壱
妖怪絵師・岩下来女の名を知る者は少ない。
その作品のほとんどは、彼女の死後に焼失してしまっているためだ。
緻密かつ濃密な妖怪画と、それらひとつひとつに添えられた異様な物語の数々は、まるで見てきたようと評され、一部の好事家の間では幻の作品として名高い。
岩下来女は絵物語の才に秀でていた。江戸後期から明治大正まで生きたとされているが、その生涯は謎に満ちている。
さて、ここに一冊の書物がある。
生前に編纂したとされる妖怪絵巻『妖隠録』である。登場する妖怪は全百種。まさに百鬼夜行の装いだが、出版は彼女の死後で、それもすべて戦火で失われてしまった。
これは、かろうじて災禍を免れた数少ない稀覯本である。それこそ好事家が言い値で金を出す類のものだ。
前書きにはこうある。
――これは私の物語だ。私と、私がとり憑いた死神にまつわる長い長い旅の。
ぽぅ、と灯りがともる。
道の端にひとつふたつ。まあるい灯りがみっつよっつ。いつつむっつと闇のなか。ぼんやり連なり、ななつやっつ。見果てぬ先へ妖しく誘うように、ここのつとお。
娘が歩いている。
小さな娘で、まだ十にはなっていないだろう。おかっぱ頭に赤い着物、真新しい草履をからんからんと鳴らして。ゆさゆさと弾んでいるのは、帯留めに差した毛皮の根付だった。
その先に、男がひとりいた。
頭まですっぽりと、闇より濃い外套を羽織って。足音どころか気配すら感じさせずに歩いている。姿も正体も知れない、異質な空気をまとった影だった。
足を速めれば娘は駆け足になり、ゆるめれば娘の歩みも遅くなる。一定の距離を保ちながら、男と娘が歩いている。まるで、迷子の仔犬と主人のよう。
どこまで続くとも知れないだらだら坂。一本道の闇。先は見えない。両脇に連なるおぼろげな灯りだけが、足許を照らす道標だった。
背後もやはり闇。通り過ぎれば、まるで役目を終えたように灯りは消えて、なにもない。あとにはなにも残らない。
――ぞわり、と道の外。
ふと視線を向ければ、そこにはこの世でない存在がうずまく。不穏に群がり、娘を脅かそうとつきまとう。
だが、灯りより内側には入り込むことができないようだった。
だらだらと、だらだらと坂は続く。どこに続くとも知れぬ、緩慢で限りなく冗長に。
そんな果てなく見えた行路、先行く男は不意に足を止めた。それを受けて、娘もぴたりと立ち止まる。その距離がつまることはない。
おもむろに被りを傾けるが、深い影が落ちて、男の素顔を見ることができなかった。
「……ここまでです」
その声はくぐもっている。口をなにかで覆っているのかもしれない。
それまで見守っていた灯りがぷつりと切れた、真っ暗な闇の断崖のその手前。
男が立っているのは境界だった。そこより先は深い。
見えない闇の奥、無数のなにかが蠢いているのが見える。生きていないモノが生きている。それは貪欲に待ち構えているのだ。
「山狐の縄張りの外では、誰もあなたを守ってはくれない。……そしてわたしでは、あなたを救えない」
それだけ言うと。男はまた前を向いて歩きだす。やすやすと境界を踏み越えて、闇の奥へ。その影が、新たな黒に溶けて滲んで消える。
わずかな躊躇いのあと、覚悟を決めて娘も飛び込んだ。
暗い暗い闇の黒のなか。
体中の穴という穴に黒がしみ込んでくる。娘はたまらず目をつぶり、耳をふさいで、溺れるように両手を掻いた。闇はつかめず、小さな指の間で霧散する。
やがて世界は黒は白になり、ゆるやかな濃紺に移り変わった。
境界を越えた先は、鬱蒼とした山道だった。
ふり返れば鈍い月明かりが照らし、大きく広がった竹林は沈黙している。草木も眠る頃合いか。虫の音も動物の声も、なにも聞こえない。
突如開かれた景色に戸惑う。あたりを見わたすが、男の姿はない。
まるで娘を招くように、目の前には隧道がぽっかり口を開けていた。
苔の生えた縁に触れ、目を凝らす。それは柔らかく、ぬるりと湿って不快にあたたかい。奥から生臭い風が流れてくる。やはり先の見えない闇の闇。奈落より濃く、深淵よりももっと深い。
言い知れぬ不安に襲われた。ゆらり、根付が揺れる。
しかし、このままここにいるわけにもいかない。
改めて覚悟を決め、恐る恐る踏み込む。
腐臭の立ち込めた隧道は、灯りひとつなかった。染みだした粘着質な液体に、草履がぬかるむ。
これではとても、先には進めそうにない。
灯りを求めるべく、娘は来た道を引き返そうとした。
ところが、まるでそれを拒むかのように、突如隧道の入口が震える。そうしてまるで、娘を閉じ込めるかのごとく、重い口が落ちてきたのだ。
娘は悲鳴をあげた。慌てて抜け出そうとするも、足が捕られて逃げられない。
あわや隧道に飲み込まれようという寸前、外から手が伸びてきて、小さな体を軽々すくい上げた。
「――子供騙しの罠に、みすみす喰われてやることもないでしょう」
しばらく娘は、自分の身に起こったことが理解できなかった。
目の前には、巨大な蛭のような異形が、地鳴りさながらの歯噛みをしていた。その手前で、娘を守るように黒衣の男が立ちはだかっている。
隧道の入口だと思っていたのは、異形の口だったのである。これでは口を開けて待つ虎に、自ら飛び込んだ愚かな兎である。
「干渉しないのが決め事ですが、いささか夢見が悪い。それにきみも――相手が悪い(・・・・・)」
意味深に男が追い立てるよう手を振ると、蛭のような異形は悔しそうに一度野太く鳴いて、巨大な体を震わせながら森の奥へと消えていった。
それを見届けて、男は息をつく。
「野槌に喰われては、さすがに手が出せない。生まれ変わることもできなくなるでしょう」
娘は知らぬ。野槌の体内は、永遠の無間地獄に繋がっていることを。
「お帰りなさい。わたしではあなたを救えない」
先程と同じことを言う。
しかし、娘は気丈に顔をあげた。強い目だった。
「鎌のない死神についていけば、死者の国に行けると聞いた」
男――死神は一瞬困惑したようだった。もっとも顔は見えないので、実際どんな表情をしたのかわからない。
「なぜ死者の国に?」
「おっ母に会えるから」
娘は即答する。
「なるほど……。でも、その手前までです。それ以上のことは仕事ではない。それに――」
死神は一度言葉を切る。
「あなたは死んでいない」
それを聞いた娘は、泣きだしそうな顔をした。
「なんで。死神やろ」
「だから、鎌なしなんですよ。死神の仕事を誤解しています。人殺しではありません。だいいち――」
男は屈んで、娘の顔をじっと覗き込んだ。まるですべてを見透かすかのように、なにもかも飲み込むように。
「あなたも人間ではないでしょう」
思いがけず外套の中を直視してしまった娘は、瞬時に青ざめる。そこにあったのは、死神の素顔である。
その反応を見て、男はわずかに憐れんだように笑ったようだった。
「……ああ、なるほど。半分なんですね」
「…………」
なにかを納得したように、死神は立ち上がった。
「いいですよ、ついてきますか? あの世の手前までなら、連れていくことはできます。ちょうどいま、手が空いてますので」
「え」
まだ青ざめたまま、娘は驚いて頷く。
「い、いいの?」
「そこから先は、ご自分で決めてください。それ以上関与できませんし、するつもりもありません」
「あ、……」
あわてて礼を口にしようとしたが、それも少しおかしな気がしてそのまま黙り込んだ。娘は死にに行くのだから。
「では」
慇懃に死神はお辞儀をする。すっぽりと身にまとった外套は、はらりとも動かなかった。
「案内を務めさせていただく、志摩禰です」
「わ、私は……」
名乗ろうとする娘を、死神が手をあげて制する。その指は細く節くれだっていた。
「名は呪です。気軽に教えないほうがいい」
娘は言葉を飲み込む。そうは言うが、男の名を知ってしまった。
すると死神は、察したように息をつく。
「もっとも――呪い殺せるものならば。どうぞ」
微笑んだのかもしれない。恐らく冗談のつもりなのだろう。
「では行きましょう。冥土の旅路は長いようで短く、そして人生のように儚い」