夜道その四
あの、良かったら、乗っていきますか?
唐突な声に慌てて声の方を振り向く。
顔馴染みの年老いたタクシーの運転手が、ぴんと直立したまま、矢鱈と真面目な険しい顔をして彼と青年とを見つめていた。
職人に居そうな感じの、ちょっと渋い、高倉健さんに似た雰囲気の小柄な運転手である。
答える言葉を見つけられないのか、青年は狼狽えた様子で立ち尽くしたまま無言である。
運転手も無言で立ち尽くしている。
コンビニの力強い光が三人の間延びした影を駐車場に映し出していた。
私は仕事も終わって、これから帰って寝るだけなんです。だから、お金は結構です。さ、早く乗りなさい。急いでいるのでしょう?
運転手は渋い声で青年を急かした。
青年は微かに震えながら、彼と運転手を交互に見て、おろおろしている。
どうしよう?
目がそう訴えている。
この人なら大丈夫じゃないだろうか。悪そうな雰囲気も特に感じないし。
別に保護者じゃないが、何となくそう思った。それに、何より、時間もないではないか。青年の祖母は危なくなっていると言うではないか。今は狼狽えている時ではないんじゃないか。
大丈夫。
彼は青年に軽く頷いてみせ、それから運転手に頭を下げて、宜しくお願いします、と言った。
青年も意を決したのか、運転手に向かって、お願いします、と言って深く頭を下げた。
運転手はうんと頷き、さあ、早く、と言いながら車に乗り込み素早くエンジンをかけながら後ろのドアを開けた。
青年が乗り込み、早速発車するかと思いきや、なかなか走り出さない。
後ろのドアが開いたままなのだ。
どうしたのかと思い見つめていると、運転手は窓を開け彼に向かって、あなたも来ませんか、この人も一人じゃ道中心細いだろうし、深夜のドライブもたまには良いものです、等と言うのだ。
ええ?マジかいな…。
正直なところ彼はちょっと躊躇した。
詳しい事情は知らないが、確かに青年は可哀想であると思う。
タクシーの運転手もなかなかの義侠心だなと思う。けれども、これ以上関わるのは面倒だなぁ、面倒くせぇなぁと物憂く思う気持ちも否めないのだった。
しばし、彼は一人立ち竦んでいた。タクシーのエンジンはもうかかっている。
青年は後部座席で小さくなって俯いている。
どんな心境の変化なのだろうか、運転手と青年と二人を見ている内に、どうせ明日は休みだし、乗り掛かった船だ、最後まで付き合おうかな…、等と思いつつもぐずぐず躊躇っていた。
暗い夜道を、孤独な一筋の流星の様に、一台のタクシーがライトを照らしながら走り抜けてゆく。車内の三人は妙な緊迫感にただただ静まり返っていた。
小さな三つの孤独が、一塊になり走ってゆく。
本当にお金は大丈夫なんですか?
不安に小刻みに震える青年を横目に彼は尋ねた。
後で運賃を請求されたらどうしよう?金の心配が尽きない彼は、こんな場に於いてもひどく興ざめな、現実的な事柄を情けなく尋ねるしかなかった。
まぁ、大丈夫です。個人タクシーですし。はい。
暗い道路に視線を向けたまま、運転手は淡々とした口調で応じた。
あそこにね、あの病院にはね、私の妻も入院していたんですよ。もう五年も前の事ですがね。
毎日朝夕通っていました。この道を、ずっと行き帰りと走り続けていたんです。懐かしいな。私も毎日不安で堪らなかった。
私は妻をほったらかしでしてね。何十年も同居していたのに、ろくな楽しい思い出も作ってやれなかった。今でも、後悔、しているんです。
どんなに不義理をしても、親しかった人の最期には会いたいものですよね。私はちょうどお客さんを乗せていてね。仕事ですからね。妻の最期には立ち会えませんでした。あの時に間に合っていれば、もう少し辛くもなかったのかな、今でも一人で布団の中で、毎晩のように考えます。
妻にとっては、きっとどうでもいい事だったのかも知れない。自己満足なのかも知れない。それでも…。
だから、最期に会いたい。そんなお兄さんの気持ちは嫌って位に判るんですよね…。あ、一人で喋って煩かったですね。すいません。
運転手は微かに鼻を啜りながらほろ苦く笑って、さてさて、宜しければラジオでもつけましょうか?と言った。
やがてニュースを読む男性アナウンサーの淡々とした声が硬直した車内に流れてきた。
青年は幾らか落ち着きを取り戻したのか、鼻を啜りながら車窓から流れ去る暗い闇を黙って見つめていた。彼も沈黙のままに窓の外を見ていた。
街灯の光が心電図の様に等間隔に窓を照らし消えてゆく。
冷たい夜空に幾つもの星が瞬いていた。




