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 男たちの話通り、仙吉は酒好き博打好きで有名だった。

 山で狐を釣って、その肉と皮を売って、ひとりで生きてきた。両親はずっと昔に流行り病で亡くなってしまっており、それからはずっと独りだった。

 ただ、仙吉は元々働くことは苦ではない。酒も博打も、本当はその孤独(ひとり)を誤魔化すためのものだったのかもしれない。

 ある日、いつものように仕掛けた罠を確認しようと分け入った山で。

(……もし)

 そうして無慈悲に、親子狐を打ち殺しているところで。

(もし、猟師様……)

 美しい女と出会った。

(どうかこれ以上、この山で狐を獲るのはご勘弁願えないでしょうか。このところ、若い狐もすっかり姿を消しまして――このままでは、遂には滅んでしまいましょう)

 どこから現れたのか、このあたりでは見ぬ、むしろこの世ならざる美貌に、仙吉は目を奪われた。

 そうして、それを(はた)で眺めている小さな娘もまた。そこに格別な思い入れが潜んでいたことを、幼い身では理解できない。それにやはりここでも、すぐそばにいるにもかかわらず、志摩禰と娘の存在は気づかれていないようである。

(獣にも親子の情はございましょう。これ以上はどうか。後生でございます。何卒、何卒……)

 それは同時に、仙吉にとある疑念を抱かせるのである。

 ――ははぁ、この女子(おなご)、狐か山女(やまおんな)の類ではあるまいか。さては、おれを化かしに来たのだな。

 志摩禰はそっと、成り行きを見守る娘にささやく。

「狐は人を化かす際に、眉毛の本数を数えるという。だからそれを防ぐため、眉に唾を塗り、数えさせないようにするのだ。――ほら、あんなふうに」

 日中のさなか、仙吉は額の汗を拭うふりをして、片眉に唾をつけた。

 それを見て娘も、恐る恐る自分の唾を眉に塗ってみる。

 その途端。

 娘は何度も目をしばたいた。確認するように志摩禰を仰いで見たりした。それでも目の前の光景は変わらない。

 仙吉と娘は目を疑った。

 それは新雪の雪原よりも清潔で、神秘的に輝いている。片目で見た女の姿は、見事なまでに美しい毛並みの白狐(しろぎつね)なのである!

 驚きを隠しながら、仙吉はいまほど狐の親子を打ちのめした棍棒を握り直す。汗で手が滑りそうだ。

 人の姿も美しい。だが、狐の姿は神々しいばかりに幻想的だった。それはまぎれもなく人外の美であった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()――皮算用である。

 それに気づいた娘はあわてた。

 ――()()()()()()()()()()()()()()

 そんな不安に襲われ、飛びだしかけた小さな肩に、そっと大きな細い手が添えられる。

「……だから」

 志摩禰が無感動に呟いた。

「無駄ですよ」

「で、でも。だって……!」

 悲愴な表情で抗議する娘だったが、反論の言葉を持たない。

 この二人には娘たちの姿は見えていないのである。手を伸ばすが、指先は仙吉の体を無情にもすり抜ける。

(おれもこれで生きているのだ。生きていくためには殺さねばならない)

 正体がばれたことに気づかぬ白狐は、地に手をつけたまま悲しそうに目を細める。

(日々の糧は奪うだけでまかなうものではありますまい)

(生憎産まれてこのかた、これしか知らぬ。ずっとこれで生きてきた。それではおぬしが、おれに別の生き方を与えてくれるというのか?)

 狐はしばらく悩んだように黙り込んだ。だがやがて、獣の姿で美しい声を震わせるのだった。

(何卒、お約束いただけましたらば……(わたくし)めは仙吉さまの嫁となり、一生お仕えしましょう)

 女の憐れたるやは(こうべ)を垂れているため、仙吉が棍棒を振り上げたことにも気づかない。

 そこにきて仙吉のわずかな躊躇(ためら)いは、片目には絶世の美女が映ることだろうか。血の染みた地面に膝をついて平伏する姿は、彼の歪んだ醜い心を引き留めていたのだった。

 野生の獣は気配に敏感だ。しかし、仙吉とて狩猟生活の長い身である。気取られないよう殺気を潜ませることも容易であろう。

 だが、この光景の傍観者――小さな娘はたしかにその殺意を目の当たりにしていた。この狩人は、狐の女を殺すだろう。なんの呵責もなく、足許に転がっている狐の親子と同じように――!

()()()……、()()()()!」

 精一杯の抵抗とばかりに、娘は叫んだ。

「お願い、逃げて!」

 聞こえない。きっと聞こえない。

 その体に触れようとしても。突き飛ばそうとしても。

 すり抜けてしまう。

 志摩禰を仰ぐ。しかし死神もまた無情であった。

 (かしず)いたままの女を見る。すぐ頭上に、非業の運命が待ち構えている。

(それではおれは、これよりなにを(かて)に生きていけばよい。肉を売って、皮を売って、やっと暮らしていけるだけのおれは)

 不審がられないよう、仙吉が淡々と続ける。

(……東の大きな栗の木の下、日当たりの良い土を耕しください。実りは長く枯れることはないでしょう)

 まだ顔を伏せたまま。

(皮より売れるか。肉より高いか)

 慎重な男の言葉を背中で聞く娘。そこに潜む狂気を肌で感じながら。

 これ以上、見届けることはできなかった。目を閉じ、耳をふさいだ。

(お約束しましょう。「育てる」ことは「奪う」ことよりも尊い。お山はお守りくださいましょう……)

(約束を(たが)えることはないか?)

(はい、きっと……)

(では、おぬしを(めと)ろう)

 絶望の輝きに見開かれた女の目。堪えきれずふり返った娘も、女と同じ表情をしていた。

(よいな、決して逃げるでないぞ)

 そこに映る仙吉の姿は、残忍な狩猟者である。女の髪を引っつかみ、容赦なく振り下ろされる棍棒。

 やはり悲鳴は、仙吉のよく知る獣のそれであった。

「どうして!」

 娘の悲鳴は届かない。無駄と知りながらも掴みかかろうとする抵抗は、しかし虚しい。その涙は黒衣の死神しか知らない。

(ならば、おれも約束を守ろう)

 女は力なくうなだれる。口の端から細く、赤いものが流れる。

(だから決して……逃げるでないぞ)

 そうして二人の姿は舞台から消える。

「や、やだ……」

 取り残された娘は闇のなか、ひとり泣いていた。

「おかしいでしょう? ……ねえ? ねえ!」

 傍らの死神にすがりつく。この世界では唯一触れることのできる存在だったが、その温度は氷のように冷たかった。

「…………」

 そうして言葉もまた。

「過ぎた事象は変えられない。過去(ここ)にあなたは存在しないのだから」

 死神を見あげる娘の目は、輝きを失っていた。それは絶望か諦めか。

 そうして、また歩きだす。

 冥土の旅路は、次なる舞台へと。

 娘は涙を拭うと、きつく唇を噛みしめた。



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