九月(9) 祭りの後(2)
「やあ」
扉を開けると、そこには広瀬さんが居た。
「どうしたんですか、広瀬さん」
「いや文化祭も無事終わったことだしね。一応部長だし、何か言うこともあるだろうと思って。まずはお疲れ様、野田君。いろいろあったけどちゃんとこの文芸部の文化祭をやり遂げてくれてありがとう」
何かと自分の力不足、ふがいなさを感じた文化祭だったけど、先輩のその一言で、少し救われた気がした。
「……ありがとうございます、先輩」
「ありがとうはこっちの台詞だよ。……ところで、今日も野口さんは来ないのかい?」
どうせ伝えなきゃいけないことだ、さっさと伝えておこう。
「野口さんは……転校することになりました」
広瀬さんが一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐ諦めとも納得ともとれる表情を浮かべる。
「そうか……そうか……。残念だな……、もっと彼女とは話したかったのだが」
「僕もです。突然すぎたので……」
「そうだね……」
そう言うと、広瀬さんは考えこんでしまった。僕もそこら辺の椅子に腰を下ろす。
部屋に静寂が訪れる。グラウンドで走る運動部の掛け声が聞こえてきた。
広瀬さんは何を考えてるのかしらないけど、僕の頭の中は文集の作文でいっぱいだ。
頭の中で文章を組み立てては、馬鹿らしい、と頭の中で原稿用紙をくしゃくしゃにしてゴミ箱に投げ入れる。さっきからその繰り返しだ。
ふと思い立って、聞いてみる。
「広瀬さんは、一体なんのために文章を書くのだと思いますか?」
「……?」
「あっ、いえ、別に非難したりしてる訳ではなく……。単純に一般論として気になっただけで……」
ふふっ、と広瀬さんが笑う。
「いやそれは分かってるよ。……で、何故人が文章を書くか、か。うーん」
少し考えているように、広瀬さんは俯く。
「まあ一つは、上手になるためかな、文章を書くのが。練習は大事だ」
そんなこと、前にも川北が言ってた気がする。そして僕は、前のときと同じように返す。
「そうですね……。でも、そうして上手くなろうとするのは、どうしてですか?」
「向上心に理由が必要かい?」
「いえ、それはそうなんですけど……。最初から“文章を書きたい”と思わなければ上手くなる必要ないじゃないですか」
広瀬さんは少し目を開いて、一瞬考え込む表情を浮かべた。
「そういうことね。それは……それはやっぱり、伝えるため、だろうね」
「伝えるため……?」
広瀬さんの言葉をオウム返ししながら、頭の中で考える。伝える……でもそれは他の手段でも可能なはずだ。何もそんな苦労してまで文章にこだわらなくてもいいのではないか。
「うん……そう、伝えるためだよ、きっと。もちろん単に伝えるだけなら話をするだけでいい。けれど、文章は、たくさんの人に伝えうるんだ。距離も、時間も超えてね」
確かに、文章は広範囲の人々に伝えることは可能だ。……でも。
「でもそれは、それなりの能力を持った人、作家とかにしかできないと思います。それとも、僕らが多少練習を重ねて、そういう作家レベルになれるのでしょうか」
広く認知してもらえるのは、いわゆる「名作」というやつだ。少なくとも、こんな中学生が書いたものが、それなりに多くの人に何かを伝えられるなんて思えない。だから作家という専門の仕事があるのだろうし。
「いや、無理だろうね」
「えっ、じゃあ」
あっさり広瀬さんに否定されて、僕は戸惑う。
「だから言っただろう。文章は、距離も時間も超えるんだ。今この地球上に七十億人。それにこの文章がこの先何十年も残ればもっとたくさんの人に発見してもらえるかもしれない訳だ。それだけいれば、一人くらい、うまく伝わってくれる人がいてもおかしくないんじゃないかい?」
「…………」
「作家と私たちじゃあ対象が違うんだ。作家はもちろん大勢の人に伝えることを目指してる。でも私たちは、たくさんいる人の中で、一人にでも伝われば良いと思って書くんだよ。そりゃもちろんより大勢に伝わるに越したことはないけどね」
「……なるほど」
「だから文章を書くときも、社会全体に伝える、とか難しく考えないで、この世界の、もしくは未来の、誰か一人に伝えることを考えるんだよ。そんな全ての人に理解して貰おうなんて無理なんだからさ」
「……なんかちょっと、分かった気がします」
まだ完璧に納得した訳ではないけれど。それでも少しは、物を書く自分を想像できた。
僕の考えを読んだかは分からないけれど、広瀬さんが微笑んだ。
「それで、今日私が来た理由だが……」
そのとき、背後で扉の開く音がした。
「おっ、ちょうどいいところに来た、川北君。……じゃあもうちょっと後でね」
疑問を抱く僕をよそに、広瀬さんは顔を下ろして何やらカバンをいじりはじめてしまった。
それなりに部員が集まってきた頃、広瀬さんは立ち上がり、口を開く。
「大分集まってきたね……。ちょっといいかな」
部員の注目が集まったのを確認して、広瀬さんは続ける。
「まずはみなさん、文化祭お疲れ様でした。おかげで今年も大分良い出来だったと思います。今後もがんばって下さい」
広瀬さんが軽く拍手を始めると、周りからも拍手が起こった。僕も周りに合わせて手を叩く。
そうしてまた少し静かになってから、続きを話し始める。
「えーっと、これで三年生の部長の私は引退することになるのだけれど、最後に次の部長を決めなければなりません」
それは野口さんじゃ……と思ってから、僕は悲しい事実を思い出す。そう、野口さんはもう、この学校からいなくなる。
「それで、次は野田君に任せたいと思うのだけど、みんないいかな?」
えっ、と口に出すも、拍手の音に飲み込まれてしまった。
「文化祭も結局仕切って貰ったし、ダメかな」
「え、えーっと」
結局今回も僕は作品を書いてないし、こんな僕に野口さんの代わりはできない。
「でもみんな異論はなさそうだよ。という訳で頑張ってね。大丈夫、文化祭だって成功したんだから」
そう言うと、広瀬さんは僕から目を外し、またみんなに向かって話しかける。
「では、野田君に部長をお願いする、ということで顧問の先生に伝えておくよ。じゃあ新部長さん、みんなに一言」
広瀬さんに促されて、僕は渋々立ち上がる。もう後には退けない。
「部長となりました。野田です。……今後もこの文芸部を続けていくために、みなさん力を貸して下さい」
みんなの前で、野口さんの代わりなんか無理だ、とは言えなかった。
でも本来野口さんがやるはずだったこの部長、こんな僕に務まるだろうか。
野口さんが受けるべき拍手を感じながら、僕は野口さんに思いを馳せた。