世界鶏
「お母さんっ! お母さんっ!」
子供が炊事場に飛び込んできた。そのとき、彼の母親はちょうど鶏の羽根をむしっているところだった。
「ダメだよ! そんなことしちゃ!」
子供は母の腕に飛びついて、必死に鶏から引き離そうとする。
「なんだね、いきなり。したくの邪魔だよ」
母親は面食らいながらも、我が子を軽く肘でいなした。だが、何度押しやっても、子供はしゃにむに挑みかかってくる。なにか新しい遊びでも始めたのだろうと、まともに取り合わなかったが、息子の目を見て異変に気付いた。遊びではなかった。彼は真剣だった。
「いったいどうしたんだね?」
盥に鶏を置くと、母親は痛む腰を叩いて立ち上がった。きっと駆け通しできたのだろう。息子の額に光る汗を手の甲で拭ってやる。
子供は俯き、ぽつりぽつりと言葉を繋いだ。
「今日、学校で習ったんだ。僕達がいつも食べてる鶏の名前、世界鶏っていうんだって。世界鶏の羽根の一枚には世界が一つ宿っていて、沢山の人達がその中で暮らしてるんだって。羽根をむしったら、その世界が壊れてしまうんだって」
「……そうかい」
母親は我が子を見下ろした。小さなつむじが自分の胸のすぐそばにあることに、彼女はかすかな驚きを覚えた。
「もうそんなことを習う歳かい」
子供は大きな目を潤ませて、母親を見上げた。
「ねえ、お母さん。鶏には何枚の羽根があるの? 僕達はお肉を食べるたびに、どれだけの世界を壊しているの?」
母親は腰のエプロンで手を拭うと、子供の頭を優しく撫でた。
「世界なんて大それたことはよく分からないがね。坊や、忘れちゃいけないよ。どちらにせよ、あたしらは食べるためにこの鶏の命をもらってるんだ。いいかい、命は重い。たった一つで数多の世界と釣り合うほどに」
「そんなに? 命ってそんなに重いものなの?」
「そうさ。だから、あたしらは食事のたびに祈りを捧げるんだ。感謝と贖罪の思いを込めてね。そしてきっと、命に感謝と贖罪を捧げることが、そのまま壊されてしまう世界全てへの感謝と贖罪に繋がるんだと、あたしは思うよ 」
「僕……」
子供は言葉をつまらせた。彼はこれまで祈りの時間にふざけてばかりいたのだ。その子供の不安を和らげるように、母親は彼に笑いかける。
「お祈りの大切さが分かったかい?」
「うん」
「よし! なら今晩はお前にお祈りの言葉をまかせるとしようか」
「えっ? いいの?」
子供の顔がぱっと輝いた。
「ああ、いいよ。わかったら、ほら外で遊んでおいで」
背中を押してやると、子供は入ってきたときとは打って変わって、軽やかな足取りで駆けていった。
「……知っているよ」
その足音が遠ざかり、外に出たのが確かになってから、母親は静かにつぶやいた。
「知っているとも」
自分がむしる無数の羽根の中に無数の世界があることも。その世界のひとつひとつに自分のような母親や、その母が愛する子供がいるであろうことも。そしていつか、我が子のいるこの世界もまた、誰かの手によって不当にむしられ破壊されるかもしれないことも。
そのとき、その誰かを、あたしは憎むだろう。祈りなどでは到底おさまらぬほど、深く深く憎むだろう。でも、それまでは……。
あたしが優先するのは、あの子を食べさせることだ。
母親は盥の前にしゃがむと、晩御飯の支度に戻った。