その一
冷々と凍てつく夜道に、ずるずると引きずる様な彼の足音だけが聞こえる。
すたすた歩こうにも、寒くて足が上がらないのだ。
森閑とした冷気の中に、仏頂面で俯き気だるそうに歩く彼の吐く白い息ばかりが生き物の様にゆらゆら立ち上ぼり霞んでいく。
こんな夜中に辛い思いをしながら、険しい顔をして彼は一体何処へ行こうというのだろう。
何の事はない。歩いて十分程の場所にあるコンビニへさしたる用も無いのに震えながら行こうというのだ。昨日も一昨日もその前の日も。
この苦行にも似た深夜の散歩は最早彼の日課であるとも言えた。
変わっている。
知人は口を揃えて、彼の行動をそう評する。
何も真冬の夜中にうろうろしなくても。仕事帰りに用を済ませてしまえば良いのに。
全くの正論である。
反論のしようがない。
何をしているんだ?
悩みでも有るのか?
相談にのるよ?
親切な知人らの言葉は有り難くもあり遠くもあり、また、ただのマウントとりじゃないかなどという汚れた邪推も幾らかあり、多分親身からであろう親切に対して返答がうまく言葉にできなくて、また、言葉にしてどうなる訳でもないのがわかりきっているので、彼はただ、感謝と曖昧な微苦笑をもって応えているしかないのであった。
彼自身、意味ないと知っている。己を変人だと思ってもいる。それでも止むに止まれず今夜も日付の変わった頃に全身震わせながら歩いている。
やはり相当の変わり者なのであろう。
彼も切ないのだ。
挨拶以外は殆ど誰とも話すことなく仕事を終え、とぼとぼと駅から歩いて三十分の小さなアパートへ帰る。途中のスーパーで出来合いの惣菜と酒を買い、アパートの階段を昇る。
冷たいドアを開けると、部屋全体がしんと静まり返った暗闇に包まれている。
当然と言えば当然だが、迎える者は誰も居ない。
テーブルの上には朝の飲みかけの麦茶が入ったコップが侘しく佇んでいる。
こんな光景を何年見てきただろう。
明かりをつけ、飲みかけの麦茶を飲み干す。
空いたコップに買ってきた安酒を注ぎ、また一息に飲み干す。
テレビのバラエティー番組を、大して面白くもないのにぼんやり眺めては時々醒めた笑いを浮かべている。酒ばかり飲んでいる。
夜も更けて、ため息混じりに明かりを消して、敷きっぱなしの布団に疲れた体をごろりと横たえる。
しんとした埃っぽい静寂のなかで、彼はただ、蜘蛛の巣の張った天井をぼんやり眺めている。
なかなか眠れないのだ。
何となく生きてきて、気が付けばどこから見ても立派な中年になっていた。腹も出てきたし、髪も薄くなってきた。
これ迄の日々、これからの日々、何の宛もない。
日々、何の楽しい事もない。かといって悲嘆に暮れる事もない。熱中する事も、夢中になる事もない。年々薄れてゆく喜怒哀楽の感情を、やはり淡々とした日常が上書きしてゆく。繰り返される毎日に、ただモヤモヤとした侘しさが部屋の埃の様に積もってゆくばかりである。
頼り無く、侘しく、寝返りを幾度繰り返しても眠れないのだ。
ざっくりと言ってしまえば、彼は孤独であった。
やがて彼はむっくりと起き上がる。そして寝間着のジャージのポケットに小銭の入った財布を突っ込み、上にダウンジャケットを羽織るとおもむろにドアを開け、暗い寒空の下へ、今日もとぼとぼ歩き出すのだった。




