七月(1) 開戦前夜
男子と女子、クラスを二分した大戦が、始まろうとしている。
発端は、先週の金曜。担任の川崎先生の発言だった。
「えー、テスト明けの月曜は、いよいよお待ちかねプール開きです」
教室中に歓声が上がる。泳ぐぜー、脱ぐぞー、男共は元気なことだ。
「しかし、プールは男女別々ですので、プール開きの日は男子か女子のどっちか片方がプールで、もう片方は体育館でバスケです」
「マジかー、女子はバスケかあー。かわいそうに」
「はあ?何言ってるの?あんたらがバスケだっつーの。レディーファーストって知ってる??」
「おう、だから先にバスケやらせてあげるよ」
教室中で舌戦が始まる。いや、正直プールなんか入りたくないんですけど。
大体、「マジで!?やったー!女の子達の入ったあとのプールに入れるとか最高じゃん!!ペットボトル持ってこ!」とでも言えばすぐ男子が先にプールに入れるようになるというのに。
「はいはい、みなさん。静かに。……そこで、先生は考えました」
男子・女子問わず、みな口を閉じて先生を見る。今、このタイミングで先生を敵に回すのは得策ではないと判断したようだ。
「来週の期末テストの平均で、高かった方が先にプールに入れるものとします。といっても、全科目だと採点が間に合わないので、月曜日の数学の平均でやります」
えー!と生徒達の抗議の声が教室中に響く。おそらくこれが、ここ数日で最後にクラス全体が団結したときだろう。
「はいはい、静かに。先生はもう決めましたので。異論は受け付けません。はいじゃあ帰りのホームルームはここまで。さようなら」
そう言い残すと、先生はさっさと教室を出て行ってしまった。
「いっよーし、男子!月曜の数学は絶対満点とるぞ!!」
高らかに宣戦布告したのは近藤。
「ふん!今更なにをやったって無駄よ。せいぜい首を洗って待ってることね」
すかさず須山が応戦する。
「おう!首といわず、プールのためにあんなところからこんなところまで全身洗って待ってるさ」
長谷川の援護射撃。いや、これは問題にはならないのか?
とにかくこうして、男子の勉強会とかいうものに連れて行かれた。
っといっても、みんなだらだら話しているだけだ。本当にテストで勝ちたいのなら家帰って必死に勉強した方がいいと思う。
何だかんだ数学のできる小宅は、何人からか質問を受けていた。
「やあ、小宅。今日は大盛況だね」
「おう、野田も手伝って……ってどこ行くんだ?」
「ちょっと部活」
「試験直前だってのにまだあるのか……?大変そうだな、頑張れよ」
うん、ありがとう、そう返して僕は勉強会の集団に背を向ける。テストしくじるなよー!との声が聞こえた。
野口さんがこの文芸部に入部してからというものの、僕は一度も文芸部をサボっていない。いやむしろサボれない、と言った方が正確かもしれない。
隣の席の人と同じ部活に所属していながらも僕だけサボるってのは気が引けるし、何より一度でもサボったら絶対野口さんにバカにされる、見捨てられる。
そういう訳で「試験一週間前でも部活やります!」と言った野口さんの無茶にもついていくこととなった。
「あら、今日も来たのね」
何やら紙にメモを取りながら本を読んでいる野口さんが顔を上げてそう言った。
「そ、そういう野口さんこそいいの?プールのための試験勉強しなくても。このままじゃ男子が先にプールに入っちゃうよ?」
「別にいいわよ、いつかは入れるんだから。それに、試験勉強なんて日頃から真面目にやってればそう慌てるものじゃないわ」
「うっ……」
相変わらず的確に弱点を突いてくる。
「でもさ、いくらなんでも試験直前にまで活動するって言わなくてもいいんじゃない?この通り他に誰もいないし」
「私もいるよ」
奥からにゅっと広瀬さんが顔を出す。
「えっ、ひ、広瀬さん。いいいらしてたんですか」
予想外の展開に驚く。
「そりゃあ、先輩だしね」
いやでもいつもいる訳じゃないじゃないですか……。
「そ、そもそも野口さんにこんな時期に活動するか否かの決定権ってあるの?」
「あるわよ。部長だし」
面倒くさそうに野口さんは答える。
「えっ、いや、部長は広瀬先輩でしょ」
「ま、正確には"次期部長"だな」
「えっ、野口さんが次期部長なんですか!?」
「まあ。一番やる気がある子だしね。それとも他に、よりやる気のある部員がいる?」
「いえ、それは……」
「そういうことさ」
広瀬さんが不敵な笑みを浮かべる。
まあ、別に僕も異論はない。それに、他の部員だってそうだろう。わざわざ反対するような人はいるまい。
「そういうことよ。んで、野田君は今日こそ何か書くのかな?」
「いや、今日は読まなきゃいけない本があってね」
カバンから本を取り出し、わざと野口さんに表紙が見えるように机の上に置く。
「もう一度祖父に」作:野口文子。
まだポスターに書いてあったあらすじしか読んでないが、三つの話に分かれていて、どれも死者との会話を通じて生きることを考える作品らしい。
「そう。まあ、来ただけマシかしらね。他の人はぜんぜん来ないし」
流石、自分の作品が出版される程にもなると、この程度の事じゃ動じなくなるんだな。
「の、野口さんこそ何読んでるの」
「作品を書くための下調べよ」
「そうですか……」
席に座り、例の本を開く。
……ほう。
とある薬を飲むことで死んだ大切な人が再び見えるようになる、という設定だが、死者が見えているという描写も自然で違和感が無い。流石だ。
読みながら、あっ、とかうーん、とか自然に声が漏れる。作者の前だというのに恥ずかしい。何という居心地の悪さ。
とりあえず一つ目の話を読み終わったところで、しおりを挟み本を閉じる。
「さてと、そろそろ帰ることにするよ」
「そう、さよなら」
「野田君、さようなら」
荷物をまとめて、学校を出る。
梅雨明けが宣言されてからというものの、ついこの間までが嘘のように晴れ渡っている。
さて、いつまでも余裕ではいられない。
家に帰ると、机の上を掃除したくなる衝動を抑え、歴史の教科書を開く。
テスト三日前の今日、テスト初日の科目をやるかそれ以外の科目をやるかは、人によって分かれるところだ。
一時くらいまで起きていると流石に眠くなって眠りに就いた。
翌日も、それなりには試験勉強をした。途中、休憩と称して野口さんの本の二つ目の話を読んだけれど。
日曜日。成績やプールを賭けた戦いの前日。最初に僕が今日が日曜日だと認識したのは、午前二時のことだった。
はっ、と気づき、机の上で突っ伏してた状態から時計を見る。午前二時。僕はこれ以上は無理と判断し、ベッドに横たわった。
次に起きたのは午前十時のこと。
そこから、まだぼんやりした頭のまま朝ご飯を食べ、着替えると、十一時半を回った。
……うむ。見事に午前中を溶かしてしまった。
数学の問題集に軽く触れるとすぐ勉強に飽きて、昨日の本の続きを読む。
なるほど、前の話がここにこう関わってくるのか……。
しかし、こんな話を書けるなんて、一体どんな人生を送ってきたのだろう?
ブッブッ。
本を読み終え、心地よい放心状態に浸っていた僕の耳に、スマホの通知音が入る。
面倒だが、滅多にこない通知だし、スマホを取り画面を見る。
「あの、起きてたら返事下さい」
「おーい」
「試験範囲、教えて頂けませんか?」
野口さんからのメッセージだ。
まずい、かなり長いこと無視していた。慌ててパスワードを入力し、野口さんに試験範囲を返信する。
「ゴメン、寝てて遅くなりました」
野口さんがこれで試験勉強できずに困っていたとしたら、本当に申し訳ない。
返信がなかなか来ないので、自分も勉強を始める。とはいえ、返信が気になって勉強に集中できない。
ブッブッ。
来た。
「遅いよ!ありがとう」
「本当にごめん。けど、他の人に聞けば良かったのに」
「いや、勉強会もサボった身では女子に聞きづらくって……」
なるほど。それはそうかもしれない。
「なるほど、遅くなってごめんね」
僕は続ける。
「遅くなった原因の一つだけど、"もう一度祖父に"読み終わったよ!」
「最後の話にそれまでの話が関わってくるという展開も良かったし、登場人物の動機もすごい共感できた」
「心理描写や霊(?)の描写も凄くって、どんどん話の中にのめりこんでいっちゃったよ」
「後悔をした後に、その改善をする機会が与えられる。現実じゃあそうそうないけど、だからこそ設定として夢があるよね」
しまった、勢いでいろいろと送ってしまった。
返信が来るまでの間、ずっと「変なこと送っちゃったかな」と考え続ける。
「そう、楽しんで貰えてよかったわ」
「それに、野田君がちゃんと文章を書けるようだと分かったし」
メッセージを送らせたのには、そういう意味もあったのか。
でも、こんな短文メッセージと小説とじゃ規模が違うだろう。
「いや、こんなメッセージは誰でも書けるでしょ」
「でも感想送ってくれたじゃない」
「?」
「そうやって思ったこと、感じたことを文章にできる能力があるんだから、あとはいくらでも書けるわよ。基礎能力に欠けは無い。自信持って」
……。
「あんな思いつきの感想と、小説は違うと思うなあ。それにやっぱり恥ずかしいし」
「ううん、一緒よ。それに、作者に感想文送りつけといてこれ以上恥ずかしいことってあるの?」
「うっ……。ま、まあ、おやすみ」
お互い勉強を進めながら返信していたから、思ったよりも時間がかかって気がつけばもう夜だ。明日からの試験に備えて早く寝るべきだろう。
スマホの画面を切ると、僕はパソコンのワープロソフトを起動した。
基礎能力に欠けは無い、か。
もちろん、今までこうして頭に浮かんだ様々な話を文章にしてみようと思ったことはある。
――ひょっとすると、そのうち一作品くらいは上手くいって文学賞に入選しちゃったり、それで野口さんを驚かせられたり――とも。
でもこうして、いざ文字にしてみようとすると、筆が一向に進まないのだ。
結局、パソコンの電源を切ると、僕はベッドに横たわり瞼を閉じた。