表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5


 それから女と仙吉のおぞましい生活が始まったのである。

 (ひと)に化けた狐を持ち帰った仙吉は、家の一番丈夫な柱に縛りつけた。

 だが仙吉は言葉通り、女との約束を守った。

 家業の狐釣りをぷっつり止め、代々継いだ罠一式も売り払った。腕の良い職人の手によるものであったから、思いのほか高額で売れたという。そうして教えられた東の栗の木の周りに、畑に(ひら)いたのだった。

 古来より、異種婚姻譚は人間に富を与えるものが多い。そしてそれらには、共通してある原則がある。

 食わず嫁や鶴女房に(しか)り――

 約束を守らなかったがための破滅である。

 裏を返せば、()()()()()()()()()()()()()

 こういった存在は人間(ひと)とは違い、そもそも嘘を()くという概念がない。化かすことは騙すことであるが、それは「嘘」ではない。

 だからこそ、眉に唾をつけることなどによる対処法で見抜けるのである。そういった絶対ではない隙が、人間(ひと)と物ノ怪を対等の立場にしているのだった。

 仙吉が女と交わした約束は、「この山で狐を獲らないこと」「畑を耕した実りは、毛皮より高く売れること」「女が仙吉の嫁になること」そして「仙吉から逃げないこと」だ。

 それが破られたときに関係は破綻する。

 仙吉は享受する側だった。「約束」は「絶対」だ。

 ――守っているかぎり、守られる。

女に名はなかった。仙吉は女を「琴音」と呼んだ。女の声は、琴の音のように美しかったからだ。

 近しい者には、妻を娶ったことを知らせた。だが体が弱く、()しているのだと吹聴した。

 仙吉は元々働くことは苦ではない。酒も博打も、孤独であったからだ。女房をもらえば、その不安もなくなった。酒も博打も潔くやめられた。

 なにも知らず(はた)から見れば、嫁のお蔭で真面目な人間になったように映るだろう。

 何度も言う通り、仙吉は真面目な気質なのである。独り暮らしも長い。男の身でありながら、日常の細々とした作業もじつにまめにこなせる器量の良さがある。

 ただひとつ問題があるとするならば、彼の異常な心根であろうか。

 表向きの顔だけでは決して分からぬ残虐性とも言える。黙々と数え切れぬほどの獣を剥いできたうちに、ふつふつと仙吉の中で芽生えた狂気と呼ぶべきか。

 それは(ひと)に化けた狐――琴音にとって、名状しがたい悲劇であったに違いない。

 日長柱に(くく)りつけられ、さながら飼い犬のごときである。食事も湯浴みもすべて仙吉の手に委ねられ、仕事から戻れば夜の相手をさせられた。

 ――決して逃げるでないぞ。

 その言葉を従順に守り続け、そうして美しい女の姿は日に日に(やつ)れていった。その扱いは飼い犬にも劣る。

 死なぬ程度に餌を与えられ、慰みに体を求められ、しかし決して表にも出してもらえず、ただただ(そこ)仙吉(あるじ)を待つだけの存在(いぬ)

 だが、仙吉は決して琴音(よめ)が憎いわけではない。

 山の幸を集め、自分で育てた野菜を売る。市では面白いほど(さば)けた。評判も上々だった。堅実であったが、生活するには充分な財も貯まっていく。次の年には、さらに豊かになるだろう見通しも立っていた。

 仙吉は身の丈という言葉を(わきま)えている男であった。身に余る富は、必ずや身を滅ぼすことになるだろうとの教訓を持っていた。

 だから、現状でとても満足だった。

 これも琴音のお蔭だということも知っていた。

 だからこそ――

 逃げられては困る。

 それがまず念頭にあった。琴音に対する扱いは自由である。()()()()()()()()()()

 幼い頃より父に連れられて、狐や兎を狩っていた仙吉の精神は、相当に歪んでいたのかもしれない。生皮を剥がされる獣の悲鳴など聞き飽きた。

 そのうちに監禁状態の琴音は、とうとう子供を身籠る。


「もうとっくに気づいていたのでしょう」

 志摩禰は無感情に呟いた。

「――()()()()()()

 それまでの一切を――、惨い仕打ちを受け続ける母の姿から決して目を逸らすことなく、口を結んだままひと言も洩らすことなく見届けていた娘は、ここにきてはらりと一粒の涙を頬にこぼした。

 鬼畜な精神とはいえ、仙吉はしかし当然ながら、やはり人の子である。己が子が可愛くないわけがない。ましてや、産まれた子供は珠のように愛らしい女の子であった。人外ゆえに十月十日ではなかったものの、産着や玩具などを買い揃える慈しみさえあった。

 気が早いことに、七つの年に着る晴れ着までも準備していた。揃いの草履も赤い鼻緒で、この小さな娘の足に履かせてやるのが、その時から仙吉の夢になった。

 しかし、子育ては男ひとりではできない。

 琴音も日夜縛られたままでは、授乳もシメも、寝かしつけることもままならない。

 さすがにその頃になると仙吉も、産まれたばかりの娘の愛らしさと、琴音にもいい加減心を許してしまっていたこともあって、ある日あっさりと縄を解いたのだった。

(いままですまんかった)

 我が子が生まれれば、人も変わろうというものか。

 嫁をもらい()ももうければ、たとえ狐の嫁であろうと子だろうと、それは家族だろう。これからは親子三人で、世間並みに暮らしていこうと心に決めた。

 このところすっかり生気の感じられない琴音の目を見て、

(これからは母親の仕事をするように)

 そう言い付けたのだった。

 そうしていつものように畑に出かけていった仙吉だったが、そんな己の考えが甘かったことを知る。

 日が暮れて戻ってみれば、我が家の暗がりでは赤子がひとり泣いているのだ。

 捜せど待てども、琴音は戻ってはこなかった。

 身の丈を(わきま)えていた仙吉にとって、蓄えなどはもちろん身の丈に合ったものでしかなく、琴音の庇護がなければ、それは日に日に目減りしていった。

 異種婚姻が富を授けるのは、相手に憑くことがその主な要因である。家に憑く座敷童子が離れれば、瞬時に没落する道理だ。

 寒い冬がやって来て、山からの恵みが得られなくなると、仙吉は生活のためやむなしと、再び狐釣りの道具(ワナ)を取った。

 厳しい季節だった。

 自分を置いて逃げた琴音を呪った。娘を捨てた琴音を憎んだ。だがその一方で、仙吉は琴音を愛していた。それはとても歪んではいたのだが。

 再び女が帰ってくるようにと、娘に「来女(くるめ)」と名付けた。

「来女……」

 小さなこぶしを握りしめ、娘は震える唇で自らの名を呟く。

 これまでのすべてが干渉することのできない過去の出来事ならば、彼女はこれからもただの傍観者として徹するより他ない。いや、見続けることこそが彼女の業であると言わんばかりに、食い入るように記憶に刻んでいた。

 せめてそれを、残すことはできまいか。伝えることはできまいか。それこそが自分にできる、自分にしかできないことなのではないだろうか。

 幼い娘は、その小さな胸の内で苦悩していた。だが(すべ)を持たぬ。手段を知らぬ。

 そうして再開した狩りの最初の獲物は、――()()()()()()()だった。

 その美しい毛並みは、いままでにない高い値がついた。しかし仙吉は、それを売ることはなかった。町に下りたが結局なにも売らず、そうしてなけなしの金で一番上等な酒を買って家に戻ってきた。

 酔ったまま眠った仙吉は、翌朝暖炉の前で冷たくなって発見された。目尻の涙の跡も凍える、今年一番の寒い冬の朝であった。

 その傍らで娘は、狐の毛皮にくるまれて安らかに眠っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ