七月(3) この先、地雷原につき
「嫌だ!絶対にやらない!!」
教室を満たす空気に、発した声が溶けてゆく。
静寂。突き刺さる視線。
ようやく僕は、自分のしたことに気づく。
普段あまり騒がない奴が叫ぶのは珍しいことだし、珍しいことはとても目立つものだ。
「あっ、いや……その……。な、何でもないから、ゴメン邪魔して」
もちろんそんなのでみんなが納得するわけがない。
それでも何度も「ごめんごめん」と言いながら手で促すと、やがて文化祭委員の二人が動き始めた。
「え、えぇっと……。じゃあ、とりあえずやる企画は劇ってことでいいですか?他に案がある人?」
漠然と嫌だと思う人はいても、具体的な対案を持っている人などいないし、こんな空気の中手を挙げられる人もいない。
「よし、じゃあ劇ということで決定な!どんな劇をやりたいか、みんな考えてきてくれ!明日また聞くから頼むぞ!!」
「みなさん、本当にお願いします。それじゃあ、今日はおしまい」
清水さんが最後に念を押して今日の話し合いは終了した。
……と、文化祭の話し合いという制約が無くなった今、みんなの意識は当然先ほど大声を出した奴に向くわけで。
視線を感じた僕は、居心地の悪さを覚えて、逃げるかのようにして教室を飛び出した。
ふと気づくと、僕は文芸部の部室の前に立っていた。
こんなときでもここに来てしまう自分の無意識に苦笑する。
まあでも、居場所と言えるようなものは学校内にほとんどないのも事実だが。
戸を開けると、見覚えのない顔が三つほど。三人で仲良く騒いでいた。
「あっ……」
三人は会話を中断しこちらを向く。
……いや、見覚えのない顔、ではないか。
思い出した。彼らは今年入部した一年生の人々。
普段来ないくせに、なんでこんな日に来るのか……。
「こんにちは。今日はどうしたの」
「えっ、いや、試験も終わったことですし来ました。文化祭のこともあるのかなあと」
「なるほどね、でもいま部長いないみたいだから……あっ、もうちょっとしたら次期部長が来ると思うから、そのときに」
納得したような、してないような表情を浮かべている。
しかし僕もこれ以上語るつもりもないから、視線を自分のカバンに向ける。
再び会話を始める一年生をおいておき、自分は本を取り出す。
……嫌だ!絶対にやらない!!
大きな声で、すごいことを言ってしまった。
変な失敗はしないよう心がけていたが、やってしまった。
頭の中でいろいろな後悔の念が尽きない。
僕の発した言葉が、今でも脳内で反響していて、読書に全く集中できず、さっきから一ページも進んでいない。
頭に入ってこない文字とにらめっこをしていると、戸の開く音がした。
僕は立ち上がり、一年生の三人に声を掛ける。
「みんな、この人が次期部長だよ」
間髪入れずに開いた扉の方を向いて言う。
「それと、さっきはごめん。じゃあ、一年をよろしく」
それだけ言うと、僕はカバンを持ち上げ教室を出た。
大して活動もしていないのに、一年を、次期部長を置いて部室から立ち去る。
そのことへの罪悪感が、家へと歩む僕の足取りを重くする。
でも、あの場にいたってできることはなかったんだ。
そう言い聞かせながら歩く帰路は、心なしかいつもより長い気がした。
家に着くと、自室にカバンを投げる。
そのままベッドに横たわりたい気分をグッと抑え、汗ばんだ身体をシャワーで洗い流す。
汗でベタつく服を脱ぎ捨てると、身体をお湯で洗い流すと、いろいろと落ち着いてきた。
クールダウン、良くできた言葉だと思う。
パジャマに着替え、ベッドに横たわる。
――こんな僕にも、実は脚本を書いてみたら意外な才能が開花したり。
特に立候補したわけでもない、軽い気持ちで試しに書いてみた脚本が高評価で……。
『カバンから紙を束ねたものを取り出すと、清水さんに近寄りそれを手渡す。
すこし困惑したような顔を向ける清水さんに、説明を加える。
「今度の文化祭の、ちょっと書いてみたんだけど……どう…かな?」
清水さんは、面倒そうな表情を浮かべ、でも読まずに捨てるのも見た目がよろしくないから、とでもいうように渡された脚本を渋々開く。
最後のページを閉じると、清水さんは勢いよくこちらを向く。
「いいんじゃない?すっごく!帰りの話し合いのとき、みんなに読んで貰っていい?」
「いや…でも……」
「いいでしょ!すごく面白かったんだから!」
そう言って清水さんは宮本の元へ向かう。
帰りのホームルーム後、清水さんは印刷物をみんなに配る。
それは、清水さんに渡したものを、おそらく清水さんが担任の川崎先生に頼んで人数分コピーして貰ったもののようだった。
「みなさん、ちょっとこれを読んでみてみて下さい。これを文化祭の劇でやりたいのですが、どうですか?」
みんなとりあえず言われるがままに配られたプリントを開く。
隣から手が伸び自分の机を叩く。
「これ、野田君が書いたの?」
照れくさそうに頷く。
「すごいじゃん!結構いいよ、これ。こんな良いの書けるのにどうして今まで書かな――』
書かない、書けないさ。
書かないことが、そんなにいけないことなんだろうか?
別に書かなくたっていいじゃないか。どうせ誰も読みやしないんだから。
翌日、火曜日。天気は晴れ。
相変わらず空気の読まない太陽は容赦なく光を当てまくる。
教室内も相変わらず明るい。いや、むしろ空気の読めてないのは僕の方か。
自分の席にさっさとカバンを置くと、すぐ小宅・田村の会話に参加する。
「……だってよ、野田。小宅のとこの小学校、屋内プールだったんだって。俺らのところは普通に屋外だったよなあ」
田村は同じ小学校だったから、中二で久々に同じクラスになったとき驚いたものだ。
「ああ、屋外。トンボが卵産みに来たりして大変だったよ」
「えっ!プールってトンボが産卵しに来るものなの!?」
「そうだよ、なんかプール開き前には保護したり大変さ」
「まあでもおかげでプールやるの夏だけでいいから良かったじゃん」
「えー、一年中泳げるとか羨ましいなあ」
「お前、棒読みだぞ」
ははは、と意味の無い会話を続ける。
やがて先生が教室に入ってきたから、自分の席に戻る。
窓の外を見ることを奪われた僕は、自分の席ですることがない。
滴る水、きらめく水面。それらが反射する夏の日差しにも負けず輝く、男子中学生の若々しい肌。
先に女子にプールに入られた分、今日は男子がプールに入る日だ。
大人になりかけの、まだ幼さの残る身体に走る筋肉が眩しい。
「もみじ~」と言っては他の男子の背中に手形を残していく。
可哀想だが、パチンと肌と肌が鳴らす音が、見ている分にはどこか軽やかで。
一方で、自らについて考えてみると、身を守るものがこの青い海パン一枚、というのはとても心細い。
身を隠すものがない、というのはこんなにも心細いものなのか。一年ぶりの感触を噛みしめる。
「ちゃんと水は入れ替えてあるから、気にするなよ」
川崎先生の言葉に、心の中で舌打ちをする。
淡々と振り続ける足、水を掻く手。きちんと空気の交換ができない肺が、徐々に苦しくなる。
こんなの無理だ。プールの端から端までで精一杯だ。
何とか端まで泳ぎ切り、プールから上がって反対側まで歩こうとする僕に、小宅が話しかける。
「全く、なんで人類はせっかく陸上に進出したというのに、また水中に戻らなくてはならないのかね」
「本当、クロールで数十メートル泳げたって使い道はないよ。それより浮き輪で長時間救助を待つ練習をした方がよっぽど有意義だ」
「だよな、こんなの意味ないさ」
「でも。二十五は泳げた方がいいぞ、教養として」
田村が横から入ってくる。
「第一、学校でやることに使い道なんか求めちゃいけないんだ。古語の活用も、よく分からないばねの法則とかも、絶対使い道ないだろ?」
「……確かに、それはそうかもしれない」
「だから、やらなきゃいけないのさ。学校にいる限り」
珍しく田村に諭され、僕らはまた水に身体を浸ける。
そして、次の人に追いつかれないように、後ろの人に迷惑を掛けないように、必死で水を掻くのだ。
「はい、じゃあ今日の練習はここまでです。あとは自由時間な」
川崎先生の声を合図に、みんなプールへ飛び込む。
僕らはというと、ビート板を何枚も抱えて浮力に身を任せていた。
「やっぱり、こうして救助を待つのが一番良いね」
「まったく。一体どうやれば泳げるんだ。息が続かないよ」
「小宅は息継ぎが下手だよ。野田も、もうちょっと口を上に出さないと、キツいんじゃない?」
どうして今日の田村はためになるんだ。少し見直す。
遠くに落ちたボールを拾いに行く途中の近藤が僕に声を掛ける。
「おう野田、そういやどうして昨日は突然大声出したりしたんだ?」
思いがけない人に思いがけないことを言われて、無防備な僕は挙動不審になる。
いや、考えてみれば質問されて当たり前のことかもしれないけれど。
「えっ、いっいやあ……その……。野口さんがさ、『脚本やれば?』とか突然言ってきたもんだから、『お前がやれよ』って」
一瞬、心配そうな目をした田村と目が合う。
「なに?そんなこと言ってきたんだ、野口。でも野田ぁ、せっかくの女の子の頼みなんだから、聞いてやれば良かったのに」
近藤がニヤニヤしながら僕の肩を叩く。
「え?……いやあ、でもさ」
「だよなー、脚本書けって言われても難しいよなー。それに面倒だしな。ハハハ」
とりあえず、ははっ、と笑いを合わせておく。
「ったく女子め、プールではいい思いしやがって。文化祭ではぜってーいい思いしてやるからな!」
「……できるといいね」
「するんだよ!」
じゃあな!と言い残して近藤はボールの方へと勢いよく泳いでいく。
「できない」じゃなくて「する」、か。
そういう考え方ができる奴は、良いよな。
そんなマイナス思考な自分に気づいて、僕は苦笑いする。
身体に残る塩素の臭いに少し不快感を覚える。
拭ききれずに髪に残ったプールの水は、妙なベタつきを持ってその不快感に拍車をかける。
前を向くと、昨日と同じように宮本と清水さんが立っていた。
「んじゃあ、どんな内容の劇をやりたいか、みんな発表してくれ」
しーんと静まりかえる教室に、宮本は困った顔を向ける。
十秒くらい経ったのち、須山さんがサッと手を挙げる。
「たとえば、なんですけど、シンデレラとか?」
「んー、いいんじゃない?」
宮本が相槌を打つ。清水さんは「○ シンデレラ」と黒板に記す。
「じゃー、ヤンデレラ!」
長谷川が言う。
「なんだよ、ヤンデレラって」
「えー、まあ、ヤンデレなシンデレラだよ。たぶん」
「なんだよそれ、全然わかんねーよw」
「じゃあ、浦山太郎!」
「四国史」
やれやれ、内容より先にタイトルを決めるのはどうなんだろう。まあ、特に意見のない僕に言う権利はないか。
もはや大喜利と化したタイトル案を、清水さんは丁寧に黒板に書いていく。
教室内は、どのタイトルが面白そうかの話で盛り上がっている。
「んーと、じゃあ、案はこんなもんかな?……じゃあ、なにか意見のある人いる?」
みんなタイトルの話で盛り上がったまま、特に手を挙げる者もいない。
「…‥えーっと、じゃあ、多数決で決めて良いですかね?」
全員、特に異論はない。
「よし、じゃあみんな一応伏せて」
言われるがままに僕は伏せる。
「おい、長谷川、ちゃんと伏せて」
「はーい」
特に誰がどれに投票したかに興味がない僕は、逆らうことなく伏せ続ける。正直に誰も見ずに伏せ続けている人がどれだけいるのか、僕にはわからない。
宮本の許可の下、顔を上げると「◎ ヤンデレラ」と黄色いチョークで二重丸が付いていた。
「はい、みなさん投票ありがとうございました。ヤンデレラに決まりました。じゃあこれを発案した長谷川君は、後でどんなストーリーか概要を教えて下さい」
「えっ、ちょっ、そんなの特にかん……」
「はい、じゃあ今日の話し合いはここまでです。みなさんありがとうございました。また明日以降もよろしくお願いします」
宮本と清水さんが前から立ち去ると共に、みんな席から立ち上がりカバンをもって教室から出て行く。
僕も荷物をまとめようとしているところに、影がかかる。
顔を上げようとする前に、影の主は口を開く。
「昨日は……ごめん…………少し」
顔を上げるや、言葉を返す前にさっさと立ち去ってしまった。
一瞬見えたその横顔は、何かを決意したようにも見えた。
……君は、謝らなくていいんだよ。
僕は心の中でそう返答し、教室のドアを見つめる。
……
…………いつだったか子供の頃、遠い遠い記憶。
授業終わりの教室、後ろから前に回される原稿用紙。
後ろを向く前の席の男子の悪意のある笑顔、自分の手の平の中のくしゃくしゃな紙。
…………。
部室のドアを開ける。そこには野口さんの姿はなかった。
川北が顔を上げる。
「やあ、野田。今日は遅いね」
「うん。クラスの文化祭の話し合いが長引いてね。川北のクラスは?」
「うちもついさっきまで話し合い。でも全然話が進まないの。全く不毛だよ」
「ま、でも僕らもどうせ大して意見言ってる訳ではないからね。お互い様だよ」
「そうなんだよな……。あ、そう、それで、"お前文芸部だろ"ってことで、劇の脚本やらされることになったんだけど……」
川北も脚本を書くのか。まあ、悪くないと思う。少なくとも、僕よりは。
「へぇ、どんな内容なの?」
「それがさあ、全然内容が決まってなくて……。なあ、劇の脚本ってどんなの書けばいいんだ?」
「いや、別にそんな気にしなくても良いんじゃない?中学生の劇なんて、脚本というよりは役者の演技と内輪ネタとその場のノリが命だろうし。まあでもそうだなあ、いつもみたいにってよりはもうちょっと人物描写に力を入れた方がいいかもね。劇でメカの描写しても仕方ないし」
「人物描写か……上手くやれるかな」
「大丈夫だって、そんな心配しなくても。いつも通りやれば。…‥まあ僕も脚本書いたことないから分からないけどさ」
「そっか……ありがと。また聞くね」
そうして僕らはまた各々の本を開く。
途中、部室に入ってきた一年生と少し話したりもしたが、全体的には特に何もなく、僕は少し早めに切り上げた。
部室から出て昇降口に向かう途中、重そうなカバンを抱えて部室に向かう野口さんを見つけたが、必死に歩いていたし少し距離もあったことから僕は話しかけず目で追うだけだった。
水曜日。
授業といってもこの間の期末試験の結果が返されるだけで、あとはプールに浸かるだけだった。
放課後はまた宮本と清水さんの二人が前に出て文化祭の話し合いが行われるも、
「いや、ストーリー考えてこいって言われても考えないし。思いつきで言っただけだから、他のちゃんとした案にしようぜ」
と言った長谷川に対し、「一度決めたことをひっくり返すのは良くない」とクラスが荒れ、何とか「ヤンデレラで進める」と昨日と同じ地点にまで戻ってきてみんな少し前進したと錯覚している、そんな有様だった。
今日は部活もなく用事もない僕は、スタート地点へと一生懸命戻ってくるクラスをのんびりと眺めていた。
木曜日。
今日も文化祭の話し合いは、進まない。
「今日は内容を詰めていきたいと思います。何か案がある人はいますか」
宮本の声は、静寂に溶けていく。
近藤が手を挙げて言う。
「内容はさ、脚本決めてからでいいんじゃない?脚本の人に好きに書いて貰うのがいいじゃん」
その案は、通る。それは悪魔の案だ。
面倒くさい厄介な問題を先送りし、ごく僅かな一部の人に押しつける案だ。ごく一部が凄く苦しむ代わりに多くの人が楽できる、悪魔の案なのだ。
案の定、早速何人かがその案に乗っかる。
「それでいいじゃん、早くそうしようぜ」
「いやさ、そんなに早く決めるのもどうかと思うから……」
「いーじゃん、待ってたって意味ないし、どーせ案も出てこないよ」
宮本は困った顔で清水さんを見る。
「……わかった、よし、多数決を取ろう。みんな伏せて」
心配しながら、僕は伏せる。
数十秒後、懸念は現実のものとなる。
「多数決の結果、まず先に脚本を決めることになりました」
パチパチと拍手の音が聞こえる。
「という訳で、脚本を決めたいと思います」
再び教室が静かになる。
宮本はまた、困った表情をしている。
……ここ数日の会話が、脳裏で再生される。
「脚本、やれば」野口さんは言った。
「脚本やらされることになった」川北も言っていた……。
僕も脚本をやるべきなのか?
確かに「やる」と言えばその場の評価は上がるだろう。でもそんな目先のことだけで考えてはダメだ。もっと長期的に見なくては。
それに僕には書けない。書けないんだ。
三十分ほど経った頃、近藤が口を開く。
「もう、今日はいいんじゃないか?部活行きたいんだけど」
「ちょっと、男子」
「じゃあ須山は部活行かなくていいのか?」
「うっ……でも」
「いいじゃん、脚本から決めようってことが決まったんだから」
そうだな、とみんな納得したような声を出す。
困った表情を浮かべた宮本は、このまま不満を爆発させるのも得策ではないと判断したのか、解散を宣言する。
「明日は夏休み最後の日です。明日こそは脚本を決めるので、ちゃんと考えてきて下さい」
そう言って、木曜日は終了した。
金曜日、終業式。
朝から体育館に集められた。
校長の長い話、教頭の夏休みの注意。それらを聞かされると、学年の高い順に解散となった。
教室に戻るや、文化祭の話が再開する。
「昨日も言ったように今日脚本を決めないとマズイです。みなさん協力して下さい」
「では十分後にまた聞くので、考えて下さい」
そうは言っても、そう簡単に状況が変わるとは思えない。
僕は特に用事無いからいいけれど、部活や用事がある人は困るだろうなあと他人事を心配する。
しかし、最後まで決まらない訳にもいかない。文化祭が悲惨なことになってしまう。
さて、どうしたものかと考えているうちに、十分は経ってしまったようだった。
「では十分経ったので聞きます。どなたかやって下さる方はいらっしゃいますか」
どこか、諦めたかのような口ぶりで宮本は言う。それはそうだろう。でもごめん、僕は力になれないんだ。
そんな中、ふっと影が伸びるのを感じる。
「私、やります」
横を向くと、野口さんが手を挙げていた。