琴の音は眠りなき者へ
― 1 ―
白く細い腕が上がり、編み込んだリボンを指した。
「イヴァン、裏返ってる。下の結び目……」
アミュレットの土台になっているラベンダーはすでに家中に香っていたが、彼女の指がなぞったところから一層濃く立ち上った。
編み手の男は、「ああ?」と顔をかたむけて作りかけのアミュレットを確かめ、不格好なコブを見つけた。
「おっと、覚えたはずなんだが。どうも要領が悪い」
と頭をかく彼の周りは、小さなテーブルどころか床の上にまでも材料があふれ返っている。木箱に分けた刺繍入りのリボンに貝ボタン、きらめく石のビーズ、そして山盛りのラベンダー。
リボンの一本で髪をまとめた女は、手早くリースを紡ぎながら男に微笑みかけた。
午後の陽ざしが輝く金の髪をやわらかく見せる。やや濃さのある同系色の瞳と、優しげな線を描く頬。
女は光の精のようだった…… 黙ってさえいれば。
ひとたび口を開くと、その声が実在の親しみにあふれていると知れる。
「それじゃあ、次を最後の試験にしましょうか。失敗したら野原じゅうの草刈りをして道を増やしてもらおうかしら」
「まだ三日目だ。勘弁してくれ、セラ」
男も笑い、様々な傷の残る大きな手で結び目をほどき戻る。かつては森に住む猟師だった、と彼女に話していた。町は性に合わない、森を出たのが間違いだったと。
「いいわ、あなた病み上がりだもの。労らなきゃね」
セラと呼ばれた女が、重ねたアミュレットを箱に収める。こまやかで優しい手つきを男が眺めている。
その透きとおるような美しい腕が、彼をこの世に引き戻してくれたのだった。
― 2 ―
初夏の大きな月の道。
しっかりして、と支えられ歩いた先の小さな小屋で男は眠りにつき、そのまま数日うなされて過ごした、という情けない有様だった。
一度、目を覚ましたとき……
それは真夜中だったのだが、粗末なベッドの横に女が座っているのを見た。男が身動きすると、彼女は燭台に明かりを灯した。
ほんのりした光に浮かんだ表情は男を安心させた。
「お祭りにきたの? 月のない、月の祭り」
「その月から落ちた」
そう答えてふたたび眠りに引き込まれた。謎かけのような会話を交わした翌朝、彼らは初めて互いをしっかりと見たのだった。
金色をまとう女と違い、イヴァンは影のような男だった。
痩せた顔に灰色の瞳が並び、襟足の伸びかけた髪は黒い。そのせいか、これといった特徴のない顔立ちが沈んで見えた。
行くあてがあるのか、とセラは尋ねなかった。ただ、
「お祭りの前にアミュレットを売るの。手伝ってくれる?」
と彼の手にリボンを押しつけて、それから二人は始まった。
一番暑い季節を迎える前に、最後の新月を祝う。この辺りにはそんな風習があるのだとセラは話した。
「みんな部屋ごとに飾るのよ。どれも同じって思うでしょう、でも私のは特別」
と、冗談と自信を半々に言ってイヴァンを笑わせる。
「誰もそう言って売るんだろう」
「私は本当。安らぎのおまじないを一緒に編むの、だからよく眠れる。試してみる?」
ラベンダーとリボン。張りめぐらされたビーズ。小屋の片すみに仕切られた寝床で、その夜のイヴァンは確かにぐっすり眠ったようだった。
「君は魔女なのか?」
アミュレットの作り方を教わりながら彼が聞くと、セラは声を上げて笑った。小屋の周りはたくさんの植物がしげっている。窓のそばの木から小鳥が飛び立った。
「だったらもっといい家を建ててる! 使い魔だっているかもね、でも私は一人よ」
今はあなたがいるけれど、とつけ足す。
夏の初めの陽は強く、どこまでも入り込む。微笑む金の瞳に男の影が映りこんでいた。
― 3 ―
セラは陽が落ちる前に食事を済ませ、それから仕度をする。
長い髪の上半分をきれいに編み、エプロンの代わりに飾り襞のたっぷりついた巻きスカートを着ける。
最初にその姿を見たとき、イヴァンは彼女が“そういう仕事”をしているのかと思った。ここは都の外れだ、少し歩けば夜を待ってにぎわう通りもある。何より彼女は美しかった。
しかし、彼の視線に気づいたセラは楽しげに言った。
「私はこっちの方。確かに酒場を回るけどね」
と木製の横笛を取り出し、唇を当ててかまえてみせた。握った拳が五、六個入りそうなほど長く、しっかりと太さもある。
「初めて見るな。この地方の楽器か?」
イヴァンは、飴色に磨かれた笛を見てまばたきした。
「よその国から流れてきたの、珍しいでしょう。みんな音を聴きたがるから実入りがいいのよ。がらくた市で掘り出して正解だったわ」
外見に反したしたたかさを示された男は、感心しながら「よく考えてる」とうなずいた。女が微笑み、彼をのぞき込む。
「好きな歌を吹きましょうか、お客さん?」
イヴァンは少し考えてから生真面目に答えた。
「嬉しいが、またにしよう。何せ払えるものがない」
「それじゃあ、あなたの分のアミュレットが売れたら吹いてあげる。また明日会いましょう」
と、袖の短いブラウスの肩にレースのショールを巻きつけ、手を振ってから道を急いでいった。
沈む夕陽がひとり歩くセラを染める。スカートが寂しげな影を作ってはためく。
長いあいだ戸口に立っていたイヴァンは、彼女の姿が見えなくなるとようやく扉を閉めた。
祭りが近い町には外からの人が増えはじめている。酒場も繁盛していることだろう。
星の輝きが深くなるころ、彼はその光景を思った。打ち鳴らされるグラス、たくさんの料理の匂い、会話に嬌声……
その間をぬってセラが笛を吹く。きっと明るく心地よい歌だろう、彼女の音を中心にして夜が回るのだ。
思い浮かべた彼女の瞳は笑っていた。
同じ目をしながらイヴァンはろうそくを吹き消す。しかしまだ眠らない。かといって灯を惜しんだのでもない。
彼は用心深くあたりを見回し、静かに小屋を後にした。夜ごと細まる月明かりの中で、二つの目が暗く光っていた。
― 4 ―
町の外壁までやってくると、ツタのこぼれる石のアーチの下に人影が現れた。
頭を布でおおった中年の小男で、その呼び名のとおりネズミのような顔をしていた。ネズミは、わずかに届いてくる明かりの陰で三角形の顔をしかめた。
「やけにチンタラしてるじゃないか。あいつで決まりなんだろ?」
「まだ分からない。笛はあるが竪琴がない」
と、イヴァンは低く抑えた声で答える。小男が不機嫌なため息とともに詰め寄った。
「先方はお急ぎなんだぜ。あんまり手間取ると言い訳にも困るんだ、分かってるなイルギナス」
「名前を出すな。その筋の者はここにもいる」
灰色の瞳に刺すように睨まれ、ネズミは「はいはい、やれやれ」と肩をすくめた。そして男の前に五本指を立ててみせる。
「あとこれだけしか待てんとさ。俺はこの金をあてにしてんだ、尻込みするならこっちで動くからな!」
目を吊り上げて忠告したかと思うと、小男はあっという間に消えてしまった。
イヴァンというはずの男はしばらく石の柱にもたれてたたずんでいたが、やがて来た道を引き返しはじめた。セラが帰る朝までにあといくつアミュレットを編めるだろうかと考えながら。
竪琴がない、とネズミに言ったのは不正確だった。
あの小さな住まいでは隠せる場所もそうそうないだろう。しかしイヴァンは、探すべきものを見つけようとしていなかった。
探しても無駄だと彼は思う。きっとないはずだ。
見つけてしまえば終わりだと分かっていて、彼はそれを望んでいなかった。そしてそんな自分が信じられず、馬鹿なやつだ、と呆れながら眺めているのだった。
― 5 ―
あと五日。
念を押された日数は、ラベンダーとリボンに編みこまれて半分を過ぎようとしていた。
「イヴァン、すっかり上達して! 色の置き方も素敵」
男の作ったアミュレットをためつすがめつ、明日の前夜祭に売りに出ようとセラは嬉しそうに言った。
「あなた猟師だったんだものね、身についてしまえば後は早いんだわ」
「言われてみれば仕掛け罠をよくやっていたよ」
イヴァンは少し照れながら答える。セラが、箱を閉める前に一つのアミュレットを取り上げた。
ろうそくの淡い光にかざし、リボンで描かれた紋様の間からじっと彼を見つめる。
「貰っておこうかしら、あなたのお守り」
男は、「俺のには何の効き目もない」と笑ったが、女は何かをうかがうような、不思議な表情をして黙っていた。
二人の間に沈黙が落ちる。
余った材料は片づけられていた。手伝うべき仕事が終わってしまった、とイヴァンは思う。
俺は自分の仕事を始めなければならない。
それでも動き出せずにいると、セラがふいにつぶやいた。
「罠にかけるものは何?」
「……兎に、鳥。仔鹿も」
月の消えかけた夏の走りの夜。染みついたラベンダーの香りに溺れそうになりながら、互いを見透かそうと視線をぶつけ合う。
先にそらしたのはイヴァンの方だった。わざと窓を見て、彼女に背を向けて言った。
「酒場に出なくていいのか?」
「お祭りが終わるまではお休み。ねえ、一緒に町へ行きましょう。楽団も来るんですって、踊り手も。色んなものが見られるわ」
彼は答えず、ただつぶやいた。
「客が待ってるぞ」
そのささやきを打ち返して「私を遠ざけたいのね」とセラが告げた。
イヴァンは鋭い目でふり返った。
彼女は微笑んでいる。男の心臓は大きく鳴り出した。
「私を待つ者はここに。今日のお客はあなたよ、イルギナス」
― 6 ―
「何を……」
笑い飛ばそうとしたイヴァンだったが、口も身体も痺れたようになり動きを止める。セラは穏やかに、しかし悲しげにそれを見つめていた。
「追っ手の噂があったから」
と、ぽつりとこぼしてゆっくりと歩き始める。やがて少し離れた床の上にしゃがみ、凍りついた男を見上げた。
「私を終わらせにきたの? ヒクトの鍵師の遺したものを」
金の瞳が消えた月の代わりとなってイヴァンを照らした。彼は、彼女が口にした名を空っぽになった頭の中でくり返した。
ヒクトの鍵師。
そう呼ばれていた暗殺者が死んだのは、この年の初めだった。
「屋敷の護衛が毒矢を射かけた。翌朝になって遠くの川辺で見つかったのだが、気にかかることがある」
いきさつを語ったのは地方貴族の一人だった。命を狙われた後、とある町で斡旋人をしていた小男のネズミのもとに、相談があるといって身を隠し訪ねてきた。
その場に呼ばれていたのが、イヴァン…… イルギナスだった。半端な裏仕事をしていた彼は、付き合いの古いネズミに協力を乞われたのだ。
「暗殺の依頼主を探せと?」
腕組みをして尋ねたイルギナスに、貴族は真面目な顔で声をひそめた。
「いいや、協力者のことだ。あの男がなぜ鍵師と呼ばれていたかは知っているだろう」
「魔法の鍵、ってやつですな。身を守るべき標的自身が戸を開き、暗殺者を招きいれてしまうというこれぞ摩訶不思議!」
と、ネズミがしたり顔でうなずく。芝居がかった様子をうるさがったのか、客は豪奢な指輪のはまる手を振った。
「しかし私の件では失敗した。少し前から、それまで組んでいた片割れが消えたらしいのだ」
そして今、その協力者こそが鍵だったのではないか、という話が闇の世界に出回っていた。
「不思議な力があるのは、やつが持つ竪琴だと言われている。奏でれば人をあやつり誘い出せる、素晴らしい魔力…… 狙う者は他にもいるだろうが、どうしても引き入れたい」
と、彼は暗く燃える視線を注いだ。
イルギナスは、こんな目をした者をずいぶん長いあいだ相手にしてきた。そしてそれを忌む気が起こらないほどに麻痺していた。どうせ俺も同じ目を持っている。
「琴と奏者、双方を手に入れてくれ。金ならいくらでも積める」
契約は成立した。
そうして旅に出て、時間をかけて見つけ出した。困窮を装った彼を彼女は疑わずに受け入れた……
今この瞬間まで、そう思っていた。
― 7 ―
「あなたじゃなければよかった」
セラの静かな声にイルギナスは我に返った。
いつの間にか立ち上がった彼女が、つややかな木の竪琴を手にしている。床下から取り出したのだ。
アミュレットを編んでいた優しい指。それが弦に添えられた瞬間、男がとっさに飛びかかった。人を操る音色だ、耳にしてはいけない!
突然の動きに身をすくめたセラだったが、楽器を奪われまいと抵抗する。二人は言葉もなく揉みあい続けた。
彼女の細い腕は驚くほど強靭でイルギナスを焦らせた。かといってセラを傷つけてもいけないし、そうしたくもない。間近にした金の瞳が潤んでいるのが見えた。
ふたりの間でピンッと尖った音が弾けた。
琴に引っかかった男の指が弦を切ったのだ。それを合図にしたようにセラが竪琴から手を放した。
「……っ!」
勢いづいたイルギナスが後ろに大きくよろけ、窓枠に倒れかかる。
しかし琴は腕に抱いている。もう安全だ。彼は壁に背を押し当て、体勢を直そうとした。
が、何かがおかしい。
天井がどんどん高くなっていく。
いや、身体が沈んでいるのだ。重くもったりした空気が上から押し込めてきて、膝の力が抜ける。
どういうことだ。琴は間違いなくここにあるのに!
床にくずおれ混乱しながら必死に顔を上げた。少しの距離を保った先に、長い髪を乱したセラが彼を見下ろしている。
唇が動いていた。
遠ざかっていく意識の端でイルギナスは己の浅はかさに愕然とした。囮。楽器は気を引くための装置にすぎない、彼女の本当の力は……
そこまでだった。
耳から染み入った旋律が眠りとなって彼を包み込み、じきに抗うことすら忘れさせた。
― 8 ―
「子守唄を聴かせて」
いつかせがまれた時にこう答えた。
歌えない。
知らないんだ、ただの一つも……
唐突に空気を割った鐘の音が耳をこじ開けた。
男はもがきながら目を覚ました。ここはどこだ、何があった!?
音はまだ響いている。暗闇にわずかな星明りが射し、がらんとした小屋を彼に見せた。
彼方の町からの鐘が終わると騒々しい音楽が届いてきた。踏み鳴らす足に手を打って、月のない夜にアミュレットを掲げよ……!
新月の祭りが始まった。
音に誘われたのか、ふと深い香りが漂った。ラベンダーだ、とイルギナスは思い、そこからつながるすべてを思い出す。
あの晩から眠り続けていたのだ。
セラの歌を聴いて。
彼は、上掛けに包まれて窓の下に横たわっていた。手さぐりでのろのろと起き上がり、あたりを見回す。
竪琴は暗い床に転がっていて、彼女は消えていた。野原を越えてくる祝祭の歌だけが途切れずそこにあった。
女は水の上にいた。
楽しみだった祭りのことはもう頭から消えていた。暗い川を割る舳先に目をやって思うのは、かつての仲間の姿だった。生き方を教えてくれた親のような人。
実際に彼は、彼女の父親として表向きを暮らしていた。そしてその年月が長くなるほど娘の幸せを願うようになった。
「組むのはこれきりにしよう、セレーネ。この稼業に染まることはない、遠くに行ってやり直せ」
そういい残して彼は消えた。鍵師の仕事はそれからも続き、彼女は後を追うようにして居所を変えた。
そしてあの夜……
傷ついた鍵師を助けようと手を伸べたが、自分の運命を悟った彼は「歌を」と絞り出した声で頼んだ。
冬の冷たい川のほとり、暗く茂った木々の陰。父の頭を膝に乗せた彼女は、彼のために古い歌を口ずさむ。最後の安らかな眠りに導かれるように。
鍵師の寝息が絶えるまでそう長くかからなかった。
かすかに微笑みを浮かべた彼を優しく横たえてやり、頬を撫で、それが別れになった。
歌を聴いた者は幸せな夢に落ちるはずだった。
鍵師のように、いくつもの命を奪ってきた罪ぶかい男でさえ。数え切れないほど眠らせてきた標的にしても、一人残らず穏やかな表情をしていたと彼女は思い返す。
それなのに、あのイルギナスだけは。
男が動きを止めたのを確かめようとした彼女は、ろうそくの薄明かりの中で目を見開いた。
彼はとても寂しそうだった。
暗い窓の下に崩れ、この世に生まれた最後の子供を守るように竪琴を抱いていた。恐るおそる近づき、その顔を見つめる。
……夢を見ていない、見られない?
それとも、悲しい夢の中にいるの。
心の中で問いかけたとき、閉じた彼の目から涙の粒がこぼれ落ちた。
「いけない」
と言ったのは自分か、鍵師の面影だったかもしれない。
このまま彼のそばにいてはいけない。
この道の先には破滅以外の何も待っていない。
そして女は逃げた。できるかぎり遠くへ、彼の顔も忘れてしまうくらい離れたどこかを目指して。
舟が進んでいくのと同じ時、新月の闇の中で男が「セラ」と呼んだ。弱い声だった。
俺は生きている。
きっと追いかけてしまう、過去も契約も放り出して。
どれだけの危険があっても、どうやって忘れようとしても必ず俺にそうさせる、嘘を編んだ仮初めの幸せな日々が。
彼は震える手で竪琴を引き寄せ、もう一度抱きしめた。今度は放すつもりはなかった。
― 9 ―
さあ今やこの時、新月を越えた夏の夜は実りゆく。
歌う女が遠く逃げ、求むは歌を知った男。
進めば悲し退いても悲し、出会いはふたたび叶うか否か、それは御耳でご判断……
「おい、起きな。悪酔いか?」
声とともに揺さぶられ、私は目を覚ました。見知らぬ顔が見下ろしている。
今しがた店に入ってきたらしい大柄な男は、「無用心だな、客も主人も眠りこけて」と呆れて腰を下ろした。
奥を見回してみると、寝ぼけ眼の主があくびをしながら男の注文を杯に注いでいるところだった。
吟遊詩人は、いなくなっていた。
ぼんやりしながら倒れていた杯を起こす。さっきまで聴いていたはずの曲、変わった節だったが美しい歌だった。夢うつつに思い出してみよう、話の種にはできる。
上機嫌で詞を辿っていて、ふと気がついた。
歌と眠り。
私がたったいま通ってきたものとそっくり同じではないか。
一気に酔いが醒めた。店の扉へ身体ごとふり返る。しかしまさか、あの詩人は青年だった。
どんなふうだった?
背格好は中ぐらい、半端な髪をリボンで束ねた、ありふれた楽士らしい身なり。古びた竪琴を軽やかに奏で、一人きりの私に笑いかけた、「一曲いかがですか、お客さん」
私は体よく断るつもりで言った、「それなら、秘密の歌を頼もうか。誰にも明かしたことのない」「秘めたる歌をご所望で? とっておきがございます……」
どこか謎めいた笑顔に思えたのは珍しい灰色の目をしていたから。
そうだった。薄い影のような瞳に、髪は金色……
居眠りから起きたばかりの先客がいきなり笑い出したので、男は杯の中身をこぼしそうになった。
「おっと、驚かすなよ。どうしたんだ」
思わず声をかけると、その客は「いや、何でも」と代金を置いて扉へ向かった。
そしてつかのまに耳を澄ませるようにしてから、「秘めたる歌か」とつぶやき、重い扉を押し開けて店を出ていった。
( 了 )
最後までお読みいただき、真にありがとうございました!
また新たな作品でお会いできたら嬉しいです。
(余談)
男の本名を何度も打ち間違い、いつの間にか知らない人が増殖していました。