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夜道  作者: 若葉
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夜道 その五

幾つかの坂を下り、幾つかの信号を越えて、いつしか窓を閉めきった車内にも微かな潮の香りが感じられてきた。

後五分位で着きます。

運転手がポツリと呟いた。

はい。

隣に座る彼が驚く位に、はっきりとした声で青年は応えた。


やがて海沿いの太い道路に出た。左手に暗い海が時折白く波立っているのが見える。病院はもうすぐそこである。

大丈夫かい?

彼は青年の肩をぽんと叩いた。

分かりません。今はただ、少し怖いです。

青年はゆっくりと呟いた。

着きました。

運転手は緩やかに減速しながら、病院の前にタクシーを止めた。さあ、早く、急いで、と言いながらドアを開ける。彼はしっかり、という意味を込めてもう一度青年の肩を叩いた。

青年は頷き、有難うございました、と言うが早いかドアから飛び出して病院の玄関の冷たい無機質な光に向かって走り出した。

彼も運転手も黙ったまま、青年の背中を眺めていた。

大丈夫ですかね、間に合うと良いんですけど。

運転手は脱力した様子でぼんやり呟いた。


間に合うと良いんですけどね…。

運転手の同じ言葉を、黙ったまま彼は聞いていた。

沈黙の中をラジオの声と潮騒とが淡々と縫い合わせてゆく。


一寸トイレ行ってきます。

彼の尿意に、運転手は優しく後部座席のドアを開けてくれた。

彼は素早く近くの草むらに用を足した。

流石に病院の玄関を開けて、宿直のスタッフに、トイレを使わせて下さいと頼むのも面倒臭かったのだ。


彼の用を足している草むらの側に寂しくポツリと自動販売機が佇んでいた。

そのまま車に帰るのも良くないと思い、ささやかなお礼の意味を込めて熱い缶コーヒーを買ってタクシーに戻ると、エンジンのかかったままドアは閉まっている。運転手も居ない。

彼は両手に火傷しそうな熱い缶コーヒーを持ったまま、置き去りにされたらどうしよう、いや、車はあるのだからそれはないだろう、大丈夫だろう等と心の片隅で焦りながら、ひどく狼狽えて辺りをキョロキョロ見回し続けた。


いた。


いつの間にか運転手は道路沿いの灰色のベンチに腰掛けて海を見ていた。

安堵と共に運転手に駆けよった。

振り向いた運転手はひどく疲れた顔をしていた。


これどうぞ。

缶コーヒーを受け取った運転手の手はひどく冷たかった。

あ、有難うございます。

渋い微笑に彼は会釈しか出来なかった。

無言で運転手の横に座る。あくまで暗い墨汁の様な海に波の音が繰り返される。身を震わす寒さの中で、二人はじっと座り海を見つめたまま黙っていた。

なんとも形容しがたい、安らぎに似た感情が彼を包み込んでいた。


私もね、この間の検診でね、厄介な出来物が見つかってね。

もう、長くないらしいんですよ。

誰でも最初と最期は一人きり。産まれてくる時も、死ぬ時も。

別に構いはしませんが。

はは、と他人事のように笑ったまま、運転手の視線は寂しく海を見ていた。


月明かりの下に波が押し寄せ引いてゆく。

遠く海の表面に冷たい月明かりが揺れていた。


どれ位の時間、海を見つめていただろう。

気が付くと、二人の背後に青年が立っていた。


どうだった?お祖母さんに、会えましたか?

彼の問いかけに、泣き疲れた顔で、はい、間に合いました、お別れを言って、握手して、それから無事に看取ることができました、とゆっくり応えた。

それは良かったね、まぁ座りなさい。

運転手はすっと間を空け、青年は黙って彼と運転手との間に腰を下ろした。

冷たい月明かりが三人を静かに照らしていた。


無人の道路を一台のタクシーが走り抜けてゆく。


帰りの車内は不思議な、そしてどこまでも清潔な安息の静けさに包まれていた。


生き残った者は、旅立っていった者達の為にも、その日その日を自分なりにしっかりと生きてゆくしかないのかも知れないですね。来る日も来る日も、ね。それだけが、生き残った者達のせめてもの誠意ってもんじゃないかと思います。

すいません。上手く言えません。

呟くような口調で話す運転手は、やはり高倉健さんに似ていた。


やがてタクシーはコンビニの前にゆっくりと停車した。

いつの間に雲が広がりだしていたのか、重たい空が今にも泣きだしそうな気配を漂わせている。

月はもう見えない。

後部座席のドアが開く。

二人、無言のまま降りて、有難うございました、と頭を下げた。

運転手はしわの多い顔にほろ苦い微笑を浮かべて、彼と青年とにゆっくりと手を降った。

言葉も無いまま、しばし見つめあっていた。


やがてタクシーは静寂の闇に溶け込む様に走り去り、深い深い真冬の深夜に彼と青年と二人きりである。

じゃあ。

手を降り立ち去る彼の後ろで、むっくりとした青年が微笑を浮かべて、彼の背中に手を振っていた。

いつの間にか、重たい曇天から、儚い雪がゆらゆらと、人々の悲しい孤独を包み込む様に降り始めてきていたのだった。




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