」「畑を耕した実りは、毛皮より高く売れること」「女が仙吉の嫁になること」そして「仙吉から逃げないこと」だ。
それが破られたときに関係は破綻する。
仙吉は享受する側だった。「約束」は「絶対」だ。
――守っているかぎり、守られる。
女に名はなかった。仙吉は女を「琴音」と呼んだ。女の声は、琴の音のように美しかったからだ。
近しい者には、妻を娶ったことを知らせた。だが体が弱く、臥しているのだと吹聴した。
仙吉は元々働くことは苦ではない。酒も博打も、孤独であったからだ。女房をもらえば、その不安もなくなった。酒も博打も潔くやめられた。
なにも知らず傍から見れば、嫁のお蔭で真面目な人間になったように映るだろう。
何度も言う通り、仙吉は真面目な気質なのである。独り暮らしも長い。男の身でありながら、日常の細々とした作業もじつにまめにこなせる器量の良さがある。
ただひとつ問題があるとするならば、彼の異常な心根であろうか。
表向きの顔だけでは決して分からぬ残虐性とも言える。黙々と数え切れぬほどの獣を剥いできたうちに、ふつふつと仙吉の中で芽生えた狂気と呼ぶべきか。
それは女に化けた狐――琴音にとって、名状しがたい悲劇であったに違いない。
日長柱に括りつけられ、さながら飼い犬のごときである。食事も湯浴みもすべて仙吉の手に委ねられ、仕事から戻れば夜の相手をさせられた。
――決して逃げるでないぞ。
その言葉を従順に守り続け、そうして美しい女の姿は日に日に窶れていった。その扱いは飼い犬にも劣る。
死なぬ程度に餌を与えられ、慰みに体を求められ、しかし決して表にも出してもらえず、ただただ家で仙吉を待つだけの存在。
だが、仙吉は決して琴音が憎いわけではない。
山の幸を集め、自分で育てた野菜を売る。市では面白いほど捌けた。評判も上々だった。堅実であったが、生活するには充分な財も貯まっていく。次の年には、さらに豊かになるだろう見通しも立っていた。
仙吉は身の丈という言葉を弁えている男であった。身に余る富は、必ずや身を滅ぼすことになるだろうとの教訓を持っていた。
だから、現状でとても満足だった。
これも琴音のお蔭だということも知っていた。
だからこそ――
逃げられては困る。
それがまず念頭にあった。琴音に対する扱いは自由である。それは約束していない。
幼い頃より父に連れられて、狐や兎を狩っていた仙吉の精神は、相当に歪んでいたのかもしれない。生皮を剥がされる獣の悲鳴など聞き飽きた。
そのうちに監禁状態の琴音は、とうとう子供を身籠る。
「もうとっくに気づいていたのでしょう」
志摩禰は無感情に呟いた。
「――あなたですよ」
それまでの一切を――、惨い仕打ちを受け続ける母の姿から決して目を逸らすことなく、口を結んだままひと言も洩らすことなく見届けていた娘は、ここにきてはらりと一粒の涙を頬にこぼした。
鬼畜な精神とはいえ、仙吉はしかし当然ながら、やはり人の子である。己が子が可愛くないわけがない。ましてや、産まれた子供は珠のように愛らしい女の子であった。人外ゆえに十月十日ではなかったものの、産着や玩具などを買い揃える慈しみさえあった。
気が早いことに、七つの年に着る晴れ着までも準備していた。揃いの草履も赤い鼻緒で、この小さな娘の足に履かせてやるのが、その時から仙吉の夢になった。
しかし、子育ては男ひとりではできない。
琴音も日夜縛られたままでは、授乳もシメも、寝かしつけることもままならない。
さすがにその頃になると仙吉も、産まれたばかりの娘の愛らしさと、琴音にもいい加減心を許してしまっていたこともあって、ある日あっさりと縄を解いたのだった。
(いままですまんかった)
我が子が生まれれば、人も変わろうというものか。
嫁をもらい赤ももうければ、たとえ狐の嫁であろうと子だろうと、それは家族だろう。これからは親子三人で、世間並みに暮らしていこうと心に決めた。
このところすっかり生気の感じられない琴音の目を見て、
(これからは母親の仕事をするように)
そう言い付けたのだった。
そうしていつものように畑に出かけていった仙吉だったが、そんな己の考えが甘かったことを知る。
日が暮れて戻ってみれば、我が家の暗がりでは赤子がひとり泣いているのだ。
捜せど待てども、琴音は戻ってはこなかった。
身の丈を弁えていた仙吉にとって、蓄えなどはもちろん身の丈に合ったものでしかなく、琴音の庇護がなければ、それは日に日に目減りしていった。
異種婚姻が富を授けるのは、相手に憑くことがその主な要因である。家に憑く座敷童子が離れれば、瞬時に没落する道理だ。
寒い冬がやって来て、山からの恵みが得られなくなると、仙吉は生活のためやむなしと、再び狐釣りの道具を取った。
厳しい季節だった。
自分を置いて逃げた琴音を呪った。娘を捨てた琴音を憎んだ。だがその一方で、仙吉は琴音を愛していた。それはとても歪んではいたのだが。
再び女が帰ってくるようにと、娘に「来女」と名付けた。
「来女……」
小さなこぶしを握りしめ、娘は震える唇で自らの名を呟く。
これまでのすべてが干渉することのできない過去の出来事ならば、彼女はこれからもただの傍観者として徹するより他ない。いや、見続けることこそが彼女の業であると言わんばかりに、食い入るように記憶に刻んでいた。
せめてそれを、残すことはできまいか。伝えることはできまいか。それこそが自分にできる、自分にしかできないことなのではないだろうか。
幼い娘は、その小さな胸の内で苦悩していた。だが術を持たぬ。手段を知らぬ。
そうして再開した狩りの最初の獲物は、――痩せた雌の白狐だった。
その美しい毛並みは、いままでにない高い値がついた。しかし仙吉は、それを売ることはなかった。町に下りたが結局なにも売らず、そうしてなけなしの金で一番上等な酒を買って家に戻ってきた。
酔ったまま眠った仙吉は、翌朝暖炉の前で冷たくなって発見された。目尻の涙の跡も凍える、今年一番の寒い冬の朝であった。
その傍らで娘は、狐の毛皮にくるまれて安らかに眠っていた。