参
男たちの話通り、仙吉は酒好き博打好きで有名だった。
山で狐を釣って、その肉と皮を売って、ひとりで生きてきた。両親はずっと昔に流行り病で亡くなってしまっており、それからはずっと独りだった。
ただ、仙吉は元々働くことは苦ではない。酒も博打も、本当はその孤独を誤魔化すためのものだったのかもしれない。
ある日、いつものように仕掛けた罠を確認しようと分け入った山で。
(……もし)
そうして無慈悲に、親子狐を打ち殺しているところで。
(もし、猟師様……)
美しい女と出会った。
(どうかこれ以上、この山で狐を獲るのはご勘弁願えないでしょうか。このところ、若い狐もすっかり姿を消しまして――このままでは、遂には滅んでしまいましょう)
どこから現れたのか、このあたりでは見ぬ、むしろこの世ならざる美貌に、仙吉は目を奪われた。
そうして、それを傍で眺めている小さな娘もまた。そこに格別な思い入れが潜んでいたことを、幼い身では理解できない。それにやはりここでも、すぐそばにいるにもかかわらず、志摩禰と娘の存在は気づかれていないようである。
(獣にも親子の情はございましょう。これ以上はどうか。後生でございます。何卒、何卒……)
それは同時に、仙吉にとある疑念を抱かせるのである。
――ははぁ、この女子、狐か山女の類ではあるまいか。さては、おれを化かしに来たのだな。
志摩禰はそっと、成り行きを見守る娘にささやく。
「狐は人を化かす際に、眉毛の本数を数えるという。だからそれを防ぐため、眉に唾を塗り、数えさせないようにするのだ。――ほら、あんなふうに」
日中のさなか、仙吉は額の汗を拭うふりをして、片眉に唾をつけた。
それを見て娘も、恐る恐る自分の唾を眉に塗ってみる。
その途端。
娘は何度も目をしばたいた。確認するように志摩禰を仰いで見たりした。それでも目の前の光景は変わらない。
仙吉と娘は目を疑った。
それは新雪の雪原よりも清潔で、神秘的に輝いている。片目で見た女の姿は、見事なまでに美しい毛並みの白狐なのである!
驚きを隠しながら、仙吉はいまほど狐の親子を打ちのめした棍棒を握り直す。汗で手が滑りそうだ。
人の姿も美しい。だが、狐の姿は神々しいばかりに幻想的だった。それはまぎれもなく人外の美であった。
あれを売れば如何ほどになろうか――皮算用である。
それに気づいた娘はあわてた。
――この化け狐を殺してはならない。
そんな不安に襲われ、飛びだしかけた小さな肩に、そっと大きな細い手が添えられる。
「……だから」
志摩禰が無感動に呟いた。
「無駄ですよ」
「で、でも。だって……!」
悲愴な表情で抗議する娘だったが、反論の言葉を持たない。
この二人には娘たちの姿は見えていないのである。手を伸ばすが、指先は仙吉の体を無情にもすり抜ける。
(おれもこれで生きているのだ。生きていくためには殺さねばならない)
正体がばれたことに気づかぬ白狐は、地に手をつけたまま悲しそうに目を細める。
(日々の糧は奪うだけでまかなうものではありますまい)
(生憎産まれてこのかた、これしか知らぬ。ずっとこれで生きてきた。それではおぬしが、おれに別の生き方を与えてくれるというのか?)
狐はしばらく悩んだように黙り込んだ。だがやがて、獣の姿で美しい声を震わせるのだった。
(何卒、お約束いただけましたらば……私めは仙吉さまの嫁となり、一生お仕えしましょう)
女の憐れたるやは頭を垂れているため、仙吉が棍棒を振り上げたことにも気づかない。
そこにきて仙吉のわずかな躊躇いは、片目には絶世の美女が映ることだろうか。血の染みた地面に膝をついて平伏する姿は、彼の歪んだ醜い心を引き留めていたのだった。
野生の獣は気配に敏感だ。しかし、仙吉とて狩猟生活の長い身である。気取られないよう殺気を潜ませることも容易であろう。
だが、この光景の傍観者――小さな娘はたしかにその殺意を目の当たりにしていた。この狩人は、狐の女を殺すだろう。なんの呵責もなく、足許に転がっている狐の親子と同じように――!
「逃げて……、殺される!」
精一杯の抵抗とばかりに、娘は叫んだ。
「お願い、逃げて!」
聞こえない。きっと聞こえない。
その体に触れようとしても。突き飛ばそうとしても。
すり抜けてしまう。
志摩禰を仰ぐ。しかし死神もまた無情であった。
傅いたままの女を見る。すぐ頭上に、非業の運命が待ち構えている。
(それではおれは、これよりなにを糧に生きていけばよい。肉を売って、皮を売って、やっと暮らしていけるだけのおれは)
不審がられないよう、仙吉が淡々と続ける。
(……東の大きな栗の木の下、日当たりの良い土を耕しください。実りは長く枯れることはないでしょう)
まだ顔を伏せたまま。
(皮より売れるか。肉より高いか)
慎重な男の言葉を背中で聞く娘。そこに潜む狂気を肌で感じながら。
これ以上、見届けることはできなかった。目を閉じ、耳をふさいだ。
(お約束しましょう。「育てる」ことは「奪う」ことよりも尊い。お山はお守りくださいましょう……)
(約束を違えることはないか?)
(はい、きっと……)
(では、おぬしを娶ろう)
絶望の輝きに見開かれた女の目。堪えきれずふり返った娘も、女と同じ表情をしていた。
(よいな、決して逃げるでないぞ)
そこに映る仙吉の姿は、残忍な狩猟者である。女の髪を引っつかみ、容赦なく振り下ろされる棍棒。
やはり悲鳴は、仙吉のよく知る獣のそれであった。
「どうして!」
娘の悲鳴は届かない。無駄と知りながらも掴みかかろうとする抵抗は、しかし虚しい。その涙は黒衣の死神しか知らない。
(ならば、おれも約束を守ろう)
女は力なくうなだれる。口の端から細く、赤いものが流れる。
(だから決して……逃げるでないぞ)
そうして二人の姿は舞台から消える。
「や、やだ……」
取り残された娘は闇のなか、ひとり泣いていた。
「おかしいでしょう? ……ねえ? ねえ!」
傍らの死神にすがりつく。この世界では唯一触れることのできる存在だったが、その温度は氷のように冷たかった。
「…………」
そうして言葉もまた。
「過ぎた事象は変えられない。過去にあなたは存在しないのだから」
死神を見あげる娘の目は、輝きを失っていた。それは絶望か諦めか。
そうして、また歩きだす。
冥土の旅路は、次なる舞台へと。
娘は涙を拭うと、きつく唇を噛みしめた。