七月(2) プールは開かれた
「はい、やめ!筆記用具を置きなさい」
一学期期末考査全ての科目が終了した。
やべー!、終わった-、死んだー、などと絶望的な台詞を吐いている割には、みんな幸せそうな顔をしている。
「はい。全員分の答案を確認しました。はいじゃあ静かに。帰りのホームルームやっちゃうから」
試験問題の答え合わせをする者、この後の遊びの予定を決める者、教室にはさまざまな生徒がいる。
「さて、と。まあ特に今週は連絡はありません。今度の月曜はプール開きなのでちゃんと水着を忘れないように。あっ、男女の順番だけど、それは月曜日に発表したいと思います」
教室内がざわつく。そういえばそういうものもあったな。過酷な試験を乗り切るのに必死ですっかり忘れていた。
「あと、少し先の話ですが、夏休み明けて九月には文化祭があります。皆さん知っての通り、中二の文化祭後には文集を作らなくてはならないので、文集を書けるよう文化祭での企画を良く考えておいて下さい。そこら辺は文化祭委員の宮本・清水に任せたいと思います」
じゃあ先生いいですか、と清水さんが小さく手を挙げる。
「というわけで、今度の月曜日の帰りに少し文化祭の企画について話し合いたいので、皆さん何をやりたいか考えておいて下さい」
ぺこりと清水さんが頭を下げる。宮本も頷いていた。
――そんなこと言っても、どうせ誰も考えてこないんだろうなあ。
『どうして考えてくれないの!』
過度に熱意を持ってしまった委員とそうでもないクラスとの間での摩擦から、他者の価値観も学ぶことを覚えるというストーリー――なんて考えている場合じゃないか。
「清水、ありがとう。それじゃあみんな起立!さよーなら」
先生の号令を合図にさよーなら、とみんな口にして、各々行くべき所へ向かう。家に帰ったり久々の部活をしに行ったり。
さて、僕はどうすれば……って野口さんが部活をやらない訳がないか。
小宅・田村たちと試験について軽く話すと、僕も部室へと向かった。
戸を開くと、すでに野口さんは部室にいた。
「試験お疲れ様」
本来は教室で言うべき台詞だったかもしれない。
「ねえ、どうして試験が終わったというのに人が来ないの?」
「ま、まあそういうとこだし……。もうちょっと時間が経てば多少は来るんじゃないかな」
野口さんが、不満そうに溜息を漏らす。
「ところで、文化祭で文集って、アレ何?」
やはり気になるよなあ。よその学校じゃやっぱりやらないのかな。
「ああ、あれね。やっぱり中二でも文章を書く授業も必要だってことで例年中学二年の文化祭後に、文集を作ることになってるんだ。来年の卒業文集の前の練習って側面もあるみたい」
「卒業文集の練習って」
野口さんが苦笑する。
「やっぱり卒業文集は卒業の想い出となるものだからね、きちんと練習しておきたいものなんでしょうよ」
「そっか……、そうよね」
一瞬、野口さんが遠い目をした。そんな気がした。
ガラガラッと後ろでドアが開く。
振り向くと、川北が驚いた顔をして立っている。
「えっ、えっ、なんか、僕邪魔した?」
そ、そうか、そんな解釈があったか。
「ち、違う違う!僕のクラスの転校生で、新入部員の野口さん。こいつは同じく中二の川北知弘」
「よろしく。この文芸部部長の野口文子よ」
「次期、ね」
川北は、依然として困惑した顔つきだ。そりゃ、そうか。
少し考えている表情を見せた後、はっと何かに気づいたかのような顔をする。
「……えっ、も、もしかして野口文子ってあの?」
「あら、早いわね」
野口さんはチラリとこちらを見る。すみませんね、気づくのが遅くって。
「す、すごい人じゃないか!!さ、サインください!」
「えっ、ちょ、サインなんてするほどじゃないわよ」
「いいから!!」
流石の野口さんも、サイン慣れまではしていないようだ。筆箱からペンを取り、どう書こうか悩んでいる。
「これでいいかしら」
戸惑いながらも、普通に野口文子と名前を書いた。
「ありがとうございます!」
川北は嬉しそうだ。じゃあ僕もいつかサインを貰ってみようかな。
「ところで川北君は何を書いているの?」
「ぼ、僕ですか?僕は今SFモノを書いてまして」
「へぇーそうなの?良ければ今度ちょっと読ませてよ」
「いいんですか!光栄です!!」
川北は嬉しそうにロッカーへ駆け寄ると、部誌を探し持って来た。
野口さんと目が合う。僕は慌ててカバンから本を取り出し読み始めた。
いいじゃないか、別に。
「野口先生!まだ続きを考えてる最中ですが、こんな感じです」
「せ、先生ってやめてよ……」
そう言いながら、野口さんは読み始めたようだ。
舞い降りた静寂。紙をめくる音が部屋中に響く。
「なかなかいいじゃん。続き、ある?」
「それの続きは…っとこの号です」
「なるほどね……」
その後も野口さんは、何号か川北の作品を読んでいた。
「とりあえずここまで、かな?なかなか上手いと思う」
「やったああああ!ありがとうございます!!」
「メカとかの描写が上手いわね。頭にアニメーションが浮かぶようだわ。……ただ、もうちょっと人物の描写に力を入れてもいいかもしれないね」
ふふっ、と川北が笑う。野口さんが頭に疑問符を浮かべて見上げる。
「いやそれ、このあいだ野田にも似たようなこと言われたんですよ。人についてもっと力を入れればもっと良くなる!ってね。それで今も野田に勧められてた本を読んでたわけです」
カバンから本を取り出すと、ありがとう、と言って僕にそれを差し出す。
「また本を貸してよ」
「え、いいよ。今度持ってくる」
「そ、そうだったの……」
「はは、僕だって伊達に本ばっか読んでるわけじゃないってことよ」
そう言って僕は立ち上がる。
「じゃあね、今日はもう帰ります」
椅子に座っていると、試験期間の睡眠不足のツケがどっと来たし、なんだかあの場にいるのも照れくさかった。
月曜日。
外に出ると、夏の日差しが水晶体を突き刺す。
雲一つ無い快晴。絶好のプール日和だ。
――脳裏に浮かぶ、滴る水、きらめく水面。それらが反射する夏の日差しにも負けず輝く、女子中学生の汚れを知らぬ若々しい肌――。
っと、いかんいかん、それ以上はいけない。
その無防備で危うい美しさを、脳内ですら言葉にできない僕の語彙力の無さを恨んだ。
『その無防備な彼女らを守るために、今日も僕らは厚い装甲に身を包む。』
――なんてね。ここから話を発展させてみようと思ったけれど、中学二年生の脳では難しそうだ。
教室に着くと、持って来た水着と体操着を机の横に引っかける。
試験から解放された教室は賑やかで、みんなうれしそうだ。
小宅が近づいてくる。
「いやーみんな元気ですなあ」
「今日からプールだし、それに今週が終われば夏休みだからね」
「野田は今日のプールは男子と女子どっちだと思う?」
「男子が勝ってるといいなあ」
「本当は?」
「まあ普通に考えて女子だろうね」
……僕はプールはそんなに好きじゃないけど、やっぱり試験が終わったことは素直に嬉しい。
夏に出るゲームやライトノベルの話で盛り上がっていると、先生が教室に入ってきた。
おっと、と言って小宅は自分の席に帰っていく。
教室がざわつく。
「はい、みなさん起立!気を付け!礼!!おはようございます!!」
「「おはようございます」」
みんなが椅子に座ったのを確認してから先生は言う。
「さて、ではみなさんお待ちかねの結果発表です。……男子と女子、どっちから発表がいい?」
「じょっしー」
近藤がふざけながらそう言う。
「ふむ……よし、じゃあいくぞ」
先ほどまでのざわめきが嘘のように静まりかえる。
「女子の平均は……74点だ」
「うわあああああああ」
頭を抱える男子。
「さっすが須山ちゃんね!」
喜びの声を上げる女子。
「……ちなみに、男子はというと62点だね」
「うわあああああああ」
「おい近藤!お前『俺にまかせろ』とか言ってたよな!!」
「う、うるせえ!長谷川こそぜってー足引っ張っただろ!」
男子の内紛が始まる。やれやれ。
「はいじゃあそういうことだから。今日の3,4限の体育は女子はプールです。堀川先生がプールにいるはずだから、堀川先生に従うように。男子は俺と体育館でバスケだ!よかったな!」
こうして、ひとまずクラス内の戦いは幕を閉じた……。
思春期男子の汗の臭いと、プールの塩素の臭い、そしてその中でほのかに香る甘い匂いが教室内で混じり合う。
初めは「プールに入りたかった!チクショー!!」などと叫んでいた男子たちも、いざバスケの試合ともなるとそんな願いも忘れて汗で体操着がびしょびしょになるまで体育館で暴れ回っていた。
全く、男って単純よね。そういう僕も、何だかんだでかなり汗をかいてしまった。おかげで凄く疲れた。今にも寝てしまいそうだ。
帰りのホームルーム後の教室では、文化祭委員の二人が前に立っている。
川崎先生は文化祭委員の二人に任せると、さっさと職員室に帰ってしまった。
「この間言ったように、みんなどんな企画が良いか考えてきてくれた?」
宮本がみんなに尋ねる。
「はいはーい、お化け屋敷やりたーい!」
「その件に関して、宮本君から謝罪会見があります」
清水さんは近藤にそう返す。
宮本が早速かよ、と清水さんにツッコミを入れると、ちょっと申し訳なさそうな顔をして一歩前に出る。
「その……この間の金曜日にお化け屋敷の企画の抽選があったんですけど……、見事外しました!!!」
おおい!と近藤も飛ばすが、まあみんなの想定の範囲内。誰も本気で怒ってはいない。
「……という訳で、そういう娯楽系の企画以外でお願いします」
宮本は手と手を合わせてゴメンゴメン、と仕草を送る。
「でもさあ、そうしたらもう劇とかやるしかなくない?」
須山が手を挙げてそう言う。
「まあ、確かにそうだよね。例年中二はどのクラスも劇だし」
そういう宮本を横に、清水さんは黒板に「○ 劇」と案を書いていく。
「でもさー、劇やるにしてもいろいろジャンルあるよね」
「それに誰が脚本書いたりしてくれるのー」
教室内が騒がしくなる。
あれをやりたい、これをやりたい、そもそも劇じゃなくて別な企画を……。
トントンッと僕の机が叩かれる。
僕は机を叩いた腕の伸びる元へ、目で辿っていく。
僕と窓の間。そこに腕の主はいた。
「脚本、やれば?」
そう僕に語りかける。
「嫌。」
眉をひそめて、僕はそう答える。体育での疲れもあったかもしれない。
「なんでよ、せっかくの機会なんだし。やってみれ……」
「嫌だ!絶対にやらない!!」
僕がそう口にしたことに気づいたのは、自分の声が教室で反射して僕の元に帰ってきてからだった。